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うさねこ研究室!(姉妹サイト「倶楽部ジパング・日本」もよろしくです)
哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
「私服」の思想と「公服」の思想
   「私服」の思想と「公服」の思想   
             ・・・・「戦争」と「平和」を巡る断章?
                                                     
  最近、何回も製作が繰り返されるシリーズが少なくなってきた中にあって、意外なくらいの国民的人気を得ていると言っていい映画シリーズに水野晴郎さん監督の「シベリア超特急」シリーズというのがあります。はっきり言って、映画史に残る、というような超大作ではありませんが、たくさんの映画に触れてきた水野さんの映画人生の知識や思い出を、主演を兼務する水野さんによってコミカルにまとめている作品シリーズで、もしかしたら、これからの時代、こういう表現方法というのもあってもいいな、と鑑賞していて思えます。この通称「シベ超」シリーズのは固定ファンもついたらしく、いつの間にか5作、6作というふうに作品数を重ねてきていて、私も知らない間にこのシリーズとの付きあいができてしまったのですが、作品の出来についての賛否両論は別として、贔屓目を差し引いても、まず何より、この作品の設定は非常に面白いものだといえると思います。
  時間(時代)設定は、ヨーロッパで既に第二次世界大戦が開始し、ドイツがヨーロッパの大半を征服し優位に戦いを進めている1941年前半です。物語の場所はその戦乱のヨーロッパを日本陸軍を代表し歴訪しシベリア鉄道で帰国の途についている日本の山下奉文将軍の乗るサスペンスの雰囲気に満ちた汽車の中、です。この時期、ドイツはヨーロッパのほとんどを征したとはいえ、まだアメリカ・ソビエト・日本という面々は参戦しておらず、世界大戦としての二次大戦は本格化する前の不気味な時間的緊張の中にあり、その緊張感が、汽車の中のサスペンスの緊張と、妙に符合するように、物語世界は展開されます。御覧になった方はわかると思いますが、水野さん演じる山下将軍はなかなかの名演(迷演?)です。
       まず山下将軍が「喋る」ということ自体が、物語的なのです。山下奉文将軍というのはシンガポール攻略戦や戦後の戦犯処刑などで名前自体は非常に有名で、エピソードも豊富であり、海軍の山本五十六と並ぶ、当時の「国民的英雄」なのですが、多弁な活動家であった山本五十六に比べ、どういう思想信条の持ち主であったかは、実のところほとんど謎に包まれています。「エピソード」と「思想信条」は、「英雄」にとっては別物で、前者は決して後者をあらわさない、ということを、山下将軍の歩みは示しているといえる。たとえば有名なパーシバル将軍への「イエスかノーか」という場面についても、山下自身が別にイギリス人に高圧的であったということではなく、突き詰めれば突き詰めるほど、「誰に対してもはっきりした表現方法を好んだ」という山下の性格的傾向が現れるばかりなのです。彼が記録たりうる「自分の言葉」を残していないからです。エピソードについて考えれば考えるほど、彼の正体は不明になってしまう。最近、山下奉文の伝記を記した福田和也さんは、実は非常にスクリーン的なヒーローであった山下将軍の謎を執拗に追いながら、彼の言葉のあまりの不在がゆえに、山下将軍という可能性のある森林をようやく言い当てることができた、という感触をその伝記に記していましたが、こういう意味での「無口」が映画や小説などの表現世界にとっては、非常に魅力を感じさせてしまうことはいうまでもありません。「エピソード」のみがあって思想信条が不明である、すなわち内面的な正体が不明である、ということにおいては、古代日本の伝説的人物をフィクションの対象にする魅力と全く同じであるともいえましょう。卑弥呼といいヤマトタケルといい神功皇后といい、表現者はエピソードのみしか存在しないそれらの「謎の人物」に言葉を語らせるまさにそのことによって、過去を創造できたような痛快な錯覚を感じることができるのです。山下将軍もまた同じです。
        水野さんは別段、口喧しい平和主義者ではありません。しかし水野さん本人が演じる山下将軍は繰り返し、しかも物語的に脈絡なく、「戦争はいけないんだ」というシンプルな台詞を繰り返し繰り返し、言わせます。「シベ超」の世界は、戦争そのものが描かれているのではなく、「戦争」は体験談としてしか登場しない。山下将軍にいたっては、それは「未来の体験談」でさえある気配です。だから説得力はぜんぜんありません。しかしこのあまりの単純語・・・正直言ってくだらない単純語が・・・このほとんどコミカルな映画の中で、妙に無視できない言葉であるような気もしてきてしまう。映画全体が茶化されているので、「戦争」という言葉さえもが茶化されているのです。
     「戦争はいけないんだ」というくだらない単純語の「戦争」が、平和主義者の言う「空語」としての近代国家間の「戦争」だけでなく、美しい独立戦争、革命的内戦、ファシズムへのレジスタンス、こういうすべてのものを意味する「戦争」であるためには、密室での何気ない言葉である必要があるのかも知れません。つまり徹底した空語であることによって、抽象性を飛び越して普遍性になる。「戦争はいけないんだ」ではなく、「戦争はいけないんだ、と私達に言わせてしまうくらい戦争は妙なものなんだ」というふうに聞こえてくる、といえましょうか。「革命」という言葉などもそうですが、あまりに手垢にまみれた言葉には、そういうことが言えるような気がします。「戦争はいけないんだ」という言葉を、山下将軍の存在感とともに、謎めいた方向へ引っ張ってくれるだけでも、この「シベ超」シリーズを鑑賞する意味はある、と私は思います。
        「戦争はいけないんだ」、いつもだったら、私はあまりにシンプルすぎる言葉には、ほとんど条件反射的に反発します。不愉快でさえある。まず、言葉としての反発であり不愉快です。私にとって「戦争はいけないんだ」という言葉は、あまりも後ろめたくて使えない言葉です。テレビキャスター、小中学の教師、宗教団体の教祖、与野党の国会議員・・・誰もが当たり前のように語る言葉ですが、そのほとんどがカントの倫理学が言うところの「他律(他人語)」にしか聞こえてこない。つまり、私自身にも、その彼らにも、「戦争」ということが、自分の精神的闘争状態の場に全く登場しない。「戦争はいけないんだ」ということで、実は戦争についての感情や思考を中断することが許されてしまうのです。こうしてこの言葉は、いろいろな人間を、虚しく饒舌にする。ますます不愉快になる。
    「他人語」の反対は「自分語」ということになりますけれど、もちろん、戦争の場にいたかどうか、ということが「自分語」の成立の絶対条件ということではありません。戦争経験者でも体験談しか語れない「他人語」を語る人はいるし、戦争未経験者でも想像力と探求から、「自分語」を語れる人はいます。私としてみれば、「戦争がいけないのかどうか」ということは、さしあたって、結論を先送りすることであっていいでしょう。人生の最終段階で結論が出なくてもかまわないことだとさえいえます。戦争ということについての根本問題は、「いかにして戦争をなくすか」ではなく、「戦争」あるいは「平和」という概念が、どうしてかくも私達を饒舌にし無思考にするのか、ということを考えなければならない、そこの不思議さに目を向けることからはじめなければならないのではないか、そういうことではないかと思います。
    「平和論」も、現代の平板で退屈なものから遠ざかり、古の書を紐解くと、なかなか面白くて退屈しない、読んでいてびっくりするような「奇書」があるものです。たとえばカントの「永遠平和のために」は平和論の古典的著書ですが、この書をひらくと、「共和国どうしは戦争を欲しない」という実に奇妙なロジックがいわれています。そして戦争は「君主国どうし」あるいは「君主国が共和国に挑む」形で発生する、という。カントの言う「共和国」はおそらくデモクラシーの度合いが高い国のことの言い換えであり、その中にイギリスや現在の日本のような民主的君主制も含まれ、「君主国」に、形式的には共和国でも実際は独裁者が王朝的に君臨しているような北朝鮮のような国、を意味するのだとしても、このカントの戦争観はあまりにも杜撰で稚拙だといわなければなりません。
    膨大な反証例が可能であり、カントが生きていた時代の革命直後フランス共和国から現在のアメリカ合衆国まで、むしろ民主主義国家の方が好戦的団結が強い、とさえいえます。カントによれば君主国家(あるいは君主的国家)は一部の人間の独断で重税や徴兵といった巨大な浪費を伴う戦争行為を決断しやすいけれど、共和的民主主義国家はそのような浪費を避けようとするから、戦争は起こしにくい、ということなのですが、もちろんこんな説明も成立しない。しかしカントの戦争観をすぐに嘲笑できないのは、この戦争観が、現実的政治から学問世界まで、いろいろなところに脈うっているということです。第二次世界大戦の正義的国家群と反正義的国家群の図式的対立の愚など、カントが考え出した堅苦しい「原理」に従うものだといって差し支えないといえましょう。こういう戦争観こそが、カントの意思とはおそらく正反対に、私達を戦争について無思考にし、そして饒舌にする、ということがいえる一例ではないか、そう私は思います。
    たとえば倫理学者ジョン・ロールズは(私に言わせればロールズほどの人物が)このカント的な図式を応用し、二次大戦時の連合軍の日本への無差別空爆や原爆投下は倫理的に違法であり、比べてドイツへの無差別空爆は違法ではないといいました。つまり、民主主義度が必ずしも低いとはいえない日本と、民主主義連合である連合軍の戦争は起こりうる戦争ではないが、連合軍と民主主義によって完全に敵対的な国家であるドイツの戦争は起こりうる戦争である、なぜならば本質的に戦争を欲しない民主主義国家の方が滅ぼされすいためでありそのための攻撃は過剰なものであっても許される、という価値観が働いているのです。この場合の「起こりうる戦争」というのは、「起こりえない戦争」ということでもありましょう。ロールズの思考はナチスドイツとの区別を欲する日本にとっては一見すると嬉しい言葉に聞こえなくもないかもしれません。しかしその根底にあるのはとんでもない欧米中心的中華思想だともいえるでしょう。またたとえばレーニンは「社会主義国家どうしは戦争は起きない」という、これまた中越戦争や中ソ紛争で簡単に覆された戦争観を言いましたが、「社会主義国」を「共和国」と読み換えれば、これはカントの平和国家論の移し変えであり、ロールズの言うことの変種であることが理解できるでしょう。
    ところが、加藤尚武さんの解説と紹介に従いヘーゲルを読むと、ヘーゲルはカントとは正反対のことを言っています。彼は共和的民主主義国の方が、「個別的なもの」と「全体的なもの」の関係が明確であるため、国民は戦争で散財や死を選択しやすい、と解いているのです。「個別的なもの」を自衛するものとして「全体的なもの」が存在すると考えているのだから、国民は国家の戦争行為に納得しやすいのだ、ということです。またヘーゲルの国家観に影響を与えたといわれるマキァヴェリは、長期に渡り民主的共和国を維持したいと思わせるならば、適度の自衛力を保持して相手を容易に攻略できないと思わせることが絶対的原則である、なぜならば征服したいという願望と征服されるかもしれないという不安を同時に抱くのが相手国というものだからだ、といいましたが、20世紀を経験した私達にしてみると、対内的にも対外的にも、このヘーゲルとマキャヴェリの戦争観の方が遥かに正しく常識的な原理を説いているということを、その後の戦争の歴史が証明しているといえるでしょう。
    カントは「戦争はいけないんだ」ということを論理的に言おうとした最初の近代人であると同時に、実のところ、「戦争はいけないんだ」ということについての考えを間違えた最初の近代人であった、ということがいえるような気がします。しかし最初に間違えた人であるからこそ、そこに私達が「平和」について間違えやすい様々なことを読み込むことができる、という逆説も、カントの平和論の中に、私は感じとれるのではないかと思います。
    カントの平和論をさぐっていくと、その平和観は、実は、国家観に平行移動された個人観であることがよくわかります。彼の国家観は、国家というものに人格的統合を認め、国家と個人を、非常に近いものとして捉えています。ここがカントという人の説教臭いところだともいえますが、もちろん、国家に人格的統合を認めるということが「国家」と「個人」を何もかも同一視するということはできないとしても、「個人」を背後に控えたカントの国家観というのは、個人観と連動するような、硬直化したものを絶えずもっていると言わざるを得ない面があります。ここのところの飛躍や誤謬が、現代の平和論の硬直を想起するにつけ、実におもしろいのです。カントの国家観を法人とのアナロジーで考えようとする立場もあるようですが、やはりカントはその場合でも限りなく「法人」を個人をモデルにして考えていて、私の考えるところ、カントの国家観は、いろんな意味で、個人のとらえ方(在り方)に近いとしか思えない面があるといえましょう。
     ではカントにとって「個人」とは何なのか。たとえば先述の、共和国的民主主義は浪費をさける傾向にある、という彼の見解ですが、カントは完済できないような負債を引き受けることは、人格的統合の集団としての国家としてはありえない、といいましたが、そんなことは全くの空論であることは、まともな頭で世界情勢を観察する人間ならば誰しもわかることです。彼の平和論をもう一度追ってみると、「永久平和のために」あるいは「人倫の形而上学」などに、国家は個人と同様、「道徳的存在」である、という言葉が繰り返しよく登場します。この「道徳的存在」という言葉に注意を払う必要があります。「道徳的存在」ということは、「道徳」という言葉を私達が日常、カントとは全く違う形で使っているため、読みすごしやすいです。
     カントの道徳的判断というのは、「何が適法行為か(正しいか)」ということの実質的判断についてはほとんど無関心である。実質論ではないということです。「適法行為」と「非適法行為」の区別という面においては、カントの倫理学はほとんど実践的な意味をもたらしてくれません。「何が適法行為か」ではなく、「適法行為」を演じている人間の中にこそ、非倫理的な悪が強く潜んでおり、その非倫理の根拠である自己愛が、そうではないような形で棲んでいる、という倫理学の構成をとるのです。これは私達の日常的常識からややかけ離れた人間観があるといえましょう。
    だから「自己愛」や「エゴイズム」が存在するということそのものが悪いことか、というと、そういうことではない、ということになります。自己愛やエゴイズムにまみれながらも、それらに敵対するような何らかの非自己愛・非エゴイズムとの出口なしの生き地獄のような精神的闘争状態、そこにしか根本的な「善」はなく、その精神的闘争状態そのものが「道徳的」だ、ということになるのです。ですから、非自己愛の姿に化けた自己愛を演じさせている「善人」こそが「反道徳的」であり、それに対して、犯罪を犯しても、激しい道徳的闘争状態に置かれている人間には「道徳的」である道の可能性が開かれていることになります。そして「闘争状態」の例として、初めから適法状態が定まっているかのように語ることを「他律(他人語)」といい、これこそが、最も忌むべき反道徳状態ということになる。これがカントの倫理学のアウトラインです。このようなカント倫理学は、一見するととても魅力的なものに映ります。なぜなら、「罪と罰」のラスコーリニコフのような人間こそ・・・自分の弱さがゆえに精神的闘争状態に陥っているからこそ・・・「倫理的」である、という結論が導き出されることになるからです。
     カントが「国家が道徳的存在である」ということは、こうしたカントの倫理学を前提としなければなりません。そしてそれはカントの個人観でもある、といえましょう。するとカントは、「戦争」について、道徳的個人や道徳的国家が「精神的的闘争状態」すなわち「道徳的」状態に陥った結果、戦争状態を選択するということがある、ということも認めるのではないか、というふうにとらえるのが自然ですが、実はここに、カントの思想の大きな落とし穴があるのです。
たとえばカントは、「自殺」を絶対的非適法行為と考え、「道徳的状態」の対象から外してしまっています。私は全くそう思えないのですけれど、「自殺」はたとえそれが自己愛に基づいたものであっても、道徳状態を形成することはない、というのです。有名な話ですが、カントは「嘘」についてもほぼこれと同じことを言っている。凶悪犯に追いかけられてきた被害者が逃げ込んできて隠れているとき、私達はその凶悪犯に対しても「嘘」を言うことはできない、といいます。なぜ「自殺」や「嘘」が例外であるかということの論証は曖昧で、成功しているとはとうてい言いがたい。カントは実は独断的に、そう考えているにすぎないのです。カントは「性愛」の世界についても、「性愛」の世界がく「道徳的」たりえない、という独断から、性愛の世界に自分の倫理学を応用することを全く拒否しています。こうして、性愛についてのカント倫理学の応用、ということは、カント自身の意図からは全くかけ離れたことだ、とういうことになってしまうのです。しかし本来ならば「自殺」「嘘」「性愛」という世界にこそ、生々しい「精神的闘争状態」が想定されるべきなのではないでしょうか。そして実は、「国家が道徳状態にある」という時、独断的に「戦争」を例外的な道徳対象においてしまっていて、そのことが、延々と奇妙な、戦争についての非現実的考察を形成しているのではないだろうか、といえそうな気がしてくるのです。彼の楽観的平和主義は、単に彼が暢気な平和主義者であったから、ということではない。だからカントと二十世紀的な平和主義者を同一なものとは混同できないですけれど、「戦争」を、人間の思考対象の例外というふうに考えることは、やはり何処かで同一性があるのだ、というふうにいえることもできる。いずれにしても「永久平和のために」という本は、いろんな意味で、つまりカントの世界の考えの中でも例外的なものだという意味でも、「奇書」だ、ということができるように思われます。
     もう少しカントにこだわってみると、本来ならば、カントの倫理学というのは、「非自己愛」「非エゴイズム」の振りをしてその実は「自己愛」「エゴイズム」でしかない、20世紀的な平和主義者や平和国家論を破砕する、最も有効な論理的な手段の一つであるはずです。しかしながら、カントの平和論はその独断によって、逆方向に向いているようにみます。ニーチェはカントについて、「形而上学の終焉に気づき、その破壊を鮮やかに開始しながら、いつのまにか檻に戻ってしまった、狡猾な狐のようなキリスト教徒」と喩えましたが、カントが狡猾かどうかは別として、何も形而上学だけでなく、彼の平和論・戦争論においても、そういう傾向が見られるのではないだろうか、と私は思います。「永久平和のために」は、私に言わせれば、それによって、偽善的な国際理想主義の根本的批判が可能であるにもかかわらず、正反対に向いた、まさに二ーチェの言うところの「檻に戻ってしまった狡猾なキリスト教徒」の書ではないだろうか、と思います。ならば、それを逆に向かせることなく、そのままあてはめてしまう、ということは可能でしょうか。
      「戦争」が、カント的の道徳形式の考え方に馴染まないということは、絶対にいえない、と思います。まずは個人のレベルでの例示をさがすため、再び20世紀の大東亜戦争の日本軍人の世界に戻ることにしましょう。大西瀧治郎という海軍軍人がいます。山下奉文将軍は「シベ超」シリーズの主人公ですが、大西提督は、昭和30年代の東宝の戦争映画の花形的主人公で、鶴田浩二さんがよく演じていました。山下将軍が寡黙なゆえに謎の軍人であったとすれば、大西提督はその饒舌がゆえに謎の軍人であったということができるでしょう。大西提督は戦史上は「特攻隊の父」とよくいわれる人間ですが(厳密に言えば、彼以前にも体当たり的特攻は数多く存在しました)彼は日米戦開始直前には山本五十六たちとともに対米戦突入反対の急先鋒であり、戦争開始後も講和推進派といってよい存在でした。また山本や井上成美と同様、戦前の非常に段階から航空機戦術論者で、大鑑巨砲主義を否定していたことから伝えられるように、合理主義的思考の持ち主でもある。また彼は、戦局が悪化した後、内地に戻ることがある度に、庶民の人々に「私達軍人の不手際で国民である皆さんに苦労をかけて本当に申し訳ない」と詫びる卒直さがありました。つまり典型的な海軍の良識派的首脳であったということができるでしょう。
      しかし、映画にせよ、歴史的にせよ、この頃の大西が語られることはほとんどありません。「特攻隊の父」であるという評価以上に、彼が鈴木貫太郎伝や米内光政伝、阿南惟幾伝などを通じ、あるいは映画を通して、苦々しく伝えられるのは「狂人」と化してからの大西です。1944年秋、戦局が極めて悪くなった段階で、フィリッピン方面の基地航空隊の責任者であった彼は、苦渋の末に、神風特別攻撃隊の編成をレイテ島海戦の一回限りで決意し、自由志願を絶対条件として、実施します。十数名の出撃直前の神風隊員を前にして講話する大西の震えながらの涙ながらの演説は、彼が軍事的指導者として珍しいほどの、人情あふれるヒューマニストだったことを伝えています。ところが、ある意味で大西の意の通り、この小規模の神風攻撃は予想以上の戦果をあげてしまいます。艦隊のほとんどを失ってしまった日本側としても他に戦法がなかったため、以後、終戦までの10ヶ月間、海軍攻撃の主方法に変貌してしまいます。しかし、豹変したのは海軍の攻撃戦法だけではありませんでした。この大西が180度、別人のように性格を変えて、気が狂ったような徹底抗戦派になってしまうのです。そして、私に言わせれば、この時期の狂人的な大西というのは、山下奉文の人生の全体についていえるのと同時に、「無口」な存在なのです。狂ったように喋っているように思えて、その言葉のほとんどは、後から考えれば、映画の中の山下将軍の言葉のように、「空語」なのです。彼は、狂人のように喋り続けるという「無言」を選択したように思われます。
