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哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
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「大人」と「子供」の世界について
 
  「法学とは大人の学問なのだから、子供っぽい質問は受け付けないものだ・・・」そういうとある評論家の文章を読んで、私は少々むかっときたと同時に、その文章で対立して使われている「大人」「子供」という言葉に対して、様々な思いを感じました。「大人」と「子供」の比喩、この両者の言葉ほど、私達が無意識的に、しかし両義的に使っている言葉はありません。

 大学院生から今に至るまで、私の周囲に実に多くの「法学兼哲学者」あるいは「政治学兼哲学」者がおります。これは私が大陸法、とりわけドイツ法の影響の強い世界と関係してきたせいもあるのでしょうが、ドイツ観念論を中心にしたドイツ哲学の世界を「近所」と思い、そして、自らの法学や政治学の専門を補強し、ある種美学的な色彩を与えるものとして、「哲学」という言葉の近くにいるのだ、という主張をしていたように思われます。

 しかし、「法学」や「政治学」が哲学と根源的に結びつくという前提に、多少なりとも両者を知っている(つもりの)私はまったく賛成いたしかねます。これはどうも法学・政治学の方の思い込みだけではなく、哲学の側からもそう思い込んでいる方がいるようです。つい最近も、私はある有名な哲学サイトの論文に、刑法学や民法学の因果関係論の蓄積が、哲学上の錯誤論に生かすものができるように思われる、というくだりを読んでいささか辟易としてしまいました。そこにあるのはある種の「教科書主義」です。民法と哲学の教科書主義の相互交流、ともいえましょう。よほど法学の現状を知らないまま、こういう主張を展開しているのです。
 「法とは何か」という問いが「人間とは何か」という問いという面において、やはり「人間とは何か」という問いと結びついている、というふうなことは、近代にさしかかったときに、法学の任務からはずれてしまっているのです。賢明な法学者の多くがそれを指摘しています。ドイツの法学者キルヒマンは、わずか数語の前提を失えば、法学はただちに崩壊し、裁判所の判例とその解釈しか残らない、といい、事実上の法学無用論を展開しました。これは法学に限らず経済学においてもそうなのですが、各学問の一般人、「法律人」や「経済人」というものの仮説から、法学や経済学はなかなか動かないようになっているのです。
 
 因果関係論ということでいえば、法学と哲学の違いとはこういうことです。たとえば法学でよく論じられる因果関係論というのは、「Aの過失で火災が発生した」というとき、原因と結果の間に、Aにどれくらいの責任を帰する必要があるのだろうか、ということが問題になります。Aの過失と火災の原因の間に結びつきがなければ、Aは無罪(無責任)になります。しかしこの議論自体がまったく「哲学的」ではないのです。
 まず第一に、「すべては起こりうるべくして起きた」という問いが、法学の因果関係では存在しません。Aの過失という行為の前提であるAの「意思」のあるなしの問題です。
 近代にさしかかるときに直面した哲学の大問題にして大難問が、「意思」が脳内のタンパク質の反応にすぎないかもしれないということ、つまり「自由」というものが人間にはないかもしれない、ということだったはずです。この大難問への危機感が近代哲学の始まりにもなりました。私達は自由に振舞っているようで、この自由がすべて、自然科学的に説明しつくされてしまうような「単なる必然」ではないだろうか、という衝撃的な疑いに、デカルト、ヒューム、カントたち近代の哲学者はひとしく従い、その難問に挑んだのです。
 つまりAの過失も、原因発生(火災)も、すべて起こりうるべくして起こった(のかもしれない)ということが哲学的な因果関係論である、ということになります。意識の自由と不自由について、そして意識とは何か、自由と不自由とは何か、について、それが「ない」ということまで含めて、延々と議論しなければなりません。しかし、法学の因果関係論というのは、Aの「意思」や「自由」ということは当然の前提として、その後の条件説(あれなくばこれなし、の立場。判例の見解)と相当因果関係説(事情の相当性を広範に考慮すべきという立場。学説の見解)についての図式的対立に、徹底して移行していくことになるわけです。「ない」ということも含めての議論と、「ある」ということを当然のこととしての議論では、どだい、話がまったく別世界なのです。
 もし「意思」を法学が完全に疑いはじめたらどうなるでしょう。法は国会・民衆の立法によって作成されるものですから、民衆の「意思」はないかもしれない、という議論に陥ります。民衆の意識のあるなしを議論する意思決定論というのが憲法学や政治学の分野でもあるにはありますが、しかし、そういう民衆意思論も、個々の意識の「自由」に遡行して議論するということまで至ることはありません。それはたちまち法学否定論、政治学否定論になってしまうからです。
 ここで私は再び「兼哲学」者という、私の周囲の気取っていっていた人間を思い出します。彼らはどうも、「哲学」という言葉を錯誤して使っていたというふうにしか思えなかった。法学者や政治学者であるということは、「法学」や「政治学」の定義が明瞭であるために、その言葉の意味するところは明確です。だからこそ、法学否定論や政治学否定論というものもまた明確であるということになります。いかに学問的に退屈でも、その学問の自己防御も明確になしうるのです。しかし「哲学」ということはそうはいえない。だからこそ「兼哲学」者、という曖昧な侵入を許すことも有り得てしまう、ということになります。

