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哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
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「自殺」の世界について・再録
    「・・・私だって、自殺しようと思ったことは一度ならずあるわよ・・・」
      世間では連日、子供達(だけというわけではないのでしょうが)の自殺が様々に報道されています。各種ジャーナリズムは、例によってものものしい「危機感」を伴わせて、私達に事件を伝えようとしていますが、いったいどういうことが「危機」なのか、不明のまま、自殺報道は繰り返されているように思えます。もっとも新聞もとらずテレビも放送大学とアニメ以外は観ない私自身は、自宅でほとんどこれらに触れることなく、せいぜい喫茶店や居酒屋で、これらのニュースに触れています。そういうとき、それを伝える新聞やテレビを観ながら、間隙をつくかのように、同席していた女性や、お店のママさんが私の顔を覗き込んで、そんなショッキングなことを言う。「・・・私だって、自殺しようと思ったことは一度ならずはあるわよ・・・」これは全くの偶然なのですが、私にそういう告白をしてくる女性というのは、例外なく女性なのですね。
      彼女達は自殺報道を通じて流れてくる「自殺者」に対して、共感をしているのでしょうか。あるいは、「自殺をしたことがある」ということを通じて、ある種の自己表現を試みようとしているのでしょうか。いずれにしても、自殺を試みたことのない私にとっては、彼女達、告白者の実感的に謎である、としか言いようのないことがあります。しかし、だからこそ言いたいことなのですが、自殺が「死」への到達方法の一つであり、「死」が絶対的無である(可能性が高い)として、なぜ無への到達を急ぐことに「共感」できたり、その到達を「表現」しようとするのか、私には大いに疑問です。これは多くの文学者についてもいえることですが、自殺する人間は、自殺を決意した段階から、「死=無」に対する考察を停止し、考えないがゆえに、自殺という一般化された行為を選択決意できる、それがゆえに、自殺する行為を普通の行為と同様に、共感や表現の世界に持ち込むことができる、のではないでしょうか。しかし、死の世界を目的とする行為は明らかに他の行為とは違っている。死は回顧できないものである以上、経験とはいえないのですが、だとしたら、自殺を経験的に語れる人も、人類史上、皆無であって、自殺について回顧的に語れる人は、自殺未遂者でしかない、ということになります。そして、自殺未遂者が、「死」に対して、深い思索を有しているかどうかは、これは必ずしもそうとは言い切れない、といえましょう。 
       自殺という行為への考察は、幾重にも隠蔽の修辞学に囲まれている。たとえば、私の周囲の告白者から新聞テレビの自殺特集まで含めて、世間で語られる「自殺論」の多くが、「自殺原因論」にしかすぎない。「いじめ」は子供の自殺の原因の第一といっていいですが、女性にとっての自殺(自殺未遂)の原因は多岐にわたります。「失恋」、「相手異性の浮気」、「子育ての失敗」、「経済的失敗」、「君主や上司や教祖の後追い自殺」というものもある。ところが、「原因」は、それを語れば語るほど、「自殺」そのものからは遠ざかってしまうように思えます。たとえば、デュルケームは、自殺論の古典である「自殺論」で、実に見事な自殺原因論を展開し、自殺分析論の先駆をなしました。しかし、自殺についての考察の本質は、「いじめ」で自殺する人、「経済的失敗」で自殺する人、「君主の後追い」で自殺する人が、おなじく「自殺」という死の行為を選択する主観的普遍性の不思議さにこそ、見出されなくてはならない、といえましょう。「いじめ」と自殺率の間の因果関係が証明されたとしても、「いじめ」を受けた人物が、他の異常行為でなくなぜ自殺を選択したのか、ということは、自殺原因論は、説明はしてくれません。一例をあげればデュルケームは、未開社会では自殺があったのかどうか、という非常に興味深い主題が、非常に精緻に展開されていますが(未開社会部落でも自殺は存在していたと考えられます)それは自殺原因論を自殺歴史論へずらしたのであって、自殺の本質を考察しようとする手がかり以上のものを与えてくれるようには思えません。私達の日常は、デュルケームのような徹底的な水準には到底及ばないような、実に低い次元の「自殺原因論」を語る社会学者的おしゃべりが多すぎる、といえましょう。
