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哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
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「性愛」の世界について(再録)

  ・・・・「わしらは世界を征服して、誰もが幸せに暮らせる世界をつくるんじゃよ・・・」という、この「悪」の台詞を聞いたとき、幼少の私はいったいどういう反応をしたのでしょうか?・・・昔のテレビ番組をDVDで復刻するというのがブームなようで、ブームに乗せられて、私も暇なときに、子供の頃観たテレビアニメの復刻DVDを観る、という習慣が身につきました。いわば自分自身に語りかける思い出話みたいなものなのですが、そういう昔のアニメDVDを観ていて改めて驚くのは、「これほどおびただしい善悪に、子供の頃の私たちは浸っていたのか」ということを発見することですね。中には、善悪の根拠を疑うという優れた作品もないわけではないのですが、大概は、善悪の形が定まっている。私たちは、こういう、今では無名化してしまったたくさんのアニメによって「道徳教育」をされていたんだな、とあらためて気づきました。しかも「戦い」の場面だけでなく、主人公の日常生活のさりげない一つ一つの場面に至るまで、「善悪」がしっかりと根を張っている。友情・親子愛・恋愛、そういうところまで、すでに確かになってしまっている「善悪」がある。物語世界の時間や人間が、まさしく機械仕掛けのように進行していく。「こんな堅苦しい生活をしていてよく窒息しないな、と思えるほどですが(本当はそれを楽しんで観ていた私達の「窒息」が問題にされなければならないのでしょうけど)そんな中、私がレンタルしてきて漫然と観ていた、あるアニメ作品で、救いようないふうにキャラクター化された「悪」のヒーローが「・・・わしらは世界を征服して、誰もが幸せに暮らせる世界をつくるんじゃよ・・・」という台詞を不意に言っているのが気にとまり、胸をつかれる思いがしました。この何気ない一つの言葉そ少しでも真剣に考えるだけで、善悪など簡単に裏返る。「悪の世界征服」が許されないのならなぜ「善の世界征服」は許されるのか、ということを考えてはならないところに、アニメだけでなく、この世界の様々な「道徳教育」が「教育」でなく「躾」の範疇を超えないものであり続けている原因があるといえるでしょう。
     喫茶店でお茶を飲んでいても、居酒屋でお酒を飲んでいても、周囲に飛び交う言葉を聞いていて、ああ、何だかんだ言って、この世界はやっぱり変わらないな、と思う瞬間が時々あります。私はその度、「躾」ということを思い出す。子供への躾がなっていない、という教育論は非常に正しい面があると思いますが、必要でないことをいつまでも「躾」している、ということもまた確かではないかと思います。「躾」は判断において迷いがあってはならない人間性の面において行われる強制です。躾の不足も恐ろしいけれど、躾から人間が身動きがとれないということも恐ろしい。この国のこの時代に神話がなくなり、元気でなくなり、ただ繰り返されるだけの精神や文字の活動ばかり・・・そんな誰しもが思い浮かべる力のない批評の中で、おやおや、と思う言葉の類いが相変わらずよく飛び交っています。私に言わせれば、その大半は、戦後教育や戦後マスメディアがおこなってきた、「善悪」の躾、で説明できてしまう。
       「もう最近は、何も信じられなくなった・・・」という言葉など、その一つです。実にこの言葉を多く聞いてきて、今なお多く聞いている。「信じられなくなった・・・」ということの同意を求められなくなった、ということも数限りなくある。しかし私にはどうしようもなくこの「信じる」の言葉の飛び交いがどうしようもなく不快です。私には「信じる(信じない・信じられない)」という行為が成立するかしないか、ということよりも、「信じる」という一見すると非常に美的な行為が、私たちのマイナス要素を伴うか伴わないか、つまり「信じる」ということは本当に「信じる」ことなのか、あるいは美的行為なのかが問題です。だから、たとえ「信じられなくなった」という理由で絶望する人がいても、私はすぐさまその人が悲壮だとか、悲劇的だとは思わない。なぜならばその人は自分の「信じる」行為に裏切られたかもしれない、と私はまず考えてしますからです。しかし「信じる」に関して、この国では、アニメから道徳教育にいたるまで、「躾」がどっしりと根をおろしているような気配があります。だから私が「信じる」について話をしようとすと、問答無用、とばかりに、否定されてしまうことが大変多い。議論になるはずはないのです。「平和」や「民主主義」と同じく、この「信じる」は、迷うことを許されない「躾」の中におかれているからなのですね。信じる・信じないもまた、平和(戦争)や民主主義(非民主主義)と同じように、なんらかの善悪の図式の中におかれている。(しかも平和や民主主義と違い、日常用語化しているだけに話はより厄介です。
       もちろん、「信じる」にはいろんな行為の意味や行為対象がある、といわれるかも知れません。喫茶店や居酒屋で飛び交う「信じる」は「神を信じる」「永遠の生命を信じる」という言葉ではない場合が多いといえます。これに対し(勧誘の場はよく見かけますけれど)相手を信じて金を貸したら大変なことになった、という「信じる」は比較的多いですけれど、もうそんな場では私も「信じる」についての理屈を言い返せるほどの状況ではないことはわかっている。信じたことは失敗だった、と彼(彼女)は思っていることでしょう。しかしこういう状況においてもなお、「信じた」は、絶望しながらも、自分の「信じる(信じた)」を、善悪の形式からは解放していない。彼は「絶望的な善」の地点にとどまっている、といわざるをえない。あるいは「神様のように信じられないものだ」とその裏切りを受けた人はいうかも知れません。しかし、「信仰」というのはそれを突き詰めていけばいくほど、信仰対象との無限の距離や、無心の跳躍ということを問題にせざるをえなくなり、信仰の「信じる」という行為の激しさ、すさまじさということは、非信仰者が考えるような、安住としたものでないことを、理解せざるをないことにあるでしょう。実は「神を信じる」ということと「借金を申し込んできた友人を信じる」は、同一の次元において考えなければならない「信じる」なのではないでしょうか。
        たとえばカントは「ある」には実在的な「ある」とそうでない「ある」が在る、といいましたが、私の考えるところ感じるところ、「信じる」ということは「ある」という言葉よりも、もっとずっと普遍的・画一的な述語であると思います。言うまでもなく、というべきか、言わなければならない、というべきか、「信じる」が一番問題になるのは「愛」がかかわるとき、つまり「(恋人である)私を信じられる?」というときに他ならない。なぜか。それはそこに、「信じる」対象との、恐ろしくスリリングな激しい距離の混乱があるからです。「神」が誰だかわからず、あるいは借金した友人が裏切る可能性があるかもしれないように、恋愛相手は絶えず相手の「自由」を意識し配慮しなければならない、だからこそ、「信じる」という行為が問題になってくるのです。つまり、神が誰だかわからないこと・借金した相手が裏切ること・そして恋人が自分の思うようにいかないこと、こういう「信じる」自分と正反対の可能性を信じているからこそ、「信じる」という行為が成立する。まさしくそこに、信じる」という行為の奇妙な二面的性格が顕わになるといえるでしょう。「・・・私はそれを信じている。言い換えれば、私は信頼的な衝動に身を任せ、そう信じることを決意し、その決意に留まることを決意する。・・・信じるとは、自分が信じているということを知ることを知ることであり、自分が信じていることを知ることを知るとは、もはや信じていないことである。それゆえ、信じるとはもはや信じないことである」というサルトルの「信じることは信じないことである」という言葉は、クリスチャンにおけるキリストの「神を試すことは許されない」と同じくらい、私にとって玉条的な言葉なのですが、「信じる」という行為は、決して純粋な精神行為はない、つまり善き行為でも悪しき行為でもない、しかしにもかかわらず、「信じる」行為の「信じない」というある種の決定的ないかがわしさに目隠ししてしまうような「躾」に私は不快だ、ということなのですね。「信じる」ということがそもそもこういう性格を有したある種非常にいかがわしい行為であるにもかかわらず、世間では毎日のように、様々な報道番組や特集で、「信じる」ということの周囲で起きる様々な事件を、「信じる(信じた」人間を善の側においた報道を繰り返している。その浅はかさは、喫茶店や居酒屋での「信じる」の言葉の飛び交いよりも、さらに不愉快であるといわざるをえない。この国には、いったいどれほどの間違った「躾」が蓄積され(たことにより判断停止に陥り)そしてなすべき躾がなされていないか、ということを考えると、暗然とした気持ちになってしまいます。 