 「哲学は何か」という問いは、あまりにも壮大すぎる問いです。しかし少なくともここでいえることは、「哲学」は、いっさいの日常的事象を、「素手」で、徹底的に疑う、ということにあります。自分がぼんやりしていて、「自分」があることが不思議で不思議で仕方ない、そういう経験を子供のとき多くの人間が感じていると思います。自分だけではありません。「意思」についても、言葉で「そう思え」といったわけでもないのに自分の体が動く。これが不思議で不思議で仕方ない。「意思」「思う」「言葉」が不思議で不思議で仕方ない。
 これが哲学の永遠の出発点です。カントをはじめ、世界中の大哲学者はほとんどすべて「子供はみんな、哲学者である」ということは、そういうことを完全に正しく表現している言葉である、といえるでしょう。「子供はすべて、法学者である」という法学の諺が、果たしてどこに存在しているでしょうか?哲学は仮説や条件の了解をいっさいもたない無前提的なものなのです。「無前提とは何か」ということさえ考えうる世界である、といえましょう。だからこそ意外に無防備的であって、「兼哲学」者、という表現も許してしまうことがあるのです。にもかかわらず、近世ヨーロッパの文科系学問がかつてすべて、神学と哲学から生じたということ、ほとんど私達現代人が忘れてしまっていることだ、ということもできるのです。
  反面、キルヒマンの法学無用論を裏返せば、法学や政治学、あるいは経済学といった学問分野は、幾重もの仮説の了解によって成立しているのです。たとえばよく言われる例ですが、「鯨」は、経済学では、経済統計上(捕獲量)は「魚類」として扱われていますが、自然科学上は「哺乳類」です。しかしこのことで経済学が非本質的で自然科学が本質的・根源的であるのだ、という議論がただちに成立するわけではありません。

 しかし、この「仮説」「条件」の量が多すぎるとき、その学問分野が、虚構的な外見を有するということはいわなければならないように思われます。近代法学は、「疑ってならない仮説」「疑ってはならない条件」があまりにも多すぎるようにできあがっているのです。比喩としていうならば、この「仮説」「条件」が、「大人」なのです。
 たとえば「人権」のその由来を自然権的に考える立場(アングロサクソン的立場、日本の憲法学において多数説、護憲派に多い)と、法実証主義的に考える立場(ドイツ法的立場、日本では改憲派に比較的多い)が対立しています。しかし「人権」という仮説そのものを疑うことは、法学上許されないのです。ではたとえば、です。「宇宙人」という知的生命体が現れたとき、その「人権」はどうなるのでしょうか?あるいは地球の未知の世界に、人類とほとんど同じ知力をもっていて、しかし別系統に属する生命体が発見された「人権」はどうなるのでしょうか?
 私の問いは少しも馬鹿げていません。コロンブスやガマ、マゼランたちが近世、世界のあちこちに出かけて未知の世界に出会い、様々な人間たちに会ったとき、キリスト教世界の人々は、その未知なる人々が彼らの基準での「人」かどうか大騒ぎしました。現代人からすればまったく骨稽です。しかし彼らキリスト教文明の衝撃や論争は、おそろしく真剣でした。私がいいたいのは、そのときのキリスト教世界の依存していた「人」と、近代法学の「人権」は、「仮説」や「条件」に規定されて世界をみつめている、ということにおいて、同じものをもっている、ということです。両者が違うのは、前者は歴史上直面したやむをえないことであるのに対し、後者は、近代人が自らつくりだした世界の中にすすんで後退して世界を狭くみつめることで起きていることではないか、ということにあると思います。
  冒頭の「法学は大人の学問である」という苛立たしい言葉の中での「法学」という言葉を、私はそのように考えています。これは実証主義的な解釈ではなく、比喩の問題です。この喩えの中において「大人」は幾つもの「仮説」と「条件」の中におかれて、その中でしかものを見ることのできない存在、というふうにいえるでしょう。もちろん、キリスト教文明に賢者がいて、そして近代法学にも例外的な賢者がいるように、「仮説」「条件」に、意識的に身をおいている「賢い大人」がいる、ということもまた、間違いありません。そして「子供」とはこれらの比喩の中にある通り、無前提的にものをみることの出来る存在、というふうに「大人」に対置することが可能でしょう。「知」の世界において、「大人」と「子供」の意味は、そのように囲い込まれる言葉というべきなのでしょう。
 
