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「選ばれた読者」と「選ばれた民」?大江健三郎への一批判
 「選ばれた読者」と「選ばれた民」・・・大江健三郎への一批判

 最近、ちょっとした必要があって、だいぶ以前の江藤淳と大江健三郎の対談を目にすることがあった。読んだ対談は二回ぶん、一度目は1965年3月、二度目は1968年1月、掲載雑誌はいずれも「群像」である。
 このことは私がまったく知らなかったことなので驚いたことなのだが、この一度目の対談で、大江が長編「個人的な体験」を記すにあたり、世間に発表した小説の結末と、別の結末を記した小説を私家版として記したことがこの江藤・大江対談で明らかにされている。しかもその私家版の存在を、大江は、大手文芸誌「文芸」を通じて、堂々と世間に公表したというのである。
 「個人的な体験」は1964年に書かれた長編小説で、障害児(脳ヘルニア)の子供をもった若い大学講師が、その子を自分の人生的責任として引き受けていくまでの激しい精神的葛藤を描いた物語である。主人公は大江と同一人物ではないが、同時期、同じ境遇に直面した大江自身の倫理的問題が主題になっていることはさまざまに明白である。この小説は大江自身の文学的転換を意味するだけでなく、以後、大江の読者の中に、大江を一種の求道者として崇拝する風潮を呼び起こした作品であるともいえよう。脳ヘルニアの子供を引き受けるこの「個人的な体験」の最終部分については当時、三島由紀夫などにより、私小説的ではないか等、さまざまな批判がなされたのである。
  私はずっと、大江がその批判を耐えて克服したものだと勝手に思い込んでいた。だが、「求道者」的作家の大江は、この「個人的な体験」において、この脳ヘルニアの子が死んでしまったという別の小説的結末の私家版を執筆していたのである。私家版の小説を書く作家はもちろん少なくない。しかし、ある小説において、二つの結末を私家版において準備しさらにそれを世間に公表した作家というのを私は他に知らない。
 江藤はこの大江の所為を、「そこまで読み手の批評を気にして小説を書かなければならないのはどういうことか」と呆れるように批判している。

 (江藤)「ぼくのいっているのは結局きわめて素朴なことなんです。批評家でも編集者でもいいけれど、大江さんが編集者あるいは批評家を読者の代表としてお考えになるならば、そういうものは気にしないでお書きになったほうがいいといっている。気にしないで、書きたいことをこれ以外書けないというふうに書いてくだったほうが実はかえって読者に誠実なのだということをいっているだけです」
 (大江)「ぼくは自分が書きたいことはこれ以外に書けないということを確認したと書いているのですけれどね」

 江藤はもう一つの「個人的な体験」を大江が書いたということにこだわって、大江に対して執拗な疑問を次から次に投げかけるのであるが、大江の方は終始、このような「書きたいことを書いただけです」あるいは「小説的結末は重要ではないと思います」などと巧みに逃げをうって、結局のところ、この一度目の対談では江藤の追及をかわしてしまう。
 だが、この対談をよく読むと、その後の大江の文学的・政治的スタイルの根幹にかかわるような言葉を大江が言ってしまっている場面があるのだ。大江が江藤の執拗な追及にこらえきれなくなり、不用意にも「小説家にはまったく凡庸な批評家でないかぎり、好評、悪評をとわず、批評に答える必要があります」と宣言的にいい、「自分は不安だから、別の形の終わりを書いてみようと思ったのです」といったのち、江藤と次のようなやり取りをする。

 (江藤)「それは大江さんが頭がよすぎるからでしょう」
 (大江)「いや、批評家に対して誠実だからじゃないですか」
 (江藤)「批評家に対してそういう形で「誠実」になる必要がありますか」
 (大江)「ぼくは編集者と批評家をいちばん有能な読者、ふたつながら同じタイプの選ばれた読者というふうに考える。だからぼくは彼等に極力誠実であろうとしますけれどもね」
 (江藤)「それがぼくの不満の原因なんですよ」