        旧日本軍の軍隊内部の暴力制裁を取りあげて、「日本人は暴力的だ」というプロパガンダを一部の外国や戦後政治勢力は展開してきましたけれど、私に言わせると、そういうプロパガンダはぜんぜん本質的なことを理解していない。軍隊教育における暴力制裁は、「躾」と「教育」を混同した結果、生じてしまった慣習です。「躾」は強制を伴うものなのですから、暴力の力をかりることもある。世界中のどこの国でも、子供を躾することに、何かの強制力を伴います。かのヒトラーでさえ、側近との食事との席の会話で「私は父親にずいぶん殴られたけれど、あれはとても大切なことだったと思う」としみじみと言ったといいます。しかし「人間をつくりだす」ということを、「近代人をつくりだす」に読み替え、躾を青年に対してもおこなう、つまりいつまでたっても躾をしている、という価値判断を敷いたところに、戦前の日本軍の暴力制裁があり、あるいはそれが、戦後日本のいたるところの体育会系組織・グループに引き継がれたところがある、ということがいえると思います。何度も言ってきたことですが、私たちの国は幾度もの大転換に成功しました。しかし「近代人」にせよ「国民」にせよ、作り出していかなければならないものであり、そのためには強制力が必要であり、それは「躾」という形になってあらわざるをえず、時として陰湿な集団内の暴力統制という形にもなった、ということです。もちろん私は青年を強制力的に躾することは反対ですが、この「躾」は、明らかな外形になる非常にわかりやすい「躾」である暴力制裁よりも、もっと曖昧な形になって、軍隊や集団と関係のないところに、全く不必要な形で残存しつづけている、と私は思っています。平和的に私達の思考に強制力を行使してこようとする「躾」の方が、「殴られる」躾より、よほど腹立たしい。私の考えでは、「躾」の通りにさまざまな「善悪」が動いているのですけれど、それは消え去るどころか、ますます身近なものになってしまってくるように感じられます。「悪いこと」自体よりも(私は「悪いこと」自体にあまり不安や苛立ちは感じません)「悪いこと」を取り巻く人間の判断停止的な行為の方に、ますます不快を感じざるをえない。自分が「善悪の躾」の中にいることを強制されるような気がしてくるから、なのですね。
       ニュース特番やワイドショーで語られる生々しい事件・事例をとりあげると、「例外」「非日常」として片付けられてしまうかもしれないし、アニメストーリー論にするのもなんとなく気が引けるので、もっと気楽に(幅広い世代に)私たちの頭の中に入ってくる、テレビドラマの世界に目を向けてみましょう。好き嫌い、は私の趣味の問題で、そんな結論はどうでもいいと思うのですが、もう20年以上にわたり製作が繰り返されてきて、私が心底嫌いにもかかわらず、何となく観てしまい続けているテレビドラマシリーズに「金八先生」シリーズがあります。嫌いなら観なけりゃいいじゃないか、とファンの方に怒られるかもしれませんけれど、つい悪口言いたさ、あるいは意外なほど多い私の周囲のこのシリーズのファンの話題あわせに観てしまうということ、つまり私の「嫌い」の感情も、せいぜいいい加減なそのレベルのことなのですから、いつの日か簡単に「好き」に裏返るかもしれなという程度の「嫌い」なのですが、しかし今のところこの番組には、私の嫌悪感を呼び起こす、根本的な何かがあります。喫茶店や居酒屋で私が感じる不愉快感と、何か共通するものが、このシリーズの「嫌い」にはある、といっていいのです。
       実は、このシリーズ初期の頃は(第一回放送は小学生低学年時でしたが、しっかり観ていました)私はこの番組が非常に好きでした。付き合いを続ければ続けるほど嫌いになってしまったけれど、かつて好きだった、というだけで付き合いを続ける、離縁しない交際相手、ということなのでしょうか(笑)年を経るにつれて、やがて「金八先生」が取り上げる年齢時期に達し、そしてそれを越え、さらには金八先生達の大人の側の年齢に近づくにつれ、なぜか次第にこの番組がみるみる嫌いになっていく。自分の中学生経験は、このドラマが描くような世界じゃない、「金八先生」はぜんぜん現実に反していた、ということではありません。「金八先生」の世界と私たちの中学生時代の環境は、私の場合、さほどの大差があったわけではなく、そういう意味では「世界が実際とは違う」ということの不満はないのですね。私が中学生の時期だった80年代半ばは、いわゆる校内暴力が極点に達していた時期で、「金八先生」の世界は、リアリズムという面では、非常に共感できました。大体、「描いている世界が実際とは違うよ」といってみたところで、それは物語を嫌う理由にはなりえません。向こう側(金八側)が「こういう世界もあるんだ」と言い返してくれば、その瞬間から不毛な相対論の世界に「好き嫌い」は入ってしまう。これは物語論だろうと現実論だろうと、同じことであると思います。「嫌い」ということで話が終わらないようにすることこそ、大切なのですね。物語世界の形成においては世界が「同じ」ものであるからこそ、あるいは「同じ」ものを発見することによって、その共通の土俵の範囲で嫌悪感が醸成された、ということを問題にすることに意味があると思います。「違う」ことよりも「同じ」ことこそが問題になる。そうでないと、つい先日の終戦特番の討論番組のように、お互いの戦争での身の上の苦労話(悲惨話)を応酬しあってお仕舞い、ということになりかねませんね。
       「金八先生」のどんな「同じ」が私の嫌悪に関係していたのでしょうか。「金八先生」は第一回放送の時から、そのリアリズムの力をかりて、ワンシーズンの放送の間隔の中で、ずいぶんいろんなテーマを盛り込んできましたけれど、そのワンシーズンの中で必ずといっていいほど、性教育・性愛のテーマを取り上げる。最近が性同一性障害の話を登場させたりしていましたが、第一回目の放送は、中学生の妊娠の話でした。性愛にかかわる話の物語のパターンとして、生徒の誰かが、何かの形で大人が説明に窮するような事例に他律的に巻き込まれ、「大人の世界」との対峙が生じ、それを金八先生の良識と理解力で仲裁の方向にもっていき、やがてクラス全員が「自分の問題」として受け止める、という形に展開していく。性愛にかかわる問題に関しては金八先生は特に態度が慎重で、大人と中学生の双方に相互理解的であり、その慎重さはこの問題に関してだけは、まるで作者(脚本家)本人が、金八先生に感情移入していると見まがうようですが、これに関しても、私は別に不愉快ということはありません。もちろん性愛のテーマを取りあげること自体がわざとらしい、ということではない。「金八先生」に関してはこれらを嫌う人も多いので、私は、通常の「金八嫌い」ではないのかも知れません。
       私の不愉快がまず向けられるのは、この物語世界が性愛のテーマにかかわるとき、たとえば女性教師(保健の先生)が「私も二十歳の頃好きな人ができてセックスしたもん。だからみんなの気持ちわかるの。でもコンドームつけなければダメ」といったり、「(マスターベーションを)やってもいいがやりすぎるなよー」といって生徒を笑わせたりする。私にはこういう「和の雰囲気」「告白の雰囲気」による、学校教育の場での性愛の世界の教育が、どうしても理解しかねるものとして、映ってしまうということです。性教育が学校という主体によって行われるべきかどうか、ということについても、もちろん疑問がある。しかしもっとひっかかってしまうのは、「性教育の教え方」と、その教え方が依拠している中身の価値ということです。「金八先生」の世界が性愛にかかわるとき、最初から最後まで、この「和の雰囲気」「告白の雰囲気」が、教室の雰囲気を支配しつくしている。まあこの「和の雰囲気」「告白の雰囲気」というのは「金八先生」の常設的な雰囲なのですが、この雰囲気の中でできる議論の範囲というのは、いつも一定の限界があり、それはこの性愛の話において著しい、ということがいえるのではないだろうか、と思います。「和」も「告白」も、それ自体が悪いということではない。しかし、この国では、慎重に扱わないと、「和」や「告白」は、時として観念暴力的なものになる。たとえば、「告白」ということに関して、私達(大人ですら)は告白することによって、(告白すべき)他の罪や非道徳性をかえって隠蔽してしまうという偽善性をどうしても伴いがちである、ということに自省的でないまま、「告白」という制度なり雰囲気が教育の場にもちこまれたら、子供たちの告白内容の自由を奪う(奪っている)のではないか、という検討が、もっとおこなわれるべきではないでしょうか。そういうレベルでの「和」や「告白」はこと性愛の世界の本質を捉えようとするとき、最大に邪魔なものになる可能性をもっている、と思います。「語りえないもの」が性愛の本質なのですから、あえてそれを語ろうとするときに、そういう意味での理解の場の虚構は、語りえないものを表に出すことを拒んでしまうのではないか、と考えるからです。そしてこの雰囲気の中で、「金八先生」の世界は、性愛の世界に関しては、なぜか急に「躾」の雰囲気に転じて、物語時間を進行させていってしまうのですね。
       性教育自体が不要ということではありません。しかし性教育に関して私達が思い浮かべなければならないのは、「性の世界の機能を教えるはずの性教育が、性の意義について教えるようになってしまうとき、性教育は必ず意堕落してしまう」(福田恒存)という言葉ですね。蔓延する性病や安易な妊娠の危機に対して対策をとることは大切である。しかし「危機」とその「対策」を説明することと、その対策の採用・不採用において生じる「自由」の問題は、とくに性愛の世界においては、区別されなければなりません。
