うさねこ研究室!(姉妹サイト「倶楽部ジパング・日本」もよろしくです)
哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
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「時間」の世界について(1)

     放送大学とアニメしか観ない私でしたが、最近、私は休日の時にたまに、一日の大半、教育テレビを観賞し続けることがあります。教育テレビにはまっている、といっていいでしょう。別に私の頭が幼児化したということではないのですが(笑)怠惰なドキュメント番組や三文推理ドラマ番組など比べて、教育テレビ番組を、かつて子供の頃観たときと違う視点でみる方が、全然面白い。何か決定的なある面において、自分が積極的になれます。「テレビが悪い」というPTA的説教が意味するところは、受け身になって無思考になることを視聴者が強制されるということなのでしょうから、教育テレビと「大人」のかかわりというのは、PTA的には理想状態なのでしょうか。教育テレビの世界を観るときに使わなければならない感受性の幅というのは、大人のテレビの世界よりもずっと広い。・・・「道徳」の授業に使われる掌編の物語ドラマ・「音楽」の授業に使われる様々な楽器の話・「社会」の授業に使われる歴史から地理に至る様々なテーマの解説、というふうに、いろんな番組が矢継ぎ早に流れてきます。何より大切なことは、なるほど、「人間」をつくりだすための作為というものは、こういうふうなものなのだな、ということを感じることができることだといえましょう。
      番組の短い時間に、殆ど無駄がなく、一つ一つの場面にある、明確な意味付けを感じていくことができます。「子供向けのプロパガンダ番組」と悪口を言う人がいるかもしれませんが、「プロパガンダ」というのは、大人が大人を作り変えるという意味での作為、「人間をつくる」のでなく「人間をつくり変える」ということであって、世界が未知なるもの(子供の世界)を変えようという緊張感が全くない。だからつまらないし退屈だし、先が易々と読めてしまうのですね。教育テレビの世界というのは、そういう退屈さというものが、全然ない世界です。しかし、だからすばらしい、ということではありません。「プロパガンダ」というのは批判しやすいし拒否しやすい。しかし巧みな教育番組というのは、「何か」を逆に自然な形で私達に侵入させてきて、私達の一部としてすっぽりおさまって、結果的に完全な洗脳を達成してしまう。教育テレビの世界の面白さに浸っていると、段々と怖さが感じられてくる。もちろん教育というものは何処かに詰め込みということを伴わざるをえないことは理解できます。しかし「考え方」というものは強制された知識ではない。そこに洗脳といわれるものが登場する余地が生じうる。「洗脳」は洗脳だと批判できるうちは洗脳としては不完全なものなのですね。だから、教育テレビを観るということは、非常に怖いものを感じさせることでもあります。
      たとえば理科系の教育番組の大部分が、子供の頃は楽しく受け入れて、今の自分が観ていて全く受け入れることができない。苛々してくることさえあります。何もかも和やかに、そして子供の知的好奇心に沿うように、番組が展開していくのに、そういう違和感が増幅してくるのは、なぜなのでしょうか。たとえば、私達の頃がそうで、今の子達がそうかどうか断定はできませんけれど、私達は教育テレビの番組を観ていて、大人の世界の骨稽さを感じると、番組の終わった後、すぐにそれを茶化したものです。社会科の番組を観ていて、「こんな街なんかありえない」「工場はもっと汚くてうるさい」という印象なり知識を、登場する大人達を戯画化することでもって、番組の終わった後に楽しんだりしたものです。あるいは音楽の教育番組には、「実はこの人達より、流行歌の方がいい歌なんじゃないの」という類のからかいなど、ですね。もちろんそんなことをしていて大人達には怒られますが、こういうことは、大人の客観主義とは別の、世界の真偽への、子供達の鋭い挑戦の始まりとさえ言っていいでしょう。ところが理科系の教育テレビというのは、子供の戯画をはさむ余地がなかったことに、はたと気づかされました。もちろんそれは理科系教育番組ばかりに、というわけではないのでしょう。ただ「憧れ」と「権威」は表裏一体であり、その「権威」が、「客観主義」の衣を纏い登場する瞬間が、実はこの教育テレビの世界のいたるところにあるのではないしょうか。そして典型が理科系の番組にあるように私には思えたということです。