       この大西の性格の変貌の凄さに関して様々なエピソードが伝えられていますが、とりわけ有名なのは8月12日の話です。大西は終戦時には軍令部次長の要職にありました。8月12日の段階というのは、強硬に徹底抗戦を主張していた陸軍ですら、ポツダム宣言受諾に原則的に賛成し、ただ一点、皇室の地位の確認のため、不明確に思われた連合国にもう一度この点だけを再照会すべきだ、という意見が一般的な「強硬派」なっている時期です。この日、再照会を主張する阿南惟幾陸相と、再照会に反対する東郷茂徳外相の押し問答の会談の場に大西はあらわれます。そこで大西は、「あと二千万人、二千万人の日本人が特攻に出れば必ず、必ず勝てます!戦争を継続してください!」という狂人めいた言葉を言い、東郷はもちろんのこと、阿南さえも唖然とさせた、ました。あるいは、終戦への方向性を討議する御前会議の場に威嚇のために軍刀をちらつかせて現れ、温厚で一言も他人を怒鳴ったことのない米内海相に「大西、神聖な宮中でに刀を持ち込むとは何事だ!」と大声で叱り飛ばされた、という話もあります。大西は終戦に同意する昭和天皇を人前で堂々と批判したとも伝えられ、あるいは大西と会うのがストレスのあまり、寝込んでしまった海軍首脳もいるといいます。
    とにかく終戦工作を妨害する大西の行動のエピソードはどれもグロテスクなほど異常なのですが、どうして彼がこんなふうになってしまったのかといえば、疑いようもなく、特攻に出撃する青年達の純真な目をその都度見つめるうちに、彼自身の深い人間味が、何ものか別のものに変貌してしまった、ということになるでしょう。私は歴史的には、鈴木首相をはじめ終戦工作に心を砕いた人たちを尊敬しているので、あらん限りの妨害をした大西はすぐには決して好きになれない。しかしそのこととは別に、彼ほど、カント曰くの「道徳的」な人間はいない、ということが実はいえるのではないでしょうか。あるいは、山下将軍と同様、「エピソード」と、その人物の内面は全く別のものである、ということが、不思議と理解できます。一般的な良識からすれば、彼のひどいとしか言いようのない数多くの言動は、どれも、精神的闘争状態の中で、吐かなければならなかった、空しい言葉、「空語」だったのだ、ということです。
      やがて終戦の日が来る。多くの人が伝えるところによると、彼はその瞬間から、別人と見間違うが如き穏やかなな人間になってしまう。つまりかつての彼に戻ったのでしょう。終戦の翌日、静かで格調高い遺書を記し、彼は割腹自殺します。180度の豹変は、かくして360度の豹変になった、ということでしょうか。その大西の遺書の終わりに、これからの若者に向けて、「永遠の世界平和のために尽くしてください」という言葉があるのですが、私に言わせれば、これほど感動的な「平和」という言葉はない。その言葉が「他律(他人語)」でないことは言うまでもありません。彼は自分の手で、特攻隊という、自分の思想と矛盾を演じざるをえなかった。それから10か月の時間、彼の精神状態は、まさしく精神的闘争状態にあったということができます。「戦争に勝利する」という国家目的(国家としての自己愛)と、「特攻に散っていく罪のない純真な若者の命を一人でも助けたい」(国家としての非自己愛)の間の中で、彼ほど苦悩した人間はいないでしょう。その中にあって、その中にまみれる中で、人生の最後の言葉として、「永遠の平和」という言葉を選択したのです。常識人と狂人を行き来した大西はカントの倫理学に反して、「戦争」の場にありそれを推進し、さらには「自殺」もした人間ですが、しかし実にカントの倫理学にふさわしい人間であるということができると私は思います。「戦争」という世界は、カントの意思に反して、道徳的でないどころか、最も激しい「精神的闘争状態」すなわち道徳的状態をもたらす、ということがいえるのではないかと私は大西のエピソードを読む度に思います。カント的な倫理形式を修正することは充分に可能であると思います。
    「国家が人格的統合である」という、もう一つのカントの飛躍的な思考形式に関してはどうでしょうか。たとえば湾岸戦争時、西部邁さんは「ルール違反を犯した強盗(イラク)に関して、被害者(クウェート)を世間(世界)が支援するのはあまりにも当然だ」という喩を展開し、日本国憲法的価値観にしがみついている国内の平和主義者を厳しく批判しましたが、西部さんの結論は正しいとは思いますが、西部氏も実はカントの「人格的統合としての国家」論に近い国家論に基づいて、議論を展開しているように私には思われます。当然のことながら、調停役的な第三者が存在する個人間の私闘と、主権間の間に潜在的な戦争可能状態があり調停的第三者が存在しない国家間の戦争では、さまざまなレベルで、ニュアンスが異なる、ということが、現実的国際政治の基本だといわなければならないでしょう。
    にもかかわらず、西部さんをはじめとする平和主義批判者の多くが、平和主義者の不自然さを批判するために、個人の喩を展開しています。西部さんの喩が正しいレトリックとして成立するためには、「国家」が家族共同体に近いものである、という了解が必要になると私には思われるのですが、家族共同体に人格的統合を置く人間、ということと、「人格的統合としての国家」論は、表裏一体のものだ、というふうに思うべきです。だからカントの喩えも西部さんの喩えも、戦争の賛否ということでは価値的には対立するように見えますが、実は同類的であるということができます。注意しなければならないことは、こうした国家観・戦争観は、国家の戦争権の無制限の解禁を禁じる傾向にある、ということができる、ということにあると思います。個人の喩の世界には、個人の私闘権の無制限の解禁を禁じる「何か」を想定するからこそ、その喩の世界が完成するということになるからです。
    たとえば、戦争についての倫理学的立場は、国家の戦争権を無制限に認める立場、自衛的段階において制限的に認める立場、そして一切の戦争権を認めない絶対平和主義の立場に大別できますが、少なくとも第一の無制限主義は、この「人格的統合としての国家」論からは論理的に導かれないでしょう。
    これに対し、たとえば、前述のヘーゲルのリアリズム的な戦争観には、「国家」というものに個人の自己実現の全面的可能性という、ほとんど宗教的なニュアンスの国家観がおかれていて、おそらくヘーゲルは、西部さんのように、個人の喩に国家の喩をもたらすことは否定的でしょう。ヘーゲルは「自分がそのために生き、そのために死んでもいいと思うような、普遍的な理念」が、国家には宿っている(宿るべきである)といいます。こうしたヘーゲルの修辞学は、近代国家がナショナリズムをたちあげるときに、必ずといっていいほど構築する国家理念です。しかしこのヘーゲルの国家観も、よく読めば、トマス・モアやホッブスが、個人を超えた「巨獣」として警告的に把握した個人を超えたものとしての「国家」を、言い換えたものに過ぎないことがわかります。個人間の私闘状態を解決するという、人類の長年の理想状態を解決する理想的な主体であるからこそ、「そのために死んでもいいと思うような普遍的な理念」を有しもするし、「巨獣」でもある。旧約聖書ではジェノサイドの権化だった神が、新約聖書では無言の優しい神に変貌したが如く、両者は表裏一体なのです。こうした「個人」か「非個人」か、ということは、戦争観ということに関して、様々な側面で微妙なニュアンスの相違をもたらしてくるように思われます。ほんの一例に過ぎませんが、こうした相違を踏まえて、「自衛権」ということについて以下、ざっくばらんに考えてみましょう。
     ここで再び水野晴郎さんの登場なのですが(映画評論家としての水野晴郎)小学校時代、どういうプロセスで登場したのかはさっぱり忘れてしまいましたけれど、「こんな世にも恐ろしいアウトローの世界があったのですよ」というふうな説明とともに、私は西部劇の写真を授業中見せられたことがありました。小学生高学年の時分だったと思います。「アウトロー」という言葉をおぼえているということは、意味がよくわからなくても、その英語が理解できるくらいにかなり強烈な写真を見せつけられた、ということになのでしょう。お蔭様で、私はそのままあやうく、西部劇の世界を「アウトロー」そのものの世界だとすっかり信じ込んでいました。中国や韓国での腹立たしい反日歴史教育は数え上げればキリがないですが、しかし私が受けたこの「アウトロー」教育というものも、実のところは、ずいぶんと杜撰な一種の反米歴史教育だった、といわざるをえないでしょう。しかしその数日後、たまたまロードショーで流れていた、とある西部劇映画の水野晴郎さんの見事な解説は、それを実に丁寧に否定していました。つまり、よく考えれば当たり前のことなのですが、西部劇の世界は、アメリカ合衆国独立後の世界、すなわち「法治国家」の時代の話である、彼らはデモクラシー的手続きによって制定された「法」に従っていたということをよくふまえて、西部劇を見なければならない、ということを、水野さんはきちんと指摘されていました。
       その上で西部劇映画を見ると、確かに、「正義」を気取るガンマンの多くが、相手が射撃スタイルに入るや否や、こちらから射撃する。実はここにガンマンの「正義の法的テクノロジー」がある、のです。彼の射撃技術、という意味での「テクノロジー」ではありません。どうしたら、そういう場にまで憎い相手を追いやることができるのか、という、実に人間的、総合的な意味での「テクノロジー」です。しかもそれは、法的に自分がいかにして違法にならないか(正当防衛が成立するか)という意識と密接です。そうでなければ、合衆国憲法と州刑法に逆らい逮捕起訴されてしまうことになってしまう。当然、ガンマンの行為は過剰防衛行為に該当する可能性はあります。が、それは近代刑法にすっかり馴染んでいる私達が言うことであり、少なくとも、ガンマンの中には既に近代的な意味での「法」意識は確かに存在しています。ゆえに、アメリカ西部劇の世界は、アウトローな世界ではなく、まさに法治国家であるからこそ、単純な殺戮ドラマにならない、という独自の世界を形成しているのだ、ということができます。繰り返しになりますが、アメリカは西部だろうがどこだろうが、合衆国憲法をはじめとする近代的法体系の中にすっぽり覆われていたのですから、刑法的価値観は、刑事裁判での買収など日常茶飯事だった当時の中国(清)や、やはり階級差によって違う刑法法規が適用されていた当時の日本(江戸時代末期)よりも、ずっと現代人である私達の感覚に近いものがある(あった)と、とりあえず言っていいでしょう。かくして、巧みにも多くのガンマンは起訴されることなく、再び法治国家アメリカを渡り歩くことができる、という物語が完成されことになります。
      しかしこのことは、言い換えれば、むしろ逆に、アメリカ人の正当防衛観は、依然としてこの西部劇の世界から踏み出していない、ということも示しています。そしてこれも西部劇の世界においてはよく見られるシーンなのですが、攻撃準備を行おうとしている敵方のガンマンの集団に「自衛権」という名の先制攻撃を仕掛けることは許されるのかどうか、という問題も登場します。面白いことに、こういう意味での「自衛権」の行使をしたガンマンを逮捕起訴しない保安官も少なくないのです。
      「個人の人格的統合」が国家であるということなら、こうした自衛行為の是非は、アメリカ文化の特殊性という比較文化論に解消してしまう可能性が高く、そしてそれがゆえに、根本的な否定は難しい、ということになるでしょう。従って、アメリカ人が、西部劇状況(あるいはそれを継承した現在の正当防衛観)に従って戦争を行なうならば、それを根源的に否定する論拠を探すのは難しいことになります。人格的統合が国家なのですから、個人において許されうる行為は、国家行為においても倫理的に許容されなければならない、ということになるからです。にもかかわらず、無制限な戦争権の行使は否定されなければならない(無制限な個人の暴力は否定されなければならない)から、自衛行動であるかどうか、ということを巡る、際限のない議論を始めなければなりません。私に言わせれば、少なくとも(世界最初の大殺戮戦であった)第一次世界大戦以降、国家の戦争権に対する考えは無制限主義から制限主義ないしは絶対平和主義に転換し、その後から、戦争は違法であるかどうかという議論が開始されたとみますが、「戦争が違法である」という価値判断への転換は、法的なものに根源をもつものでなく、殺戮戦による倫理学的な価値転換に基づくものであって(あるいはそれに過ぎないものであって)さらにそれとともに、リヴァイアサン的なものであった国家論あるいは戦争論が、「個人」の喩によるたとえの対象としての国家観に転じていくきっかけになったとも考えられます。それには独立国の増加が、近代国家(巨獣)でない国家の存在を激増させた、という背景もあるのではないでしょうか。そしてまさにその戦争観の変化が、ガンマンの正当防衛の理を、国際紛争の場において、可能にするという役割を演じさせることになってしまうのです。
     たとえば、「正当防衛」段階に至るまでの時間的経緯を引き起こした戦争の因果関係に関して、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、最終代表弁論でローガン弁護人は、「経済封鎖はそれ自体で戦争行為である」というパリ不戦条約の起草者ケロッグ国務長官の言葉を引用し、アメリカが日本の経済活動が不可能になるほどの経済封鎖により日本の戦争を挑発したことを論難しました。ローガンの堂々たる弁論は被告席の東条英機の涙を誘ったと言われるほどですが、ローガンが言おうとしたのは、日本が引き金を引かなければならない状況を、アメリカの方こそが故意につくりだしたのであって、つまり日本は、西部劇的状況を故意につくりだした狡猾なガンマンではない、ということなのです。しかしそうすると、戦争の因果関係をいったいどこまで遡ればよいのか、という問題が生じることを避けられない。アメリカ側はアメリカ側で、あの時点で日本が中国全土を支配しそうだったという脅威に対して、同盟関係にあった中華民国に対して、経済封鎖という自衛手段が必要だった、というロジックを採用するでしょう。正当防衛行為というのは、法理論上、自分に対してだけでなく、「他人」や「物」に対しても成立するのです。つまり「狡猾なガンマン」ではなく、「臆病なガンマン」の問題がここに登場するということです。
     東京裁判の法的根拠の問題性はいうまでもありませんが、反面、東京裁判がそれを裁く法が不在であったため、戦争の正当性や本質を、正面から倫理的に論じる場であったことも見逃すべきではない、ということもできると思います。たとえば、東京裁判が、国家の戦争権に関しての無制限主義を否定する価値観に少なくとも裁判進行内では依拠していたため、連合国の主張が、おそろしいくらいの形式論になってしまっている。「自衛権」が果たしてどちらにあったのか、という議論は、国家の戦争権を無制限に認める立場からは、必ずしも最重要の問題ではないはずです。ソビエトの検事にいたっては厚かましくも、日露戦争までを持ち出して、日本のソビエト侵略計画を立証しようとしましたが、ソビエトのとんでもなさは別として、なぜそのような主張を展開しなければならないか、というと、戦争権に関しての価値転換に、ソビエトもまた敏感であったから、ということができましょう。ソビエトは「臆病なガンマン」として、因果関係の針をずっと以前に遡るようにしてしまった、ということです。
    周知のように、アメリカは第二次大戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争などの介入戦争のほとんどに関して、「いつかは自分(自分の国)がやられる」という理屈で、そのすべてが「防衛戦争」だった、という理を持ち出しています。つまり先ほどの、自分を攻撃する準備をしているグループに対して、先制射撃を加えても、それは正当防衛行為になる、という西部劇的状況を、ついにアメリカ的論理は可能にしてしまった、ということになります。同時多発テロリズムに関しても、あの凄惨なテロは極限的なものとはいえ、どう考えても「国内法的犯罪行為」の一種であり、それがただちにアメリカの軍事行動を許容することができる、というロジックは、常識的に考えて、全く無理があるといえます。しかし「西部劇的状況」を捻じ曲げて解釈して「臆病なガンマン」たりえれば、これが自衛権の発動の一種であるという、奇妙きわまりない結論に至ってしまうのです。
    念のために言っておきますが、私自身は、同時多発テロリズム後のアメリカの一連の報復戦争行為は、全く正当なものだと考えます。ただそのための論理的な下地に関して、国家の戦争権を制限するという方向性で考えることによっては必ず論理矛盾を来たす、ということが言いたいのです。世界は事実上、戦争権の無制限時代に回帰しつつあるのにもかかわらず、左右を問わず、そうではない価値観を主張しあっているように思えます。ならばおまえは国家の戦争権を無制限に認めるという、19世紀以前の世界に逆行することを承認するのか、といえば、然り、と言います。絶対平和主義はもちろんのこと、国家の戦争権を制限するという倫理的立場も、アメリカのイニシアティヴでようやく平和が保たれているという状況では、事実上破産しているといわなければなりません。世界は或る意味において、20世紀以前の時間の世界へと逆行しているのです。
     カントとは異なり、国家の戦争権の無制限を許容する立場をやはり採用した論者の一人であるグロティウスの、「交戦者どうしの良心に従うことをもってしか、戦争の発生もその方法も制限できない」という言葉に立ち戻らなければならない、という状況に私達は再び私達はさしかかっているということができましょう。そのグロティウスも「敵の不正が正しい戦争を生じさせる」といっているのですが、そこから踏み込んで、「不正」や「正しい戦争」を倫理的に規制するということになれば、たちまちどうどう巡りになってしまう、ということに、既に気づいていたからこそ、ある意味で正しく絶望的な戦争権の考察に踏みとどまったといえるのではないでしょうか。そして、戦争権の無制限のこれからの「新しくて古い」時代にあっては、カントや西部邁さんの「個人の喩」の世界が、国家間において成立しえないことは、言うまでもありません。
     ついカントの話が多くなってしまいましたが、ついでに補足的に言いますと、平和な市民社会状態においてこそ成立が可能であり、大西提督の例でも言ったように、戦争時における個人間でもきちんと成立しえた、カント的倫理学の「道徳」論も、「国家」においては成立しえない、といわざるを得ません。国家が個人とどういうふうに相違する意思主体であるかどうかは別として、国家というのはカントが考えるようには道徳的存在ではないといわざるを得ません。たとえば、共和国的民主主義であるかどうかはとりあえず別として、北朝鮮という「悪」国家にこそ「精神的闘争状態」の可能性がある、という道徳形式論はとうてい成立しないのです。国家の犯罪行為は「精神的闘争状態」という言葉であらわされるような潜在的なものではなく、政府首脳の決意にせよ民意の暴走にせよ、もっとずっと顕在的なものであって、カントの道徳論の対象に馴染むものではないのです。
     カントの道徳形式に従い悩んでユダヤ人殺戮を決断した、とアイヒマンは言いましたが、アイヒマンの裁判で明らかになってしまったカント倫理学の「悪への自由」の問題が、国家を道徳主体と考える見解ではよりはっきりとした形で立ち現れてしまう、ともいえるでしょう。ヤスパースは、「通常の国家が犯罪を犯す」ことと、存在すること自体が「犯罪的国家」であるという有名な二分法を採用し、ナチスドイツは後者であるとし(言い換えれば日本やイタリアなどの他の旧枢軸国は後者ではない)といいましたが、アイヒマンの例は、国家の構成員のほぼ全員が、カントの倫理形式に従い、「精神的闘争状態=道徳的」であることによって(あり続けながら)ユダヤ人大量虐殺という「悪」を悩んであえて選択したということがありうる、ということを示しています。形式的な道徳法則においては、「巨大な悪」「組織的な悪」を避けることはできない、という袋小路がそこにあるようです。「嘘」「自殺」そして「性愛」を自分の対象からはずしたように、「国家」ということを例外視すればよいのではないか、と私は皮肉をこめて、言いたいくらいです。それをはずすことなく、論理展開することによってまさに論理的的に成立しないことを示したのが、「永遠平和のために」という書であった、と言わなければならないと思います。国家は個人とは別のものであって、国家が精神的闘争状態、つまり「道徳的」であるということは考えれらないのです。それは国家の戦争権が無制限状態に回帰しつつある現在では尚更なことです。
     国家の戦争権の無制限主義に回帰すべしと言っても、それが世界が暗黒の状態に戻る、ということを意味することではもちろんありません。カントは、グロティウスが苦渋をこめて言った「良心」という言葉にこそ、考察を深めるべきだった、と私は思います。国際機関や国家に「道徳状態」を求めるのではなく、交戦国の、個々の人間というミクロ化していく方向にこそ、「道徳状態」は存在しえます。繰り返しになりますが、そういうことを抜きにして、国家や戦争、平和を語ることの一切が、「他律・他人語」の世界に向いてしまうといわざるをえないでしょう。ヘーゲルの国家に重要な影響を与え、そして当然、国家の戦争権を制限するものは存在しえない、という立場に依拠したマキャヴェリがその国家論を記すとき、必ず公服に着替えて執筆した、というエピソードに、私はまさしく出口のない、この世界の、戦争と平和を語ろうとしたマキャヴェリの、地道だけれども偉大な精神を発見できる思いがします。それが気取ったものでなく、下級公務員の公服であったということが、実に面白いことです。私達が国家や戦争について記したり語ったりするとき、公服を着なければならないということではないでしょうが(笑)カントの平和に関しての倫理学にはこの「公服」の思想が実はみられないように感じられます。私達は何かの「公服」を心に着なければ、議論は個人的思い出話あるいは稚拙な理想の語りに転じてしまうのだ、ということを、このマキャヴェリのエピソードは正しく伝えているように、私には思われます。
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COMMENT