       稀に、生々しい話が語られるのを聞くこともあります。「行為」としての自殺が語られるときですね。「告白者」の中にも、自殺行為の只中にいた自分を、克明に私の前で言葉で再現しようとしてくれる女性もいました。しかしこの場合も、やはり「自殺」について語っている、ということにはならない。「行為」としての自殺を語りながら、その行為が目的とする「死」をどれほど内包しているかを語ることは、ほとんどないからです。当然のことで、「死=無」を意識すればするほど、自殺行為に巨大な迷いが現れてしまうのが論理必然であるから、ですね。多くの批評家が指摘するように、三島由紀夫ほどの意識家でも(あるいは意識家であるからこそ)自殺を決意したと思われるあたりから、「自殺行為」しか語らないようなロジックを選択している。三島由紀夫には、クーデターに失敗した青年将校の自殺切腹の晩を克明に描いた「憂国」という謎めいた短編小説がありますが、この小説を三島が最後まで自分の代表作と考えていたことは、非常によく理解できる気がする。つまり三島は、「自殺」の問題を、「形式」に徹底的にとじこめることによって、自殺行為を、「死」の哲学的思索からも、「自殺原因論」の社会学的分析からも、保護したのだ、ということがいえるのではないでしょうか。三島の論理的知性は、「死」についての延々とした哲学的思索に拘泥するほど愚かではない、という裏返しのロジックをあえて徹底したのではないでしょうか。しかし「自殺」は果たして「形式」なのでしょうか。
       ブルーノ・ガンツがヒトラーを演ずる「ヒトラー最期の12日間」という映画を最近観ましたが、ギリギリに追い詰められていくヒトラーの自殺の企てと実行は、三島の自殺と比較すると、なかなか興味深い視点が見えてくる。自殺を決意するヒトラーは、軍医を呼んで、自殺方法について、冷静に検討するのですが、ヒトラーにとって自殺はあくまで、死の段階に到達する「手段」にしか過ぎない。「手段」として考えれば、切腹行為というのは非常に不確実な行為で、「死」に到達するまでの苦痛はもちろんのこと、時間的経緯も様々で、うまくいかない場合、数日間存命してしまう可能性もあります。つまり切腹行為というのは「形式」なのですが、ヒトラーにとっては、自殺行為については、三島のような関心をほとんど払っていない。
       ヒトラーはピストルを自分の頭蓋骨に撃ち込むことと、青酸カリを飲むことを併用し「自殺」を確実なものにしようと考えるのですが、ピストルが単に頭蓋骨を傷つけるだけで終わってしまう可能性がある、と軍医に言われて、「一秒」早く、青酸カリを煽り、その窒息死をより確実化するためのピストル発射、という軍医の推薦する組みあわせをうけいれます。このヒトラーの「手段」としての自殺行為の把握は、自殺を「形式」に閉じ込めた三島由紀夫の厳しい論理性、意識性とは全く別の意味で、論理的であり、意識的である、ということができる。映画は巧みに、自殺の日に日一日と近づくヒトラーを、少しずつ死に化粧させていくのですが、ヒトラーは、側近の中で唯一といっていいほど正気の人物であるシュペーアに、「永遠の安らぎに自分は逃げこむ」と宣言しますが、自殺を形式でなく手段として冷徹に感受しつくすところに、自殺行為の目的である「死」の存在が重くのしかかる、という精神力学が作用している気配がある。どんな形であれ(ヒトラーの言葉のレベルでの「死」論であっても)「死」とは何か、という考えを背負いながら自殺行為に向かう、ということが「自殺」の本質ではないか、ということを考える私にとっては、ヒトラーの自殺の方に(もっとも映画の中のヒトラーですが)思索性を感じることができます。あるいは、自殺における形式論の非思索性を提示している、ということもできる。「哲学的思索とは、死への準備に他ならない」というプラトンの言葉に従えば、「死とは何か」という問いを避けている「自殺」は、全く思索的でないといわざるをえないからです。比べて三島由紀夫の自殺には、形式性の中にある美意識の問題は激しく提示するけれど、「自殺」そのものの世界を考察することからは遠ざかるものだ、といわなければならないのではないでしょう。「形式」論ということも、私達が陥りやすい自殺論の誤謬の一つではないか、と私は思います。自殺の世界において、「形式」と「死」はどこか、対立しているように、私には思われます。