      たとえば生物関係の授業で、「数十億の細胞によって構成されている」という表現に、子供達が驚く、という番組内の雰囲気の作為をあげてみましょう。「数十億」のという数字のアナロジーが、いったいどこからくるのでしょうか。数十億が多いのか、少ないのか。私達は「数十億」の生物的存在というものに関して、殆どの人間が地球人口の認識が常に先行するように精神教育されていますから、「数十億の細胞」は、実は人口学的世界の数字認識を基準に「驚く」可能性が非常に高いといえましょう。しかし数十億の細胞数と、数十億の地球人口のいずれが基準的存在であるかは、本来無前提であるべきことなはずです。あるいは無前提であるように教えることが、正しい生物教育だと私は思います。「数十億」が地球人口の数に近いということで「多い」と捉えると(地球人口を「少ない」と感じる人もいるでしょうが)「数万」や「数千」という生物学的数字が登場した場合、それが「少ない」と感じる傾向になるでしょうが、「数十億」に驚くということが子供の「純粋」さではない、ということがいえてくると思います。しかし、私達は殆どの場合、ずっとこのつくられた「驚き」を子供の時からそのまま、ある種の固定化された知識として持続してしまっている。子供達の「驚き」がここにおいて、ある意味でつくりだされている。驚くということは確かに子供の哲学的特権です。しかしつくりだされた驚きはそうではない。私達はずっと驚いたまま、この「数十億」の数字の世界に置かれています。杞憂といえばこれほどの杞憂はないかも知れませんが(笑)あえて言うと、地球人口の数を超えた数字のリアリティを知らないことは、膨大に広がる宇宙やこれまた無限に微細な生物の世界のリアリティを知ることの何かの障害になるのではないでしょうか。
       あるいは「動物の神経の反射」をあげてみます。動物の神経反射は小中学の理科教育において繰り返されるテーマで、実験風景の楽しさとともに憶えていらっしゃる人も多いでしょう。神経反射自体を子供達に知識的に伝える。その実験の後・番組の結論において、「動物の神経反射も人間と同じなんだね」というニュアンスのコメントが頻繁に登場します。調べてみると、教科書にも同様なものが多い。自分の記憶をたどっても、確かにそうでした。しかし、これもおかしい。私達の刺激反応と動物の刺激反応が同一であるということは、実は何の根拠もありません。多くの科学哲学者が指摘するように、私達が「痺れる」と感じるとき・叫ぶとき(あるいは考えるとき)私達は「痺れる」という概念を了解して認識している可能性が高いわけで、「概念」をもたずに神経反射する動物達の反応と、何らかの差異があると考えなければなりません。当然、乳幼児の神経反射は微妙なものということになります。「言葉」を有しているかどうかの境界線ということですが、ここにまた、生物の世界を同一視するアナロジーが隠れて登場している。もちろん、人間と人間外の生物に、生物学的に同一な面は少なくありません。しかしそれもまた、無前提的なことではありません。動物と人間の共通項という前提が作為されていることによって、神経反射ということを理解する、という筋道がつくりだされ、以後、そのままずっと、私達の生物というものの理解を継続している、ということができそうな気がしてくる。難しい専門知識や科学哲学的認識をそ教えるべきだ、ということではありません。「人間と動物が同じ」ということを比喩したいのなら、何もこんな神経反射のところで、いわなくてもよいだろうに、と私は単純に思えるのです。
       私達にとってもっと身近な話になると「緑の地球」の比喩の世界があります。たとえば、「光合成」を巡る教育の話です。光合成による酸素の話をしながら、環境破壊を嘆くというニュアンスが登場します。「永遠なる緑の地球」の比喩の世界ですが、これも作為のたまものです。酸素というのは、私達にとって絶対必要なものであると同時に、最大に毒性の強いもので、酸素を倍加した空間の中でマウスの老化が異常に早くなるという実験結果にみられるように、過剰な酸素は体に最大の老化をもたらします。この酸素の毒性というのは、一般科学的にも殆ど完全な定説にもかかわらず、不思議なほど、一般論になりえていない。進化過程でもこのことは立証されており、この地上にはじめて生物が出現したのは約35億年前ですが、その後、光合成植物が出現した25億年前、短期間で酸素が現在の地球の千分の一まで増加したとき、その酸素の毒性についていけないために実は地球上の生物の殆どが一度絶滅してしまっています。つまり「緑の地球」になりはじめたとき、まさにその「緑」がゆえに、生物はあやうくこの地球から消えかかっている、というのですね。もちろん私達の環境破壊は嘆かわしいことですが、しかしそのことと、「緑=光合成植物」の増加と地球の繁栄を結びつけるのは、全く別の問題だというべきでしょう。たとえば世界の光合成を今より倍加させれば、地球上の生命の寿命は短縮し、地球はある面において「荒廃」する可能性が高い、とさえいえるのです。ヨーロッパには「緑の政党」なるものもあって、「緑の地球」の比喩を心の支えにして、環境運動に奔走している人間はこの地球上に少なくないように思えますが、「緑の地球」の比喩がいったいどこからスタートしているのかといえば、これも教育番組以来、脳内の住人になっているといえるのではないでしょうか。