       たとえば、中学生(あるいは最近は小学生が問題になる場合もあるそうですが)の段階で性行為をすることの是非、という問題を考えてみましょう。根拠は様々な形で漠然としていますが、法律違反問題を除いても、「いけないこと」と考えるのが、まずは妥当だと思います。性行為に走ろうとする小中学生を必死で止めようとするのは(たとえそれが法律違反にかかわらなくても)全く正当です。私は「いけないこと」だとは間違いなく思いますが、その理由付けに拘泥することには、ほとんど意欲を感じません。「現行の法律に定められている結婚適齢からして、中学生の性行為や妊娠はいけない」という理由でもいいし、「今はそういう時代じゃないんだから」とか「いけないからいけないんだ」という理由付けでも、間違いではないと思います。しかしこの「いけないこと」の意味に関しては、「いけないこと」の理由付けとは異なり、非常な注意を払う必要があると私は思います。たとえば「いけないこと(性行為)」をしてしまったその人が二十年、三十年後で、思い出話の語りあいの場で「自分は実は中学生の時に・・・」というふうに話はじめたとき、他の「いけないこと」と同一視されて、真っ向から倫理的非難を向けられる、ということだと、私たちの日常では、そういうことでもない。なぜならばそこに、義務違反が完全な形で生じたわけではない、という了解が、私達の間にあるからです。通常アモラルな行為は、事前的にも事後的にも評価は同一であるけれど、性愛に関しては、明らかに両者は異なっている。「いけないこと」であるにもかかわらず、それをしてしまうことで、「いけないこと」でも「してもいいこと」のいずれもならない何かの別次元の倫理が成立する。これは金八先生だけでなく世間の大半の学校性教育がそうなのでしょうが、性愛の「いけないこと」の特殊性を理解しようとするこのスタートラインがまず存在しない。中学生妊娠その他の「事件」が生じたとき、金八先生は一見すると非常に冷静ですが、実はそのテーマ自体の刺激性にあたふたしていて、「理解してあげよう・受け入れてあげよう」という次元にとどまってしまっている。性愛の世界というのは、それを授業の場という白日の場にさらすこと自体が何かのタブー違反であるかのようなスリリングさがあるのですが、その段階にとどまっている限り、少しも性愛についての思考や議論は進展しません。こういったことを完全の洞察していた野坂昭如氏は、「コンドームをはじめとする学校での性教育は、文化破壊行為の一種である」という議論を展開しましたが、性愛の世界における特殊な「いけないこと」の形を理解しない以上、野坂氏の意見は間違っていません。性愛に関しては、「いけないこと」の根拠が問題になるのではなく、性愛と「いけないこと」という評価の間の関係が問題になる。
       たとえば「ませたいけない行為」ということなら飲酒や喫煙ももちろん該当します。しかし飲酒・喫煙と性行為間では、あきらかに決定的に違う何かがあります。つまり、飲酒や喫煙ならば、その行為を白日のもとにさらしても、別にそうした行為の価値が減じるわけではない。言い換えれば、「性教育」と異なり、「飲酒教育・喫煙教育」では、「機能(健康的実害)」を飛び越して「意義」を説明しても、その「意義」にほぼ安定した了解があるゆえに、性教育のような問題は生じないのです。ゆえに、未成年者の飲酒や喫煙は、あるいは「なぜいけないのか」という話の次元で、「安心した討論」が可能になる。未成年者の飲酒・喫煙に賛成・反対に分かれて、互いの根拠を応酬しあえばよいのです。「・・・どこそこの時代や国では許されていたけれど、私達の国では、ある健康上の理由という説を採用したためそれを未成年には禁じるという了解が可能である・・・」という相対主義のレトリックも可能になる。つまり普遍的に成立了解している「飲酒・喫煙」行為に解釈を与えるだけでいいのですね。ここにおいてももちろん「善悪の躾」が顔を覗かせますが、それがおこなわれたとしても、私達の判断を停止に誘うようなことはない。私個人も、こういう方面での躾は大いにおこなうべきだと考えます。しかし、「性愛」というのは、サルトル流にいえば、その行為の意味自体を、つくりださなければならない、という相違点をもっている。「いけない」「いけなくない」という解釈の対象となるような普遍的行為というものが、成立していない。「性愛の世界」というのは、これは断定的にいっていいことだと思うのですが、ほとんど永遠といっていいほどに、「意義」の確定しないものだからなのですね。前述した「(性行為を)やってしまった」ということの事前的評価と事後的評価の相違は、その「意義」の不確定のよい例です。さらに飛び越えていえば、その意義の不明と不安定は、それこそが実に普遍的なもので、私達はその不明と不安定を、管理しようという密かな欲望を、社会システムに期待している、ということもできる。キリスト教、特にローマカトリック教会はその管理の願望を壮大かつ徹底した形でもった宗教でありました。ゆえに三島由紀夫は「カトリックはある意味で最もエロティックな宗教である」といいましたけれど、わが国のメディアでおこなわれている様々なレベルでの「性愛の躾」には、そういう激しいまでの異常さもない。当たり前のことで、何もスタートしていないからです。何もスタートしていない議論をテーマにするなら、最初からテーマにしなければよい、と私は思います。
       ではお前が作者だったらどうするのか、あるいは親の立場になったらそんなふうに冷たく語れるのか、性教育の現場に投げ込まれたらどうするのだ、というふうに言われるかも知れません。性愛の世界のスタートラインすらも、「金八先生」は、切っていない、と私はいいましたけれど、そんなあやふやな形でともかくドラマがスタートする、ということを承認してみましょう。そして、例によって例の如く、金八先生のクラスの場面で、生徒が、問題を「共有」する場面に移行する。ここがある意味、「事件」以上に、番組のクライマックスです。そして私の不愉快もここで、極点に到達する。なぜ、ここで「受け入れてあげよう」ということをテーマにするのではなく、なぜ「こころ」を問題にしないのか、ということを思うからですね。このクラス討論の場が、金八先生だけでなく、いろんな学校でおこなわれている性教育のカラクリの最たる場面であるということができる。たとえば、これは私の実際の経験ですけれど、中学生の性教育の授業で、ある私のクラスメイトが、「・・・だってさ、偉い人だって、恥ずかしい形でやっているんだろう・・・」という、普通の大人からすれば「子供じみた」意見を言い、(なぜか)教師を激怒させたことを思い出しますが、それを言った子供の感性を無視するべきではない。「善良な人」も「悪人」も、等しく「性愛の世界」に憧れ、それを求め、誰にも迷惑をかけずに溺れ続けることも可能である。障害者のセックスを論じることは大いに賛成ですが、障害者と健常者の間に共通する「こころ」が存在する(かもしれない)という不思議な「平等」をこそ、そこで考えなければならないのではないでしょうか。「純粋無垢なビーナスの憧れをもって接したのに、いつのまにかソドムの悪徳をもって終わってしまうことに、美のおそろしい不条理がある」とドストエフスキーは言いましたが、性愛の世界にも、そういう魔術的としかいえない段階がある。不条理なほど平等、ということがそこにある。それは肉体的成長とか人生の段階とかということをいくら説明しても、ますます理解できない。いっさいは、科学的説明の外で起きている、といわざるを得ません。性教育では、経済学でのホモ・エコノミックスと同じように、なんらかの「通常人」が潜在的に仮説されているのですが、これは恐ろしく卑小な議論に行き着かざるをえない仮説です。「通常人」は「通常の性行為」をおこない「通常の恋愛」をするのでしょう。通常(正常)の意味も形式も考えたことのない人がなぜ性愛を理解できるような気がしてしまうのか、ということは、実はこの「通常人」の暗躍によるところが大きいのではないでしょうか。ここにも「善悪の躾」が見え隠れしてします。しかも明らかに不必要な「善悪の躾」が、です。
       繰り返しますと、「善良な人」も「通常人」も「悪人」も、等しく性愛の世界への憧れをもっている。「性愛の世界」というのは恋愛から出産、結婚、不倫までも含むあまりにも漠然とした言葉ですが、対象はあまりにも広大無辺で漠然としているから、言葉も漠然とせざるをえない。しかし「性愛の世界」というものが実在し、私達が不条理なほど平等に、そこからの拘束と自由に悩まされている、という一見すると当たり前の事象に驚かなければならないことに、「意義」ということにかかわる性教育の問題のスタートラインが存在している、と私は思います。「スタートライン」を切った後は、「こころ」の問題になっていく。それは「コンドーム」や「避妊」の問題という「善悪の躾」を押しつけることとは、全く関係のないことである。
       私がいう「こころ」の問題、ということはこういうことです。妊娠を知った(世間的評価からすれば)悪人といわざるをない人間が、昨日まで反発していた社会一般の倫理に、急に妥協的になる。あるいは全く逆に、妊娠を知った人間が、この子供のためならば、どんな悪にでも手を染めよう、という価値観をもった人間に裏返ってしまうこともある。つまり性愛の世界というのは、それに近づき、足を踏み入れた瞬間に、その人を何かに変えてしまう、底知れない何かがある。その底知れないものの前において、私達は不条理なほどの「平等」におかれている。性教育の場での「通常人」の時間の歩みはきわめて段階的で、「中学生の妊娠」も、そこからややずれただけ、という問題に閉じ込められてしまう。私が「こころ」の問題だというのは、「心を大切にしましょう」という戦後民主主義教育のお題目ではなく、「人間を恐ろしく変えてしまう何か」が肉体的成長の外の何処かにあり、肉体的成長がすすめばすすむほど、この「何処か」が問題になってくる、という意味での「何処か」ということに他なりません。煙草を吸いはじめても酒を飲み始めても、私達の「こころ」は、急に激しい変貌を遂げるということはありません。しかし性愛というのはそうではない。