      三島由紀夫とヒトラーの自殺の比較における「形式」と「死」の対置を考えるとき、私がいつも思い浮かべるのは、カントの「判断力批判」における美と崇高の問題ですね。例によって、カントの世界での「美」と「崇高」は、私達が使う日常語の美と崇高の意味とはだいぶ異なっています。美も崇高も、美的な快感を与えるというという意味では同一ですが、両者を「形式」という点で境界線が引ける、とカントは指摘します。たとえば「宇宙の無限」というものを意識したときの私達が直面する感情は、美的判断力に属することだとはいっても、「美」に属する感情でなく、「崇高」に属する感情ということになる。「宇宙の無限」というものが私に与える美的な快感というのは「形式」を有していないからですね。あるいはたとえば、「情熱」という感情も「崇高」に属する美的判断力であるといえましょう。
      「崇高」の世界は更に広がりを見せる。「無感動」も、「崇高」に属するものだとされのですね。蕩尽や怠惰の中で私達は何かに足をすくわれるように次第に無感動になっていってしまうけれども、これも、形式をもたないものから受ける美的感情の一種だといえるのです。このことから、ラカンは、性的蕩尽を繰り返すサドの背徳文学の世界の「無感動」と、一見するとサドとは全く正反対の思想家と思われがちなカントの「崇高」の酷似性を指摘しています。私達が「美」と「崇高」を混同しがちである、ということ以上に、「崇高」が非常に広い美的感情にかかわっていることを気づかせることにカントの美学論の面白さがあるのですが、これを自殺論の世界に私なりに応用すると、こういうことになります。
       三島由紀夫はよく、「美」については語り尽くすけれども、実は「美しいもの」についてしか語っておらず、美的判断力については無頓着な作家だ、と言われますが、私に言わせると、そういうそうはいえない。三島は、それらについて、意識的だったがゆえに、自殺から、死という「崇高」を綺麗に捨象し、「美」という形式を確立しようとした、ということがいえるように私には思えます。そしてラカンの指摘に従えば、サドを礼賛していた三島には、根本的な陥穽がある、ということにもなる。サドの追及した性的蕩尽の果ての無感動や死の世界は、「崇高」に属する美的判断力の世界であり、「崇高」から絶えず美的形式を見出そうとした三島は、サドとはとうてい相容れない思想家だったといわざるをえないことになるでしょう。三島にとっては、「死」のあまりの不定形、不確かさ一般には、耐え切れない。「死」に「形式」を与える、ということになれば、自殺の世界を選択することは、三島にとって、実に論理必然だった、ということになるでしょう。しかし「自殺」の本質を(あるいは「死」の本質は)「美」の問題としてとらえた途端、思索は止まってしまうと思われます。にもかかわらず、三島の「自殺」への追求は執拗で、病的なものでさえあります。それは実は、三島が、自殺における「美」を追求すればするほど、思索性の欠如に意識的にならざるをえない背理に苦しんでいたことを示すのではないでしょうか。「崇高」は否定的感情も含みますが、自殺はどこかに否定的感情を伴うものであり、それを、あえて、「美」という否定的感情を含まない世界に閉じ込めようとしたところに、三島の自殺論の苦しさがある、と私には思われます。三島はあえて、自殺を思索から距離を置かせることにより、自殺を「美」として完成させることに、創作と行動のエネルギーを注いだといえましょう。
     自殺という行為は、そもそも、思索的行為とは距離をおかなければ、行為として決断実行することは難しいものなのでしょう。ニーチェは、行動というものは、それが過激なものであればあるほど、幻覚という秘密のヴェールによって、自分自身に虚構を築かなければならない面があるといいましたが、これは、三島由紀夫の自殺への行動論と大体一致するといえるでしょう。では、いったい何に対する虚構なのでしょうか。