       もちろんこうした作為の一つ一つを指摘していけばそれはきりがないことだし、作為が善意か悪意かは、必ずしも明白なことではありません。間違いを指摘したいのではありません。つまり、教育批判が本稿の目的ではありません。「数十億の細胞」といい「神経の痺れ」といい「緑の地球」といい、そうした作為の背後には、多くの人によって無言に多数可決された「承認された世界」というものがある。繰り返しになりますが、その一つ一つを覆す、という単純な権威破壊的なことはあまり私はありません。教育テレビを観る。「承認された世界」のからくりを知っていく営みの中で、この「承認された世界」の根幹はいったい何なのだろう、と考える、ということです。私達の日常の背後には、まるで「物自体」のように、「承認された世界」というものがあって、私達の日常がその反映である、という、実にドイツ観念論的錯覚、というべきでしょうか(笑)端的に言えば、教育テレビにしても、教育書にしても、それに触れることで、「承認された世界」以前の無前提的世界へと、遡行したい、「承認された世界」の作為が色々明白になる段階で、この「承認されたの世界」で最も崩壊しにくく存立していて、しかしその反面、崩壊したらば何もかもが危うくなってしまうものはいったい何だろうか、と考えたい、そういう欲求が湧いてきた、ということですね。「数十億の細胞」の営為が解体しても、私達の「承認された世界」は揺るがないでしょう。「神経の麻痺」も「緑の地球」もまた然り。それらは間違いをきちんと修正して、再び、「承認された世界」に舞い戻ってくるでしょう。それらは決して、根源的な「承認された世界」の要素ではないから、です。
       私達の「緑の地球」の比喩なんかにも典型的に現れることですけれど、私達は、数世紀の後の「理想社会(地球)」という理念を、小中学の時から教えこまれる。私もかつてそれに胸を躍らせたし、今の子供の大半も多分、同じではないかと思います。しかし数世紀後の自分は存在していない、ということを考えないようにするからこそ、数世紀後の世界について、自分の事のように喜べる、という恐ろしい矛盾に私達は気づかないということも、実は同時に教え込まれているので す。確かに驚きは子供の哲学的特権ですが、しかし数世紀後の世界に自分がいない、ということの不思議や恐怖が、子供の哲学的感性というべきで、実は未来世界への理想主義というものは、その感性を破壊したところに存在している。「23世紀とは何か?」という問いに、「23世紀は23世紀でしかない」と訝しむように、私達は次第に慣らされます。ここまでは「承認された世界」への懐疑の一例にしか過ぎませんが、ここから先に私達の「承認された世界」を根本的に揺るがせにする、「時間」についての「承認された世界」というものが広がっているように私は思います。
         子供達にとって「未来」ということが、哲学的感性に基づいた大問題から、理想世界論その他の限定を著しく受けた認識へと移し変えられてしまう。私達が存在する全く可能性がない未来時間だけではない。私達が存在する可能性がある未来ですらも、それは可能性であって確実ではないのに、それが実在するような気がする。それが何であるかは、実は私には判然としない。「来年の自分」「明日の自分」の「来年」「明日」ということについて、私達の「承認された世界」は何か違っていたのではないだろうか、という疑いが、実は子供の哲学的感性からそぎ落とされたまま、しかし私の中には残存しつづけているように思います。「来年」の自分や「明日」の自分が今のようにあるとは百パーセントの保障はないのに、なぜ「ある」ような気がするのだろう、ということは、古くからの問いであり、しかし依然として新鮮な問いでもあるのですね。子供の時の微かな記憶で、私達の明日・来年・そしてその後の無限の未来・死ということに、感性的に思いを至らせていたはずなのですね。もちろん、どの教育書にも教育番組をひらいても、そんな類のことはどこにも書かれていません。「未来」ということはいったい何なのだろうか、ということを疑わないところに、私達の世界のいろいろは存在しています。疑うということは当然、未来の非在ということを考えるというわけですが、「時間」への疑問が全面化して、私達が承認していたはずの「未来」が崩壊したら、いわゆる理想社会だけでなく、約束、子育て、家族形成、社会建設、そういう「未来」にかかわるものの一切のものがぐらついてくるのです。
      「時間」についての「承認された世界」への懐疑を、未来的世界でなく、反転して、過去的世界に向けてみて、懐疑を考えてみると、私達のぐらつきは、よりひどいものになる。はっきり言って、立っていられないくらいのものになる。なぜなら、「過去」は自分の人生的時間の範囲でしたら、それを経験してきたという実感があり、自分の人生的時間の範囲を超えた範囲のものでしたらそれは証言や物証によって存在してきたように私達は考えるからです。私達にとって、存在していたはずの人生の色々な苦楽の段階が、果たして存在していたのか、と考えることは、「承認された世界」の安定した住人からすれば、狂人の行為の一種となるからです。個人の人生的過去が崩壊するだけならそれはある意味で重大事ではないかもしれませんが、「過去」の実在性が崩壊するということは、人文科学・社会科学・自然科学の殆どの基盤を危うくすることを意味します。しかし、にもかかわらず、私達は自分の人生的時間をこえた時間を、体感的には知らないはずにもかかわらずなぜそれが認識できるのかという問い、そして私の人生的時間の過去とはいったい何か、という静かに眠っていた問いは、教育テレビの、「承認された世界」の創造を観るにつけ、再び蘇るように思えてきました。・・・疑われない「時間」というものがそこにある、ということですね。「過去」に関していえば、「私がいた可能性のある過去」と「私がいる可能性のない過去」の双方が、果たして実在するどうか、という問いかけですね。こう考えると、いわば教育テレビは「パンドラの箱」みたいなもので、変な大人の私が観るとずいぶん罪つくりな世界に変貌してしまう、ということでしょうか(笑)
