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「古典」の世界について
酒を嗜むようになった今でも、いまだに好きなので、コンビニエンスストアやスーパーで、注意がいくことなのが、今の時代、炭酸系のドリンクの種類の多さというのは本当に大変なものがあります。ドリンク業界全体からいえば、それ自体で客観的な健康価値や健康効果を認められている健康系のミネラルウォーターや健康飲料も非常に多くなっていますが、そういう健康ブームとは別個に、栄養価的には糖質にしか過ぎないのに、炭酸飲料が売れ続けているというマーケットの現状があります。
  自分が好きで知っているからいえることですが、その種類の豊富さ、品質のレベルは、「本場」のアメリカに比べても、我が国の炭酸系ドリンクは、本当に相当なものであるということがいえるでしょう。日本の炭酸系ドリンクの種類の多さは、間違いなく世界一であるということができます。当然、商品の入れ替わりも毎年のように激しい。実に大変な競争です。 けれど、そういう目まぐるしい入れ替わりの中で、ほとんど「古典的」といってもいいくらい、昔から変わらないで売れている幾つかの種類の炭酸系ドリンクがあります。
  とあるテレビ評論家が出版不況を概括して「結局、出版では古典が一番儲かるんだよ」と実に正しいことを言っていました。つまり、一番儲かる出版方法というのは、厳密にいえば、古典をつくりだすという努力をする、ということになります。しかし、出版業の世界ではそのような努力をしているとはいえないでしょう。「古典」への距離が、あまりにも遠くにあるような気配が完全に支配している。「古典」の重要さは、食品販売の世界、炭酸飲料の世界でも全く同じです。しかし、こちらの世界においては、「古典」というものが、出版業よりもずっと身近で、努力すればそれを編み出すことができるという意欲がたいへん明瞭に残存している、というふうにみえます。
 コーラと出版物の世界を比較考察して、「古典」というものを共通して見出そうとすれば、相当な人に笑われるかもしれません。しかし、マーケットメカニズムの世界の中での私たちのイメージ的存在ということからすれば、両者に区別を設ける理由は少しも見当たりません。

  炭酸飲料の「古典」商品の一つにコカ・コーラがあります。炭酸系ドリンク系古典中の古典、筆頭格の古典、といっていいかもしれません。私はこのコカ・コーラが七歳のときから大好きで、真冬でも飲み続けたのですけれど、それだけの「古典」というとになると、日本の戦後の各時期に実に色々な象徴性を背負い込んでいます。世代的にも、私は70年代初め頃の生まれで、「ハンバーガーとコーラ」の時代、とそれ以前の世代から言われるような世代で、幼少の時からもうぜんぜん抵抗なくコーラを飲んでいて、自分の幼少時の頃の記憶の多くが、「コーラ」とともにあるような気さえするくらいです。これはコーラがアメリカ由来とかという史的考察とは少しも関係ないことです。
  戦後の一般大衆より一足早く、連合軍の捕虜収容所でコーラを飲まされた人たちの少なくない人達は「煎じ薬のような、ヒリヒリする、黒い甘い水」とその味を形容したそうです。美味しいものではなかったわけです。「美味しい」という言葉は分析的言語ではない、ということです。緑茶にはじめて出会った鎌倉時代の人間はお茶を「苦い緑色のお湯(水)」と思ったでしょうから。分析的言語でないからこそ、「美味しい」という感情的原理は私達の生き方を規定してくれます。
 嗜好品というものはどんなものでも、分析的言語を拒絶するものとして存在を許され、そして存在しはじめる。その先に、象徴性の確保の段階があります。象徴性を得た嗜好品ともなれば、もうどんな人でも、自分の人生の色々な場面を「そのものとともにあった」と説明したがります。私たちは「時代」というイメージを得るときに、嗜好品の象徴性と濃厚にある。それは近代においては特にあてはまる事象です。「古典=クラシックス」という言葉はそもそも、「正統派」という意味ですが、時間的・時代的正統性なものをつくりだすことに、書物の「古典」も、大衆的商品の「古典」も供される、というふうにいえるでしょう。