 学問分野のアナロジーの比喩の世界から現実へと「大人」という言葉を少し近づけていってみましょう。
 私は「大人」という言葉を、「仮説」「条件」を背負って、無前提であることを忘却した存在である、というふうにいったんはとらえました。ハイデガーは「死」について、「葬式、墓、その他のくだくだしい形式に逃避する」という言葉を通じて、それらの形式を、存在論の根源である「死」の問題を忘却させるものとしていっている。言い換えれば「葬式、墓、その他のくだくだしい形式」というのは、非哲学的状況だ、ということです。子供は葬式や墓にも無知ですが、「死」に対しての存在論的関心は、大人の比べ物にならないものがある、ということ、すなわち、「子供」の比喩は、哲学にとってたいへんふさわしい、という公式がここで確認されます。
 しかし「子供」の比喩というのは、私達がそういうふうに思うとき、現実的には大人になっている私にとっての固定化された意味になってしまっている、ということはいえないでしょうか。たとえばサルトルは「自分のポケットには、労働以外の精神を純粋に見つけたことはなかった」という、左翼エリート気取りの言葉を、40過ぎになって臆面もなく吐いています。サルトルという人は政治的立場はまったく賛同できない人物ですが、哲学ということに関しては、疑いようもなく正真正銘の哲学者です。ではこのサルトルの気取りの言葉は、正真正銘の哲学者としての彼がいった「子供」の言葉なのでしょうか。私にはそうは思われません。
 私達は多少の努力をすれば、「子供」の視野の世界を知ることができる、というふうに思っています。しかし本当に懐疑的な思索的立場を採るのなら、こういうふうに思うことそのものに対しても懐疑的でなければならないのです。「大人」でも「子供」のいずれでもなく、「子供になりきったと思い込んでいる大人」になるとき、その人間の言説には「アダルト・チルドレン」の比喩がまったく妥当することになります。もちろん、「アダルト・チルドレン」を「子供っぽい行動をする大人」というふうにとらえることは、精神医学や心理学的には誤用ですが、私はその誤用を承知で、あえて比喩としての「アダルト・チルドレン」という言葉をここで使いたいと思います。
 
 サルトルの左翼気取りの言葉は、哲学的精神ということが左翼政治化したときに、アダルト・チルドレンの比喩へと転落した典型に他ならないでしょう。「仮説」「条件」から自由であれ、といいながら、それらから少しも自由でなく、しかし自由になったと思い込んでいること、それがアダルト・チルドレンの比喩にあてはまる人々であり、あるいはその思想ということになります。
 サルトルという人はコミュニズムを強力に主張しながら、一度も階級的労働に従事したことはありません。それ自体は少しも問題ではありません。しかし、従事したことがないのになぜ、「自分のポケットには、労働以外の精神を純粋に見つけたことはなかった」などということがいえるのでしょうか。子供でもないのに子供っぽくあってもいいというふうに、サルトルがどこかで決定的に誤解しているままだ、というふうにいえるでしょう。
 私のみるところ、二十世紀の左翼革命や平和主義の大半、近年はナショナリズムの主張の少なからずに至るまで、サルトルの気取った言葉の延長にしかすぎない「アダルト・チルドレン」の比喩から一歩も出ていないと考えなければならないでしょう。あるいはこの世界全体が、「アダルト・チルドレン」の比喩に満ち溢れた世界だ、と断じなければならない現状があります。ワイドショー文化の堕落的状況など、まったくそのことにあてはまるといわなければならないでしょう。こうして世界の文明論や教育論の大半が、「仮定」「条件」の復活、すなわち「大人」という意味の復活ということを一からやり直さなければならない段階にある、ということになってしまいます。多くの政策的正論が、まるで、法学や政治学の退屈さのようなものをもってしまうのは、やむをえないことだ、といわなければならないように私には思えます。
 しかし「大人」という言葉の比喩、意味合いということは、果たして「子供」とのアナロジーにおいて、否定的にとらえ続けられなければならないものであるのでしょうか?