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バルおばさん | URL | 2008-02-14-Thu 00:47 [EDIT]
こんばんは。2月14日の私のブログに時間の長さの感じ方について稚拙な文をアップしました。事後承諾で申し訳ありませんが、渡辺さまの「時間の世界 1」をリンクさせて頂きました。
ご都合が悪ければ削除します。
ジェノサイドの権化・西部劇など
戸田聡 | URL | 2007-11-25-Sun 07:19 [EDIT]
お久しぶりです。戸田聡です。

>旧約聖書ではジェノサイドの権化だった神が、新約聖書では無言の優しい神に変貌したが如く、両者は表裏一体なのです。
<

「ジェノサイドの権化」は乱暴な表現だと思いますが、
こうはっきり言われると却って興味をいだきます。
私も似たような感想を持っているからですが、
ここでは少し違った見方をしてみます。

荒地の多い中東の地に多民族が住んでおれば
領土を巡る戦争は元々絶えなかっただろう。
それが無秩序であることに耐えられない人たちがいて
創世神話と歴史を唯一神信仰の立場から
預言書その他も含めて
解釈したものが旧約聖書だと思います。
つまり旧約聖書全体が、いや新約聖書も、神話である。

その神話に、それを書かざるを得なかった著者たちの
インスピレーションまた真実を見出すかどうかは
個人の信仰の自由によるが、

「ジェノサイドの権化」は、つまるところ
人間に他ならないということです。

そういう恐ろしき人間というものに、それゆえ、
それ以上に最高の恐るべき神を想わざるを得なかったから
神話が生まれ、信仰が生まれて行ったのだと思います。

>アメリカ西部劇の世界は、アウトローな世界ではなく、まさに法治国家であるからこそ、単純な殺戮ドラマにならない、という独自の世界を形成している
<

アメリカは今も西部劇を
続けているのではないでしょうか。
「フロンティア精神」「自分の身は自分で守る」
「世界の警察」を自任して・・・
などと聞くと胡散臭いものを感じます。
文明国家であるにもかかわらず
未だに自国民の銃規制も出来ないし、
しようともしないアメリカです。
銃が国家規模の大量殺戮兵器と合わさって
存在している現代においてアメリカは
法治国家の「西部劇」をいったい
どこまで続けるのだろうと思います。

蛇足かもしれませんが、
「独裁者は民主主義から生まれる」
と何かで読んだことがあります。
「独裁組織は法治国家から生まれる」かも・・・
「民主主義」「自由主義」「法治国家」
という聞こえは良いが当たり前のように
軽く使われすぎている言葉の導くところを
よくよく考える必要があると感じます。
「民主」も「自由」も未だ得られてはいない。
「法治」は「放置?」であるかもしれない。
それらは守るべきことではなく維持すべきことでもなく、
絶え間ない批判を通して、これから獲得し
育ててゆくべきことではないのだろうか。

うさねこ様の論文の一部を引用して批判するのは
卑怯でもあり、読解力の乏しさを露呈しているに
過ぎないのですが、今の感想を少しばかり
書かせていただきました。失礼。

             戸田聡 不具


はじめまして
97式戦車 | URL | 2007-11-12-Mon 12:43 [EDIT]
シベ超をネタにここまで話を広げるとは、相変わらずたいしたものです。興味深く拝見しました。
早く地球上から戦争がなくなり、みんな仲良く暮らせるようになればいいですね!
anthroposさんへ
うさねこ | URL | 2007-10-10-Wed 21:59 [EDIT]
  こちらこそお久しぶりでございます。コメント、たいへん嬉しく思いました。
   改稿ということで、長いコメントは差し控えますが、おっしゃるように、カント倫理学における自己利益という視点の欠如が、カント倫理学の戦争論への適用を妨げている面は非常に大きいと思います。anthroposさんらしい卓見だと思います。
   実はカントの道徳法則は、エゴイズムを排除しているようにみえて、エゴイズムそのものの自己立法だ、とショーペンハウアーが言いましたが、確かにカントはそういう面があるんですよね。
   ですから、おっしゃるように、自己利益という視点を正面から持たないと、概念的には、永久戦争を排除できなくなってしまう。カントの永久平和論は実は永久戦争論とそう遠くないという逆説があるように思われます。
「私服」の思想と「公服」の思想:感想
anthropos | URL | 2007-10-08-Mon 18:31 [EDIT]
おひさしぶりです。
思索道場のanthroposです。覚えていらっしゃいますでしょうか?