       品のない言葉ですが「私」が美しい異性をみて「やりたい」と思う。性教育のお題目を唱える人達をはじめ、世間一般の人達はこの「やりたい」という性衝動をどの時代・どの世界においても普遍的なものだ、という前提を疑っていません。しかしたとえ「やりたい」という言葉が性衝動というような乾燥した言葉で表現しなおせるものだとしても、対象となる女性は微細に分析すればするほど、その都度全く違った対象である。たった一人の女性を追い求める人もいるではないか、という反論があるかもしれません。しかしそういう場合でも、記憶やイメージの中の「彼女(彼)」と、現実対象の「彼女(彼)」が同一のものであるという保障はどこにもない。にもかかわらず、同じ「性衝動」が生じるという不思議さに、「こころ」の不思議はあるのです。これは「美」に関しても同じで、無限の差異をもった膨大な美の対象に同じ「美しい」が成立する不思議を考えないような美学談義は、どうしても私はついていけない。同じように、多数の異性対象に成立する「やりたい」というのはいったい何だろう、ということを伴わない「性談義」は、少しも面白くないし、全然刺激的でない。
       だから「通常人」の仮説から、「それからはずれた(=しかし受け入れよう)」ということ、「はずれていない(できればそのままの方がいい)」という価値判断を繰り返しているだけの、「金八先生」の授業風景は、私にとっては、果てしない退屈なものにしか思えません。私だったら、「妊娠をどうして避けなかったのか」ということを当事者に、意地悪でなく、しかしあくまで納得しない理屈屋の生徒、あるいは「(妊娠した)彼らを許して、どうして私達が(セックスを)やるのを許してくれないの」というこれまたなかなか納得しないスネた生徒を登場させます。もちろん、全くの不評に終わるでしょうけれど(笑)ここで私が特に言いたいのは、「金八先生」にせよ、性教育にせよ、「こころ」の激しい状態がテーマにならないために、実はこの世界が前提としている「幸せ」あるいは「恋愛観」、そして私が常にひっかかっている「相手を信じる」という問題も、全然疑われていない、ということになる。結論的にいえば、刺激的テーマを展開すればするほど、世界が妙に健康的にまとまっていく後味を、このドラマシリーズは有している、ということです。もちろん、金八先生の世界では、「信じる」ということは、根本的な危機にはさらされていません。裏切る奴もいるが、実に機械仕掛けのように反省して、話が終わってしまう。「信じる」という行為の倫理性を、世間的な意味の次元で温存する物語的なメカニズムが、「授業」の場を中心に展開しているから、なのですね。だから金八先生の世界は、「こころ」がより「関係性」へと問題になってくる恋愛論への移行はほとんどないのです。乱暴な結論をあえていえば、「金八先生」においては、その性愛の扱い方はきわめて物質的であり、むなしく生々しいヌード写真集を見てるかのような気配さえ感じてしまします。「善悪の躾」から「恋愛」は生まれるはずもないのですから、それは当然といえば当然なのですけれど、これを教育番組と勘違いし、鵜呑みにした性愛理解をしている人間もいるのかもしれないな、と思うと、少しばかり背筋が寒くなってくるのですね。「恋愛」にかかわらない「性愛」の意義、というものは、世間のどんな空論よりもむなしいものではないかと思います。
      「善悪の躾」から、性愛の世界を救い出す手がかりは、「信じる」ということと同様、どうも教育の世界の外の文献や現実にある、といわなければならないでしょう。スタンダールは、その大著「恋愛論」で、恋愛に関して有名な4分類を行いました。曰く「情熱恋愛」「趣味恋愛」「肉体的恋愛」「虚栄的恋愛」という分類ですが、スタンダールの考えが秀逸なものといわざるをえないのは、スタンダール自身の好き嫌いはあっても、この4分類のどれもが私達にとってどれもが本質的な恋愛行為であり、価値的に優劣をいうことはできない、しかしこの4種類の恋愛のどれかにいた人が、ある日不可思議なくらいに、違う「恋愛」の分類に移行する、その終わりのない物語が「恋愛物語」なのだ、ということを言い当てていた点にあります。この4種類の恋愛はキルケゴールの絶望論のような時間的段階におかれてはいないのですね。これは私達が正しいと思い込みがちの世界観とはかなり異なっている。私達はまず「正しい恋愛」と「軽蔑すべき恋愛」という判断を行い、「本質的な恋愛」ということに没我する。そののち、大概の人間は小さな成功・不成功の果てに言行不一致を起こして、「ただしい恋愛」から離れていく、ということになる場合が多い。しかしスタンダールにとっては、本質的な恋愛行為というものははじめから存在しない。私達が性愛の世界を語るとき、性教育を含めて、知らず知らずのうちに歩かせてしまう「通常人」は、スタンダールの世界においては、存在していません。肉体目当ての「肉体的恋愛」でも、それは「偽」ではないのです。肉体を希求するときの私達の「こころ」を微細に問題にすれば、肉体的恋愛が恋愛でないということはいえないことはすぐにわかることなのですが、私達は性愛の世界において、「あるべき」ということを暗喩する「通常人」を歩行させていることで、「肉体」と「恋愛」を区分するという判断停止に、往々にして陥っています。「恋愛」という、広い土俵の中に飛び込むこと、言い換えれば「形式」に飛び込むことが「恋愛」であって、そののちに、さまざまな分類の恋愛を悩みながら行き来することが恋愛であって、「何をすべきか」「何をしてはならないか」「何が成功か」「何が不成功」か、ということは、そもそも、この形式を離れない限り、どうでもよいことである、ということになる。
       「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、レナール夫人に対して、当初、階級的憎しみ・報復ということを目的とした「虚栄的恋愛」の只中にあったけれども、それが次第に「情熱的恋愛」に移行していき、悲劇的結末を迎えるのですが、始まりから終わりまでの「こころ」の「闘争状態」そのものがジュリアンの「恋愛」ということに他ならない。スタンダールの小説を読んでいて面白いと思うのは、たとえばこの「赤と黒」のように、ジュリアンのボナパルティズムやレナール夫人との階級差のように、社会的要因を「きっかけ」として題材にすることはあっても、小説世界が社会正義的な憤激に転じていくということがほとんどない、ということですね。そういったものがもたらす小説世界の緊張感というものには、スタンダールはほとんど関心がないようです。ゆえに、二人の間のたえず「こころ」と「関係」の揺れ動きが、より強く私達に緊張を強いてくる。私が最初に言った「信じる」ということの行為も、これでもか、というくらい、その正体を顕わにする。ジュリアンにとっては「幸せ」の意味も、そして「(レナール夫人を)信じる」というということも、絶えず危機にさらされている。しかし「信じる」ことは、決して段階的に正しい方向の「信じる」に向くわけではない。恋愛にいおいて、正しい「信じる」などというのは存在しない、ということは、よく(真剣に)考えてみれば、当然のことなのです。情熱的恋愛の中で生じた「信じる」がゆえの犯罪行為が偽者の「信じる」である、ということは、平板な価値観に沈んでいる私達であっても、承認しないでしょう。あるいは「信じる」という行為をこれほどまでに翻弄し続けるということにおいて、性愛の世界というのは、私達の前に不条理で残酷なほどに「平等」なのだ、ということが、自然と理解できてくるのですね。
      当たり前のことですが、この「赤と黒」の世界に「善悪の躾」めいたものはいっさいありません。何より大切なことは、ジュリアンは「純粋」ではない、ということでしょう。彼は終始狡猾であり、むき出しのエゴイズムを失わず、情熱的恋愛も、実は肉体的恋愛ではないのか、と思えてしまうのではないか、という疑惑を読者に感じさせてしまうほどです。しかし、だからこそ、彼は狡猾さやエゴイズムについて、苦悩することができるし、他の恋愛分類に、劇的な変貌をとげることもできるのです。「純粋」でない、ことがゆえに、彼は、恋愛という「形式」にとどまり、激しい精神的闘争状態を経験することができるのです。私達現代人の性愛の世界を歩いている「通常人」は「純粋に」思いやりがあり、「純粋に」異性を好きになり、「純粋に」性欲があり・・・・というふうな存在の次元におかれていることができるでしょう。しかし「彼」は純粋がゆえに、悩むということもできない、という背理を抱えている存在でもあるのです。物語の最終場面ではジュリアンは、もしかしら彼は本当は「純粋」だったのではないだろうか・・・と思える目の輝きを示すけれども、それが本当かどうかは、読者の中に委ねられてしまっています。つまり、「死」(処刑)を目の前にしても、ジュリアンは精神的闘争状態にあった、闘いを繰り返していた、ゆえにスタンダールの「恋愛論」に沿った小説世界の人物であった、ということができると思います。