     サルトルは「高らかな精神をもって処刑台に望もうとした人間が不意にスペイン風邪で死んでしまうことに、いつまでも私達の不条理はある」といいましたが、サルトルが言いたいのは、自殺者も非自殺者にも(殺人者にも非殺人者にも、英雄に凡人にも、善人にも悪人にも)「死=永遠の虚無」が等しく訪れるという不条理の方が、自殺そのものよりも遥かに大きな不条理を私にもたらす、と考えるべきだ、ということですね。その不条理は、カントの美的判断力論からすれば、「崇高」の問題である、ということができるでしょう。しかし、自殺行為というのは、どんな形であれ、その瞬間に誘われるときは「高らかな精神」をもって臨むものです。そのことを熟知していたショーペンハウアーは、自殺自体には否定的な見解を言いながら、自殺を決意した人間の激しい意志について考察を張り巡らしましたが、「高らかな精神」にせよ「自殺しようとする意志」にせよ、その行為は、同時に、あるいは少なくとも潜在的に、「死」の絶対的不条理を破壊しようとします。「死」という「崇高」に属さざるを得ない世界は、決して、「美」によっては救い出されない。しかし、こうした精神的行為の幻影によって救い出される、という逆説が存在する。ここにおいて、自殺が、ある種の「宗教性」を帯びる、という奇妙なロジックが現れてきます。
      「自殺」が「宗教的」ということはどういうことでしょうか。「宗教は阿片だ」(マルクス)という息苦しい俗説を言う人間は、死の不条理を覆い隠すために、私達は来世を、あるいは宗教的世界を虚構したのだ、と遠大な観念的議論を言うのかもしれないですが、「自殺」の世界の宗教性は、そのようなレベルでとらえられるものではありません。「殉教」という行為は自殺とは根本的に相違しますが、しかし、死の自覚的選択という面においては、類似していないとはいえない。キリストは「キリストの死」という殉教行為を置き、死の不条理を拒絶している。これは教義上、天国があるとか死後の世界があるとかということとは、区別されるものです。キリスト教の言葉の世界は、キリストの殉教行為という、特殊化された「死」によって、何ものかに変えさせるような観念のメカニズムを有しています。死はキリストにとって一種の行為であり、それは思想の実践でもあった、ということになる。もちろんキリストの死は、死に関しての思索性をもっているものではありません。しかし、その自覚的な死の世界への選択は、「死=無」の不条理を、いまやその多くが形骸化している宗教などよりよほど確実に覆い隠し、死から救済されようとしてしまうのです。人類史は様々な自殺教団を有してきました。また、キリスト教を筆頭に、その原始的教義には、自殺を禁止する文言は見当たらないのに、自殺禁止を教団が付け加えるのは、「自殺」が実は、自己の宗教教義をおびやかす最大の宗教行為になりうる可能性を知悉しているからだ、といえます。もちろん、特別な死に方、存在の消滅をしたからといって、私達の存在が「救済」される、という保障は、どこにもありません。しかし、この不明性は、「救われないという保障もない」という論理に裏返ってしまうことにもなるといえます。
       たとえば太宰治たち無頼派作家には、繰り返し、自殺をテーマにする作品が登場し、そして作者である彼ら自身も自殺を試みています。しかし、彼らの「自殺」には、何か「自殺」の本質と離れたヒューマニズムめいたものが強烈に感じられる。典型例として太宰をあげてみると、太宰文学の愛好者の大半にとって、太宰の数度の自殺未遂と最後の自殺を、太宰の「残酷」さと位置づける人はほとんどいないのではないでしょうか。太宰にとっては、自殺行為は、一種の救済行為だった、と考える人物が私の周囲の太宰ファンには多かったといえます。弱さ、優しさがゆえに彼は自殺した、ということですが、果たして、「弱い」人間「優しい人間」が、自殺を繰りかえし試みることができるのでしょうか。やはり太宰は、自殺することによって、自分の死を何ものかに変えてしまう力を信じていたのではないでしょうか。彼が、キリストに親近感を抱いていたのは、決して矛盾していることではありません。太宰たちがキリストから学んだのは、キリスト教的な天国の信仰などではなく、その死により、死の不条理から、「キリストの死」が何かの逸脱を成し遂げた、ということなのでは。だから、太宰たちは、死にたがるのです。執拗に、「死=無」を、自殺行為によって、絶対的不条理から救い出そうとするのです。ゆえに、太宰ファンの多くは、彼の死に大きな共感をおぼえ、宗教的なほどに彼を崇拝する、文学青年の一群を創造するのでしょう。