  「河」に関して、シーザーがルビコン河を渡りナポレオンがニーメン河を渡ったことに関して、「ルビコン」や「ニーメン」というふうな言葉を「河」と関係のない様々な場で使うように、私達は物質を象徴化し、その象徴化によって、文化の基本である比喩の基本を得つづけることができます。飲み食いするものに関しては、あまりにも身近なせいで、私達は膨大な人生の各段階での象徴化を、その対象に施しますが、気づかないでいることがたいへん多いといえます。この象徴化の意味作業が、ある意味で私たちのすべてだ、ということができます。
  いろんな場面で、私は「コーラ」をシンボリックに回想できます。言い換えれば、「コーラ」のおかげで、私は人生の幾つかの部分を確かに、回想することができる。
 たとえば、中学生の時の買い食いには必ずコーラの「晩酌」をつけました。あるいは「将来お金を稼ぐようになって何を最初に」という小学生教師の問いに「コーラ」といって爆笑された。その晩悔しくて、酒をコーラにまぜて、アルコール初体験をした、などなど。だからといって(味覚)以外で、何でコーラをそんなに飲んだの?という問いに、私はどうも答えられない。「ハンバーガーとコーラ」の時代という喩えが言おうとしている時代の軽々しさということとは別に、「ハンバーガーとコーラ」の時代と言われた私達の世代でさえ、そういう「象徴性」とともに「食」というものがあって、それが人生の意味を形成してきたのだ、ということです。

 こういう文化論的考察はジャンクフード的なものに群がる子供達を純粋に健康面から批判する言論ということとはまったく方向性を別にすることです。「食」の世界は大人になってしまった私達が考える以上に広い、ということは、そういう意味においていえることです。たとえ世界でもっとも客観的に健康に対応しない「荒れ果てた」食文化においても、「象徴性」と「比喩」の世界をつくりだしていく意味のプロセスを見出すことは可能でしょう。
 しかし、こうした文化論的なプロセスを基本において見据えても、現代の「食」文化のいたるところに、「古典」なるもの、というものが以前に比べてずっとその力を弱めてしまっているのはどうも事実のようです。コーラのような炭酸ドリンクのクラシクックスの生産は、商品が多くなればなるほど、少なくなる傾向に陥っています。私は書物・出版の世界と比べてみて、大衆的食品の世界の方がずっと、「古典」の力を保つ力が残っている、といいましたが、それは相対比較でいえることで、やはり、その「古典」力というものは、ずっと弱くなってきているのは事実なのです。
  もちろん、コーラは依然として売れ行きを維持しているけれど、コーラという「古典」と同じくらいの売れ行きを示す商品が一年や二年の範囲で猛烈な勢いであらわれては消えているという激化した競争の現状に加えて、いわゆるコンビニ文化で、いろんな食品が70年代や80年代に比べて信じられないくらい簡単に時間的・空間的に入手できるようになったことで、子供達はもはや、自分の人生の記憶と「食」を結びつけるということを失いつつある、ということです。「古典力」ということは、「軽さ」ということとは常に全面対決しなければならない宿命をもっています。大量生産と過剰競争という原理をそもそももっている資本主義の世界では、「古典」を生み出す、ということ自体が一種の背理なのですが、その背理の成立の微妙なバランスは崩壊に近くなっています。「古典の不在」という現象が、ドリンクの世界においても進行している、というふうな言い方ができるでしょう。
 