       このことに、哲学的・思想的理由を少し捕捉しましょう。カントは「善の観念及び悪の観念は、道徳法則・道徳形式に先立って存在してはならない」といい、「適法行為」と「非適法行為」のいずれかを選ぶことが道徳的なのではなく、あるいはその内実を価値判断することが道徳的なのではなく、「適法」と「非適法」の中で精神的闘争状態に陥ること自体が「道徳的」だと言いました。つまり「善・悪」が予め定まっているのではなく、あるいはそれを他人や公的教育から鵜呑みにするのではなく、「善・悪」において、出口なし的状況において絶えず「何が善・悪か」と問い続けることが「道徳的」である、というこの「実践理性批判」や「人倫の形而上学の基礎つけ」で言うカントの「道徳的」ということの意味は、私達が言う「道徳的」とずいぶん異なっているようですが、その徹底した形式主義は、私にしてみると、逆に非常に新鮮です。そしてこの「闘争状態」はあくまで「自律(自分語」によって支えられなければならず、「他律(他人語)」による精神的闘争状態は、たとえ敬虔なクリスチャンであっても、道徳状態をつくることにはならない。必然的に、「純粋な人」ということも、否定的に考えられます。つまりカントのにおいては、私達が言う意味での「何が善・悪か」ということの答えは、ほとんど見出すことができない。これはスタンダールの恋愛論を思い起こさせるものです。そして「善人」に非道徳は潜んでいる可能性があり、逆に「悪人」に、「道徳的」という精神的闘争状態を見出すことができる、という結論が導かれることになる。これはむしろ犯罪や反道徳的行為にかかわる恋愛の方に、私達が読み取らなければならない「性愛」がある、というスタンダールの恋愛論と、多くの面において一致するものがあるといえましょう。
      もちろんこのカントの考え方にも問題はあります。ショーペンハウアーはカントの道徳形式においては、「エゴイズム」というものの実質的考察がまったく前提になっていないといいました。確かにカントの倫理学が言う「自己愛」や「自惚れ」の概念は非常に図式的で、心理学やニーチェとそれ以降の哲学に慣れている何度読んでも「自我」ということへの生々しい把握が湧いてこない(だからこそカントの倫理学の異常な個性がそこにある)また有名な話ですが、アイヒマンは(アイヒマンはヒトラーがニーチェを読むほどにはカントを読んでいなかったようですが)裁判の場において、「・・・自分はカントの道徳法則に従いユダヤ人虐殺をおこなった・・・」と言いました。このアイヒマンのエピソードは、ただちに次のような想像を私に呼び起こします。つまり「・・・私はスタンダールの恋愛論にしたがい、趣味恋愛を選択し、たくさんの彼女(彼氏)を弄んだ・・・」という自己弁護を素知らぬふりでする人物です。「スタンダールを悪用するアイヒマン」といったところでしょうか(笑)しかしカントにせよスタンダールにせよ、そういった徹底した「正直さ」ということが彼らの倫理学や恋愛論の持ち味なのであって、ニーチェの哲学と同様、悪用されるということにある種の思想的な偉大さを私など感じてしまうのですが、いかがなものでしょうか。
     「性愛(恋愛)」においては、実は「本質的なもの」はなくて、そのかかわりの「形式」が問題なのであり、「出口」はない、つまり「精神的闘争状態」のみが存在するとしかいえない、しかしそれが、アイヒマンのような悪用者も可能にしてしまう、といいましたが、ではこれに対し,「金八先生」的な性教育の世界(善悪の躾)は、私の不愉快な感情というようなどうでもいいものとは違う、より社会的な次元で、どういう「実害」をもたらすのでしょうか。つまり「精神的闘争状態(道徳状態)」を欠いた「性教育」が進行しすぎると、いったいどういうことが生じることになるのでしょうか。
       たとえば初等教育から生涯教育のレベルまで、性教育の徹底によって、エイズをはじめとする性病の罹患率の低下に成功した欧米は、その「性教育」の成果によっていろいろな現象が生じています。これが日本で顕著な、私の言うところの「善悪の躾」を伴うものなのかどうかは難しいですが、少なくとも現象的なことを言うと、たとえば、フランスでは「老人の性」というお題目が一人歩きした結果、老人ホームでポルノビデオの上映会が開かれるという(そういうものは個人的に隠れて観るべきだという「古い」考えをもっている私からすると)きわめて非人間的な事態が出現する事態が生じている。「性愛は共有化された感情である」「性愛は公然なものである」ということを推し進めた結果、なるべくしてそういう事態が出現したのですね。「老人の性」ということをまさしくカントの言う「他律(他人語)」よろしく、得意に議論して語る人に私は大勢出くわしてきましたが、「老人の性」の「性」が、大体世間平均的な「性」である青年の「性」を基準にしてしまっているがゆえに、この老人のポルノビデオ会を、論理的に否定拒絶することは難しいものになってしまうのではないでしょうか。
       あるいはアメリカでは娘や息子がデートに出かけるとき、親が笑顔でコンドームを手渡すということが慣例化している。これはニュースだけでなく、私がアメリカに行ったときに実際に目撃しました。ここでも、性愛の世界は公然なものになり(成り果て)そしてある種の性愛の間接的管理を経て、「共有」されてしまっている、ということができます。「金八先生」の授業の場での「和」と「告白」の雰囲気を、ここで思い出すべきでしょう。「金八先生」の世界の論理と倫理も、こういうアメリカの慣例化を否定することはできない。むしろ「理想社会」と考えなければならないのではないでしょうか。金八先生でのコンドーム教育の場には明らかに「精神的闘争状態」が存在しませんでした。存在すべきだったのは、既述した野坂昭如氏の言葉のような性教育否定論との「闘争」です。あるいはこのアメリカでの実例のような「理想社会」を「金八先生」に登場させればよかった(よい)のですね。しかしそういう、カントの倫理学やスタンダールの恋愛論のような過激なほどの「正直さ」もまた、「金八先生」を筆頭にした、私達の国の性教育は持ち合わせていません。「善悪の躾」には論理は不要なのですから、これも致し方ないのですけれどね。勘違いしないでいただきたいのですが、私は老人の恋愛や性欲増進には大賛成だし(私は老年になっても性欲を感じていたいです)あるいはコンドームの使用による性病や(意図しない)妊娠の防止も多いに必要だと考えています。しかし、「するべきかどうか」という闘争状態が、明らかに「機能」と「意義」を混同した結果、「意義」がただちに外的に管理されたものになっている証だ、という福田恒存氏の言った警告に立ち返るべきではないだろうか、ということです。こと性愛の世界においては、「子供たちはまだわからない」から「出口」を教えるべきなのでなく、「子供たちはまだわからない」からこそ「出口はないのだ」ということをまずもってきちんと教えるべきなのではないか、と私は思います。
     しかし以上のように話しても、性愛の世界というのはあまりも広大であり、何とかまとめてみた私の見解も、全部が全部、ただの机上の空論ではないか、という自己猜疑心にとらわれてしまう。だから無駄である、ということでなく、だからこそ語ることに意味を「賭ける」ということがいえる、という考え方が正しいのではないでしょうか。性愛について語るのは、「食」について語るような平易さを装いながら、その実際は「死」について語ることに準じることとさして変わらないような難しさをもっています。だから抽象論と具体論で具体論が優位にたつ、ということが、簡単にいえない。性愛における「具体論」の一種として、文学や映画における性愛の描写を例にあげても、そのことがいえるでしょう。繰り返し激しい性描写を、ハードボイルド風の文体で繰り返す石原慎太郎氏の小説は、読めば読むほど、巨大な徒労感が蓄積されていってしまう。これは現代小説一般についていえることで、非在の存在化、という性表現の原則から、小説の書き手があまりにも踏み出してしまった、といういことを意味しています。性表現の場面の刺激性が(あるいは刺激を受けなければならないという小説内部の制度性が)さまざまな思考停止や感受の停止をもたらしてします。これは性教育の「対象」の刺激性に沈んでしまっている金八先生の授業とある意味で同じなのですね。石原氏の文学には「善悪の躾」というものは存在しませんが、その代わりに、荒涼たる非意味の原野が、読後感に広がっているような気配を感じます。
       性愛の世界というのは「描かない」ということが「実感」を盛り上げるということの方が、どうやら正しいということがいえそうです。ヒッチコックの「レベッカ」はレベッカの性愛を「描かない」というエロティシズムを積み重ねることによって、レベッカの悪女の形成があまりにも描かれていく(視聴者の中に蓄積されていく)という傑作ですけれど、「エロティシズムは彼女の中のどこかにあるのだろうな」という感じを自然にもつことができます。限られた作品の中で、原則を違反し、違反することによって原則を存在ならしめる、つまりもっと描いてほしい、ということがあってもよい、という不満を感じるのですけれど、その不満自体が、彼女のエロスの形成を実は私たちの「こころ」の中で醸成しているのです。「描かない」原則はいったん崩されれば、それはなし崩しになってしまう。結局、性愛の世界は、この意味においても、出口はない、ということなでしょうね。「描かない」ということは「語らない」ということでもあり、だからこそ「語らない(語れない)」ことに真実があり、その真実に挑戦しようとする邪道を私は演じているのかもしれない、ということも、一理ある、ということになるでしょう。