       実のところ、彼は自殺を「形式」に閉じ込めた三島由紀夫よりも、よほど「死」そのものを最後まで卒直に見つめていたかもしれません。なぜならば、太宰は、「死」の世界を明らかに、「崇高」の美的判断力で把握しているように見える。三島ほどの意識家でも論理家でもない太宰には、死を「崇高」から「美」へと救い出す作為など、思いもよらないことだったでしょう。三島の自殺には、政治的な暗喩や意思はふんだんに存在しているようにみえますが、それは解釈が可能な「形式」だから、ということでしょう。そこには、太宰の自殺のような「宗教性」というものは、ほとんど考えられません。三島由紀夫の自殺に感動した純情なナショナリストの青年が、彼への尊敬的な感情から、テロリズムの事件を起こした例は幾つかありますが、おそらくその青年達にも、三島の自殺に、同意することはあっても、その「形式」に近寄ることはできていないように思われます。太宰治の自殺は、つかみどころがないように見えて、実に近寄りやすい。私は三島の自殺よりも、太宰の自殺の方に、思索的な可能性というものを感じますが、太宰の自殺が非論理的で、非形式的であるから、つまり、「崇高」に近い自殺を試みて、それを成し遂げた作家だから、ということなのではないでしょうか。共感を得やすい自殺、というのは、美と崇高の美的判断力で死をとらえたときの「崇高」によって、「死」を広い感情でカバーしていることによって生じるといえましょう。
       しかしそのことは、太宰的「自殺」に疑問や矛盾を感じないということではありません。太宰がキリスト「死」に憧れていたとしても、物語的に整然としているキリストの死に比べて、太宰の死(自殺)は、疑問と矛盾だらけのものだ、といわざるを得ないといわなければなりません。大体、自殺が殉教的行為ならば、なぜ、何度となく他人を巻き込もうとする(心中)するのでしょうか。集団自殺や心中も自殺には変わりありませんが、自殺をどうしてもしようとする人間がたまたま同意してその場で一緒に自殺するのか、それとも、自殺行為の瞬間の不安や恐怖に耐えられなくて自殺同行者を誘うのかで、自殺行為の意味するところも、全然異なったものになりますが、私には何回も自殺同行者を求める太宰の自殺はどうしても後者にしか感じられない。実は、死という「崇高」の感情の世界に足をすくわれていた太宰には、自殺行為を独立したものとして考える視点が逆に欠如していたのではないでしょうか。矛盾した言い方ですが、太宰は「自殺しようとしたのではなくて、死にたがろうとした行為を選択した」というふうに、私には思えます。太宰とキリストの違いは、「弱さ」のあるなしである、というふうにいえると私は思います。だから太宰の死は宗教性を帯びているように見えるけれど、結果的に、宗教的になっているとはいえない、と言わざるを得ないように思えます。
       ドストエフスキーは自殺者の宗教性の考察と把握について、太宰よりも遥かに抜きん出ている。たとえば、「悪霊」の中に登場するきわめて思考実験的な自殺者であるキリーロフは、「神が存在しないならば、私自身が神だ」という有名な人神論を展開します。・・・もし神が存在するならば、自分の意思を含めた森羅万象はすべて神の意志に隷属し、その意志に反して自分は何もできない。しかしもし神がいないのならば、いっさいは僕ら自身に属することになる。自分にとっての何もかもが根源的に自由になってしまう・・・これはあまりにも恐ろしいことだけれども、キリーロフはそれを論理的に受け入れようとする奇怪な人物です。「悪霊」を読んでいて、キリーロフという人間は、人物として確かに動いていますけれど、どこかある一点において、表情がいつまでたっても見えてこないという、不思議な印象に、いつまでたっても付きまとわれる。それは、キリーロフが、神であろうとする論理に従って世間の事象をとらえようとしているからで、彼が人神論の論理に忠実に従う「論理的」人物であることがが私達をいろいろな錯覚に誘導するのだ、といえます。そして、やがて、彼の「論理的」世界は、論理的自殺を彼に導こうとする。
      「論理的自殺」が、なぜ、「神になった自分」にとって必然的行為なのでしょうか。人神キリーロフは、友人スタブローギンの「君はあの世の永遠の生命を信じるのか?」という質問に対し、「いや、来世での永遠の生命など信じない。僕はこの世での永遠の生命を信じているのさ・・・そういう不思議な瞬間がある・・・」という奇怪な言葉を口にします。つまり、「自分が神になってしまったという感覚=すべてが許されるという感覚」は、もはや死後の自分が存在しえないということを前提とした、この地上のみでの、一人一人の人神が集う「永遠の生命の王国」を作り出さなければならない、ということを意味します。