  ここで大江は、自分が意識している「読者」が、いわゆる不特定多数の一般的読者ではなく、実は「選ばれた読者」を意味している、ということを言っている。しかもその読者すなわち批評家たちに対して自分は「誠実」である、というほとんど自惚れに近い自負を高言するのだ。「選ばれた読者」に対する過敏な意識こそが、大江にとって問題なのであろう。つまり、私家版の「個人的な体験」はこの「選ばれた読者」に向けて書かれたものにすぎない。このことは、大江という作家がもっている、不可思議な文学エリート主義とでもいうべき個性を示しているといえる。もちろん、江藤は最初から大江のそのような屈折したエリート主義の高慢を見透かしていて、もっと明瞭な形でそのことをこの対談で大江に言わせようとしたのである。
 それから3年後の両者の対談、すなわち私が読んだ二度目の対談では、江藤の追及は前回でずっと鋭利で顕わなものになり、それに感情的に大江が反駁して、終始、険悪な雰囲気の対話になっている。この3年の間に、大江は文学的執筆以外に、「ヒロシマ・ノート」の執筆により、政治色をきわめて鮮明にしたことにも注意しなければならないであろう。
  この二度目の対談において江藤の大江への再追及の手法は、この3年の間に書かれた「万延元年のフットボール」について、大江の小説の登場人物のほとんどが「鷹四」とか「密三郎」とか、きわめて奇怪な名前をもって登場させていることはなぜか、という問題を通じておこなわれる。こうした奇妙な名前の登場人物の問題は、確かに大江の作品のある時期からの一つの特徴で、大江の小説を読むときの入り口の妙な入りづらさを形成している。
 一度目の対談は大江の小説の結末をめぐる私家版の問題、二度目の対談は大江の小説の登場人物の名前のつけ方について、ということで、江藤が大江に対して論じようとするテーマは違うようにみえる。しかし江藤が追及することは一度目の対談と二度目の対談ではまったく同一のものに他ならない。江藤にしてみれば、前回、江藤が指摘し大江が不用意に口にしてしまった「選ばれた読者」の問題が解消されているどころか、より大江のエリート意識を助長するようにはたらいて大江のこの「万延元年のフットボール」が書かれたことが、ひどく不愉快なことだったに違いない。
  たとえば次のやり取りの場面。大江は前回の対談に引き続いて、再び江藤の繰り返しの追及にこらえきれなくなって本音をいってしまう。二人が使う「踏み絵」と「ハードル」という言葉に注意すべきであろう。

 (江藤)「小説家はあるいはそういうふうに書くかも知れない。しかし読者はそれを一ページから四百ページまで順に読むのです。そうすると、密三郎という踏絵が出てくるのでギョッとする。これは読む体験ということから考えれば、ハードルがある感じになる」
 (大江)「作家として傲慢といわれればそれまでですが、その程度のハードルは飛び越えてもらわないと作家としてはなにもできません」
 (江藤)「それが問題だと思う」

 「踏み絵」あるいは「ハードル」を乗り越えない限り、大江文学の読者は大江にとっての「選ばれた」人間にはなりえない、と大江は認めている。言い換えれば、大江の世界というのは、「選ばれた」人間によってのみ、ささえられているということになる。いうまでもなくここに認められるのは、とんでもない読者蔑視に他ならない。 
 よく知られているように、「飼育」で芥川賞を受賞した大江はもともと、サルトル張りの実存主義的感性の小説表現で戦後文壇に華々しくデビューした。瑞々しい少年的感受性と、奇妙な存在感に満ちたアンチ・ヒューマン的な世界設定が、もともとの大江文学の優れた持ち味である。もちろん、この初期の頃の大江の小説に、私家版の作成や、奇怪な名前の登場人物の創作ということは少しもみられない。大江の作風の変化は、デビューののち数年の中で実験的に開始した大胆な性表現に、政治的主題を押し込んで、その作品のせいで右翼の脅迫を招いた「セブンティーン」「政治少年死す」のあたりから急速に生じる。「叫び声」などの作品では、最初の頃の入りやすさはだいぶ消え去っており、事後的にみれば、「個人的な体験」の登場を予感させる。
 問題なのは大江の「選ばれた読者」という不可思議な文学エリート意識が、この大江の作風の変化と期を同じくして、大江の政治的方向性をも規定していることなのである。「読者」が「民衆」という言葉に置き換わるのである。江藤はこの対談で大胆にも大江に向かって直接、「あなたの創作方法はある閉鎖的操作で自分に味方する社会とそうでない社会にわけるんです」と言う。大江の作為が文学の次元に限定した行為であれば、「自分に味方する社会とそうでない社会にわける」ということの弊害は、せいぜい大江の文学のファンクラブをつくることにとどまったであろう。しかし政治的価値判断に敷衍してしまうとき、大江のこの意識は、極端に頑迷な政治的主張を解禁してしまうのである。
  ここで、「個人的な体験」と「万延元年のフットボール」の間に書かれた「ヒロシマ・ノート」という書を取りあげてみよう。
 「ヒロシマ・ノート」は、そのあまりにセンチメンタルな記述の連続に、かなり辟易とさせられるのであるが、「沖縄ノート」と異なり、被爆者への取材や反核政治集会への参加など、とりあえずはルポルタージュの体裁を整えている作品にはなっている。しかし、この書においても、大江の「選ばれた読者」への意識は、あちらこちらに充満している。「個人的な体験」の私家版を書いた大江と実はまったく同一なのである。
  いうまでもなく、第一義に大江が「選ばれた読者」として意識しているのは、この作品内部にあらわれる、悲惨な体験をした広島の被爆体験者たちである。彼らに対しての祈るような描写と思いいれは、多くの読者に、大江が純粋に広島の被爆の世界を描こうとしているのだ、と一読して感じさせそうになる。
  だが、「ヒロシマ・ノート」の中の、次のような実にいかがわしい表現を見逃すべきではない。