        私は前回の自殺論で、「否定」ということを知っているということは「無」を知っていることであり、「無」を知っていることは自殺という否定を人類が言葉を知っていることから導き出せることだ、といいました。このことに関して、一部の読者から「果たして人間だけが否定を知っていると言い切れるのか」とその見解について疑問を呈示されました。が、動物の意識が不明だとしても、否定ができるのは、明らかに言語的動物としての人間だけです。様々な動物が、数字や色や食べ物に人間同様に反応したりします。動物は賢い、と私達は印象を抱く。動物は優れた直観的本能によってそれを判断している。しかし、改めていいますが、動物は、目の前の「物」に対して、刺激的に反応しているだけです。そこにないものに対しては反応できない。いい証拠に、動物の目の前に「ないもの」のカードに反応する実験をしてみればいいでしょう。「青色のカード」に行くことはできても、「青色でない」カードのところにいくような動物の行動ということはありえません。あるいは自然世界を考えてみて、たとえば狼が、ある場所に行くと必ず食物を得られるということで、一定の時間に一定の場所に必ずいく。ここでまたしても、神経反射と同じ、人間と動物の共通項のアナロジーのフィクションが登場しているわけですが(笑)では狼が、そこに行く以前に「あの場所」「あの時刻」ということを認識しているかというと、決してそうではありません。今の場所が「あの場所」でない、今の時刻が「あの時刻」でない、という否定的了解をしているわけでなく、天体の動きやその他体内の生理的システムから、「あの場所」「あの時刻」へと移動するのです。つまり「あの場所である=あの場所でない」「あの時刻である=あの時刻でない」というふうに、私達は否定を通じて、それをセットにして、対象の実在性というものを確保できる。目の前に「ある」というだけでは、対象の実在性を確保することはありえません。ですからもちろんのこと、自分の生命について、「自分の生命がない」という状態を認識することは不可能で、当然、動物に自殺はありえない、ということになります。
      そして、「否定」の世界は、私達にとって、自分達が目の前にないものを次から次へと理解できることを意味するように思われます。ここにおいて、私達は、自分の目前にないものとしての「自分がいない世界」すなわち「世界」への認識というものをスタートすることができるようになると思われます。「自殺」ということも、否定(自分が存在しないこと)を知った瞬間から私達に嫌が応なく訪れた不幸だということになりますが、実は私達にとって「時間」もまた、この否定的了解によって生じるものだと考えられます。なぜか。ただ漫然と流れる今が、「過ぎ去ったとき(過去)でない」あるいは「これから来るとき(未来)でない」ということを了解できるときに、私達は独立して「現在」ということを理解できるようになるから、です。「無としての現在」が、「実在としての現在」の認識と、表裏一体のものとして私達に登場してくる。事物の認識における「否定」の存在は、「世界」ということの認識を私達に教えた、と私は考えますが、現在の認識における「否定」の存在こそが、私達の「時間」の認識のスタートだ、というふうに私は考えます。「否定」を知っている動物が人間だけなら、「時間」を知っている動物も人間という言語的動物だけだ、ということができましょう。
       狩猟採集民族と農耕民族の文明史的考察は本稿の主要な論題ではありませんが、「時間」の認識ということについて考えると、狩猟採集民族よりも農耕民族の方が、ずっと「無としての現在」を知らなければ農耕行為が成立しないのは明らかで、人間と動物との意識の違いが鮮明になります。もちろん狩猟においてさえ、私達人類と動物は、言語取得による否定によって、その方法は明確に別れます。「獲物を待っている」の「待っている・・・」に、人間の待機行為には「・・・まだ来ない」ですが、動物の待機行為には「・・・まだ来ない」という否定性は含まれないと考えられます。「待つ」という行為は、人間にしか成立しない否定的行為であるともいえましょう。が、しかし、表面をなぞるだけですと、多くの面で、動物の狩猟方法と類似しているともいえます。「待つ」行為において、その場の嗅覚や地面の動きその他、動物
的能力がねければそれは成立せず、否定的判断が正面に現れるということはありません。狩猟には自然的現象に対する直観的把握という面において、動物に似た能力が必要といえるでしょう。考えてみれば、メディアで展開される動物の「賢さ」の演出も、その殆どが、狩猟的レベルに還元できる刺激や反射を巡りなされているわけです。