「地上での永遠の生命」というキリーロフの妄想は矛盾していますけれど、しかしそれは、キリストがかつて口にした、「来世での永遠の生命」と同じくらい矛盾した言葉であり、それを口にしなければ、自分自身が神になる、という人神論の世界は、とうてい成立しない。言い換えれば、「死=無」の不条理を忘れさせ続けたキリストの「来世での永遠の生命」と同じものを、キリーロフは語らなければならない。これが人神論のロジックなのですが、キリーロフは、その人神論から、さらに、自分の自殺を論理的に導き出そうとします。なぜ「神」になった自分が自殺しなければならないのか。それはさらに謎めいた論理のようにみえますが、よく読みこめば、決してそうではないように思われます。カミュが指摘したように、キリーロフは実は「隣人愛」のために自殺をするのです。
      キリーロフは死を完全な虚無と考えています。虚無にもかかわらず、なぜ「隣人愛」が説かれなければならないのか。それは「地上の永遠の生命の王国」を創造するためなのです。彼は自殺のピストルを握り締めたとき、「自分のピストル音が、一人一人を皇帝にし、究極的革命に導くことになるだろう」と言い残します。キリーロフにとっては、キリストと逆さまの行為を選択しなければ、人神論が破綻してしまうことになる。キリストは来世を説きながら、この世を去っていった。しかしキリーロフはキリストが「天国の入り口にたって、自分が天国に入る資格のないことを知らされた」という光景を夢想します。「来世の王国」は破綻したのですね。ならば、「地上の永遠の生命の王国」は、完全な虚無である来世に自分がしっかりと入ることで、実は逆さまに証明されるのではないか。つまり、現世と来世は、時間的に逆で、私達は、死後、虚無に回帰してしまうのだけれど、来世=無に進んで自分が進むことが、人神たちが集うこの世界の永遠を証しするのだ、かくして、「自分自身が神になれる」ということの証が、自殺という「論理的行為」だ、ということになるのですね。
       そこには、極限化された自殺行為の宗教性というものが提示されているといっていいでしょう。「自由」の問題が不可避的に自殺の可能性を提示し、それは宗教性を帯びた行為として成立する、という裏返しの論理的行為を、キリーロフは示そうとしているように、私には思えます。死が虚無だから、私達は死をおそれ自殺をおそれる、というコモンセンスも、キリーロフのロジックでは完全に逆転されてしまっています。「死=無」であることが、自殺の回避理由でなく、自殺と分かちがたく結びつくことになるのですね。そして、「死」が「崇高」の混沌から救い出される。人神である自分が自殺することによって、死は非平等化され、私達は「善人にも悪人にも等しく訪れる」死の不条理から救い出される、ということになる。
  キリーロフについて語っていると、私自身が引き込まれ、まるでキリーロフが実在の人物であるかのような錯覚に陥ってしまいます(笑)しかし、キリーロフ的自殺は、決して、小説内部の妄想ではないように私には思えます。キリーロフ的自殺を、「原因論」にすっかり覆い隠されてしまっている、現代人の自殺を想起して考えてみましょう。自殺行為を精神的行為と考えて自殺する人間が、「死」をどのように考えているかは、自殺を回顧するという行為が厳密にはありえない以上、何ともいえないですが、もし稀少であっても、死後の世界を完全な虚無と認識し、なおかつ、自殺に精神的救済という宗教性を求めるのならば、自殺する人間がいたのならば、キリーロフのロジックと同じものを採用するのではないでしょうか。「人神論」はキリスト教徒にとってはおそるべきロジックですが、他の宗教風土や無神論的世界の住人にとっては、必ずしも採用しえないロジックではありません。「宗教的自殺」と「論理的自殺」はここにおいて、奇妙な一致を見ることがあるように、私には思われます。「なぜ自殺するのか」は私の関心外ですが、「自殺とは何か」という問いに関してならば、私は以上のことから、「宗教的に自殺」し、あるいは「論理的に自殺」する、というのが、答えになる、というふうに考えます。自殺が、時として、連鎖性・連続性を起こしたり、集団自殺のような事例、自殺教団の存在についても、以上のことが根底にかかわっていると私は思います。