 「中国の核実験にあたって、それを、革命後、自力更生の歩みをつづけてきた中国の発展の頂点とみなし、核爆弾を、新しい誇りにみちた中国人のシムボルとみなす考え方がおこなわれている。僕もまたその観察と理論づけに組する。しかし、同時にそれはヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において、中国をふくむ、現在と将来の核兵器保有国すべてに、否定的シムボルとしての、広島の原爆を提示する態度、すなわち原爆後二十年の新しい日本人のナショナリズムの態度の確立を、緊急に必要とさせるものであろう。したがって広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムのシムボルをあらわすものなのである。    」

 この文章は、前半と後半で、まったく内容矛盾を来たしている。当時の中国は文化大革命のもっともひどい時期にさしかかっており、左派ジャーナリズムの偽宣伝が横行していたとしても、中国で何か重大な異常事態が進行しているらしいという情報は、大江にももたらされていたはずである。しかしその可能性を全く切り捨て、のみならず、核兵器保有を、「新しい中国人のシムボル」とみなす「観察と理論付け」に組する、と大江はいう。そして後半部分になると、同じ核兵器であっても、広島における核兵器の使用はマイナスであったということを、核保有国に対して主張し、新しい日本のナショナリズムとして主張しなけれならない、というのである。
  広島の被爆ナショナリズムのセンチメンタルな主張の貫徹のためには、単に、核保有国の中国を非難するか、文章上、あえて無視すればいいはずである。しかしあえてなぜこのようなくだりを付け加えるのか、といえば、大江は欲張って、「ヒロシマ」という「真実」に、もう一つ、「アジアの共感」という「真実」を盛り付けようとしているのである。「真実」は一つであればいいはずであるが、幾重にも「いい子」であろうとする大江は決して一つの「真実」では満足しないのである。
  言い換えれば、「中国」という「選ばれた読者」を想定して、彼は、「広島への祈り」をあえて修正してしまったのだ。このことは「個人的な体験」の私家版の作成とまったく同じ精神的地点より生じている。「編集者・批評家」だった「選ばれた読者」が、「選ばれた民衆」となって、「ヒロシマ」に、そして「中国」に姿を変えて、江藤がいう「自分に味方する世界」をつくりあげてしまっているのであるといわなければならないであろう。
 この「ヒロシマ・ノート」のしばらく後、「万延元年のフットボール」のさらに後にかかれた「沖縄ノート」では、大江の世界のメカニズムは、さらに露骨な形をとる。
  「沖縄ノート」はいろいろな謎に満ちた作品である。なぜ、取材もなしに、このような重要な主張をふくむルポルタージュの書が書けたのか?事実の根拠もないままの日本軍へのあまりに露骨な嫌悪と、意外なほどに軽視されているアメリカ軍の存在は、いったいどういうことなのだろうか?これほど日本軍への嫌悪をもちながら、なぜ彼は「沖縄」以外での日本軍のかつての実体を探求しようとはしないのか?
  しかし、これらの疑問への解答はそれほどむずかしくない。大江にとって、この「沖縄ノート」は、「個人的な体験」から「ヒロシマ・ノート」へ、そして「万延元年のフットボール」へと、江藤淳が危惧する方向へと大江が歩みを極め、それを完成した後の作品である。大江の最大の不安感はすでに解消されている。書が書かれるその都度において、「選ばれた読者」が誰であるかを見極め、それを満足できるように獲得できる術を獲得するということ。それが大江という人間の世界である。大江の民主主義の「民」とは、「個人的な体験」の私家版を書いたときに意識された、「選ばれた読者」の「読者」に他ならなかったのである。
  以下に二つの文章を例示しよう。一つ目の文章は「沖縄ノート」での驚くべき暴言の箇所である。
沖縄の地上戦とアウシュビッツ収容所を同一視し、「拉致」という物騒な言葉をつかう感性の持ち主が、その後、ノーベル文学賞を受賞したのは信じられないことである。二つ目の文章は、「ヒロシマ・ノート」や「沖縄ノート」から30年以上が経過したのち、21世紀になってから大江の「「ヒロシマの心」と想像力」と題された、これまた信じられないような空想的な政治的主張の講演録の一部である(「鎖国してはならない」所収)
  しかし、今まで論じてきたことを前提とすれば、実は両方の文章は特に驚くには値しないといえるだろう。大江が考える民主主義の「民」とは、リアルな民衆ではなくて、大江の世界の会員制の「民」だからである。かつて江藤が鋭く感じていた不快や危惧は、こうして完全な形で完成されてしまうにいたったのである。「踏み絵」あるいは「ハードル」を乗り越えてきた、大江の観念の中の「民」が、大江の暴言や空想を支持している。1960年代の何年かの営為で大江が獲得した方法論とは、そうした、果てしなく自己中心的な世界完結に他ならなかったのである。彼にとってみればあくまで「読者」が問題なのであって、リアルな「沖縄」や「広島」は、ある意味、二次的な存在の問題にすぎない。  