       それじゃ、「おまえ自身の実感ということはどうなのだ」という質問が飛んでくるかもしれません。あるようでもあり、ないようでもある、ということが答えなのですが、そんな答えで納得してくれる方は一人もいないでしょう。そこで、私自身の実感に強烈にかかわった文章の終わりに、とある日の記録を記すことにします。もちろん、実際にあった話に基づいて記されています。いつもでしたらここらあたりで、論理は終盤に移るのですが、性的刺激のない性愛の話に飽き飽きされていると思いますし(笑)また、今まで話してきたことを前提として「関係性」の話に移行するのが筋なのですが、そのテーマも兼ねる形で、そのある日の日記を載せることにします。これはある人間にとっては非常にショッキングな話であり、しかしまたある人にとってはありふれた話でもあるといえる。性愛にかかわる話ではないのではないか、という人もいるかもしれないのですが、私にとっては、いろいろなショッキングな面をもった、実に性愛の「こころ」にかかわる、ある意味で非常に恐ろしい実話なのですね。


(2005年の厳冬の真冬、都心のとある知己の家にて)

   ・・・・そこは私にとっては非常にいい部屋でした。「住居」ということに関しての私の判断基準は、世間一般と、かなりずれているところがある。「あいつの部屋は広いけど薄暗くてさ・・・ケチケチ儲けた人間に相応しい、面白くともなんともない部屋だよ」と私は幾度も聞かされてきました。昨晩から「・・・ああ何といい暗い部屋なんだろう・・・」と私は幾度となく思い、そして目が覚めて、改めてそのことを思いました。
    この部屋の主が隣室で起きた気配がする。他人の家で目が覚めると私はいつも、「不安」におそわれます。他人行儀の中で、朝食を準備してくれたり、顔を洗うように言ってくれたり、シャワーを浴びるように言ったり・・・と、「寛ぐための忙しさ」に巻き込まれてしまうから、ですね。居心地のよさがいつまでも続けばいいな・・・とばかり私は、この部屋の主が起きて自分の部屋に来るのを、不安気に待ち続けていました。
     時計がなければ時間が皆目わからない部屋、というべきでしょうか。日あたりはきわめてよくない。私は一瞬、すでに夕方になってしまったのではないだろうか?と思いました。しかし、携帯電話の時刻を見て、実は就寝した3時から4時間しか経過していないことに気づきました。
     なぜ、そこまで、この部屋は居心地がいいのでしょうか。私にも全く疑問としかいいようがありません。
     ここが「閉ざされた世界」だから、と私は思いました。ハイデガーは「・・・閉ざされた寒村のある深夜の一瞬に、存在への問いかけが単純かつ本質的なものにならざるをえない、真の哲学的瞬間が訪れる・・・」と言いましたが、私にしてみれば、都心で、日常的時間から隔絶されたこの暗い空間が、妙にそういう言葉に相応しいような気がしてきました。一歩外に歩めば、思考や感受を中断せざるをえないような、様々な時間が流れているような巨大な錯覚を強制され、目を瞑って私はそこに飛び込まなくてはいけなくなる。「時間は流れていない」と疑うためには、時間が流れている、と激しく錯覚するような空間のすぐ近くの静寂に、いなければならない。私はハイデガーと違い、田園や農村が、思索を深くするということはなかなか感じられない。感じられないというより、「田園」や「農村」は、不意につくりださされるものだだと考えている、というべきでしょうか。
     50にさしかかった初老の人物が、私の部屋に現れました。正確にいえば、この半年のうちに彼は初老化した、というべきでしょう。すっかりやせ細った体をひどく重たげに、すっかり白髪の多くなった自分の頭を軽く私にさげ、しばらく使っていないゴルフ道具以外、真新しいものの全くないこのリビングルームの向かいに座りました。
     本当に「彼女」は、このゴルフ道具を振りまわして二度も自殺をくわだてたのでしょうか?しかし、昨晩の彼の話に誇張があったとしても、確かに血糊の痕跡が、この部屋のいたることろにみえる。この血糊こそが、彼が彼女から離れられない、彼にとってみれば、愛の証しだと思い込ませているものなのではないでしょうか? 
      起きてきた彼は恥ずかしそうに私に笑いかけ、その間だけは疲労から解放されたように、しかしそして再び疲れきったように、焼酎の瓶を取り寄せ、コップに注いで、それを口に含みました。彼は二十歳近く年下の私に、敬語を使います。それは彼の育ちのよさ、ということよりも、ゼロ地点からスタートし、実業家として億万の資産を築いてきた中で身につけてきた社交術だといえました。彼は疲れきった外見と違い、実にしっかりした野太い声をしています。
    「飲みますか?」
    「朝一番からですか。さすがですね・・・私は少し休んでからいただきます」  
    「他に口にできるものなんか、この世界にありませんからね」    「いやいや・・・私もいずれそのことに気づくんでしょうかね。まだまだ、そんな境地にはたどり着いていません」 
    「病になりますよ・・・死ぬかも知れませんよ・・・」
    「・・・いつ死んでもかまわないですけれどね・・・」
    口に含んだ瞬間だけは、彼は私に微笑んだときのように、疲労から解放されたような表情になります。しかしアルコールが体内を巡りはじめると、また疲れきったような表情になる。彼を見ている限り、アルコールが人を太らせるのは俗説なんだろうな、と思います。
    私は「不安」から解放されました。この部屋においては、私が何か言い出さない限り、あるいは私のスケジュールが存在しない限り、彼が何かを言うことはない。部屋を退出するそのときまで、私はどうやらのんびりできそうである。
     ここがハイデガーのいう「思索の農村」であり「哲学の農村」である、ということはどうやら間違いなさそうです。存在していることが、そのまま時間であるような、世界の落ち着きと奥行き・・・部屋は幾部屋もあり、非常に広い。「隠れ家」という表現に相応しいマンションである。(厳寒の)早朝ですが、夕焼けのような鈍く赤い光が、心地よいこの部屋の暗さを妨害する不純なもののように、部屋に充満している。「明るさ」と「暗さ」あるいは「光」と「闇」は、この部屋においては、どうも価値評価は逆転している、ということのようです。私の考えでは思索の楽園や哲学の楽園にとって、「明るさ」や「光」は非常に邪魔なものであって、もしこの部屋に一人で数日いたら、思索がおそろしく進みそうな気分を、どうしても感じてしまいます。部屋のあちらこちらにある血糊が、その鈍く赤い光を浴びて、暗黒色になる。血は決して赤いのではない、いつの日か、ああやって黒く姿を変えるものなんだな、と私は思いました。
      私自身の胸に手をあてると、なかなかすごい二日酔いです。彼が目の前にしている酒瓶を見ただけで、私は気分が悪くなってしまう。・・・しかし、見つめれば見つめるほど、そんな酒瓶も。部屋の飾りも一種としか思えないような、まがう事なき、何かの「存在」にみえてくる。実に説明しにくいのですが、本当に不思議な落ち着きをもった部屋なのです。
      彼に二日酔いはないのでしょうか?いや、いつもアルコールが体を巡った状況にあるから、「二日酔い」ということもないのかもしれない。
      もっと気になるのは、いろいろな体調不良の噂がたっているのに、薬やサプリメントの類が全然見当たらない、ということです。飲んだくれの初老の男性だったら、胃薬の一つでもあるのが普通ではないのでしょうか。・・・様々なサプリメントに塗れて暮らしている私からすると、とても不自然で仕方ない・・・。「自殺はしないけれど、いつ死んでもいいとは思っているんですよ」という彼の言葉は、嘘でなかったのかもしれない。「彼女」の血糊の痕跡といい、この部屋には、うっすらとした「死」の雰囲気もまた漂っている。一つ一つの部屋の中の「存在」が、それぞれに全く異なった「時間」を背負っているかのような錯覚に、自然と陥らせてくれるのです。ハイデガーの難解極まりない存在論の哲学は、実際は「死の哲学」でもあるのですから、この部屋が、思索と哲学のための農村である、ということと、「死の雰囲気」は相容れないものではないのでしょう・・・。彼の野太い声が再びゆっくりと響きました。
     「・・・・で、昨晩お話したことですが・・・」
     「結論をいえ、というのでしたら、私の結論は同じですよ・・・もし、貴方が、生き残らなければならないのでしたら、私は、彼女とその一家は切捨てなさい、と言うしかありません」
     「私は、信じているんですよ、彼女たちを。信じるというお気持ち、おわかりでないのではないでしょうか・・・いや、失礼しました。信じる、ということは、私にとって、愛する、ということに他ならないのですよ」
     「もちろん、貴方ほどでないですけれど、私にも経験がないわけではありません。でも私は貴方と同じ立場にたったら、貴方のようには考えない。そういうふうにしかいえませんよ・・・・」
      ゴルフ道具等以外、特に何もない部屋だ、と私は言いましたが、細かいところをみれば、決してそんなことはな。正しく言えば、この部屋には私が手にとって動かせるような余分なものがないというだけのことで、場所を固定されたたくさんの装飾品がいたるところにある。この部屋の「物」は私の「自由」にならない、というだけのことなのです。