       しかし、そうだとしても、「自殺」について考えながら、「自殺」という言葉に、ひっかからなければならないことを忘れてしまっているような問題があるように思えます。たとえば、私達は、「時間とは何か」という哲学的問いを発するとき、知らず知らずのうちに、近代的社会での「時間」概念を疑わないような前提を受け入れてしまっています。哲学的思索でなくても、「大陸文化からの文化の渡来」というとき、「大陸」を、20世紀以降の世界地図で考える誤謬に陥ってしまう、というようなことも私達は歴史的思索で、よく起こしてしまいます。同様のことが、「自殺」の前提にもあるように、私には考えられる。「自殺」は読んで字の如く、「自」分を「殺」す行為なのですが、果たして殺すに値する「自分」が存在するのかどうか、という問題に私はひっかからないまま、居酒屋や喫茶店での彼女達の告白、ワイドショーでの特集、三島由紀夫、ヒトラー、太宰治、キリーロフの自殺を論じてしまっているという陥穽にあるのではないか、ということですね。ビジュアルな世界で、混濁した理解力を有している現代の子供達に殺人の「人」が認識できているのかどうか、という問題が、自殺に関してもある、ということですね。もし「自」分がなかれば、いくら表面的に自殺行為が存在しても、その実質は自殺でも何でもないことになってしまいます。これは「自殺という行為は果たして成立しているのか」という、あまりに基本的ですけれど、絶えず問いかけなけばならない問題である、といえましょう。「自殺」が自殺でないのなら、私が考えてきた自殺の宗教性も論理性も、世間で言う自殺の紋切り型の批評も、その他自殺を巡るいっさいの考察が、無効である、ということになってしまいます。キリーロフの逆さまのロジックではないですが(笑)ここで、応用(宗教性・論理性)から逆行したプロセスへ、つまり自殺の根本の面に立ちかえってみることにしましょう。
       先述したように、デュルケームは、未開社会でも「自殺」が存在していたことを、精密な分析によって指摘しました。デュルケームは同時に、未開社会での「自殺」は、自覚的なものであるものは時代を遡るにつれて少なくなり、共同体の要請による老人の自殺(いわゆる姥捨て山)にみられる自殺のタイプが多くなる、と指摘します。しかし、にもかかわらず、意識的な自殺者(これをデュルケームは自己本位的自殺者といいます)もまた、非常に多くの部落に見られる行為であるとされ、この中間に「後追い自殺」がある、としますが、「後追い」自殺は、慣行的な意味での義務性があったとしても、やはり自覚的な自殺であることは間違いないように思われます。こうなると自殺の社会学的な遡行もどこまでできるか難しいですが、「動物の自殺」が絶対言うに有り得ない以上、「意識」の発生と「自殺」が同義であると考えるべきではないかと私は思います。
      「意識」の発生と「自殺」の発生が同義であるということは、どう説明したらよいでしょうか。再びサルトルの登場ですが、サルトルは、私達が多数人から他人(ピエール)をさがすとき、「彼はピエールでない」ことを繰り返すことを通じて、私達は「無のピエール」というピエールとは別の対象を発生させていると言いました。動物には、目の前にあるものしか対応できません。動物は親しい人が現れたとき、「いつも可愛がってくれるAだ」ということは判断できますが、「Aがいつも自分をいじめるBでない」ということは判断できない。サルトルが言いたいのは、これは私達人間が「否定」ということを通じて「無」を知っていることに他ならない、ということです。動物にも動物なりに意識がある、と判断する人もいるでしょうが、しかし、「否定」ということを知ることはできない。
      言い換えれば、人間は、自分自身が「無」であることを判断することができる動物だ、と言うことでもあります。「無の自分」を知っているということ、「無」への行為=自殺ができる動物でもある、ということです。動物には「?でない=否定=無」ということは存在しないがゆえに、自殺という行為もありえないのです。私達が死の不条理を認識できるのも、「無の自分」を知っているからであり、それは自殺ということと、意識の関係を示す、説明であるということができるでしょう。意識の発生ということは、「否定の発生」ということに他ならず、それがとりもなおさず、自殺の起源ということに他ならない、ということができるわけです。「否定」という判断ができる限り、私達は、「自殺」というものから、絶対に離れることはできない、というべきでしょう。