      ところが比べて、農耕的な世界というものは、絶えず、「在る」背後の「無い」世界を認識しなければ、絶対に成立しないようになっています。言い換えれば動物に農耕は(たとえ農耕技術自体を身につけたとしても)決してできない。農業収穫は、それがたくさん「ある」年・時間に、「ない」年・時間のことを考え、種の量その他を考えなければ成立しないから、ですね。大河の氾濫や害虫の襲来などの予防的側面も全く同様です。「世界」や「時間」を認識した生物でなければ、農耕という営為をおこなうことはできない。たとえばよく文明史的説明が、農業生産の上昇により、食料供給が安定したから、古代文明の進歩が始まった、というふうに言いますが、私はそういう統計学的説明よりも、「否定」という言葉の契機が、農業生産の創始とともに飛躍的に高まり、そのことが、「世界」や「時間」の認識を大きく向上させ、文明の各分野の展開を創始した、という説明の方がより説得的なものに思えます。そこまで言うと、ある種の「否定論ドグマ」のように聞こえるかもしれませんが(笑)人類にとって「否定」こそが、エデンの園で不意に知ってしまった知恵の禁断の実であった、ということを、私は妥当と考える立場を採ります。     
      しかし、「否定」ということが時間の認識の始まりだということがたとえそうだとしても、時間を巡る「承認された世界」は全く揺らぐことはないでしょう。つまり、このことは「時間」の起源を説明するだけで、「時間」の認識の構造を考えることは次の段階だということになります。たとえば、時間認識を本格化した文明初期段階の民族と話をすることができても、彼らは現在と「現在でない時間」の区別ということまでは私達と同意できますが、「現在でない時間」がただちに「未来」や「過去」を意味するとは限りません。人類学的指摘によると、アフリカやアジアの部族のいくつかには「未来」を意味する文法が存在しない。あるいはヒンズー教徒の時間にとって、「過去」は私達近代文明人が考える「過去」とは全く異なったものなのです。このことは、まずもって、私達にとって、「過去」や「未来」ということが、相対的にしか存在しないことを、文明史的なレベルにおいて、まず教えているということができます。
       大体、「現在」ということからして、私達は定義しないまま、その概念を鵜呑みにして日常使用していることが、ほんの少しでも立ち止まって考えるとすぐにわかります。たとえば、「現在」が一瞬間・一瞬間の連続であるという物理学的時間論を突き詰めても、「現在」というものが「一つの時間」として成立するのはいったい何時なのか、という答えは全く出てきません。「一瞬間」といっても、それがどんな範囲かということは、時間計量的には定義が不可能です。たとえば今から五分間くらいの狭い範囲が「現在」だ、としても、その中にいろんな激しい出来事がたくさん生じ「おまえは今いったい何をしている」という答えに対して、五分間よりも更に短い時間に「現在」的概念がたちまち幾つも成立してしまう、ということもいえてしまでしょう。しかし「出来事」が基準か、というと、そうも言い切れません。出来事が全く生じず、意識も無意識的な限りなく空無に近い状態においても、「現在」が成立する余地は充分あるといえます。「現在」論は後述のテーマなのでここでは深入りはしませんが、いずれにしても、私達は「現在」ということさえも不明なまま、「時間の世界」に住んでいる、という指摘が可能ということになります。
       「現在」さえも不明な「時間の世界」の不思議さの一例に、モーゼス・メンデルスゾーンの詭弁的表現の一つをあげることができるでしょう。その詭弁に曰く、私達の時間が量的連続だとすると生の連続は確認できるが、死の段階に移行する瞬間というものは確認できない、ゆえに私達は死なない、というものがありますが、つい笑って見逃しがちなこのメンデルスゾーンの詭弁に、実は、私達の時間認識の構造の問題への問いかけの始まりがぎっしり潜んでいる、といえます。もちろん「死なない」というメンデルスゾーンの認識は間違っている。しかし私達が瞬間から瞬間に移行する場合の「瞬間」が「一つの時間」であるということはどういうことなのだろうか、ということ、最も明白だと思い込んでいる生から死に移行する「瞬間」さえも認識できない、つまり、「死ぬ瞬間」ということが「一つの時間」として成立することさえ疑わしい、ということが、メンデルスゾーンの認識の意味するところなのです。しかし「死なない瞬間」と「生きていた各瞬間」がアナロジー的に確立し継続するという思考法は出鱈目です。現在と過去を連続的に考え、どちらかの否定がどちらかの肯定につながるという単純な(しかし私達の殆どが陥っている論法)に、このメンデルスゾーンの詭弁は陥っている、といえましょう。なぜこういう誤謬に陥るかといえば、現在と過去のいずれかが「本質」である、という前提を、メンデルスゾーンが考えているから、というべきでしょう。「現在」の成立の難しさがそのまま「過去」の成立しやすさに流れるとは限りません。つまり、現在と過去、さらには未来のそれぞれが、全く別個の概念であるという前提から、各概念に向かって考えることが、時間論に関してのスタートラインである、ととりあえず考えるべきでしょう。時間は何処かに本質があると思うと、たちまちこのような、「本質」と「偽物」のアナロジーに陥ります。カントは、時間論というものは、「時間とは何か」という総合的懐疑だと見えにくくなるもので、「時間とはいろんなところでいかに別個に存在しているか」という分析的懐疑対象である、といいましたが、これはなかなか妥当な見解だといえると思います。