      「物」が自分をしっかりと見据えている。「時間」を背負っているのだから、物は易々と「生き物」に姿を変えて、私を見据えているという「錯覚」を完成させているのです。見据えられているのですから、不自由は不自由なのですが、しかし不自由にもかかわらず、私の気持ちは、「物」とうまく調和して、和やかになる。申し分のない芸術品に囲まれるというのはこういう気持ちなのです。・・・触るのも怖くなるようなガラス工芸品が、これまた瀟洒で触りにくい戸棚の中に、規則正しくおかれ、私達が使うグラスも、そこから取り出される。私達を見下ろすかのように(昨晩の彼の話からすればとんでもなく高価だという)抽象画が東西南北の方向に四つ飾られている。私は抽象画一般について、全然抽象的でなく、実は分析的・知能的に製作されている、と独断しているので(ピカソもブラックも私にはあまりにもわかりやすすぎる、のです)あまり好きではないのですが、置かれるべき場所に置かれると、ずいぶんいい趣を出すものだな、と昨晩からずっと考えていました。そして宝石やダイヤなど貴金属の類をあちらこちらに部屋の飾りとしておいてあるのも非常に面白い。奇妙な言い方ですが、高価なものに、この部屋は事欠かない。・・・この部屋自体を、絵も宝石も理解しない、あの「彼女」と彼女の一家に、彼の他の資産とあわせてすべて手渡してしまうというのは、どうしようもない狂気、気違い沙汰だというふうにしか思えない。
      「どれもかも、あげてしまうのですか」
      「はい。どれもかも、です。貯金も、この部屋のものも、もちろんこの部屋も。自分の会社も処分します。」  
      「無一文になって、いったいどうやって暮らされていくのですか?」 
      「私の老後は彼女が世話してくれるといっています」
      「しかし・・・・」 
      「私は信じていますから・・・」
      この部屋の中で「高価でないもの」、といえば、ただ一つ・・・楽しそうに写っている写真が壁に掛けてあります。写真の日付は約半年前です。ある女性と、その女性を囲む子供達、そして彼が、楽しそうに写っている写真です。ああ、本当に楽しそうにだな、と思えてくる。この楽しそうな半年前から、彼はなぜここまで老け込んでしまったのでしょうか。この半年で、彼は築きあげてきたものの殆どを見失い、運命を凋落させたのだ、と私の周囲の人間は彼を評します。・・・ある女性とその一家に吸い尽くされて・・・・私は彼が誰であるか、そしてなぜ私がこの部屋にいるのか、ということは最後まで明らかにはしませんけれど、前日夜からの滞在で、少なくともまずいえることは、彼の「凋落」はどうやら真実らしい。「凋落」の先にある「破滅」がどのようなものかはわからないですが、彼は、「遺言」を言いたげな懇願で、私を自室に呼びこみ、私は語りながら一晩を過ごした・・・そういうことから、前日から翌日の朝にいたる時間が始まったのでした。
    ・・・・「運命の凋落」の物語、ということですと、シェイクスピアの「マクベス」を思い出す人は少なくないでしょう。「マクベス」の主人公は、悪魔的な行為により王位を簒奪する。しかしその後マクベスは、まるで物理法則に従うかのように、その運命を凋落させ、自分が犯した悪魔的な行為と等価であるかのような残酷さとともに、転落の人生を歩んでしまう。マクベスのこの「規則正しい悲劇」が私達の心を今なおつかんで話さないのは、物語のあちらこちらで登場を繰り返す、魔女の存在だといえます。
      魔女は彼の運命を予言し、その予言通りに、物語は進行していきます。魔女は決して物語上の単なる狂言回しではありません。私達はこの魔女の登場と彼女達の予言に、栄華から悲劇、そして最後は裏切りの果ての暗殺へと破滅していく自分を実は凝視しているもう一つの自己の化身を発見するのですね。「内面の物語」としては、これから沈むことがわかっている船にあえて乗り込むという人間の不可解さと、全く同じレベルのところに、マクベスはいるといっていい。「自己凝視している自己」の存在は、物語の悲劇の要素を、より一層高めます。「マクベス」が言わんとしていることは、王位簒奪といった政治劇にとどまるものではありません。たとえば、自殺する人間はある時期から「死」についての考察を中止するからこそ、自殺することができる。さまざまな言行不一致の存在により、私たちは、悲劇を受け入れる「鈍感さ」を手に入れられるのです。犯罪を犯す人間にしても、「犯罪」についての考察と無縁であればこそ、心安く犯罪行動に身を任せられるのでしょう。しかし、「死」や「犯罪」について、その瞬間まで、思考や意識に取りつかれたまま、それらに至ったとき、自殺者や犯罪者の中には、「マクベス」の魔女のような、自己凝視する自分が出現し、悲劇は「内面の物語」の様相を呈することになる、というべきでしょう・・・。そこには血みどろのサスペンスなんかは及びもつかないような、壮絶な生き地獄が出現する。
      ・・・目の前で、酒浸りになっていて、すべてを失いつくしつつある「彼」は果たして「21世紀のマクベス」なのだろうか・・・そんな疑念が私に湧いてくる。私自身はどれくらいのレベルの登場人物になるのでしょうか?
      彼と「彼女」の正体は言わないといいましたが(私にとっては事実などどうでもよく、彼の精神状態のみが、関心の対象です)最低限の事実を羅列的に記してみましょう。
      薄暗がりの部屋の中で、起きるや否や、ひたすらアルコールを飲み続ける私の目の前の彼は自分とさほど年齢の変わらないある中年女性と恋愛関係にあります(彼はその後消息を絶ちましたがおそらくその後も今にいたるまで続いているのでしょう)彼は、前妻と離婚して、現在の彼女と恋愛関係に入りました。彼は明らかに商才を有しており、幾つかの中小企業を経営しているまずまずの資産家です。
      これに対して、「彼女」の方は資産らしい資産を何ももっていない、場末の飲み屋の経営者である。私は彼女もよく知っている(しかし彼女も消息を絶ってしまいました)彼女も離婚経験のある独身者ですが、彼女の方は二十を過ぎても働かない何人ものグウタラ息子を抱え、さらに彼女の両親は重度の障害者である。かねてから、彼女達の生活費の不足分はすべて彼の負担である。交際をはじめて七年になるらしいけれど、その間、彼は彼女たちの一家にマンションを買い与え、そのグウタラ息子たちの高校の学費も負担した。私は彼女の店の常連なのですが(常連だったのですが)経営下手で、しかも経営時間中、男性客とすぐにどこかにいなくなってしまい、アルバイトに任せてしまうような彼女の店が黒字であるはずがない。店の赤字はすべて彼が負担してきたのですが、自立心の強い彼女からすれば彼に依存しているここがどうしようもない不満である。彼女は一年前、ある男性からかなりまとまった金銭を貰いうけ、とある通販の事務所を立ちあげた。彼女からすればこの事務所の立ち上げによって、形勢を逆転できると思ったのでしょう。しかしこの事業も全くの失敗に終わる。幽霊法人のようになった彼女の事務所は、近所の噂になる。しかし事務所を閉めることだけはどうしてもしたくない。かくしてまた彼の資産に飛びついてしまう。幽霊法人の維持費も彼の懐から消えるようになる。彼はついに、彼女の一家の生活、飲み屋の赤字、幽霊法人の維持費、それらをすべて引き受けることになってしまいました。お金はみるみる消えていってしまう。近く、もっている会社の一つあるいは二つを処分しなければならない・・・そういう噂もたえない。世間的な評価では「悪女」そのものである彼女は、彼なしでは何もかも行えないにもかかわらず、その彼を人前で「ストーカー」呼ばわりするような腹いせ行為を平然とおこなう。「・・・もうこの男とは何月も寝ていないのよ・・・」なんていうことを平気で彼の前でいう。彼はびっくりしたような、しかしすぐにその驚きを物悲しさでかき消して、彼女の悪意に反論することをやめてしまいます。彼女とその一家は、彼から援助を多くすればするほど、彼に憎憎しげになっていくのですね。私の説明力の不足で彼の様子がまだほとんどわからないけれど、彼が一般的な意味あいにおいて「可哀想」な人間であり、反面、彼と結びついている彼女が「傲慢」な女性である、というイメージは何となく認識できるのではないか、と思います。・・・・そういえば、彼の声は、映画でマクベスを演じたオーソンウェルズに、似ていなくもありません。
     「もしかしたら、これでお別れになってしまうかもしれませんね・・・・」
     「ええ、彼女の性格でしたら、秘密を私に話したことを許しはしないでしょうから・・・」 
     「ごめんさない」
     「いえいえ、話さなければ、もう押しつぶされそうだったのですから、仕方ないですよ・・・」
     こうした彼女の傲慢な行為は、ある意味で非常に人間的行為であるといえるかもしれない。カントは「他人への親切は人間にとっての不完全義務であり、実は危険な行為」と言いましたけれど、繰り返される親切行為はそれを受ける人間に不平等感や屈辱感を増幅させるという一面をもっているのですね。スタンダールも「恋愛関係において、わけあうことは愛を高めるけれど、与えることは憎悪をもたらす」といいました。つまり、親切さ、援助、そういったものは一方的になされればなされるほど、関係の平等性を破壊してしまう。恋愛・性愛のように、関係性の平等がより強く前提になっている世界では、よりその「破壊」は、援助を受ける側に、激しく感受されるのです。
      いずれにしても、これほどの状況にありながら、彼はどうしても、自分が吸い尽くされていくこの運命の凋落の構造からどうしても自由になれない。さらに信じがたいことですが、電話やその店の外で個人的に話すとき、彼は凋落している自分や、自分のことを何とも思っていない、相手の女性とその家族のこと、「浮気」を繰り返している彼女の行動までも含めて、全てを見抜いている、のですね。全てを見抜いているにもかかわらず、彼は脱出を試みない。マクベスは、カント的な意味では非常な精神的闘争状態にあるのですから「道徳的」なのしょう
。柄谷行人はこのマクベスの闘争状態を「意味という病」とたくみに表現しました。・・・・21世紀の今の彼は本当にマクベス的人物としての「道徳性」を有しているのでしょうか?