      しかし、「無の自分」を知っているからといって、「無の自分」の「自分」が何か、という問題が更に残るといえます。「無の自分」が、ゲーム的な世界でつくりだされた、空想的な自分であった場合、自殺者は、「無の自分」でなく、「無の架空の自分」を殺害するという分裂的な精神状態に陥ることになります。あるいは、全体主義的国家の、非人間的な戦争教育というのも、「無の自分」を、「無の架空理想的な自分」への誘導という形でなされる、ということができます。かくして、「自殺行為は果たして成立しているのかどうか」という問いかけを通じて、自殺論は、主体性の確立という、実存主義的ヒューマニズムに、遠まわしで到達する、ということができることになります。「無の自分」が成立するということが、自殺という行為の成立の生命線であるわけですから、「無の自分」の「自分」が不在である以上、自殺論のいっさいが成立しないことになる。「われ思う」というデカルトの主観主義と同じものを、ここで私は感じなければならないのではないしょうか。「無の自分」とは、哲学思索にせよ、社会学にせよ、おそらく通俗的自殺論にせよ、あらゆる自殺論が、議論しつくしても疑うことができないような前提であるのだ、と私は思います。
      「無の自分」の自分という、自殺論の前提を考えると、私が最初に軽視した「原因論」も、違った形で見えてくるように思えてきます。なぜならば、自意識が成立していないような状況であれば、自殺そのものが成立しないのだから、「原因論」は、自分あるいは自意識というものが成立しているのかどうかを射程に入れたものでなければならない、ということになるからですね。           
      有名な言葉ですが、死の不条理をテーマにした数々の小説を描いたカミュの、不完全だけれども不完全だからこそおそろしく暗示的な評論「シーシュポスの神話」の冒頭にある「真の哲学的問題はただ一つしかない、それは自殺ということだ」という一節は、決して、自殺が「哲学的行為」だということを意味していません。周到にも彼はその冒頭の言葉のしばらく後で、哲学的熟考は自殺とは無縁である、といっていますね。自殺と哲学思索は無縁なのですが、しかしもし、「完全な不条理」が私達を襲いかかったとき、私達が自殺というものから果たして自由かどうか、つまり哲学性を破壊してしまうのかどうか、という意味において哲学的だ、ということがカミュの言わんとすることでしょう。そして、自殺を「無の自分」の自意識論に広げて考えれば、自意識に最大の刑罰を与える不条理は、哲学性を破壊する自殺という行為の意味も破壊する、という意味で、最大の「哲学的問題」に大きくなる、ということがいえるでしょう。カミュの「シーシュポスの神話」は、考えようによっては典型的な自殺原因論ですが、自意識を破壊するものは何か、という問いかけを、そういう問題設定によって、大きな自殺論にしているのだ、と読み取れます。
        「シーシュポスの神話」は、神に命じられたシーシュポスが、絶対的に無意味で無目的な労働を命じられることを通じ、時間の完全な空虚というものに直面する話を描いています。この世界にあるいかなる私達人間の単調な労働も、微細であっても、実のところ、何らかの意味と目的を有している。しかし、シーシュポスにはそれさえも奪われている。ゆえに・・・ドストエフスキーもまた自分の流刑体験を通じ、どんな凶悪犯であっても、自分が食うため、という目的さえ失わせた無目的な労働や作業が、凶悪犯である彼を震え上がらせる、といっています。極限的な自殺原因論ですが、しかし、自意識の極限ということが自殺原因論の極限だ、ということになれば、このテーマは、原因論から限りなく離れて、「無の自分」の自意識の問題に到達する、ということができます。ビジュアルなゲーム世界や、非人間的な全体主義的国家教育が、もし、完全な空虚に耐えられる人間を完成してしまったら、ということを私は考えます。自意識があってこそ、私達はシーシュポスの神よりの刑罰の不条理を理解でき、そして、自意識による否定行為を行いそれを理解できる。そのいっさいが破壊されてしまったとき、私達は、「シーシュポスの神話」は、再び新しい神話へと書き換えられなければならないでしょう。「無の自分」の自分さえも失い、自殺の意味さえもままならないまま、自殺を繰り返す、気味の悪い喪失者達の神話、ということですね。それはもはや自殺とはいえない自殺行為といわざるをえない世界の自殺なのだ、と私には思えます。自殺の復権、というのは恐ろしく矛盾めいた表現ですが、自殺について考察を重ねるうちに、私はそういう表現に到達してしまったようです。
        
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