「「私服」の思想と「公服」の思想」論文、非常に示唆的な議論だと思いました。

特に、カント的な倫理学が戦争行為については成り立ちにくいと言う点が印象深かったです。

私も、戦争行為の動機としては、どうしてもある種の「自愛」というか「利己性」という概念が必要になってくるのではないか、と最近思うようになりました。

というのも、もし戦争行為が純粋に何らかの「理念」だけを動機として行われた場合、その戦争はおそらく永久戦争になってしまうと思われるからです。

例えば、「正義のための戦争」が行われたとします。この呼称がもし額面どおりのものであれば、この戦争は「悪」を世界から滅ぼしつくすか、あるいは自分が滅びるまで決して終わることがないでしょう。もし途中で止めたとしたら、それは純粋に「正義」という理念のために行われたものとは呼べない。なぜなら、そこでは「国家としての自己保存」という観念が考慮されているだろうからです。

したがって、次のことが言えるのではないでしょうか? もし戦争行為の結果として、永久戦争を防ぎたいのならば、戦争行為の動機として、少なくとも部分的には「自己利益」という観点がなくてはならない、と。

しかしながら、カントの倫理学は「自己利益」という観念については冷淡に見える。それが、戦争行為に対するカント倫理学の適用を妨げているのではないか? そんなふうな感想を抱きました。
恩義さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-22-Mon 13:36 [EDIT]
  こんにちは。新年初書き込み、恩義さんらしい逆説的ラディカルな意見で、今年も大いに議論が盛り上がりそうですね。
  まず私の考えを結論的に言いますと、私は「君が代」絶対賛成派です。しかし、絶対賛成だとしても、「君が代」について、柔軟に考えなければならないいくつかの点がある、ということを主張したいのも事実です。
  私が君が代に賛成なのは、日本の天皇・皇族というものは、ヨーロッパ的な理解の意味での「君主」ではなく、前国民国家時代の民衆、国民国家以降の国民と共生している世界でもたいへん特異な君主で、その君主(天皇)の永遠を歌うことはほとんど日本国の民衆や国民の永遠を歌うことに等しいと考えていい、と思うからです。しかも歌詞は少しも戦闘的ではありません。君が代は決して戦場に相応しい歌ではなく、宮中や神社の静寂にこそ相応しい内容といえます。
   松本健一さんのような保守派の論客までが言われていることですが、「日の丸」と「君が代」は全然違う起源と展開をもっているもので、後者についてはある程度慎重に考えるべきだ、という意見が意外に多数存在しています。しかし、その場合、君が代に代替する国歌の案を、慎重派や否定派は果たしてもっているのでしょうか。たとえば私は、「海ゆかば」は、日本の精神性を美しくあらわすもので、準国歌とさえ考えていますが、君が代に比べて、ずっと戦場で流れるに相応しい歌ですね。私は日本人の落ち着き、礼儀正しさ、(どこかの隣国数国と違い)平和を愛好する気持ち
をあらわすには、やはり「君が代」が相応しいのではないか、と思います。
   これは極限的な仮説ですが、恩義さんの思想が実現した場合でも私は天皇制はおそらくなくならないと思うのですよ。共和政体と天皇制が並存するのは確かに矛盾しているかもしれませんが、天皇制度は、その何十倍の危機を、幾度もくぐりぬけて今日に至っています。私が民族派思想家の中で最も好きな葦津珍彦氏の言葉「これからの日本、いろんなことがあるかもしれない、日本人が間違って社会主義を選択してしまうかもしれない、けどそんなときでも、天皇制だけは守っていこう」という、さりげない中にも、強烈な意思を感じるその言葉が非常に好きですし、日本人は大切にしなければ、と思っています。
   もちろん私は恩義さんが日本共産党や社民党のような、国内反日とは全く縁がないことはよく理解しております。欧州にお住まいでいらっしゃる経験を生かし、向こうでの政治状況をうまく吸収しながら、独自の主張を展開されているわけです。私は今年も恩義さんとは和して同ぜずで、おおいに議論していきたいと思っておりますので、何とぞよろしくお願いいたします。
  
『君が代』廃止を支持!
恩義(Oblige) | URL | 2007-01-19-Fri 19:31 [EDIT]
自殺という題目で思い出したのですが、私は日本の国歌とされてしまった『君が代』廃止を訴えています! これは決して反日工作員的売国奴というわけではなく、君(天皇、公家)のために巌となりて命を捧げるという概念に反旗を翻しているのです! もしこの題目の最初の一字を『き』から『た』に変えるだけで素晴しい題目にうまれかわるのですがねw。

私はこの世の中からいづれ血統のみで社会的優位を確保できてしまっている貴族や王族の制度を廃止することを切望しております。 公家や天皇を支えるために使われている資金を『必要以上の生活保護費』と見ています。 日本やそのほか公家や王政を支持している国において一部の個人が実力成果主義範囲外にて特別扱いされるような制度に懐疑しております。 

今年から私は新党宣言をいたします。 その名を『日本連邦共和国、進歩共和党(仮名)』です! これは社会政策面にて徹底した政教分離政策を推し進めるというフランス政府のセクショナリズムを徹底させた伝統的保守路線とは全く逆のベクトル方向だが保守的なベクトル質量としては同等な改革保守思想です。 経済は市場経済だが景気循環への政府介入も行うというものです。
Study of Suicide
恩義(Oblige) | URL | 2007-01-19-Fri 18:28 [EDIT]
私目も『自殺』についての議論は社会学にて勉強したことがあります。 

私は自殺について考察するときには↓のデュルケームによって開発されたスペクトルムを使用して体系的に分析します。
http://www.sociologyonline.co.uk/front_images/SuicideTypes1.gif

注意しておきますが、これはあくまでデュルケムの自殺についての考察において彼の開発したスペクトルムに基づいて考察しているということで、デュルケムの社会理論を支持しているというわけではありません! デュルケムの社会理論は伝統と規律に基づいた安定性を主張する保守右派により愛される理論ですが、社会左派にあたる私としてはデュルケムの儒教に類似するような社会規律や伝統の保守については懐疑しております。


まあ、余談はさておき、このスペクトルムは上下のバロメーターにおいて自殺の多発性を計るものです。 ですから公共経済を考察するうえでも系統的かつ数理理論に基づいて中庸の調整を行うための考察ができますので有用です。

日本社会において自殺や果敢な行動そして犯罪が多発し始めたのもやはり社会のAnomie化(無規範化)が原因だと思います。 この私の推量が原因で某ホムペのBBSにて私の思想はデュルケムのものとは違うし日本はアノミー化するほど階級化されていないなどのいちゃもんをつけられたことがあります。 しかし、私はオタクやニートの増加をアノミー化によるDeviance(果敢)の増加、また日本社会の過度な工業化社会において社会における個人の義務感の減退などが原因であると私は推量しています。


うさねこ様の啓示なされた、宗教や組織においての後追い自殺の例は非常になっとくいきます。 特に私は哲学においてかなり無政府主義の影響を受けていますので、宗教や組織による個人の脳の洗浄などにおける個人の動物的な生きようとする意識を制御する仕組みなど非常に批判の対象にしております。 私は多岐に渡る、社会において許容されている、宗教団体に身をおいたことがありますのでそれらの比較評価をしても非常に宗教の暗黒面、特に国家権力と結びついたときの恐ろしさというものを理解しています。 私はマルクスやサルトルほどに宗教や組織を急進的に反論することはありませんが、これらの影響が社会と個人に深く影響する場合にはAnomieとは逆のFatalistic(運命的)に過度に傾向する恐れがあります。 

PS: 内のホムペのBBSを再会しましたのでよろしければ何か書き込みくださいませ!
http://www14.jp-net.ne.jp/05/0005/BBSJABL.html?
自殺・キリスト教
戸田聡 | URL | 2006-12-22-Fri 12:18 [EDIT]

「(ウソの国-)詩と宗教」として
リンク付けていただいている戸田聡と申します。
元・精神科医で、一応クリスチャンのつもりで、
今は鬱+その他・・・の患者である私として
今回の自殺についての記事は、他人事ではないので、
ワープロにコピーして一応ざっと読ませていただきました。
どうも私は情緒的な人間なので哲学にレスする
ということはできません。代わりに私のHPに
載せてある作を書き込んでおきます。

まず「自殺は最大の罪」という教義を私は肯定します。
自殺してしまうと殺した本人が死んでしまうので、
もうこの世で悔い改める機会もなくなる
という意味において・・・です。


  自殺について
     (「自殺は最大の罪」とは
     「自殺者は最大の罪人」の意ではない
     これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
     死者を呪うための言葉ではない)

自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない

 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)

もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる

人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる

 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)

死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない

残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない

 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)

自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/uso2faith.htm


 キリストは「来世(の永遠の生命)」を説いているとは
思えないのですが・・・来世については、少なくとも私には、
あまり明確に説いているようには思えないです。


  信じて信じて

一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 

  祈り・永遠の命

過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/kaze5faith.htm

以上。失礼いたしました。

                戸田聡 不具




せりか | URL | 2006-12-19-Tue 22:03 [EDIT]
逃げたいです
目をつぶりたいです
白昼夢だと思いたいです

でも現実に1ヶ月前まで魂をにぎられ
いま放たれています。体が温かい
どこに式神をつれてきたかまで分かる

普通に生きられたらいいのに
の普通の基準が不在です
人形遣いの手元に戻って
いっそのこと楽になりたい

小谷野です。 | URL | 2006-12-19-Tue 16:28 [EDIT]
幽玄の世界。
夢のまた夢。
神は、全てを許されている。
あなたが、そこに存在するという事実をもって。
許せないのは、自分です。
自分が、自分にかけた呪縛。
それは、遠い夢です。
あなたが少女の時に見た夢。

せりか | URL | 2006-12-17-Sun 19:15 [EDIT]
幽玄のような話

遠い昔に、古い京都の風貌をもつ男性に強く愛され
古事記伝のサホビメのように親を選ぶか男性を選ぶか
内心を引き裂かれるような決断を迫られたことがあります。
わたしは母親を選びました。繰り返される追手をそなわった水の
やはらかさでもって、くぐりぬけて
逃げて遠く、遠くまでまいりました。

そのお方は、わたしの母の正体が鬼子母神
一種の阿修羅の両性具有形であり、あなたを食い尽くすだろうとおっしゃいました。とてもこわいのです。わたしは当時、母の強い精神的呪縛で生きていました。そして母の正体が鬼であればなおさらにして母を見捨てたくないのです。母を選びます。わたしは男の存在を記憶の奥に深く封印します。「あなたが神々にそむくのであれば、神々の余りの存在である貧乏神をあたえよう。貧乏神の金の流れを、そなわった弁でとめてみなさい、あなたはいずれ天に帰ることを忘れるな。国を守る使命を忘れたときおまえを殺す」この恐ろしい呪をうけたまま、何もかも忘れて自由に生きます。実際に貧乏神らしきものと現在暮らしています。呪を受けているのです。じっさいに弁で持って、出て行く金の流れを止めています。母は急性の脳の病で自殺します。歴史の見えざる流れを止めた罰です。

10年を経て、母の7回忌を終えました。
そのあいだ、午前の早い時間に夢によって深層心理に語りかけを享け続けました。男に守られていた、愛されていたと感じます。「京都の魂で生きなさい。異国の食物を口にしすぎるとイザナギのようになりますよ」とのことです。かつて男はわたしを呪によって殺したいくらいだと言っていたものです。ただ、実際には古来の儀式によって魂の共有を享け、今も生かされています。神々の余りの存在「貧乏神」以外、他の男性を愛することは、内心の呪縛によって強く禁じられております。
「かたい蕾の若紫で手元において育ててもよかった。しかし若紫は育てられると、いつか他の男のところに去ってしまうから、あなたは結果論として敵方にあっさり寝返るだろう。22歳では持った宿命をうけとめるにはまだ若い。自分の意思で戻ってこい」と男はわたしを街の中に自由に放ちました。一度他の街まで男は追ってきたが、あまりにも恐ろしくて戻りませんでした。かりに再会してしまえば、自分が弁の機能(金銭の流れを止めること)を習得しない、かなりはやいうちに男の手の中で染めかえられてしまうのが分かるのです。自分は天秤を持ち、そなわった公平性でものごとを判断しないといけない。だから一方に偏ってはならない。母がなくなったときも、無意識のうちで帰りたくて引き寄せられました。そのまま機上に旅立ち、幾年も過ぎました。母の心をおもえば、日本へ戻ってはいけないのです。

この男にいずれどこかで再会したら、わたしは曼荼羅の中
やおよろづの神々の世界に戻らざるをえない。そしてわたしが曼荼羅に戻るということは応仁の乱が予告されることになる。
ことだまの支配のもと、実際そういう風に時代は動き
皇室に2人の後継者がうまれている。

小谷野です。 | URL | 2006-12-13-Wed 17:37 [EDIT]
やめとけ。
首をつるには、明るすぎる。

これは、ずいぶん前に書いた文です。

人間は、極限状態において自己と対峙する。
その先に、神を見いだせるかですね。

なぜ、私は、ここにいるの。
なぜ。
遠くを凝視した時、あなたの優しい眼差しが・・・。
なぜ。
なぜと問う事なかれ。
神はあなたを今も愛されているのだから。
神に抱かれて眠れ。
こんな私でも、神は、愛してくださる。

人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を呪う。
しかし、神は神だ。人の都合でとうなるものでもない。
人が神を必要としているのであり。
神が人を必要としているのではない。

何が一番大切なの。

小谷野です。 | URL | 2006-12-12-Tue 18:19 [EDIT]
なぜ、許せないのかを問う。
あなたとあなたの心の底に。
なぜ、それほど自分を許せないのか。
自分に優しくなれないのか。
それは、あいつの問題ではなく。
あなたの問題なのだ。
神の眼差しは、常に優しく、あなたを見守っているというのに。

小谷野です。 | URL | 2006-12-12-Tue 18:07 [EDIT]
戦争の本質を理解しているのは、母親の気がしますね。
戦争というのは、愛する者というのがキーワードなのだと思います。
愛する者のために戦う。
しかし、愛する者をその為に失う者がいる。
戦争に地獄を見るのは、母親ではないですかね。
お母さんと叫んで日本の兵士は死んでいったと聞きます。
その言葉の中に、天国も地獄もある。
そんな気がします。

小谷野です。 | URL | 2006-12-12-Tue 17:57 [EDIT]
僕は、天国も地獄も、自分の心の内にあると思います。
だから、地獄を生み出すのも自分の心であり、天国を生み出すのも自分の心。そうなると、その本性、源は同じなのだと。
キリストの受難は、天国への途なのか、それとも地獄への途なのか。
結局は、何処まで自分を許せるかによる気がしますね。
自分を地獄へ突き落とす想いは、天国に続く思い出もあり。
自分を天国へ導くはずの信念が、地獄へと導くかもしれません。
しかし、いずれにしても、自分の心の有り様一つで救われも、救われないこともあると思います。

せりか | URL | 2006-12-06-Wed 23:20 [EDIT]
小谷野様ありがとうございます

「天国へ行く最も有効な方法は
地獄への道を熟知すること」
という、管理人さんが掲げている語句の
隠れ座標起点は戦争なのでしょうか・・
なにも知らず地獄への道へ巻き込まれたら
死ぬに死に切れないことでしょう