 カントの「実践理性批判」で、彼が主張する有名な倫理法則に「嘘」論があります。この「嘘」論はカントの哲学の大きな欠点として言われることが多いのですが、要するにこういうことです。嘘は絶対についてはいけない。たとえば凶悪な政府に追いかけられた善良な人物が「かくまってくれ」と頼んできて、そののち、凶悪な政府の手先が家にやってきたとき「やつはいるのか?」ということをいったときでも、嘘をついてはならない、とカントはいうのです。もちろんこのカントの倫理法則は、キリスト教の戒律に由来しています。カントの言うとおりのことをしたら、歴史も現実も、私達の世界の人間的なるもののいっさいが崩壊してしまうのは明らかです。
 カントのいうことは明らかに異常です。しかし、「いかなるときでも偽証してはならない」というキリスト教の戒律について、子供のときに悩みぬいて、そののちいつのまにかその悩みを忘れていった、というクリスチャンの方は、実は案外多いのではないでしょうか。「いかなるときでも偽証してはならない」というキリスト教の戒律もまた、異常なのです。キリスト教の「嘘」の戒律の異常が照らし出されるのは、子供の徹底的な正直な精神によります。あえて、異常なることを守り通すべきだ、という信じられないことをいうカントは、「嘘」をめぐる倫理の不可思議さに、徹底して向き合って、その実質を炙り出しているのです。すなわちカントは「子供」の比喩がそのままあてはまるような正真正銘の哲学者だ、ということができるでしょう。
 しかしカントがそういう人間だったとしても、正真正銘の「子供」を貫くことのできない大多数の大人たちはどうすればいいのか、という問題は残ります。「子供のときはそういうふうに通過儀礼的に思えばいいのだけれども、大人になったらある程度の嘘をつけばいいのであり、聖書の戒律なんていうのはあくまでタテマエだと思えばいい」というふうに、聖書から「仮説」「条件」を切り離して、都合よく、キリスト教のエピソードに涙して、しかし生きている限りにおいて、何も戒律そのものの齟齬に悩まないからっぽな立場を選択するでしょう。これこそが「アダルト・チルドレン」的な対処そのものに他ならないのです。

 私はここで、我が国のある哲学者がその生涯を取りあげて論じた、イタリアのノーベル賞作家、ピランデルロについての話を考えます。ピランデルロは20世紀最大のイタリアの劇作家ですが、独裁政権であるムッソリーニ政権に協力し媚を売りながら、その創作活動を継続した、ということで、その「二枚舌」の巧みさを非難されたり、皮肉な褒められ方をされたりしている人物です。
 こうした月並みな批評というのは、たとえばスターリン体制下での凄まじい血みどろの弾圧下で、後世や西側世界にも確かな存在価値を残す作品を書いたショーロホフたちある時期のソビエト作家や、あるいはナチス占領下、創作活動を継続したヴィシー・フランスの知識人たちへの批評にもたいへんよくあらわれます。「彼らは二枚舌をつかって切り抜けたのだ」ということが非難や皮肉を伴うのは、取りも直さず、彼らが巧みに「嘘」をついた、つまり巧みに「悪」をなした、ということの前提があるからに他なりません。
 しかし、「二枚舌」「嘘」論は、ピランデルロの生涯を前にすれば、まったく意味をなさない議論なのです。実はピランデルロの夫人は、生涯を通して、すさまじい精神錯乱の病に取りつかれていて、ピランデルロ自身は、生活上、「もう一つの自分」を演じることで、夫婦の崩壊の危機を、彼の人生最後まで切り抜けた人物でもあるのです。彼の生涯の上でのこの継続的な事実の存在は、どれほど強調してもしすぎることはないというべきでしょう。そんな彼を「嘘」をついた人間、「悪」をなした人物、といわなければならないのでしょうか?
 ピランデルロが、カント的な「子供」でないことは明らかだというべきです。カントが20世紀にあったら、ピランデルロを非難したのは明らかです。しかしピランデルロの「嘘」は、一つの精神が犯した一つの犯罪的行為では断じてありません。そして私が本稿でいってきた「アダルト・チルドレン」の比喩にもまったく該当しない、といわなければならないでしょう。
 彼は、私が「大人」の比喩のときに述べた、「仮説」「条件」ということを、たっぷりと喰らっている人物です。結果としてなったピランデルロの「大人」の正体を暴くことは、どうにでもできることです。しかし、「大人」であることを演じることを生涯選択し、そしてその選択をしたことを謎として生き続けた彼の精神というのは、実はそれもまた、「大人」としか表現できない何か、なのではないでしょうか。