        分析的懐疑対象としての時間ということで思い浮かべるのは、たとえば、サルトルの小説「嘔吐」に、存在を巡ってのロカンタンの有名なマロニエに木を巡っての嘔吐感の場面とは別の場面にある、「時間」を巡ってのロカンタンの次のような認識論なのですが、ここでロカンタンの言葉を借りてサルトルが言いたかったことはいったい何でしょうか。
      「・・・束の間の輝きからは、もはや、何も残っていなかった。・・・周囲を私は不安気に眺めた。現在だけだ。現在以外のなにものもなかった。それぞれの現在に閉じ込められた軽くてしっかりした家具、テーブル、ベッド、鏡つき洋服ダンス・・・そして私自身。現在の真の性質が暴露された。それは存在するものであった。そして現在でないものは全て存在しなかった。過去は存在しなかった。少しも存在しなかった。事物の中にも私の思想の中にさえも存在しなかった。・・・確かに、久しい前から、私の過去は私から逃れ去ったことがわかってはいた。しかし今まで、私は過去が私の手の届かないところに引込んだだけだと信じていたのである。それは存在の別の仕方であり、休眠の状態・活動停止の状態であった。事件がそれぞれ結末を告げると、それはおとなしく箱の中に整列して、名誉ある事件となった。それだけに、無を想像することは大変な骨折りなのだ。だが私は知った。事物は全くそうらしく見えるもの、それだけのものであり・・・そしてその<背後>には、何もないことを・・・・」
       私達にとって、「過去が存在しない」ということは、否定的に考えるか肯定的に考えるかということ以前に、あまりにも漠然とした言い方、のように聞こえます。文学においても「過去」ということは、無数の回数使われてきたでしょうし、ある意味で軽い、詩的言語の一種のような気もする。しかし「私の思想の中にも(ない)」というくだりになると、「それはおかしい」というふうに言われるのではないでしょうか。少なくとも、私の思想(頭脳)の中には記憶という形での「過去」が存在しているではないか、というふうにです。しかし「記憶」が存在するからといってただちに「過去」が安定して存在するかというと、そういうことにはなりません。
       大概、私達は数年前の記憶・数年前の記憶・数日前の記憶のそれぞれが、何かの秩序をもって、線的に整理されているように思っています。この時間的秩序が狂うと「ボケた」と思われがちです。一年前にあったことを一ヶ月前にあったように思い込んだり、子供の頃にあったことを先週にあったかのように思い込んでしまう。ひどくなると、食事など日常的生活においても生じてきます。「ボケた」人間が正常な人間にとって痛ましく思えるのは、その人が生きてきた様々な「過去」から遠ざかった存在になってしまったかのように感じられるからです。「過去」を共有しているからこそ、愛情その他の様々な感情が共有できているという了解が私達にはある。ゆえに記憶が混乱した人間はその共有ができなくなったことを意味してしまうのです。しかし、その「ボケた」人間の、脳内生理力がデータ的に異常を来たしたのは確かだとしても、その人間が「過去」から疎遠な人間になったかということには、懐疑的にならざるをえない、といわなければなりません。言い換えれば、私達が「過去」を共有しているのかどうかということは、幾重にも疑って考えなければならないことなのです。
        たとえばアリストテレスやアウグスティヌスが確立した古典的時間論の指摘の一つに、人間が物事について出来事を思い出すとき、思い出している今と思い出しているその出来事の間の、「その間の時間」が全く存在しないということはいったいどういうことなのか、というものが存在します。記憶とは何かということについても実は一筋縄でいかない問題が様々あるのですが、それはひとまず置いておくとして、私達は昨日も昨年も20年前に関しての記憶も、それらを現在において同じく思い出していることには変わりない。各記憶はそれ自体では、「思い出す」行為の前において、どれも平等的に存在している、ということです。20年前だからといってより思い出すのに長い時間がかかるわけでもない。ただ、次のことが問題になります。私達は思い出すときに、その思い出す行為に、「あれは20年前のことだったな・・」という、時間の線的認識を付加して、「思い出す行為」を二重化しているのです。この線的距離を一気に超越たような気になって、昨日の記憶と20年前の記憶が等しく思い出すことができるために、私達は歳をとればとるほど、時間の経過ということを記憶とワンセットにして、時間の経過に対して感慨をいだく、ということができるようになる。これが「その間の時間がない」という古典的時間論の指摘の一つの帰結ということになります。ここにおいて時間の「線」的認識ということの問題があらわれてきます。私達は思い出す行為の中で、実は記憶の秩序化の作為を通じて、時間に何らかの秩序化を施しているのです。