 ?「折が来たとみなして那覇空港に降りたった。旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。彼は実のところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は拉致しはしなかったのである」

 ?「さらに日本政府があきらかにするできことは、朝鮮民主主義共和国のミサイル開発に加えてーそれが事実であるかどうか、決して軽率なことはいえませんがー核兵器の開発が疑われているいま、もっと切実な意思表示です。つまり、もし北朝鮮の核兵器ミサイルによる攻撃が日本に向けておこなわれる危機が現実のものとして浮上したとき、日本がアメリカの核兵器による北朝鮮への第一撃のみならず、第二撃の攻撃を要求しない、と声明することです。私はそれのみが、アジアの近未来の核状況において、日本が北朝鮮および中国から核攻撃を受ける可能性を縮小するもの、と考えます」

  私は戦後の左翼的作家の類型は二つに分けられると考える。一つは先年亡くなった小田実のように、現実の最先端にいて、いかなる間違いも認めず、「自分は正しいから正しいのだ」と最後までドンキ・ホーテを演じ続けることをアイデンティティとする惚稽な行動家。もう一つは10年ほど前に逝去するまで活躍した埴谷雄高のように、自分の左翼的思想信条に反するような資本主義・自由主義の現実を満喫し、多くの非政治的作家を育成しつつ、「永久革命者」という狡猾な造語により、自らの左翼的心情の温存もはかる老獪な理論家である。
  大江という人間は、その両方のいずれにもあてはまらない。彼の政治的信条には、惚稽さや老獪さといったある意味でとても人間的な匂いが、なにも感じられない。小田がもし、今進行している沖縄の問題に携わったらならば、もっと苦笑せざるをえない失言や醜態を演じて、間違ってはいるが、しかし戦後民主主義の人間喜劇の一つを演じたに違いない。また埴谷ならば、老獪に狡猾に、「沖縄」に深入りすることなく、しかし結果的には自分の好みの左翼的ポジションを確保しえたであろう。惚稽さも老獪さも、それが一般的な読者に対してひらかれることによって、広く、ある意味人間的な「反(アンティ)」を感じさせるのである。
  沖縄裁判の大江の言動に対して感じる「反」にはそれがない。彼の文学エリート臭と闘っているだけではないか、という徒労感のみが「反」の実体であるような気配を感じる。それは繰り返しになるけれども、「選ばれた読者」に対して、いつまでも「いい子」であろうとするだけであるからなのである。だが、彼の正体について、「個人的な体験」の季節の頃の江藤淳の指摘以来、再び明かすことのできる格好の機会である、ということもまたいえるに違いない。沖縄裁判という舞台は、大江という人間味のない政治的作家の晩節にふさわしいさまざまを、彼に演じることを強制していくことであろう。
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