 ピランデルロがもし自分の二面的性格を正面からに反省して「一面的人間」になり、妻との離縁をしたりあるいは自殺や亡命を選択する「正直」を選んだとしたら、彼は私にはまったくの「アダルト・チルドレン」にしか思えません。自分の中に幾つもの「自分」があるかもしれない、というきわめて哲学的問いを知らない間に放棄して、「正直」さ、という上っ面だけの「子供」を選んだ気持ちになっているからに他なりません。「嘘」を安易に批判する大人というのは、大概、自分がもっている幾つもの自分、という本当の精神的闘争状態をまったく放棄しているものです。
  あるいは「悪」にぬるま湯的に溺れる、ということもまた、アダルト・チルドレンの比喩がふさわしい。「悪」や「大人」がきわめて強い誘惑的存在として迫ってきて、それを受け入れるかどうかというような段階においては、それは漫然と法学や政治学の専門主義者として型どおりの専門語を話し続けるだけの存在を選ぶことと同じで、何でもない存在なのです。
 カントならば、ピランデルロ的状況、あるいはショーロホフやヴィシー・フランスの知識人の状況に直面したら、いかなる言動を採るでしょうか。少なくともいえることは、「子供」は、存在の不条理そのものを懐疑する精神は有することはできても、存在の不条理を受け入れる精神の勇気を有することについては、「大人」に劣る、といわなければならないように思える、といえます。
 私達はここで「宿命」という言葉に耳を傾けなければならないでしょう。狂気の妻をもった夫として、そしておそらくファシズム体制下の知識人として生きることができた、そうした生きていく上での「仮説」「条件」は、惰性的な時間の彼方からやってくるものではありません。やむをえざるものとして、彼に襲いかかってきたのです。彼は「大人」にならざるをえなかった。子供の振りをした大人、というものがある反面、大人にならざるをえない大人、そういうものもまた、「大人」の世界にあるということは疑いようもない、ともいえます。
 「子供」の世界や比喩をいくら敬愛しても、大人になってしまった私達は結局は「子供」の世界に戻ることはできないのです。ある意味で虚構的人間そのものをつくり出す、時として「悪」そのものでさえある「仮説」「条件」を受け入れなければならない宿命を受け入れること、それが「子供」か「大人」か「アダルト・チルドレン」か、ということのさらに先にある「大人」の意識である、ということなのでしょう。たとえば世の中のいろんな不条理に直面して「無」になりたいとして毒物をあおるのは、私には単なる悪しき「子供」、すなわち「アダルト・チルドレン」にしか考えられません。大人という虚構的人間になるという「仮説」「条件」、さらに自分の中の謎、さらに悪を引き受けるという本当の意味での「大人」がそこにはまったく感じられないからですね。不条理だったら、不条理をこそ引き受けるのが、本当の「大人」だ、というふうに私は考えます。
 こうした主張に対し、世間的評価における「悪人」もまた時として「大人」なのか?という反論がただちに寄せられるに違いありません。然り、と私は答えます。世間で主張されている「子供」と「大人」の図式的倫理主義のほとんどは、子供が大人になるに連れて、悪人でないことを選択するようにつくられていく、ということを語っているにすぎません。私はこのような「悪人」論にはまったく組しません。私にしてみれば、「悪」とは、大人的世界に至る「仮定」「条件」の極限的な形態です。それをあえて受け入れる人間こそが、究極的な「大人」である、という可能性を、私達はどこかで保っていなければならないでしょう。
 聖書をひらくと、優れたリアリストであり、ひょっとしたらキリストとひとしい聖なるものをもっているやもしれない悪魔が、ついにはキリストに論理的に打ち負かされる場面が色々と出てきます。悪魔がなぜキリストに敗れるのか、それはよく考えてみると、非常に謎めいているように思えてきます。しかし、私がここで少し触れてきた「大人」と「子供」のアナロジーからすると、少々わかるような気もしてくるような気がします。悪魔が「軍団だ」というときがあります。「軍団」とは私には、個でない人間の、群れるだけの人間たち、というふうに聞こえる。あるいは悪魔はキリストの奇跡を試そうとする。悪魔にしてみれば奇跡が証明されるような精神なら受け入れ、奇跡が証明されないような精神ならば認めないという、数学公式的な世界観がある。実は不条理を受け入れようとはせず、そして矛盾するように聞こえるかもしれないのですが、「悪」を受け入れようとさえしないのが悪魔なのです。キリストは不条理のいっさいを受け入れて、そして一人の人間として、神の子であるにもかかわらず死ななければならない、そして「悪」の可能性でさえある神の言葉を受け入れようとする、私が考えるところの、真の「大人」なのではないでしょうか。そのアナロジーにおいて、悪魔が「アダルト・チルドレン」に過ぎない存在であることは、いうまでもありません。
 

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