小谷野です。 | URL | 2006-12-05-Tue 14:59 [EDIT]
戦争は、日常的な感覚を全て麻痺させてしまわなければできない。人を殺すなと教わりながら、人を殺せと命じられる。物を壊すなと言われながら、徹底的に破壊し尽くせと命じられる。物を盗むなと教えられながら、物を盗めと命じられる。それは、凄いことですよね。自分の感覚を麻痺させない限り、命令に服せない。しかし、命令を聞かないと殺される。これも究極的ですね。本来自分を護ってくれるはずの国が自分を殺そうとする。まさに、戦争そのものが洗脳なんですよね。母の愛に対する裏切りではないのかという気がします。子供の頃、母親に、人に感謝しなさい。物を盗んではいけないと躾られる。その母親の教えに悉く反しなければならない。だから、日本の兵士は、死ぬ時にお母さんと叫ぶのかも知れませんね。

せりか | URL | 2006-12-03-Sun 06:53 [EDIT]
戦争の前線で何が起きているのか

規律を維持するため「軍法会議」で仲間が射殺される
ときには麻薬が使われ、同士討ちがおきる
捕虜たちは精神的な凌辱を受ける(いわば洗脳)
けっきょくのところ何人死んでるかなんて分からないのだ

戦争はやってはいけない
でも戦争は不可避だ
なぜなら、お金が動くから

あまり信じていないのですが
ネスレの
do you know where we going toという歌は
もともとインディアンのナバホやチェロキー族が、
戦争奴隷を作るときに使ったメロディだそうです。
このメロディが西洋人に奪われたときアメリカインディアンは
ほろびた。と傭兵は言います。

実際の捕虜洗脳の現場で、このメロディは使われた
そして、日本のコマーシャル洗脳の場にも使われたと
いうことに一抹の怖さを感じます。

小谷野です。 | URL | 2006-11-21-Tue 15:41 [EDIT]
訂正します。
1495年から1503年の間に300万人の先住民がカリブ海から姿を消している。

小谷野です。 | URL | 2006-11-21-Tue 12:14 [EDIT]
戦争を管理するというのは、平和を管理すると言う事に通じるのでしょうね。それが冷戦と言う事の真意だと思いますね。冷たい戦争とは、よく言ったものです。静かなる戦争。
その冷戦が終結したと言われる今日、誰が、何の目的で、戦争を、そして、平和を管理しようとしているのか。誰のために・・・。

なぜと問うことの虚しさを覚える。
人は、皆、自分が信じるところによって生き、死んでいく。

それは、突然、茶の間に土足で飛び込んできた。
まだ夏の名残の残る。初秋の夜。
ビルに飛行機が。
それをテレビが実況中継をしている。

日常生活と戦争との境目がなくなり。
戦争と平和が共存する世界が始まった。
誰が、それを信じられるというのだろう。

日本人は、平和という言葉を自分の都合の良いように解釈している。
アメリカ的平和。
イスラム的平和。
共産主義的平和。
日本人的平和。
どれが真実の平和だというのか。
ただ言えることは、
安全な所に身を置いて、平和・平和とがなり立てても意味がない。

神の名の下の戦争。
神の名の下の平和。

それぞれがそれぞれの正義を抱えて戦っている。

隣人愛という言葉が空疎にすら聞こえる。

なぜと問うことほど虚しいものはない。
しかし、そう問わずにはいられない。
なぜ、何を信じて。

テロという名の戦争。
日常性の中にある戦争。
それはある日突然、我々の日常生活の中で起こる。

何の変哲もない一日の終わりにそれは起きた。
我々はそれを目撃したというのに、
次の日には、いつもと同じ生活があった。
歴史が変わったというのに。
いつもと同じように同じ道を歩いていた。

そして、長い冬がまた始まろうとしている。
anthroposさん、小谷野さんへ
N.W | URL | 2006-11-21-Tue 09:39 [EDIT]
  管理人兼authorのN.Wです。熱い議論、本当にありがとうございます。普通でしたら掲示板には記さないのですが、感謝の意味をこめまして、記させていただきます。
 戦争の無意味化と核兵器の価値観についてですが、私は戦後まもなくの湯川秀樹さんの言葉を思い出します。核兵器の原理というのは太陽を輝かせる原理、すなわち創造神と基本的には同じところから出ているものであって、それに人類が到達したことは果たして悪なのか善なのか、ということですね。人間が創造神と同じ立場たりうると安易に考えることは、ある意味で非常に野蛮なこという観点も充分成立する。たとえば、私は核兵器の国際管理という動向には基本的には無関心ですし、その空々しい平和主義には例によって辟易としますが、しかしその国際管理の思想の根本に、果たして核兵器に対する態度が、どういうものかということには最低限の関心があります。私にはどうしても、核兵器の国際管理を唱える人々の表情に、核兵器をもってしまったということへの不思議さや深刻さを感じることができない。言い換えれば核保有を誇る人たちと同じ、創造神と自己を同一視する「野蛮さ」を感じてしまいます。不完全な私達人類が、核兵器という創造神の兵器を管理できるというおそろしい楽観主義は、いったいどこから出てくるのか。
  このことと、戦争の徹底した無意味化ということは、おそらく密接に関係するところがあると思います。第一次世界大戦を境に、世界の戦争は騎士道や武士道を失い、絶滅戦争に突入したわけですが、同時に「戦争を管理する」という思想が登場しはじめる。絶対平和主義なるものは、一次大戦後の欧米で登場した思想で、それが出来の悪い形で二次大戦後の日本に輸出されたわけですが、戦争を引き起こす原因である私達人間が同時に戦争を管理できるという思想は、いったいどこから湧いてくるのでしょうか。創造神の立場にたつからこそ、私達は戦争を管理できる、という傲慢な理想を考えることができたのではないでしょうか。ここに、戦争観への根本的な何かの変化が生じたのではないか、と私は思います。管理される対象としての戦争に、もはや美醜いずれの物語もないし、深刻な人間性の葛藤を読むこともできない。
創造神的立場に到達したという巨大な錯誤が、戦争を無意味な何かにしてしまったのでしょうね。そして1920年代の国際平和主義の挫折とともに、世界は核兵器の到来を予感しはじめ、ゆっくりとその開発を開始しはじめる、ということになる、のではないでしょうか。

小谷野です。 | URL | 2006-11-20-Mon 12:30 [EDIT]
夏。
たった一発の爆弾が、それまでの人間の価値観を打ち砕き。
歴史すら変えてしまった。
そして、所詮、平和も暴力によって守られているという真実を白日にさらしてたのだ。
平和を支える暴力も戦争における暴虐と何ら変わりない。
それが真実だと言う事を。

「一世紀あまりの間に、インディオの民はメキシコから90%もの生命を奪われ、人口は2500万人から150万人に激減し、ペルーでも住民の95%が消滅してしまった。ラス・カサスの算定によると、1945年と1503年の間に300万人の先住民がカリブ海の島々から姿を消している」とボー(ミッシェル・ボー)は述べている。(「宗教の経済思想」保坂俊司著 光文社新書)

我々は、我々の父祖が、直面させられたこの現実に対し、
ただ、愚かだからと言い切れるだろうか。

核兵器を持つ者が文明国で、
核兵器を持たない者は野蛮なのだと
誰が決めたのであろう。
そして、今、その暴虐の前に翻弄されている。

我々の自由は、家畜の自由ではないのか。
野生ならば、たとえ野ネズミや野ウサギですら自分の身を護る術を知っているというのに。
飼い慣らされ。
見せかけの平和の中で、
我々は、祭りの生け贄にされそうになっていることにさえ気づかずにいる。
現実の国際社会は、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼できる状況にはない。

野生の自由を取り戻したい。
我々は、本当に自由になれたのであろうか。

もともと自由と独立は、自分達の手で勝ち取るものなだ。
何もしないことが平和なのか。
それで愛するものを護れるのか。

平和とは何なのだろうか。
平和とは、真夏の夜の夢。
それとも、自分達の手で守り通すべき現実なのか。

小谷野です。 | URL | 2006-11-17-Fri 12:22 [EDIT]
 死の徹底的な無意味化というのは、凄く本質的で重いことですよね。
 漫画やゲームの世界では、死は本当に無意味になってしまう。その対極にある生もまた無意味になる。虫けらのごとくと言いますが、虫けらだって生きている。だから一寸の虫にも五分の魂と先人達は、教えてきたんですよね。
 漫画化されるとこの生と死が本当に無味乾燥で無意味なものになる。描かれた人物は、指摘されたとおり背景に過ぎない。人格も人生も人間性もない。ただの背景に過ぎない。無意味な物にすぎない。気が付くと、それに慣らされている自分がいる。

 人間は、死すべき運命にあるだと言う事ですね。
 この事をともすると我々は、忘れてしまう。
 忘れて戦争や平和について議論する。無意味ですよね。
 どうせ皆死んでしまうのだ。同じ死ぬのならば。遅かれ早かれ死んでしまう。
 死すべき運命を前提とするか、しないかで議論がまったく違ったものになる。
 戦争や平和についての議論なんてその最たるもの。
 生病老死。ブッタは、四苦という。それに愛別離苦。怨増会苦。求不得苦。五陰盛苦。を加えてブッタは、人の一生は四苦八苦だという。
 私の、祖母は、苦娑婆だよ。苦娑婆だよと言って死んでいきました。
 日本人は、潔く死にたいという。それが武士道だという。だから、パッと咲いて、パッと散る、桜が、日本人は、好きだ。春、桜が咲くとフラフラと出かけて花見をする。
 悲劇にせよ。喜劇にせよ。描かれているのは、圧倒的に、人の不幸が多い。人の不幸や戦いが人間は好きだ。ハリーポッターにせよ。ロード・オブ・ザ・リングにせよ。ナルニア王国にせよ。戦いの話である。
 無期徒刑囚と死刑囚とは生き様が違うという。
 人生を抜け出すことのできない牢獄と捉えるのか。死という定めに向かってい生きていると捉えるのかによって、生き様が大きく違ってくるのだろうか。
 戦場では、一兵卒でも哲学者になれる。
 我々は、艶やかに咲いて、鮮やかに散る桜なのか。それとも桜の木の下で酔いしれる酔っぱらいなのか。爛熟。

 いかに生きるかではなく。いかに死ぬのかをを問題とする人間も確かにいるのです。
 人間は、死すべき運命にあるという事と、自分はいつか死ぬと言う事は違う。
 しかし、人は死ぬといいながら、自分の死を実感できない人間が増えている。
 確かに、死が徹底的に無意味になってしまっているのかもしれませんね。
 死は、虚構の世界、仮装現実にある。自分は別の世界に生きている。自分だけは、未来永劫生きていくのだ。そんなことを本当に思い始めているのかも。
 自分が、命かけてもも守るべきものは、自分の名誉、家族なのか。
 それとも平和なのか。
 生き甲斐は、死に甲斐に通じると思いますね。
 死を覚悟した者は、生きることを考える。
 自分もいつか死ぬのだと思い定めた者は、生きることの意味が見えてくる気がします。
 その時、戦争と平和の実相が浮かび上がってくる気がします。

 死の持つ意味を考えるというのは、死を無意味化してはならないということは、生きる事の意義を知る上で重大なことの気がします。
 自分も死ぬのだと思った瞬間、戦争に対する考え方も違ってくると思いますね。
 平等というのは、死の前の平等だと私は思います。

anthropos | URL | 2006-11-16-Thu 20:33 [EDIT]
私は戦争論について勉強したことは全くなく、素人の意見以上のものは言えないのですが、私の戦争についてのイメージは次のようなものです。
まず、「戦争について」という、とても厳粛なテーマを論じるに当たって、このような事例を挙げるのは、ちょっとどうかと思うのですが、私の戦争についてのイメージを構成する重要な部分に、あるアニメ映画の一場面があります。それは物語の本筋とは関係なく、あくまで「背景」として描かれているに過ぎないものですが、こんな場面があります。画面の奥の方、侵入してきた銃を持った敵兵に、両手を挙げて降伏の意を表する男。しかし、敵兵はそれを無視し、男を撃つ。地に倒れる男。敵兵はさらに、男の頭を踏みつけ、止めとばかりに男の頭を撃ち、彼を射殺する。しかし、そのことは物語には何の関わりもない。何の意味もない「死」。
もう一つの事例は、第二次大戦時のフィルムなのですが、沖縄戦の映像で、洞窟に立てこもり、抗戦している日本軍に対して、アメリカ軍は火炎放射器を使用する。当然、洞窟には逃げ場などなく、黒こげになった日本兵が、あたかも人形のように(これは私の印象ですが)運び出される。そんな映像でした。
これら二つの事例が、私の戦争に対するイメージの大部分を構成しているのですが、両者に共通していることは、「死の徹底的な無意味さ」であると私は思います。人間から、あらゆる意味という意味が剥奪されてゆく。そんな恐怖を、私は戦争というものに関しては持っています。
まさに「テレビや映画でしか戦争を知らない人」の戦争観ですが、何かの議論の材料になればと思い、書き込ませていただきました。

小谷野です。 | URL | 2006-11-16-Thu 16:45 [EDIT]
 平和は、雪のようなものなのかも知れませんね。
 雪は、この地表を白く覆い尽くし、その下の現実を見えなくしてしまう。
 雪は、純白で綺麗に見えるけれど、全てを凍らせ閉じこめてしまう。
 戦後、六十年、日本は、平和だったと言います。でも、本当に平和だったのでしょうか。平和の名の下に戦を好む人間もいることを忘れてはなりません。本当に戦いはなかったのでしょうか。
 我々は、冬の寒さを忘れてはなりません。戦後生まれの人間が知る戦争というのは、テレビや映画で見る戦争でしかない。それで、戦争を、平和を、理解したつもりになることが恐ろしいとは思いませんか。
 湾岸戦争で見た戦争は、まさに、テレビゲームの世界です。
 これは白日夢です。幻です。投下された爆弾の下に人がいる。それが現実だというのに。とうとう仮想社会が現実の世界に取って代わろうとしている。戦慄以外の何ものでもありません。現実のホラーです。
 でも我々には、その仮装現実と本当の現実との区別がつかなくなってきている。
 ホラー映画を楽しむように、現実を生きようとしている。自分の人生をリセットしてもやり直せると思い込んでいる。ゲームの中の主人公のように人生を生きようとしている。
 これは、カントやマキャベリが想像できるような世界ではありません。
 そして、旅客機が高層ビルに突撃する。それをテレビが生中継する。もはや現実が人間の意識すら飛び越えてしまった気がします。飛行機の中にいた人々の恐怖、人生、そして、ビルの中で働いていた人々の思い生活をまるで深い闇の中に投げ込むように。そして、その現実を我々は、テレビを通して目撃させられた。それが、我々の偽りのない現実なんです。
 平和は、雪のようなものかも知れませんね。
 ひらひらと降っては、手のひらで淡く融けていく。
 純白で、美しい天の恵み。平和の持つ意味をもう一度かみしめてみたい。
 僕らは本当に平和だったのだろうか。
 平和を愛おしく思っているのだろうか。

小谷野です。 | URL | 2006-11-16-Thu 11:25 [EDIT]
戦争の正体というのは、戦争の惨禍と言い換えられますね。戦争の惨禍は、目に見えるけれど、平和の惨禍は目に見えにくい。

小谷野です。 | URL | 2006-11-15-Wed 18:34 [EDIT]
平和は良いと言うけれど・・・。
戦争の正体は、目に見えるかも知れないが。平和の正体というのは見えにくいと思いますね。圧政や、強権による平和もある。
イラクやアフガニスタン、ナチスドイツといった独裁者の支配下の平和。第二次大戦前、イギリスは、ナチスドイツの専横よりも平和を選んでも結局、惨禍を招いた。その反省からアメリカは、イラクを制圧したと主張している。
平和とは何かを考えさせることです。一見平和に見える状況の裏に何が隠されているのか。
平和の影でなされていた圧制者による大量殺戮をどう評価するのか。それは、戦争とは何かを考える上での表裏をなしている。戦争の正体を知るためには、平和の正体を見極めるしかないのかなと思いますね。
ただ、民主主義国と専制主義体制との間の戦争という図式は、今でも生きているように見えますね。