 「古典の不在」ということを、もう少し広げて考えてみましょう。
 たとえば数年前、サッカーの国際大会の場での、中国人サポーター達の、ものすごい乱暴な応援も仕方は多くの日本人の記憶に新しいことだと思います。まるでサッカー競技場が「戦場」になったかのような騒ぎです。ああいうやり方はもちろんとんでもないことであり、国際政治的には、厳重に抗議するべきことです。彼らが政治的力によって煽動されて、ああいう行動に走ったという非難な指摘も、まったく正しいと思います。
 しかし、私はあの狂乱を見つめながら、「競技に熱中する」とはどういうことなのか、ということを、ちょっと別の角度から考えていました。あのあまりにも乱暴なサポーターにとって、何かの「象徴」が、果たして、「競技」との間にあるのだろうか、ということです。つまり彼らがああなってしまうことについて、何かが存在論的に欠けているのです。
 あの世界は国技だ、国家的行事なのだ、と大真面目に彼ら中国人サポーターはいうかもしれません。「だから、私たちは戦争の一種だ」というふうに彼らは思い込んでいる。けれど、国技であり国家的行事と立派なことそのことのみで、「競技」の世界に没入することが果たしてできるのかどうか。「競技」というものは、競技自体の周囲に、もっと非常に俗的な、はっきり言ってレベルの低いことを伴うものなのではないか。だからこそ、私達は何気なく、人生のいろんな段階で、それを私たちは「楽しむ」ことができるのではないか。実は中国人サポーターの乱暴というのは、そうした俗的な象徴を見失ってしまっているからこそ、歯止めがきかないものになってしまったのではないか。そこに、「競技」の世界の様々な象徴性というものを見失っているからこそ、彼らは神聖な「競技」の場を「乱闘の場」と考えたのではないかという解釈を考えることができると私は思います。ゆえに、私たち日本人は、「だから、私たちは戦争とは違う神聖な場所だ」と考えている、というふうにいうことができて、中国人サポーターを非難できるわけです。
 時代はずっと以前、ずっと個人的なことへと遡ります。子供の頃の私は、阪神タイガースの小林繁投手がヒーローインタビューでコーラを呷るのをみて、阪神ファンでもないのに、それがどうしても忘れられなかった。「小林投手がコーラを飲むこと」が、自分が野球をやったり観戦したりすることの意味の一部になってきたわけです。裏返すと、「コーラ」が試合の最初から最後まで一本も視野に入ってこないと、私はその「不在」にひきつけられてしまい、どうしようもなく不自然な感じになってしまう。
 「コーラ」という一風景だけではありません。一見すると「競技」とは何も関係のないようなガムをプロ野球選手が噛む場面というのも、忘れられない。コーラやガムのような「食」だけではなく、勝敗には無縁のようなボールボーイの仕草、ベンチの中のバット置き場、そういう膨大な中間的現実の総合が、実は私たちの「野球」というものの意味を形成してきた。こうした「中間的現実」と言い換えてもいいようなものを見失うとき、中国人の暴力的サポーターのような、「勝敗」そのものしかないような世界に、「競技」の世界は転落してしまう。中国人サポーターの頭の中には、「コーラ」のような、象徴性の存在の世界、象徴性の不在の世界はおそらく全くないのです。

 すなわち中国人にとって、競技場の世界では「古典が不在」だということができる。象徴性を見失い、世界を象徴化する、ということが遂にできなくなったとき、人間は極度に「単純」になってしまう。中国人サポーターや現代のキレる日本の子供達は、単に、勝敗その他の対象に向きあっているだけであるように見えるように思われますが、それは膨大な情報量や知識量とはまったく関係なく、人間が「単純」になっていくことを意味します。
 この反対に「単純でない」スポーツのファンやサポーターというのは、余裕をもって競技そのものを観戦する人達のことをいいます。しかし、こうした「単純でない」「余裕」というものもまた、理想的な人間像といえるかどうかについては、実は相当に考えるべきところがあります。私たちにとって、大衆社会的な「競技」や「嗜好品」というものはいったい何なのか、それを抜きにして、「競技の古典」や「嗜好品の古典」を考えることはできない、ということです。
 パスカルの次の有名な言葉の中に、「競技」や「嗜好品」に熱をあげる人間の精神性の不思議が語られています。