       昨晩からの私の正論的意見は、どれもどうしても通用しませんでした。私の正論が通用しなかった、ということよりも、彼がどういうふうな形で「内面」から頑迷に動かないか、という形式が気にかかります。彼の中には「絶対」がある。彼にはもうそこから先は絶対に疑うことの許されない、様々な恋愛・性愛の「実質」が彼をどうしてもつかんで離さない。もう、「恋愛対象」によって彼は恋愛しているのではない。自分自身の中の何かにとりつれているとしか思えない。これはスタンダールの恋愛論からいえば、いったい何のタイプの恋愛状況にいるのでしょうか?スタンダールの言った「結晶作用」は明らかに凝固状態になっているにもかかわらず、彼の中には、「恋愛」が存在しつづけている。そしてそういう状態の中で、彼の中では「闘争状態」が生じているのでしょうか?
  そうではないように思えます。彼が繰り返す「私が信じている」は、やはり、善なる行為であって、サルトルの「信じることは信じないことである」という「信じる」原理がもたらしてくる、ひっかかりや負い目を背負っていない。奇妙にも、彼の観察眼の鋭さと、彼の恋愛についての「思考停止・感受停止」は、両立している。彼は、結局、おそろしいほどの「善人」にすぎない。「善人」だからこそ、「破滅」も受け入れる。カントは「イサクを殺せ」という神の命令に従った旧約聖書のアブラハムの例をだし、無条件に「神」を受け入れて信じたアブラハムは「私は信じてはいますが、貴方が神であるかどうかはこれからも永遠に定かではないでしょう」と考えるべきだった、といっています(このカントの記述は、有神論者としては非常に矛盾したように思えます)「善人」は、「神」を、「恋愛」を、「信じる」を、「善悪の躾」よろしく受け入れ、「善人を演じている自分の自己愛に気づかないくらいに他律的に」あり続けることができてしまう。
       そして、だからこそいえることだと思うのですけれど、彼はある意味で「白痴」のムイシュキン公爵のような純粋さをもちあわせている「善人」である。ムイシュキン的人物が、金や女性に恵まれてきた、ということはなんとなく奇妙ですが、ムイシュキン的人物は、実は様々な「他律(他人語)」を受け入れる、という可能性をもっている欠点をもっている、ともいわざるをえない。彼は「他律」の世界でのみ、成功や成長を繰り返してきたのであって、その根には、「純粋」が根を張っている、ということがいえる。マクベス的な能力でさえ、その「他律」の中で、養ってきたのかもしれません。「純粋」というのは、実は私たちが考えている以上に、この世界のあちこちにあって、これからもあり続けるものなのです。「信じる」ということの思考停止・感受停止と比較にならないほどの「躾」の世界に、「純粋」はおかれているということができそうです。「機械仕掛けの世界」と「予言通りに進行してしまう世界」は違います。後者は悲劇的ですが、前者はどうしようもなく退屈に喜劇的である。
     「吸いつくされますよ・・・」
     「いや、彼女と彼女の倅たちの食いっぷりからすれば、私は食べつくされていくんですよ・・・」  
     「食べつくされる?」
     「ハハハ、私と違い、家族揃って、あれだけ太っているんですからね・・・」
     ・・・目覚めた私は、食べ物の話を思い出しただけで、ひどく空腹感がありました・・・何でもいいから何か食べたい。私はどんなに大酒を飲んだ後の二日酔いでも、翌朝は必ず空腹になる。しかしこの部屋には、いろいろな高価なものには事欠かなくても、なぜか食べ物らしきものが、いや食べ物らしきものだけが、見当たらない。言い換えればあらゆる贅沢品に事欠かないような雰囲気の中で、なぜか空腹感を満たすものだけが存在していない。彼は昨晩の深夜までのいろいろな話の時そのままの優しい表情で、アルコールの魔にすっかりやられて、ソファーに横になっている私に、彼は、新しいウイスキーの瓶をおいてくれました。「お望みのものは何でもありますよ・・・」と彼は言いたげである。普段、外の酒席でも、彼は私がすすめてもいっさい食事を摂取せず、さらには水分らしい水分も摂取しません。ようやく起きた私の緩慢な動作に比べて、彼の行動は、非常に機敏でさえありました。まるで修行僧のような規則正しい行動ですが、「修行僧」は「修行」を積むかのように、起きるやいなや、私のソファーの向かいに腰をおろし、数時間前の行動を再開するかのような、機械的な手つきで、ひたすら、目の前のアルコール(焼酎)を摂取し、毒針の修行に耐えるかのように、飲みはじめました。もしかしたら、彼は一月くらい、食べ物らしい食べ物を摂取していないのかもしれません。もちろん、彼は減量をしているのではありません。食べたくない、という以上のものでないもの、なのでしょう。ぼんやりから段々と抜け出していく意識の中で、食べ物らしきものをおかないことが彼の一番の贅沢なのかもしれないな、と私は考えていました。・・・「何も食べない」ということは、やはり何かの強烈な精神行為である。その「食べない」は、なぜか「信じる」や「純粋」といった、彼の他律的な行為や精神要素の脆さやいかがわしさと比べて、全然本質的な行為になっているような気配でした。
      私自身はひどく空腹でしたけれどしかし、全然「不満足」というものはありませんでした。なぜなら、それに代わるものが私の中になんとなくあったからです。頭の中のバラバラなイメージが湧いてきて、昨晩の議論が一つ、また一つ、思い出されてくる。
      空腹感は満たされないですけれど、「空腹ということは何か」ということについては、夕方六時くらいに彼の部屋に入ってから、議論にくたびれ果ててついに横になるまでの十時間くらいの間に、幾度となく話しました・・・・「どうすれば空腹感が満たされるのか」ということでなく、「空腹感を感じるということはどういうことなのか」ということ・・・「私自身は、どうやって、という話にはくたびれ果てました、お腹がすいたときでも、買うことよりも考えること方に取り付かれるんですよ」・・・そういうと、やはりそのときも焼酎の杯を傾けていた彼の返答が返ってきます「仏教での空腹その他の修行ということが、どうしても、物を大切に、ということからくるものとは思えないですね。欠如ということが、そのものの逆に実体化させて因果関係といものを存在させてしまうんじゃないのでしょうか」・・・というようなことを言います。こうして「無が存在させられている」という具合に、話が侃々諤々と進んでいく。昨晩の私はずっと私は夢を見ているようでした。ビジネスの世界にこういう人間が実在したのだ・・・そう私を感動させるような、すばらしいセンスをもった人物である。しかし、その感動も、たった一晩で終わりを告げる・・・・そして、それほどの彼が、やがては食べつくされていく・・・・。出口を求めようとして「出口なし」に陥る。これが「善悪の躾」に陥った恋愛と性愛のいっさいすべてではないか、と私は思います。・・・・彼の予言の通り、その日は、私が、彼を見た最後となりました。彼と彼女の一家は、私の前から消息を消していきました・・・。「哲学の部屋」「思索の部屋」で起きた、わずか一日だけの小さな喜劇・・・すべてがまるで、機会仕掛けの世界の一部であるかのようにです・・・。
       
    

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