小谷野です。 | URL | 2006-11-15-Wed 14:33 [EDIT]
僕は、平和にも死の影を見るんです。涅槃寂静。仏教的な世界ですが、全てが平穏となった時そこには、死の静けさに支配されしまう。人間の世界は、本来修羅の場なのだ。つまり、戦いの場であり、そう宿命づけられている。悟りきれない憎しみや怨念、憎悪が渦巻く情念のせかいなのだ。
だから、現実の平和というのは、もっと危うい均衡の上に成り立っていて、その影に、もっと生々しい営みが隠されている。それを直視しない限り、平和は保たれない。
平和というのは、表面的には、平穏無事みたいですけど、平和の影には、ドロドロとしたマグマのようなものが渦巻いていて、それが突然爆発するんではないのかと・・・。クラウゼビッツは、戦争は、政治の延長線にあると言っていましたが、戦争は、日常性の延長線上にある狂気のような気がします。
今の日本の平和というのは、張り詰めた風船のような危うさがあるような気がします。平和は、腐敗を伴うこともある。退廃的で、爛熟した文化が、戦争前夜の平和の影に潜んでいる。平和であるが故に、人々は狂騒し、漂泊する。生きる目的を見失い怠惰になる。平和な時こそ自分を見つめ、自分がしっかりしないと守るべきものがわからなくなる。その意味で平和というのは、怖い部分がある。平和なときに自分を見失うと、狂信し、やがて暴走を始める。
戦争は、祭りのようなものというのは、わかる気がします。停滞に飽いた時、何もかもぶち壊したいという焦燥に駆られる。その様な焦りが泡立ち始めたような胸騒ぎがします。
以前、中世史を勉強している時、カント達は、極めて狭い世界に住んでいたと言うことに気が付きました。その狭い世界の中で、戦争を身近に感じながら、彼等は、生きてきた。
ベイルートというのは、新宿駅と新宿伊勢丹くらいの間で戦争が行われていると聞かされた時、戦争が日常化した世界というのは、そんな世界なのかと愕然としました。我々は、気が向けば日本中何処へでも行ける。ところが、歩いていける距離なのに目に見えない生と死の壁がある。たしか、カンボジアでカメラマンの澤田でしてか、目の前に見えるアンコールワットになぜ行けないのかと思い。アンコールワットに行こうとして殺されたと聞きました。つまり、それが戦争なんですよね。平和と戦争は、実は、同じ世界であって状況が違うだけなのだと。それを今の日本人は忘れている。平和が現実ならば、戦争もまた現実なのだと言う事を・・・。
再び小谷野さんへ
N.W | URL | 2006-11-15-Wed 13:54 [EDIT]
  再び、管理人兼authorのN.Wです。
  ロジェ・カイヨウは、戦争は人間にとって必然的な祝祭である、という戦争観を展開しました。この戦争観によれば、「平和」とは、祝祭と祝祭の間の「穢」の時間、という意味になってしまうことになりかねないでしょう。さらに、恋愛・性愛との重大な共通性を考えなければならなくなります。しかし小谷野さんが言われるように、戦争が「死」を垣間見る世界である限り、このカイヨウの戦争観を否定することは難しいというべきでしょう。こうしたカイヨウ的な戦争観については、今回の戦争観では、あえて触れないようにしました。
  たとえば恋愛・性愛の世界をサルトルが言うような、自己と他者の間の自由の激しい奪い合いという視点で見た場合、私達は「祝祭」だからそこにあえて飛び込むのだ、という観方も当然できるわけです。しかしそう考える場合、カイヨウ的戦争観で、「穢」の一種と捉えられるべき「平和」は、恋愛・性愛の世界ではどのように、意味を平行移動させるのか、ということを考えなければならなくなります。自由の奪い合いが恋愛・性愛の本質であるとすれば、
結婚制度や恋愛者間の「平穏」を目的とした約束事は、たとえばハイデガーが「死」を忘却させるものとしてくだくだしい形式への逃避といった葬儀、墓、と言ったような意味のものになる。つまり結婚や恋愛者間の約束事と言った「平和」状態は、次の「戦争」状態(自己と他者の自由の奪い合い)への休戦期間、穢の時間、というようなものになる、ということになりかねません。しかし果たしてそういうふうな「平和」観が、恋愛・性愛の世界において、そう簡単に成立するのでしょうか。
 小谷野さんの「平和とは何でしょうね」という言葉に、非常に大きい何か、を感じたので、あえて、問題提起的な文章を記させていただきました。  
管理人のみ閲覧できます
| | 2006-11-14-Tue 23:50 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます

Deen | URL | 2006-11-14-Tue 14:53 [EDIT]
以前書き込みました、米国在住のカント研究者でございます。今回もうさねこさんの論理展開、非常に楽しませていただきました。カントを専門で読んでいても、こういう論理の切り口があるとは気付きませんでした…感心すると同時に自分の頭のかたさを思わず感じてしまいました。これからも大応援しておりますし、いくつか直接に質問をしたい点もありますので、機会がありましたら、私の方にご連絡いただきたいと思います。

小谷野です。 | URL | 2006-11-14-Tue 11:54 [EDIT]
そう考えると、平和とは何でしょうね、

小谷野です。 | URL | 2006-11-14-Tue 11:45 [EDIT]
こちらこそいつもお世話になっています。
僕は、戦争にも、恋愛にも、その対極にいつも死の影がつきまとっている気がします。そして、その裏側に生と性があるのだと思います。エロスという言葉の響きの中に、生と死の存在を感じ取るのです。それが欲望と結びついた時、悲劇が起こる。
しかし、だからといって欲望を一概に否定しきれるのか。それが根源的なジレンマだと思えるのです。
男のために子を殺す母親がいる。
哀れです。哀れとしか言いようがない。また、人間の心に潜む深い闇、業のようなものを感じさせられる。
愛とは何か。愛とは戦いだとも言える。愛するが故に、犯す罪。
なぜ、愛する者同士なら許されることが、他の者には許されないのか。手を握ることも、キスすることさえ。しかし、その愛は確かめようがない。
生と死のドラマ。
そこに生身の性と愛とがあり、それが戦争にも濃厚に影を落としている。つまり、生きようとして生きられない状況が前提にある。
うさねこさんが、以前、ラスコールニコフを例に出されて言っていましたが、正しいと思って行った行為が、行った直後から自分を裏切っていく。その葛藤の中で、道徳の本質は問われる。
それは、性と愛、戦争と言った極限状態の中で問われるのかもしれませんね。

N.W | URL | 2006-11-14-Tue 09:51 [EDIT]
 管理人兼authorのN.Wです。
 いつもありがとうございます。普通でしたらいただいたコメントには直接メールを送信してお礼と意見を記すのですが、小谷野さんにはいつもお世話になっておりますので、今回は感想欄に記させていただきますね。
 いただいた感想は今回の戦争論に関してというより、むしろ前回の性愛論に関してのものですね。しかし前回と今回は、カント倫理学がベースになっているということで、実は共通の基盤にたっている面があります。
 小谷野さんは共有、そして永遠の別離、と言われましたが、私は性愛論を考える上で、「他者」である相手を、自分の自由を実現する相手なのか、それとも自分の自由を危機的なものにする相手なのか、ということで、全然違ってくると思います。たとえば、後者的に考えると、恋愛・性愛はそれが「幸福」にスタートした瞬間から、実は「相手が裏切るかもしれない」という嫉妬感を同時にスタートさせてもいる。相手の「自由」に拘束されている形で自分の「自由」が存在して、そこに恋愛関係が危うく存在成立している、ということですが、これはサルトルあたりが言いそうなことですね。私は恋愛や性愛に関して基本的に、この考え方を妥当だと思います。ペシミズムといわれるかもしれませんが、恋愛・性愛は「食うか食われるか」という、他者の自由に自分が拘束されるという苦しさの、最も先鋭な形が現れるのだ、と思います。
 しかしいくらサルトル的な捉え方で恋愛を考えても、それでは「どうして私達は恋愛をしようとするのか」という問いに、どこかとらえきれないところが必ず生じてしまいます。私達はやはり、自分の自由を実現しようとして、恋愛に憧れる、そして実践しようとする、ということもあるのですね。これはレヴィナスあたりが言いそうなことです。問題はその実現しようとする「自由」がいったいどこに向かおうとしているのか、ということですね。かつて性愛・恋愛は、家族制度なり子供なり、自分の自由を「死」という自由の終焉段階と何らかの調和をはかるように、目的的に存在させられていたはずです。しかし今ではそういう目的のほとんどが、意味を空虚にさせられている。そもそもまやかしだった、という哲学的指摘も可能ですけれど、恋愛・性愛がただそれだけで、非目的的に存在するようなことが、果たして可能なのでしょうか。小谷野さんがおっしゃるような倫理的危機の訪れ、ということは、そういう意味なではないだろうか、と私は思います。「何のために愛するのか」という問いが「愛はそれだけで存在しうるのか」という問いに変質しつつある。サルトル的な自由の奪い合いの世界が果てしなく続く世界があるのみなのか、ということでもあります。
 少なくともいえることは、恋愛的他者は自分の自由を拘束しようとする「地獄」なのか、それとも自分の自由の実現を可能にしてくれる「可能性」なのか、そのいずれかをめぐり答えのない出口なしを、まさに答えなしだからこそ積極的におこなおうとする、ということですね。カントがどうこうということではないですが、しかしそう考えれば、カント倫理学の公式を性愛・恋愛にあてはめる意味がよりあるのだ、と私は考えています。

小谷野です。 | URL | 2006-11-13-Mon 18:47 [EDIT]
汝、殺すなかれと言う言説が最も深刻な倫理的危機ならば、男と女の問題は、最も、日常的な倫理的危機なのだと思います。
だから、あらゆる宗教において、また、思想において男と女の問題は、最も先鋭的な問題となりうるのでしょう。
嘘をつくなとか。物を盗んではいけないとか。物を壊してはいけないとか。約束は、守らなければならない。神を信じなさいと言うのは、自らからが招かない限り危機は訪れないが。性愛は、そこに自分の意志や観念が存在するが故に、避けて通れない問題なのだ。
人を愛するとは、そこに自己表現、自己実現がある。それでいて自分が我慢すれば済むという単純な問題でもない。そこに愛する相手が居るのだから。そして、否応なく、共有されていくのだから。
愛し始めたその時から、愛は、自分をに背いていく。傷つけたくないのに、愛するが故に傷つけてしまう。苦しみたくないのに、愛するが故に苦しむ。なぜ、それほどまでに人は愛さざるをえないのだけろうか。たとえ、愛し合えたとしても、それは、永遠の別離を前提とした愛なのだから。
だから、諸々の宗教は、苦の根源を男と女の問題として、禁欲的にならざるをえないのかもしれない。しかし、それは、人間本来の姿に背くことになるのではないのか。
だから、最も、日常的な倫理的危機は、男と女の間にあるのかも知れない。
どう思われますか。

哲学家K.T. | URL | 2006-11-09-Thu 23:00 [EDIT]
「Selective Mind」の哲学家K.T.です。
「戦争のみが、輸出が困難な場合には、・・・飽和した産業の顧客になりうる」 (バタイユ)。
 アメリカのイラク侵攻もいわば経済政策の一環で、アメリカ全体が沈没するくらいなら、相応の難癖をつけてから数千人の若者(多くは中米の移民)の犠牲で済ませよう、というのが、戦争を必要とするアメリカの政治的な流れになっているのではないでしょうか。
 客観的に見て、戦争は、携帯電話の普及と同じで、需要を喚起する「経済」なんですね。少なくとも、デリダやバタイユの言葉を借りれば。
 ユダヤの武器商人ミルチャンのケタ違いの投資で、我々はハリウッド映画を見ている。でもそれが南アフリカの罪なき貧困の流血に因っていると考えると。
 『純粋理性批判』以外のカントには正直興味がないです・・・。
「定言命法」とか、余りにも「法」に固執しすぎて。
 英軍を苦しめた山下奉文は処刑、多くの日本兵の犠牲を出して英軍に利した牟田口連也は釈放。山下奉文は私の中で唯一いいイメージのある陸軍軍人ですね。
 性愛に関して。これは女性の領域と考えていますので、控えさせて頂きます。
 西部氏は、「女は体を露わにするが、本は精神を露わにする」と言い、小林よしのりを感心させていましたが、果たしてそうでしょうか。書かれたものは、精神のすべてでは全然ありませんね。厳密には一部ですらない。他方、女の体はそれ自体、「そのもの」です。
 私の国家観の理想は、ルソーですね。但し、富野由悠季が考えるように、そういうものを超越して、宇宙へ飛び立つ人類・人間理性が理想なのであって、私は国際政治にあまり関心がない方です。
「戦争論」への感想
石田 俊義 | URL | 2006-11-05-Sun 18:58 [EDIT]
初めてウサネコさんのサイトへ「感想」なるものを書かせていただきます石田といいます。

いきなりテーマが「戦争論」という重い内容なので熟読してからと思いつつ現実にはシステム統合直後の現場対応というハードな仕事の状況で、なかなか自由な時間もなくかと言って軽いノリで感想を書く気にもなれず時間だけ過ぎていきます。
 自分なりにいくつか気がかりな点を述べさせていただきます。
(1) 戦争には必ず当事国の戦争目的があります。そしてその目的が顕実化するのは勝      
   敗が決まり勝者と敗者が歴然として後なのです。私は戦争は勝敗よりも戦争が終結した後の経緯の方が戦争そのものよりはるかに重要だと考えます。
    戦闘状態では戦っている両者は対等ですが勝敗が決して後は、勝者が敗者に対して完全に主導権を握ります。
    東京裁判は勝者が敗者を一方的に戦争責任を押し付けて断罪するという極めて
   不当な裁判であった。本来、軍事裁判は戦闘地域で住民への残虐行為、略奪、強姦、殺傷、恫喝などの違法行為を働いた個人や集団を裁くべきものであって勝者が敗者に濡れ衣を着せてまで一方的に悪と決めつけて断罪するなど前近代の戦争かと言いたくなります。
    日露戦争において戦争終了後、日本は国際法に基づいてロシア兵捕虜を丁重に
   扱ったし、ロシアがロジェストベンスキー提督の敗戦責任を追及したとき乃木将軍は幾度も助命嘆願の手紙をロシアに送っております。
    ニュルンベルグ軍事裁判では、ドイツがユダヤ人の大量虐殺の責任をとわれた
   ようですが、ユダヤ人住民の無差別大量処刑という点ではソ連だって同罪の筈。
   ドイツ側の責任者を断罪するのは当然だと思いますが、ならばソ連側の責任者も
   断罪すべきだったのです。
    ソ連軍がポーランド将校5000名をカチンの森で虐殺した事件は結構有名ですが、その後50年間ソ連邦政府はポーランド国家、国民に対しては共産主義
   政権による圧制を繰り返すのみで一度も謝罪しなかった。
   ソ連崩壊後、エリツイン大統領が歴史上初めてポーランドに正式に謝罪した。
 