 「・・・数ヶ月前・・・一人息子を不幸に失い、訴訟や争いごとでずたずたにうちひしがれ、つい今朝もがたもあんなにくよくよしていたあの男が、今ではもうそんなことを考えていないのは、いったいどうしたわけだろう。驚くことはない。猟犬どもが六時間も前からあんなに猛烈に追いかけている猪が、どこを通るだろうということを見るので頭がすっかりいっぱいになっているのだ。ただそれだけのことである。人間というものはどんなに悲しみで満ち溢れていても、もし人が彼を何か気を紛らわすことの引き込みに成功してくれさえすれば、その間だけは、不幸を考えないという幸福になれるものである」

  パスカルの言葉が私達をとらえるのは、「偽りの幸福」の中に私達はおくことで、多くのおそろしい不幸を考えないでいられる愚かな存在である、ということと同時に、その愚かさがいじらしい「強さ」でもある、ということを正確にとらえているからです。そしてその「愚かさ」と「強さ」を同時に可能にしているという「気を紛らわすこと」を決して安直に批判することはできない、ともいっているのだ、といえるでしょう。だから「偽りの不幸」という私の表現も、もしかしたら正しいものではないのかもしれません。「不幸」が偽りのものかどうかの判定者を私達は究極的にもたないからです。
  パスカルは「気を紛らわすこと」とはいったい何か、という問いを、深化させてはいません。なぜなら、パスカルの時代は、「気を紛らわすこと」が、明瞭に認識できるほどに、稀少なものだったからに他なりません。現代日本のような「気を紛らわすもの」だらけの時代というのは、パスカルにも想像つかないことだったといえましょう。
 たとえば、「気を紛らわすこと」というのは、自分が直面している不幸な事態とは全く無縁でなければならないことになります。しかし不幸を経験している人間の感性は異常に敏感ですから、対象の些細な変化を感じれば、たちまち、「気が紛れない」ということになってしまう。娯楽や気晴らしがすべて「気を紛らわすもの」になるとは限らないのです。

 「気を紛らわすこと」というのは、自己の在り方というものと、徹底的に関係性が希薄であることが求められるといっていいでしょう。そうしたナンセンス・無意味がゆえに、私達は「偽りの不幸」という精神の場に、不幸から気持ちの離れる自分を置くことができる。ここで、パスカルの言葉の狼と猪の喩えにあるように、他者の「競技」の世界に、もっとも典型的に現れる、といっていいでしょう。なぜならば,他人が存在を賭けているような場こそ、自分の不幸と最も縁遠いというふうな逆説が存在するからに他なりません。
 すると、プロ野球にせよ、国際競技にせよ、「競技場」の世界における、私たちにとっての「古典」の意味ということは・・・それはもしかしたら「コーラ」の世界も・・・私たちにとって「偽りの不幸」の場による、ということができてしまうのでしょうか?

 たとえば、オルテガの貴族主義的な保守主義をベースにおいて、日本の大衆社会化を批判する大衆批判論的保守主義の諸氏によれば、私がひいた、競技世界へのメディアを通じての熱中や、コーラのような軽食の文化などは、大衆社会化の最たるものであって、それが私達の「よく生きること」を貧しくしているのだ、という評価をされるでしょう。
 つまり「気を紛らわすこと」があらかじめいたるところに準備され、私達を「考えさせないように」「感じさせないように」している、それが高度化された大衆社会なのだ、というのが、これらの大衆批判論的保守派の言説です。しかしこうした大衆批判は、ある意味、あまりにも単純な見解だ、といわなければなりません。「気を紛らわすこと」がいっさい否定されて、それによって「濃密な時間」「本質的な時間」が人生的時間のいっさいに敷き詰められるかのように出現する、ということ自体は、コミュニズムのユートピア的人間観と同じく、人間性に関してフィクションです。私たちが「気を紛らわすこと」から解放されたときに、存立しうる理想的人間像がある、と考えれれるほどに私は過激な空想力をもちあわせてはいません。主体と対象の間になくてはならない象徴化ということの作業から離れてしまっている、というときに、私達はいつのまにか「気を紛らわすこと」に包囲されてしまっていることを感じなければならない、ということが問題だ考えるべきでしょう。「軽さ」そのものということと、「軽さを扱う精神的技術」を混同するべきではなく、後者は悪しきものではないのです。
  本当の「気を紛らわせること」はもしかしたら、ローマ時代のコロッセウムのように、限られた「暴力の場」ということを意味するのかも知れません。あるいは「食」ということならば、ローマ時代にも時折流行したという、私達の健康や存在と無関係な「暴食」ということになるのでしょうか。やはりそれもまた、限られた「暴力の場」といえるでしょう。つまり自分と世界のかかわりを希薄にしてくれるものだからこそ、暴食という「気を紛らわせるもの」として存在する。そして「気を紛らわす場」への渇望というのは、実は私達の深い「欲望」ということができると思います。「欲望」ならば、その限界点を見定め、それ以上大きくしないような歯止めが必要であり、限られた時間と場に閉じ込めておかなければならない、そう考えなければなりません。
 