        そう考えると、記憶・時間は線的存在でなく点的存在だ、という指摘に陥りやすいですが、しかし、実のところ、「点」である、という指摘すらあやしいのです。多くの時間論を巡る思索家が言うように、私達は思い出すとき、その時と全く同じ生理状態に自分を再現できることは不可能です。どんなに苦しいことであっても、全く同じ状態になるということは不可能なのに、私達は「思い出す」行為が成立しているかのように了解しています。言い換えれば、「思い出す」行為というのは、過去を再現しているのではない、ということですね。すると、「点」という喩えさえも問題が出てくるといわなければなりません。「思い出す」行為が謎だ、と言いたいのではありませんが、思い出す行為というのは、ある意味で、非常に限定的な行為だという認識が大切だと思います。にもかかわらず、私は文明の至るところで、この思い出す行為に過重な意味を感じるように考え、この行為を通じて、過去というものの実在化ということができるかのように考えています。この作為を見抜いていたアウグスティヌスは、「過去は場所ではない」と主張し、「魂の延長」というところにしか過去はないのだ、と巧みな表現を用いました。こうした考察は、「過去は存在しない」というロカンタン(サルトル)の過去不在論のロジックの第一段階を意味するものである、といえるように、私には思います。
        アウグスティヌスの「過去は場所ではない」という言葉にここでとどまってみましょう。「場所」とまでは言い切れないとしても、「過去」は何処かに存在しているかのような了解が、私達にはあるような気がします。ここに、実は過去論の主要部分である、時間の空間化ということの問題が存在しているように思われるからですね。たとえば私達は物理学的時間論の殆どが、客観主義の衣を纏いながら、実は、時間の空間化をいたるところに施した上に成立しているきわめて貧弱なものだということ、をまず認識できると思います。物理学の世界の時間論というのは、実は空間的比喩だらけで、その比喩そのものに関して、自省的ではないのですね。時間は「線」でも「点」でもない、「線」も「点」もそれらは比喩的空間の世界にのみ存在するものだ、と考えるときに、私達は物理学的時間論に支えられていた自分の時間認識に気づかされるのですが、しかし一見すると時間を、物理学的認識から離れて分析しているような時間論にも、この空間化という作為が施されています。「時間の空間化」ということは、私達文明人の殆どが身につけている作為だといえましょう。すなわち「時計」にせよ「人生」にせよ「歴史」にせよ、私達は「数える」という行為によって、時間を抽出し、空間化の作為を通じて、「時間の世界」に安住することができるのだ、といえるでしょう。それが崩壊し、「承認された世界」の何かが崩壊するとき、「嘔吐」のロカンタンのように、時間に対する崩壊感覚が自分達に訪れる、ということになるといえる。
        たとえば、真木悠介(見田宗介)氏は、時間論の名著と言われる「時間の比較社会学」で、原始共同体=無限反復的時間・ヘブライニズム=線分的時間・ヘレニズム=円環的時間・近代社会=直線的時間という4分類を行い、欧米や日本の近代社会においては物理学的時間論の延長である直線的概念であり、近代人の殆どがその直線的な客観的時間から疎外されている状態にある、と説明しました。これは非常に見事な分類であって、確かに、近代社会における時間概念は直線的なもので、物理学的な平板さを有しており、実は根拠の不明な時間概念といわなければならないのです。が、「線分」「直線」「円環」その他の概念を使うときに、真木氏は「時間の空間化」という、時間論の根源的な落とし穴にすでに陥っている、といわざるを得ません。「直線」だろうが円環だろうが、「時間」は「時間」なのであって、「空間」ではありません。比喩が実体化しているということに意識的でないまま、私達は時間を語り続けているという誤謬に何時までも取り付かれてしまうのですね。大森荘蔵氏は真木氏の時間論を「早トチリ」と揶揄しましたけれど、真木氏ほどの社会学者でも、なかなか「時間」と「空間」の区別が読み取れないところに、時間理解の難しさの一端を垣間見ることができましょう。そして真木氏よりもずっと安直なレベルで、私達は時間を絶えず空間化し、時間について語っているようにみえて、実は時間に関しての空間的比喩のせめぎあいを延々と議論しているという場合が殆どなのです。
        日常的な言葉遣いの世界でも、「人生が短い」「人生が長い」という人生論的時間の感慨からして、私達は時間を空間化してしまっています。たとえばカントは、「自分の一生の大部分を通じて退屈で苦しめられ、毎日が長く感じられていた人間が、それなのに人生の終わりになって、生の短さを嘆くというのはどういうわけなのだろう」と「実用的見地における人間学」で説きましたが、こうした人生が「短い」「長い」ということが、すでに時間というものを直線化(空間化)して理解把握しているということを示しています。あるいはメルロ・ポンティが「過去が移り行くのか、自己が移りゆくのか、あるいはその二重構造が妥当か」と、一見すると非常に時間論的に深遠な命題を論じていますが、これもまた、「移動する」という空間的比喩を知らずに使っていることに意識的でない、時間論的にみて比喩のせめぎあいに過ぎないもの、といわざるをえない。また、戦後文学で最大の哲学派人物とみなされている埴谷雄高氏が、美しい修辞学で語る永遠や無限についての文学世界も、時間論という側面からみると、その内実は時間の空間化的比喩の世界の凝縮であって、「時間」について根本的に洞察しているとはとうていいえない。ここまで考えると、サイエンスフィクションやバーチャルリアリティの時間世界の大部分が、一見すると、実に整然とした時間的世界を有しているようにみえて、その実、単純な空間化されたものにすぎないのは言うまでもありません。