(2) 明治以降の対外戦争、日清、日露、日米の3つの戦争はすべて日本にとって
   自衛の為の戦争であった。そして日清、日露は絶対に勝たねば国家の命運のつき   
    てしまう戦争であり、日米は勝っているよりは負けたことが良かった戦争である
    と考えます。
     理由は簡単です。
     当時の清国は国家の近代化を怠って時代遅れの統治を是とする帝国であった。
     当時のロシアもツアーリが専制支配する前時代的な帝国であった。
     こんなグウータラ国家の属国になれば明治以来の日本の近代化の努力など吹っ飛んでしまうしかなかった。
     その点米国は、建国以来200年で脅威の発展をとげた民主国家です。
     負ける相手国としては理想の相手に負けてやったと言えます。
     そして現実において日本は第二次大戦のどの戦勝国、どの敗戦国よりも
     平和で安全で経済的に脅威の成長を遂げた幸せな国家になったのです。
     もし日本が日米戦で勝っていたらきっと日本の国家、国民は勝者の驕り
     でとんでもない鼻持ちならない人種に変質していたに違いない。
     死力をつくした戦争で負けて惨めさ、悔しさ、空しさを体験したことは
     日本人にとって非常な精神的財産となったのだと思います。

    この日本の運命と対照的なのが東欧諸国で
    チェコ、ポーランド、バルト3国は決して敗戦国ではなかった筈ですが
    戦争前半においてはナチスドイツに国土を蹂躙され、後半はソ連軍によって
    共産化されて、1948年以降40年間も民族史上もっとも苦しく辛い生活
    を強いられた。

 以上 簡単に(?)感想を述べさせていただきました。

  滋賀県在住 石田俊義(52)


 
      
      

小谷野です。 | URL | 2006-11-02-Thu 16:25 [EDIT]

 殺されるかもしれないという怖れと殺すかもしれないという怖れ。戦争に対する二重の恐怖だと思います。しかし、殺されるかもしれないと言うのは、肉体的怖れ。殺すかもしれないと言うのは、精神的怖れ。殺されるのは、肉体的な死で、殺すのは、魂の死。どちらの方が恐ろしいのだろう。

小谷野です。 | URL | 2006-11-02-Thu 11:53 [EDIT]
人間にとって最も深刻な倫理的危機は、汝殺すなかれが問われたときだと思います。戦前は、戦争というものが現実だった。我々は、人に銃口を向けざるをえないと言う実感を今は持たなくてもすむ。しかし、私達の父祖の時代は、現実でした。しかも徴兵制度というのは、否応なく成人の男子一人一人に突きつけてきたのです。おまえは、国を守るために、人を殺せるか。
この問題は、中絶や堕胎問題の根底にもある。しかし、現代人は無自覚である。
そして、この問題は、世界中で今でも突きつけられているのです。正義の裏側には、モラルの捻れがある。
人を殺すことは、大罪だと教え込まれ、地獄に堕ちると信じられていた時代、人を殺さなければ生きられない状況に置かれる。それが何を意味するのか。
我々は、裁判員制度をいとも簡単に通してしまいましたが、それは、自分が見ず知らずの人間の生殺与奪の権を委ねられるか解らないと言うことを意味するのです。
その時、汝殺すなかれと言う戒律が、重くのしかかるでしょう。
それが、道徳と現実に対峙すると言う事です。
この世の矛盾は、現実なのです。現実に、この身と心を引き裂くのです。

かんたろ | URL | 2006-11-02-Thu 01:08 [EDIT]
こんにちは。
ここで最近議論されているように、理想主義と精神的闘争状態が矛盾しない、ということはカントの倫理学においては(あるいは別にカントに限らずとも)そうなのだろうとわたしも思います。というのも、自己愛と非自己愛の闘争状態の継続によって「理想」へと到るプロセスを無限に「彼方」へと先送りしつづける(強迫神経症的な)ありかたにこそカント倫理学の基本形式があらわれているように思われるので。
カントは道徳的行為=善というものが「なんだかんだいって、それも自己愛にすぎないのじゃないか」というシニカルな意見によって覆されうるというところから、徹底した非自己愛の法則(定言命法)を以って道徳善の可能性を保存しようとするのですが、同時にカントは、人間が理性的である一方で外的・内的な諸影響を受ける感性的存在者でもあるため、つねに自己愛といった欲望を完全には逃れることはできない、と言っているだろうと思います。そこにまた(カント倫理学における意味での)「精神的闘争状態」が生まれることになるのでしょうが、前回のコメントでわたしがカント倫理学において精神的闘争状態が二義的ではないかと書いたとき、わたしはそうした「理想=善」を彼方に望みつつ無限に繰り広げられうる「精神的闘争」だけを念頭においていたのではなくて、むしろ、カント倫理学において「善そのもの」は疑われていないのではないかということ、つまり、善に向かう無限のプロセス(闘争状態)が発生するメカニズムそのものの前提としての「善それ自体」(物それ自体)がほとんど疑われることなく定立されているのでは、ということを考えていたわけです。要するに、「善それ自体」が、疑いや間違いといった(精神的闘争を抱えうる)人間の心の領域を超えた「もの(それ自体)」としてきっちり確保されていることに対して、結局のところカントは「精神的闘争の可能性がはじめから排除された(あるいは排除されるべき)領域」という、それこそ無限の空想のプロセスを生み出しているのではないか、という疑問をわたしは抱いているのです。
ですから、「精神的闘争」と一口にいってもそこにはかなりニュアンスの違いがあったわけで、微妙すぎて自分でもよくわからなくなりそうな議論ではありますが、すこしでも曖昧さが除かれればよいと思い今回書き込ませていただきました。何はともあれ、煩瑣な文章で申し訳ありません。
anthroposさんへ
N.W | URL | 2006-10-31-Tue 19:29 [EDIT]
再びauthor兼管理人のN.Wです。いつもでしたら直接お礼を言うところ、例によって今回のブログの根本のカント倫理学に関することですので、皆様にも読んで考えていただきたいと思いまして、直接、ブログ感想欄に返事を記すことにしました。
anthroposさんのおっしゃることは浅薄では全然なくて、逆に全く正確な議論だと思います。「実践理性批判」や「道徳形而上学の基礎づけ」でカントが考えたことは、完全善を実現せよ、という定言命法が絶対的であるにもかかわらず、結果的に善が実現できないことはいったいなぜなのか、ということに尽きると思います。そのプロセスを探求することが、「実践理性批判」以降の彼の最大のテーマの一つだったともいえるでしょう。だからこそ彼は、最初から定言命法からはずれているような非適法行為、いわゆる世間的な意味での犯罪というものを問題にしないのですね。むしろ定言命法に従っているようにみえて、実は自己愛的にそれを実現している「善人」あるいは「理想主義者」に、厳しい批判的考察を向けるのですね。だからこそ彼は、自分は「道徳」を新しくつくりだす考えなど全くなく、道徳の新しい形式をr理論的に与えようとしているにすぎない、といたるところで言っています。彼が自己愛や他律というなかば強引な概念でつくりあげていく根本悪についての考察は、理想主義と精神的闘争状態の間の関係への考察といっていいと思います。両者は矛盾しない。しかし私達が考える以上に、大きな深淵が横たわっており、そのことへの激しいくらいの実感、観察に、私はカントの世界の驚くほどのリアリズムを感じてしまうのですけれどね。


anthropos | URL | 2006-10-30-Mon 16:33 [EDIT]
たしかに、カントの考える理性的善はあらかじめ調和的なものとして前提されていますね。「普遍的立法という形式だけが道徳的法則を規定する」と彼が言うときも、意思の格律が万人に受け入れられる=善なる意思という等式が成り立っている。ただ、カントの場合だと、完全な善というのは神のみに当てはまることであり、人間はそこまでいかない、何処まで行っても不完全なままにとどまらざるを得ない。しかし、だからといって、どうせ完全な善なんか無理なんだから、善への努力を止めてしまっては元も子もない。なぜなら、その場合、善に似て善に非ざる似非善があらわれてくるだろうから。それだから、やっぱり人間は完全な善を求めなければならない、と確かそんなことを『実践理性批判』の中で論じていたように思います。僕は『道徳形而上学の基礎付け』を読んでいないので、なんともいえないのですが、「精神的闘争状態」というのは、こういう状態、つまり到達不可能と分かっていながら、最高善を追求するという状態に見られるのではないかと、読んでいてちょっと思いました。ですから、「精神的闘争状態」と「理想主義」は別に矛盾はしないのではないかと僕は思っているのですが、これは浅薄な議論でしょうか?

N.W | URL | 2006-10-27-Fri 22:59 [EDIT]
author兼管理人のN.Wです。
 私はふつういただいたコメントへのリアクションはブログ感想欄には書かず、直接、書いていただいた方にメール返信するのですが、かんたろう様のコメントは非常に重要なご指摘でしたので、リアクションを以下記させていただくことにしました。
  カント倫理学を整理しますと、カントの倫理学が混乱しやすいのは、理性的善意思というものを前提として疑っていないことからしてまずあるわけですね。この点からして私達の日常感覚とは違っています。まず、精神的的闘争状態が二次的である、というかんたろう様のご指摘ですが、カント倫理学の理解で、一番のキーワードになる概念は「自己愛」だということを思い起こす必要があると思います。ここでも「自己愛とは何か」という考察は実は徹底性を欠いていて、私達が馴染んでいる「自己愛」という意味とは遠く隔たっています。ニーチェ以降の哲学や、あるいは精神分析学的概念に慣らされている私達には「自己愛」という言葉はなんだか迫力がないのですね(笑)「自己愛」という言葉の前で、これは「エゴイズム」とどういう類似と相違をなしているんだろう、ということを考えると、いつまでたっても話が始まらない、ということになってしまいます。にもかかわらず、この「自己愛」こそが、カントの倫理学に新鮮さを与えてくれるし、その枠組みも成立しない。自己愛と概念を認めてこそ非自己愛という概念も成立し、非自己愛に化けた自己愛、というカント倫理学の修辞学が次々と成立してくるわけです。「実践理性批判」や「人倫の形而上学」を読む限り、この「自己愛」概念は、市民社会的な善人の「悪」を暴く限り、最大の武器になるのは間違いないと思います。あるいはカントの倫理学は、この自己愛をめぐり、延々と考察を循環させているように思います。しかし、対象を拡大しようとすればするほど、かならず無理が出てきます。カント倫理学の発明品的な概念である「自己愛」概念を前提とする限り、カント倫理学において私は決して「精神的闘争状態」は二次的なものにはならない、と思いますが、カントの理想主義的な結論の防衛と不整合をきたしているのは間違いないと思います。私はこの不整合をカントの思想全体から説明するということであれば、かんたろう様のご賢察は全く正しいものだと思いますが、私はあえて、彼の実践倫理学の範囲にとどめて、ある意味悪意で(笑)カントの倫理学を理解しようとしたまででございます。
  「自己愛」概念を前提とする限り、かんたろう様のように慎重に考察説明されなくても、国家においてカント倫理学が成立しえないことは明白ではないかと思います。なぜなら、「自己愛」に該当するものが国家において何であるか、ということが全くみえてこないからなのですね。「ナショナリズム」かも知れませんが、その「ナショナリズム」に対応する「非自己愛」が何か、ということはさらにわからなくなってしまいます。ナショナリズムが純粋に精神的闘争状態を起こす、ということは、どんな政治学的思考でも哲学的思考でも、概念的に成立不能だと考えざるをえないですね。
   アイヒマン的な「悪への自由」ということに関しても、カントの倫理学においては全く論理必然で、私はアイヒマンの論理は間違っていない、と思います。ジェノサイドでなくても、たとえば「嘘」について、カントは人類愛や他者愛に基づいているようでその実は自己愛でしかない「嘘」を否定し、そのことであらゆる「嘘」を全面否定するという論理飛躍をしていますが、もちろん非自己愛的な「嘘」もありうるわけで、カントの「嘘」論はどう考えてもおかしい。本格的な市民社会の理想主義を成立防衛するのでしたら、こんな結論を導かないはずですが、私はそれ以上に、「嘘」の否定が、それ自体で悪に利用されること、しいてはアイヒマン的な巨大悪に利用されかねない、ということが気にかかってしまいます。にもかかわらずカントは一歩も譲らない。この「嘘」論を例にして考えると、カントにとって理性的善(嘘をついてはならないことを最重要の義務におく)ことと精神的闘争状態(嘘をめぐる自己愛の問題)というのは、やはり一次的な問題としてセットに考えられており、二次的な問題ではない、と思います。「カントは召使のランペ爺さんのために実践理性批判を書いたのさ」というハイネの皮肉がありますが、私は端的に、カントの倫理学は、アイヒマン的な悪への自由を認めやすい構造をいたるところにもった実践倫理学で、それはカントが想定してしなかった、そしてカント倫理学を私達が応用するのならば、かならずそれを修正しなければならず、その修正の術こそが、カントの倫理学を読む術である、というふうに、まずは考えています。







かんたろ | URL | 2006-10-27-Fri 01:39 [EDIT]
こんにちは。お久しぶりです。
カントの倫理思想をどう捉えるかということもまた難しいのですが、とりあえず「精神的闘争状態」として語られるカントの倫理学を国家レベルで適用すべきではないのではないか、という議論について考えてみたいと思います。
実は今回、文章を読んでいて何度も何度も頭がこんがらがってしまい、それこそ闘争状態という感じで難しかったのですが、頭を振り絞って、ブログ中で扱われているカントの倫理学に関してとりあえず三つの問題をとりだしてみたいと思います。


①カント倫理学を国家集団レベルに適用すると、(アイヒマンの例のような)巨大な「悪」に対抗できなくなる、という「カント的道徳」の負の側面。

②「戦争」などがはじめから「道徳状態」の外に置かれてしまっている、というカント倫理学の不徹底面。(その不徹底さに関して、個人レベルではカント倫理学を拡大できそうだが、国家レベルではそうすべきではない)

③道徳的個人観がそのまま国家に応用されて、戦争権の制限や絶対平和主義といった(楽観的)理想主義へと傾く。(そうした「個人」の比ゆが、実は自衛権の発動による「正当な戦争」の根拠として担ぎ出されているのではないか)


──と、カント倫理学に関係して以上の3つの議論をとりだしてみましたが、いろいろ考えてみると、③の理想主義はいわゆる「精神的闘争状態」にはないのではないか、という気がします。そうだとすると、ここでは(「闘争状態」としての)カントの倫理学を国家に適用すべきでないという議論は本来は出てこないはずです。カントの倫理学を国家に適用すべきでないという議論は、だから主に①の「巨大な悪」の議論において生じていて、そのことと連動したかたちで、あるいは無関係のものとして(実はすこしも「道徳的」ではない)理想主義も国家に適用すべきではないものとして議論されている、という気が文章を読んでいるとしてきたのです。
 結果的に言うと、精神的闘争状態と(「闘争状態」ではない)理想主義的立場が同時に国家レベルから除外される。また、「理想主義国家」というものがあるとすると、そこにはもともと「闘争状態」がないことになるので、実質的には理想主義だけが主に除外の対象になる。
 わたしの感想としては、アイヒマンといった「巨大な悪」の例がいわゆる「精神的闘争状態」にあたるのかどうか分からない、むしろ「精神的闘争状態」を(「法則的」に)回避しつづけることの例としてあるとも言えそうな気もしますし、また、カントの倫理学における「闘争状態」というのはむしろ第二義の部分であって、カント自身は理性的善を実ははじめから暗に前提している、そしてその理想を「精神的闘争状態」の彼方に保護するように想定したという気がします。何故カントが理想を「彼方」におくかというと、理想に直接ふれることによってその無根拠さが前面に出ることを恐れたからでしょう。ニーチェがカントの「形而上学破壊者」の側面を指摘するのはその「無根拠」に気づいたという意味ですが、実際にはカントの力点は理想をいかに守り抜くかにあっただろうと思います。カントにおいては、「人間が思考するかぎり理想は死滅しえないけれども、人間の実際的思考において理想はつねに否定される可能性を持つ(だからこそ「批判」が必要だ)」となるのではないでしょうか。
 何にせよ、カントにおいては理想を食い破る恐れのあるような「精神的闘争状態」はやはり結局は避けられることになるだろうと思います。カントの平和論が楽観的になるのもそのためかもしれません。