  「気を紛らわせること」が「欲望」の一種であって、それを際限なく解放するという方向になぜ向かってしまったのか、ということを考えるならば、それは、不幸を直視する能力を失うように、不幸を直視することが苦痛であってその苦痛を減らすことが、まるで現代文明の一つの方向だ、というふうに考えたから、といえましょう。
 直視しなければならない最大のものは、自分の「死」という絶対的不条理ですが、「死」について考えないというために、様々な「気を紛らわすこと」を私達は発明のようにして、考えてきました。ハイデガー流にいえば、「墓」とか「葬式」すらが、それに該当する、ということさえもいえます。しかし、それをあくまで、ある程度の限定的なものにとどめるということを見失わないようにすることで、私達は「気を紛らわすこと」の際限のない氾濫に対して、それを制限し、防御的になることができてきたのだ、といえるでしょう。究極的に「気を紛らわす」ことをしてくれる「墓」や「葬式」が私達の理想であるという欲望に対して、私達は禁欲であらねばならないという最低線を、文明の原理とすることを忘れないできたから、です。
 「気を紛らわせること」を徹底して厳密に考えれば、死について哲学的に考察することだって、死という事象や行為そのものでないのだから、それも「気を紛らわせること」になってしまう可能性を避けて通ることはできません。死を直前に控えた人間の娯楽的な行為にしても、それは確かに、気を紛らわす行為、なのかもしれませんが、しかし、行為者の意識状態からして、本当に死を忘却しているとはいえないし、そのような行為が、逆に死を美しい行為としてより塗り替えるということさえあります。つまり私たちは、「気を紛らわせること」そのものについて、それが「必要毒」であるという認識が必要なのではないか、と思います。

 にもかかわらず、現代社会は・・・とりわけ日本において甚だしいように思えますが・・・それを果たして、限られた場にとどめている、という戒律をつくれているのかどうか。それどころでなく、社会全体をほぼ「気を紛らわせること」の世界にしてしまう、という欲望に従って、どんどん社会をデザイン化していっているのが現状である、といわなければならないでしょう。
 自分の子供の受験競争一つとっても、それが子供の自己実現という親の重大な目的であると同時に、死に物狂いの他者の「競技」への観察という、「気を紛らわすこと」の一種になってしまい、その関心のやり取りということが、「気を紛らわすこと」のやり取りになってしまうという袋小路が存在している、ということもいえるのです。子供の受験競争に真剣に直面した親ならば誰しもが一度は感じたことではないかと思うのですが、自分の子供と競争相手の子供の間の相対的な比較に、卑屈な感情を感じてしまう、これこそが実は私達が気づきにくい「気を紛らわすこと」の一つである、ということができるでしょう。古代の世界では、競技場の世界にとどめられていた「気を紛らわすこと」が、無制限に解禁されたのが、現代という時代なのです。
 「気を紛らわせること」がもはや能動的や選択的でなく、受動的で非選択的であるように、もしこの世界がなっているとしたら、私達はある種の底なし地獄にいる、という指摘が可能でしょう。「気を紛らわせること」についての「古典が不在」である、ということは、古典(正統派)が存在しない以上、非正統派も存在しなくなり、何もかもが等価値な「気を紛らわすこと」の洪水と反強制の中で、一生、「気を紛らわす場」を強制されて生きたら、悲劇も絶望も感じることができず、私達は生まれたときから死ぬことを、じっと待っているだけの存在に成り果てたことを意味するからです。おそらく大衆批判論的保守主義の諸氏は、この現象について大衆社会を批判しようとしているのに、おおざっぱに、「気を紛らわせること」そのものを批判する、というふうに批判の対象を取り違えてしまっているように、私には思われます。