       こうした空間化されてしまった時間認識の最大の問題点は、瞬間瞬間に過ぎ去る(消え去る)現在的時間が、その後、過去的時間に姿を変えて、何処かに「存在」しているが如き錯覚をつくりだしてしまう、ということに他なりません。シラーの「未来はためらいながら近づき、現在は矢の如く過ぎ去り、過去は永遠に静かに立っている」という有名な「時」に関しての詩に代表されるように、私達が「時間」ということに小説や詩で出会うとき、「何処か」へ過ぎざるという表現に出会う場合が非常に多い、といえます(その点、サルトルのこの小説はきわめて例外に時間を冷徹に認識している稀有な例です)「何処か」ということに関して、何処でもない、ということを明確にしつつ考察をすすめなければならないことは、時間論にとって、最も留意しなければならない点だというべきでしょう。そして、こうした作為全体を完全に見抜いて、アウグスティヌスは「時間は場所でない」とすでに指摘していた、ということになるといえるでしょう。あるいはロカンタン(サルトル)の言葉に立ちかえると、私達は時間が「私の手の届かないところに引っこんだと信じ込んで」いると錯覚して思っている、ということになるわけですね。
       「時間が場所でない」ということは、「過ぎ去ったかのようにみえる時間が場所でない」、もう一度言い換えれば「過去はどこにも場所的に存在していない」ということになるわけですが、では、空間的比喩を取り払ったところにおいて、どこかに存在するものなのでしょうか。再び、「思い出す」行為について考えてみましょう。「記憶」が明確化するとき、私達は漠然とですが、しかしその記憶一つ一つを言語によって概念化しています。もちろん、概念(記憶)の一つ一つに名前がついているということではありません。私が漠然とした映像を思い浮かべながら、あれは「何処そこに、誰彼といた・・・」というふうに、どんな形であっても言葉と結びつくときに、記憶が鮮明になってくる、ということですね。ゆえに、「否定」だけでなく、「思い出す」行為というのも、私達言語をもった人類特有の行為という可能性が高いと私は思います。「記憶」は既述したように、その記憶の初生したその時の経験時において、生理的感覚を含めて、完全に再現するということは絶対に不可能です。にもかかわらず、その記憶が一つの記憶として実在的なものになる過程において、言語によって概念化されていくという作業を伴うことによって、ということに他なりません。
       「ここがA市である」ということを「記憶」として憶えていることは、動物がそれをできるように「ここがA市である」ということを、言語以前の生理的感覚で把握していることとは異なります。いったいどこが異なるのか、といえば、言語化・概念化されていない記憶というのは、その記憶が消滅するということを意識することがありえないから、というべきでしょう。「ここがA市である」という記憶の欠落を意識できるとき、私達はその欠落あるいは欠落の潜在的可能性を意識がゆえに、逆に、記憶を秩序化できることを意味する、といえるのではないかと思います。「欠落している記憶」というものを意識できるということは、意識外にある自分や世界を秩序だてていくことができることをを意味します。脳外においては「世界」の成立ということですが、脳内の記憶において、それは「過去」の成立ということになるでしょう。記憶の欠落・記憶の欠落の潜在的可能性ということが意識されなければ、記憶が欠落するということそのものがありえません。単に各記憶があるということが認識されているだけでは、私達はバラバラなままの記憶背負ったまま生きていかざるを得ません。動物の記憶というものは、欠落してもそれを意識することができない。ゆえに記憶を秩序化することができないのだ、と思います。
       ここで再び、「否定」論ドグマに立ち返ると、各記憶の存在している背後にその記憶の「無」を意識するからこそ、つまり「記憶」に関しての否定的判断をすることができるからこそ、私達は記憶の世界を農耕の世界のように秩序化することができるのだ、ということがいえるのではないか、と思います。私達が「過去」と考えるものの正体は、ここらあたりにある、ということがいえると思います。つまり存在しているのは、「思い出す」行為がつくりだす秩序化の作為のみであって、端的にいえば、「過去」というものは限りなく存在しない、といわざるをえない。ロカンタン(サルトル)が「自分の思想の中にさえ過去は存在しない」と時間認識を展開する背景にある過去不在論を解析すれば、こういうことになるのではないか、と私は思います。以上、時間論の入り口から過去論について、「否定論」ドグマに取りつかれたような展開になってしまいましたが(笑)とりあえず、おおざっぱですが語りつくせたと思いますので、次回後半は現在論に戻りながら、私が時間論についてより根源的議論と考える「未来」論について考え、よりまとまった形の考察を展開していきたいと思います。








      
       




    
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