 カントがどうとかいう問題ではないというような気もしつつ、やはりここがどうしても難しかったので、自分なりに整理しようとしたのですが… あと、国家と個人という区別についてもわたし自身判然としない気がしているので、まだまだ思案中です。わたしは、個々の人間がいる、というところからしか発想ができにくいので、国家という言葉を思い浮かべても、どうしても現実に活動している個々人が想定されてしまいます。個々人の意識を超越した「もの」として国家を考えるとすると、それは分かるような気もする一方で、やはり何か難しい気がどこかでします。それはたとえば「法」というものであっても同じなのですが、人間がみずからの意識の外部に踏み出せない以上、客観的であるべき「法」も最終的に人の意識を超越することはできないのではないか(もちろん、だから客観的でなくてよい、ということではありません)。そして、人間の意識には「精神的闘争状態」という可能性が含まれるのですが、「国家」や「法」が個々人の意識を超越した純粋の「もの」として想定されるとき、その「もの」は、「精神的闘争状態」の影響をうけるはずのない、「精神的闘争」の起こる可能性そのものが最初から否定された「物自体」ということになるのだろうと思います。カントは純粋理性批判で、「精神的闘争状態(感性論)」をもって「物自体」を論じてはならない(弁証論になるから)、と批判することで「物自体」からあらゆる矛盾・精神的闘争を抹消しようとするのですが、「物自体」には「神」という問題はもちろんですが、「国家」という問題、「法」という問題も同様にあてはまるように思います。
しかし、人間がその思考において厳密な意味で意識=感性の「外部」を意識はできないのだとすれば、(カントの意に反して)「物自体」を巡る言説も、やはり実は「感性」において考えられなければならなくなるという性質を持つのではないか、と思います。カントは「物自体」を人間の意識の彼方(外部)に保存することで形而上学(神学)の延命を図った、というニーチェの指摘はやはり的を得ていると思います。ですが、ニーチェ自身そうした思考法から無縁だったわけではなく(むしろ誰よりもそのことに敏感だった)、だからこそまたそこに「精神的闘争状態」も生まれたのだと言えそうな気がしてくるのです。
ではネオコンはカント的?
舎 亜歴 | URL | 2006-10-26-Thu 14:11 [EDIT]
>カントの「永遠平和のために」は平和論の古典的著書ですが、カントはこの中で、「共和国どうしは戦争を欲しない」という実に奇妙なロジックを言っています。そして戦争は「君主国どうし」あるいは「君主国が共和国に挑む」形で発生する、といいます。カントの言う「共和国」はデモクラシーの度合いが高い国のことの言い換えであり、その中にイギリスや現在の日本のような民主的君主制が含まれ、「君主国」に、形式的には共和国でも実際は独裁者が王朝的に君臨している国、を意味するのだとしても、このカントの戦争観はあまりにも稚拙だといわなければなりません。もちろん膨大な反証例が可能であり、カントが生きていた時代の革命直後フランス共和国から現在のアメリカ合衆国まで、むしろ民主主義国家の方が好戦的団結が強い、とさえいえます。

この論理はどこかネオコンの言う民主化が世界平和につながるという主張に似ています。ロバート・ケーガンの「ネオコンの論理」を読めばわかるように、カントよりホッブスの視点で世界をとらえるのがネオコンなのですが。

一つの疑問が浮かび上がります。
戦争は絶対避けたい
池田剛 | URL | 2006-10-26-Thu 08:15 [EDIT]
こんにちは。
メール頂いたごうです。
ホームページをほめて頂いてとてもうれしかったです。(なかなかないことなので)

日記については、山下大将が、反戦の急先鋒だったということで、非常に感銘を受けました。(わたしは戦争反対ですので。)

彼の平和の意志を受け継ぎたいと強く思いました。

戦争について、まず第一に思う事は、人が無惨にまた、無実なのに死ぬ(それも激痛を受けて死ぬ、さらに家族が殺されていく、また、自分や家族が人を殺すようになるということです。)

ぼくの、おばあちゃんのお兄さんも、ゲニモで餓死したり、ズイカクで、戦死したりしました。おじいちゃんも、名古屋で機銃掃射されました。ひいおじいちゃんは、長崎で原爆を投下されました。

だから、ぼくは絶対戦争反対です。(攻められた時を除く)

また、以下のホームページを読みました。
撫順の奇蹟を受け継ぐ会
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/syougen_main.htm

ぼくも、子どもがいますので、戦争だけは絶対に避けたいとの一念です。

小谷野です。 | URL | 2006-10-24-Tue 10:51 [EDIT]
9.11テロを私は、テレビで見ました。湾岸戦争もテレビでライブ中継された。でも、何か、父達と違う。テレビというフィルターを通すと、非現実的な世界にワープしてしまう。
桜の木の下に死体が埋まっている。花火のように綺麗な焼夷弾の下で、人々が焼かれていく。それを現実として、生々しく感じるのか。ただ、平面的な世界として感じるのか。
現実は、映像の世界だけではない。臭いもあれば、温度もある。痛みや苦しみもある。しかし、テレビの世界には、その実感がない。
言葉からも段々実感が失われつつある気がします。
実体のない世界。実物の裏付けのない言葉。愛という言葉はあっても、愛そのものがない。
我々は、そう言う虚構の世界に住むようになりつつあるのかもしれませんね。
生きるという現実。死という現実。その狭間にあるのが戦争という現実だと考えさせられました。

小谷野です。 | URL | 2006-10-23-Mon 19:05 [EDIT]
戦争というのは、とても重くて、難しいテーマですね。特に、戦後生まれの人間にとっては、現実感がない。
北朝鮮問題でも、戦争というのを現実感をもって語れる人間はどれくらいいるのでしょう。
僕は、父と時々話を聞きます。父は、工兵として満州に行き、そして、宮古島で終戦を迎えました。
2・26事件が起こった時、実際に東京にいたそうです。父は、小学校しか出ていませんが、大変な勉強家でよく歴史を知っています。その父が言うのは、戦争の渦中にいる人間の話です。内容的には、かなり悲惨な内容を含むのに、淡々と日常会話の延長線上で話せる。この辺が実際に戦争を経てきた人との違いかも知れませんね。戦争もその後の生活も同じ次元で話せるんですね。祖母は、関東大震災と空襲の両方を知っていました。祖母は、僕の子供の頃になくなったんですけど、どうだったと聞いたとき、火の粉が花火みたいで綺麗だったよと言ってました。こういう話もものすごく生々しく、逆に、戦争の悲惨さを知らされました。
我々はいつの間にか、観念でしか戦争が捉えられなくなりつつあります。それがなんとなく怖いですね。

丈庵 | URL | 2006-10-22-Sun 21:49 [EDIT]
「戦争」や「平和」について、まさに他律で口の端に上らせていたことを深く深く考えさせられます。それにしてもなぜにそこまで饒舌にさせるのか。

戦争を反対し平和を語ることが、いかに自らが平和主義者で
立派な人物であるかの指標になるからなのでしょうか。
ここでいってみれば他律の状態で話されているとしても
なんら重みのない言葉となるのでしょうが、
せめてファッションの1つとして平和を騙ることのないように
心しておかねばならないなと自戒の念を新たにしました。
国という存在の否定と国家という存在からの脱皮
恩義(Oblige) | URL | 2006-10-22-Sun 21:38 [EDIT]
さて、以上三つの国家体制についての私なりの分析を語りました。 また左右翼という言語は日本人が使うものとはまた違ってきます。 共和制を保守主義もしくは右派といい、社会主義(左翼)をリベラルもしくは左派というのは経済軸を中心としたもので、個人が国家に責任を持つ制度(小さな政府)を経済的右翼、国家が個人に責任を持つ制度(大きな政府)を経済的左翼と位置づけているわけです。 また君主制度ですがこれは社会的尺度において右にあたる、つまりは伝統や団結、規律を重んじる社会的右翼主義になるわけです。 ですから社会的にみれば共和制と社会主義よりも社会的視野で右に位置しています。 しかし君主制は一番時間をかけてゆっくり成長しますので、経済的に封建時代は極右によっていたかもしれませんが、やがて社会が成長してくると歴史と伝統を君主や貴族の懐を満たすよりも重視していきますので、経済的により福祉にめをむけるようになる傾向もあります。 イギリスが世界で一番初めに福祉国家を築いたという点でうなずけますね。

この3つの中であえて選べといわれたら非常に難しい質問になりますね。


さて、上記の3つの国体についてポジティブに述べたわけですが、私自身国家という存在は人類が脱皮しなければいけない事柄であると見ています。

私が理想とする社会、それはずばり『無政府』です! まず戦争というのは国家という利権そして宗教や民族性という個人の区分化によって起こる国家という家そして宗教や民族という家族の間における摩擦から生まれる副産物であるからです。 「無政府主義者は混沌を拒むが故に無秩序を好む」という格言があるように、国であれ国家であれ個人を殻で包み上げあたかも守っているようにみせかけても結局は一部の人間の権利およびその銘柄を守るために利用されているだけなのです。 宗教や民族的概念を捨て個人き救済を目指す社会主義であれ、結局は管理するのは人間であるから完全に機能する保障は無いわけです。 無政府主義であれば個人の果敢な行動がフルに肯定され、人間の本来持つべきである道徳概念が復活しますから、お仕着せな法による道徳概念よりも人間的な社会を築くことができるはずです。 無政府主義を否定する人人は人間は元来自分勝手で残酷な生き物であるから何をするかわからないので無政府主義になったら原始的な社会に戻るのではといいます。 しかし、私はむしろ封建的な国から個人主義的もしくは社会主義的な国家へと進化し、工業化により実力成果主義および壮大な物流制度を儲け社会階級の軟化を促した人類であるならば、次の進化のステップは更なる技術進歩による脱工業化を経て、個人がより知識を得ることにより国家および権力を打ち倒すことで成熟した無政府社会を迎えることができると信じています。 

だが、私の不安なことは今の社会が私の理想としているものとはまったく逆の方向に向かっていることです。

東西冷戦下においては共和主義&君主主義同盟VS社会主義衛生国家群という図式で計画経済と市場経済という単純な権力構造でしたが、冷戦が集結しソ連が崩壊したことで、利権が変わってしまったことです。 アメリカの一人歩きが始まり、やがて世界権力がアメリカに目をつけ世界支配の構築に乗り出したことです。 今のグローバル社会は国際市場主義にもとづいています。 むろん東西冷戦終結時に始まったグローバル化は国家同士が市場競争および国際交流による結びつきにより戦争による争いを回避できるようになった利点は高く評価しております。 しかし、その裏側で新たなる利権が誕生してしまっていることに大半の人人は気づいていません。 特に日本人は今だ東西冷戦の概念が強いせいか利権はいまだ国家が保有していると錯覚しています。 今の世の中は国家を超越した存在である強大な個人権力である法人企業群に支配されております。 その力の源はアメリカという国家を巣としてそれを足がかりに世界経済へと根を下ろしました。 国家の存在もいまやその法人企業群の支柱にあります。 東西冷戦下では共産主義衛生国家群からの内部干渉を避けるために健全な市場主義を守ることに専念していた世界権力ですが、冷戦が終わると同時に咎が外れてしまったようです。 

私が速攻で望む対策としては、日本がEUを見習い近代的市場構想である社民主義(計画経済と市場経済の中間を行く経済)を形成することで世界のパワーバランスを保つことです。 今現在、EU国家共同体が一番法人支配主義に対抗する勢力となっていますが、EUという存在が今度は独りよがりに世界を支配するようになってはまた逆戻りになる可能性が高いです。 我々日本においてもあの偉大なる田中角栄様が日本に社民主義的制度を導入し国家安定および国家と国民の安定的成熟を促し、欧米に対抗しうるパワーとなるように仕向けようとしました。 もし日本がそれに早いうちにきづかなければやがて世界は強大法人群を中心とした世界統一国家を誕生させてしまうか、EU中央政府による世界の調整を促すかのどちらかになってしまいます。 今一度日本がたちあがらなければ世界はまた白人至上主義に逆戻りになります。 もしかしたら世界の無政府革命への道のキーは日本人が握っているのかもしれないのです。。。。


速筆ですので文章にまとまりが欠けますが、なんとか意思がつたわっていることを願います。
投稿第一号!
恩義(Oblige) | URL | 2006-10-22-Sun 20:58 [EDIT]
ヘーゲル左派、シュティルナー型無政府主義者参上!

今回はカント、ヘーゲル、マキアヴェリ、そしてニーチェを機軸にして国家と戦争のあり方について述べられていますね。 

また共和国と君主国の性格の違いもまた興味深いです。 私の意見では『国』という存在は必要悪な存在だと見ています。 でも重要なことは私は『国』と『国家』を明確に区分けして考えているところです。 『国』という存在は歴史上、幸運にも強い立場の人間が不運な人間を束ねることによって形成された権力の集大成であり人間性の制限である『檻』である。 そして『国家』とはいわゆるネーションステートを意味するもので民が集い助け合う『家』であるという見解です。 国家のあり方では右翼史観と左翼史観で異なりまして、マキアヴェリのような国家は力の集大成であるべき、つまり個人が国家に責任を持つ、だという右翼史観であり、マルクスやファビアン曰くは国家は個人の生活安定を保証するつまりは国家が個人に責任を持つべきだという左翼史観であるわけですね。 まあ現在の世の中でも殆どの民主主義国家ではマキアヴェリ的な個人主義的国家論を支持する保守政党と社会主義的な国家論を支持する左翼政党が存在するのですね。  

またうさねこ様は3つの国家体系を明示しました。 『君主国』、『共和国』そして『社会主義国家』。 確かに共和制の方が君主制よりも法体系を重視しますし、国家が個人達の持ち物だというリヴァイアサン的な概念が強いわけですから、個人が集いリヴァイアサンという巨大な力となりて敵を打つというコンセプトですから。 君主国といいますと、イギリスや日本のように国王または天皇そして祖国の歴史と伝統のため!という概念が強いわけで、個人の利権よりも文化と伝統への愛の表れとして自然発生的な力の集結を促すのでは? とくにイギリスや旧来の日本のような立憲君主主義であるならば専制君主主義よりも国民が国家を形成する一個人という認識が高まりより国家への責任制を持つようになると見ています。 左翼社会主義(うさねこ様の明示なされた社会主義j国家はこれ、ローマンカトリックやアミッシュ、国家神道などの右翼社会主義と決別)は巨大福祉国家を目指し、君主主義とも共和主義とも違う路線を歩んでいったわけですね。 崇拝による統治と伝統による束縛を誇示する君主主義と決別し、個人の利権を重視し弱者の統治を重視する共和主義とも決別しているわけですね。 社会主義の元来の概念は古い貞操観念を捨て、個人が助け合い国家が個人の生活を保護することを目的としたリヴァイアサン的な共和制とは経済的に対極であり、個人を区別し宗教的価値観を重んじる君主主義とは社会的に対極であります。 まあ社会主義国家同士で戦争が起こりえないと説いた節は、民族性や宗教などの貞操観念を捨て、個人の生活が安定すればお互いに敵意が減るので争う理由が無くなり君主主義や共和主義という帝国主義より国家が個人を守るという理由でなりたっていますからね。 でも20世紀に台頭した社会主義国家の落ち度としてあまりに急激な政治転換であったために教養の無い下層階級出身の支配者が統治してしまい、伝統というガイドラインが無いために国体に対する具体的な概念を明示できなかった故に支離滅裂になり、裏切り者とみなした隣国に対して備蓄された軍事力で威嚇するという結果になってしまったわけですね。

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