パスカルが墓場から現代の日本によみがえったら、何というだろう、と私はふと考えます。99パーセントの日本人が、彼を何らかの「気を紛らわす場」で接待することを考えるでしょうから。数多くの「気を紛らわす場」の案内を繰り返される中で、「気を紛らわす場」の疲れを癒そうとするのもまた「気を紛らわす」場での時間であるということになるでしょう。おそらくパスカルは最後は「散歩」したいと言うに違いないと思います。しかし彼はそこで、本当の意味で「散歩」している人間が日本という国にいないことに唖然とするに違いありません。
 サルトルはかつてアメリカを初めて訪れたとき、「この国では出歩いている人はいるが散歩している人はいない」と言いました。つまり真底、ぼおっとしていることが許されない、ということです。この世界に不意に生まれて不意に死んでいくその自分を見つめるだけの、最高にすばらしくしかし最高におそろしい個人的時間を避けたいという「欲望」が支配する国、それがサルトルのみたアメリカという国だったわけですが、しかし私は日本中にあふれかえる薄っぺらな余暇や旅行ブームを見るにつけ、日本もまた「散歩している人間のいない」国に成り果ててしまったのではないだろうか、と思います。こうして散歩する気持ちにもなれなくなってしまったパスカルは、「パンセ」で述べた自分の言葉に、何かを付け加えることをしようと考えるのではないでしょうか。
  ここで一度確認しましょう。「気を紛らわせる場」というのはせいぜいのところにとどめておかなければならない。そうでないと、私達の人生の時間の大半が、気を紛らわせるという、つなぎの幸せの時間の維持に費やされてしまって、私達は死や虚無、様々な絶対的不幸に気づかないままいつのにか人生の黄昏を迎えるという、本当の不幸に出くわしてしまうことになります。具体的に言えば、「競技」を精緻に分析し、一瞬の勝敗をあやつる技術を論理的に語れる人が、「勝敗に負けて自殺することは悪か善か」という問題には答えられないに違いない。
 歴史学者の会田雄次は私達が言う「武士道」という意味は江戸時代という熟しきった平和な時代に再構成した「擬似武士道」であって、本当の武士道はもっとずっと生々しい、存在をかけたの血みどろの対決の中に、生涯数度くらい、ギリギリの状況で、ふとした形で現れるものである、といいましたが、同じようなことが、「競技」に浸りきっている私達にいえる。「気を紛らわせること」が、そのことそのものより遥かに醜い姿をみせるのは、「勝者」と「敗者」の間に起こる慇懃な礼儀のやり取りです。

 マンデヴィルは勝敗によって生じる、勝者と敗者の間に生じる様々な心理的交わりを残酷なほど分析し表現していますが、実はマンデヴィルが言おうとした「勝敗」の世界というのは、決してギリシア時代の闘争精神を磨く競争の場のことなどではない。「気を紛らわせる」場での「競技」という擬似「競争」の世界の、勝者と敗者の間に起こることなのです。そこには武士道や騎士道といった偉大な精神が生まれる余地は全くない。
 このことは進学高校に在籍した私には、実に痛切に理解される。その「競技」の場には驚くほどの数の驚くほど薄っぺらい擬似武士道や擬似騎士道が演じられていました。たとえば毎月不必要なほどに繰り返される試験の成績の上下の中で、(さすがに高校生ですから)「成績」や「知識」が私達の人間性そのものとほとんど関係ないことを認識していながら、あるいは受験そのものから時間的に遠ざかっている段階で、大学受験そのものとも関係がないと潜在的に認識していながら、私達は「気を紛らわせること」の競技場の中におかれていた、のですね。受験そのものとすら関係がないかもしれない「受験勉強」の地獄です。「こんなことがいったい何のためにあるの?」という問いを発することさえ許されないような、競技場の地獄絵図です。数十分もすれば忘れられてしまうような、勝者の敗者への謙遜(=擬似武士道)という日常絵図は、「気を紛らわせる」こと以上の何ものでもなかったと思います。教師や親や、様々な観衆まで含めた、壮大な「気を紛らわせる場」=競技場が、この国のいたるところに存在している。どうやらこのことが、わが国の根源的な病理の一つをつくっている(つくってきた)といえるでしょう。
 パスカルが「気を紛らわせる場」を不幸というのは、絶望や死や悲劇といった私達の「真実」から目をそらすから、であるということで、武士道や騎士道というのはそれらの「真実」に隣接してこそ迫真のものになるのですから、少なくとも、受験競争のような世界を「競争」という精神行為と叫ぶ誤謬だけはやめていただきたいものです。しかし受験社会の指導者面をした教師や、全力をかけて子供を追いやる親達は。それが「競争」という精神行為だと信じてやまないのですね。もしかしたら、「競技」の罪悪性の最たるものは「競争」の破壊にある、とさえいってよいものなのかもしれないと思います。
ニーチェは学者批判論の中で、文献を調べ、A氏とB氏の見解が存在しそれに大してイエスとノーのいずれかを言う繰り返しの中でしか「考える」ことが存在しなくなる、とし、「調べることは考えないことである」言いましたが、「調べる」ことを多少緩やかに解せば、これは現代の様々なレベルでの受験競争の中でもそのままいえることです。受験勉強は、とかく「調べる」ことに堕しやすい。受験生や受験社会での成功者というのは、実はニーチェが火を吐くように批判を向けた「学者」にびっくりするくらい酷似しています。「強者の道徳」を説くニーチェはギリシャ的な競争世界は正面きって肯定しましたが、現在の受験競争は、ニーチェ曰くの「強者」と正反対の人間を作りだす世界そのものとして、怒り狂って否定するに違いありません。そして根が深いなといつも脱力してしまうのは、あまりにも競争的なシンプルさの中におかれていたために、それから逸脱することのみがその人にとっての大事件であり、その人の精神的展開がそれでとまってしまう、ということですね。
 
 
「競技場の喩え」から、現代日本の病理をいちいち指摘していたら、それこそ夜が何回も明けてしまいますね。ここで「指摘」から「分解」に話を移しましょう。「気を紛らわせる場」がどうやって成立するのか、あるいは自分の中でどうやって成立してきたのか、ということです。再び冒頭のコーラの話に戻ると、子供であった私は、テレビの野球中継を観戦する度に、コーラを飲む選手をさがしていました。コーラはたまたま私がコーラであったので、他の何かを象徴としてさがしてした子供、友達も当然いました。
 つまらないタイプの大人は、テレビを熱心に観戦する度に「自分のことでもないのに何を熱心に見ているのか」といいます。こういう大人は、子供達が、選手の「事実性」を必死で乗り越えようとしていることを、全く理解できていない。野球スタジアムというのはテレビ中継である限り、いたるところに何かがある。音も含めて、試合の始まりから終わりまでの時間、いたるところのいたるものが満たされています。実存主義・現象学の言葉をかりれば「存在充実」ということなのですが、これが実際のスタジアムに行ってみると、私は「音」の一部である中継音の不在だけで、ぞっとしてしまうものを感じてしまいますね。しかし、テレビの中の「競技場」にそういうことはない。子供達はどの選手がどうこうという知識や評価には全く乏しいですから、とにかく野球帽やら持ち物(コーラ)やらで、画面の向こうの選手の圧倒的な事実性を乗り越えるように努力している。事実性を乗り越えることができると判断できた選手に対して、初めて、好き嫌いということが生じてくる。大人になってからファンになった人間は「どうしてあんな選手が?」といいますけれど、こういうことは、子供の頃の不思議なテレビ画面との交流の不思議さに気づかない。
  何から何まで満たされた「存在が充実していること」の世界が、自分の憧れの(事実性を乗り越えた)選手とともにある、という幸せな段階はまもなく崩れます。選手のスランプや欠場という「不在」が、存在充実の場を破壊する。破壊するようでいて、不在という選手の「自由」が、それを中心sにして、スタジアムという競技場を、彼の不在(自由)を中心に構成してしまう。私にとって、「不在」を気づかせるものは、「コーラ」という象徴性であったのですね。コーラを飲む選手というのは、毎日定まっているわけではない。しかし私のような子供は例外で、子供達はもっと一般的なもの、野球帽やバットというものを通して、もはや共有感覚といっていいものを選手に、チームに感じていく。かくして「選手の不在」という存在感は、何かより大きいものへの不在感(存在感)というものに発展していくことになる。私が「好きな選手」とか「好きなチーム」ができたのは、ずいぶん後のことになったのですが(もちろんジャイアンツではありません)こうした私の「初育不全」は、どうもこのコーラということがかかわっている、ということなのですね。
 「黒い甘い水」が私にとってただの「黒い甘い水」でなく、あるいは人それぞれに、「黒い甘い水」があって、事実性と象徴性の巧妙な操作の中で、たとえば、こういう「競技場」という「気を紛らわす場」が構成されるのですね。これは意外に色々な「競技場」に応用できる把握だと思います。子供を受験競争に駆り立てる親は、存在充実の場の只中に「子供」をおいて、その不在(存在感)にあたふたしつづける。「戦争」を実感できない「競技場」での演技と考える人間にとっては、空想的世界での自在な英雄の不在(存在感)が、彼の頭の中をよぎる。
 事実性と象徴性の操作や交換によって、その「競技場」が・・・つまりは「古典」という総合的な正統的意味が・・・成立していくのは言うまでもありません。そうした中で繰り返される「自由」のやり取りこそが、パスカル曰くの、「気を紛らわす場」のからくりだ、と私は言います。激しい「自由」のやり取りの果てに、「(あの選手)しょうがねーな」とか「(私の子供は)さすがあの大学に」とかいうふうにして、「自由」の争奪杯ということに、最後にほんのささやかでも勝利した言葉を言うことをしたい、というのが「気を紛らわす場」の、原理でもあり病理でもある、と思うのですね。ここで「地獄とは他人のことだ」というサルトルの言葉を想起するのは間違いではないですけれど、「地獄」をもう少し踏み込んで把握しようとすると、「地獄の中の小さな偽りの天国」なのです。「競技場」の喩えの中の、「気を紛らわす場」の勝敗というのは、結局、真実の勝敗とは縁もゆかりもないものですから、私達は最後は身勝手に、「自由」のやり取りを、自分の優位のうちに終わらせることができてしまうのです。この繰り返しが際限もなく続く様々な場に、私達は自分が置かれていることに、ある日ふと気づくことがあるのではないでしょうか。
  繰り返しになりますけど、私は「気を紛らわす場」そのものが悪いということを言いたいのではないのです。むしろそれは文化にとってもっとも必要な毒のような存在です。それは毒には変わらないのだから、味わくほどほどにしなければならず、毒としての認識も、解毒方法も心得ていなければならない、ということです。パスカルは「自分の惨めさを慰めてくれる唯一のものは気を紛らわすことであるが、しかしこれこそ私達の最も惨めさなのである」ということを、どこかで忘れないように、ということなのですね。この惨めさ、ということに気づかないことによって、私たちは「気を紛らわすこと」ということについての必要毒についての「古典」を喪失している、という現状があるのです。この「古典の喪失」ということが、今や、私たちの文化現象の全体に広がりつつあり、「必要毒」が「猛毒」になっている現象を私たちは見据えなければならないでしょう。











































































































































































































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