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うさねこ研究室!(姉妹サイト「倶楽部ジパング・日本」もよろしくです)
哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
「自殺」の世界について・再録
    「・・・私だって、自殺しようと思ったことは一度ならずあるわよ・・・」
      世間では連日、子供達(だけというわけではないのでしょうが)の自殺が様々に報道されています。各種ジャーナリズムは、例によってものものしい「危機感」を伴わせて、私達に事件を伝えようとしていますが、いったいどういうことが「危機」なのか、不明のまま、自殺報道は繰り返されているように思えます。もっとも新聞もとらずテレビも放送大学とアニメ以外は観ない私自身は、自宅でほとんどこれらに触れることなく、せいぜい喫茶店や居酒屋で、これらのニュースに触れています。そういうとき、それを伝える新聞やテレビを観ながら、間隙をつくかのように、同席していた女性や、お店のママさんが私の顔を覗き込んで、そんなショッキングなことを言う。「・・・私だって、自殺しようと思ったことは一度ならずはあるわよ・・・」これは全くの偶然なのですが、私にそういう告白をしてくる女性というのは、例外なく女性なのですね。
      彼女達は自殺報道を通じて流れてくる「自殺者」に対して、共感をしているのでしょうか。あるいは、「自殺をしたことがある」ということを通じて、ある種の自己表現を試みようとしているのでしょうか。いずれにしても、自殺を試みたことのない私にとっては、彼女達、告白者の実感的に謎である、としか言いようのないことがあります。しかし、だからこそ言いたいことなのですが、自殺が「死」への到達方法の一つであり、「死」が絶対的無である(可能性が高い)として、なぜ無への到達を急ぐことに「共感」できたり、その到達を「表現」しようとするのか、私には大いに疑問です。これは多くの文学者についてもいえることですが、自殺する人間は、自殺を決意した段階から、「死=無」に対する考察を停止し、考えないがゆえに、自殺という一般化された行為を選択決意できる、それがゆえに、自殺する行為を普通の行為と同様に、共感や表現の世界に持ち込むことができる、のではないでしょうか。しかし、死の世界を目的とする行為は明らかに他の行為とは違っている。死は回顧できないものである以上、経験とはいえないのですが、だとしたら、自殺を経験的に語れる人も、人類史上、皆無であって、自殺について回顧的に語れる人は、自殺未遂者でしかない、ということになります。そして、自殺未遂者が、「死」に対して、深い思索を有しているかどうかは、これは必ずしもそうとは言い切れない、といえましょう。 
       自殺という行為への考察は、幾重にも隠蔽の修辞学に囲まれている。たとえば、私の周囲の告白者から新聞テレビの自殺特集まで含めて、世間で語られる「自殺論」の多くが、「自殺原因論」にしかすぎない。「いじめ」は子供の自殺の原因の第一といっていいですが、女性にとっての自殺(自殺未遂)の原因は多岐にわたります。「失恋」、「相手異性の浮気」、「子育ての失敗」、「経済的失敗」、「君主や上司や教祖の後追い自殺」というものもある。ところが、「原因」は、それを語れば語るほど、「自殺」そのものからは遠ざかってしまうように思えます。たとえば、デュルケームは、自殺論の古典である「自殺論」で、実に見事な自殺原因論を展開し、自殺分析論の先駆をなしました。しかし、自殺についての考察の本質は、「いじめ」で自殺する人、「経済的失敗」で自殺する人、「君主の後追い」で自殺する人が、おなじく「自殺」という死の行為を選択する主観的普遍性の不思議さにこそ、見出されなくてはならない、といえましょう。「いじめ」と自殺率の間の因果関係が証明されたとしても、「いじめ」を受けた人物が、他の異常行為でなくなぜ自殺を選択したのか、ということは、自殺原因論は、説明はしてくれません。一例をあげればデュルケームは、未開社会では自殺があったのかどうか、という非常に興味深い主題が、非常に精緻に展開されていますが(未開社会部落でも自殺は存在していたと考えられます)それは自殺原因論を自殺歴史論へずらしたのであって、自殺の本質を考察しようとする手がかり以上のものを与えてくれるようには思えません。私達の日常は、デュルケームのような徹底的な水準には到底及ばないような、実に低い次元の「自殺原因論」を語る社会学者的おしゃべりが多すぎる、といえましょう。
       稀に、生々しい話が語られるのを聞くこともあります。「行為」としての自殺が語られるときですね。「告白者」の中にも、自殺行為の只中にいた自分を、克明に私の前で言葉で再現しようとしてくれる女性もいました。しかしこの場合も、やはり「自殺」について語っている、ということにはならない。「行為」としての自殺を語りながら、その行為が目的とする「死」をどれほど内包しているかを語ることは、ほとんどないからです。当然のことで、「死=無」を意識すればするほど、自殺行為に巨大な迷いが現れてしまうのが論理必然であるから、ですね。多くの批評家が指摘するように、三島由紀夫ほどの意識家でも(あるいは意識家であるからこそ)自殺を決意したと思われるあたりから、「自殺行為」しか語らないようなロジックを選択している。三島由紀夫には、クーデターに失敗した青年将校の自殺切腹の晩を克明に描いた「憂国」という謎めいた短編小説がありますが、この小説を三島が最後まで自分の代表作と考えていたことは、非常によく理解できる気がする。つまり三島は、「自殺」の問題を、「形式」に徹底的にとじこめることによって、自殺行為を、「死」の哲学的思索からも、「自殺原因論」の社会学的分析からも、保護したのだ、ということがいえるのではないでしょうか。三島の論理的知性は、「死」についての延々とした哲学的思索に拘泥するほど愚かではない、という裏返しのロジックをあえて徹底したのではないでしょうか。しかし「自殺」は果たして「形式」なのでしょうか。
       ブルーノ・ガンツがヒトラーを演ずる「ヒトラー最期の12日間」という映画を最近観ましたが、ギリギリに追い詰められていくヒトラーの自殺の企てと実行は、三島の自殺と比較すると、なかなか興味深い視点が見えてくる。自殺を決意するヒトラーは、軍医を呼んで、自殺方法について、冷静に検討するのですが、ヒトラーにとって自殺はあくまで、死の段階に到達する「手段」にしか過ぎない。「手段」として考えれば、切腹行為というのは非常に不確実な行為で、「死」に到達するまでの苦痛はもちろんのこと、時間的経緯も様々で、うまくいかない場合、数日間存命してしまう可能性もあります。つまり切腹行為というのは「形式」なのですが、ヒトラーにとっては、自殺行為については、三島のような関心をほとんど払っていない。
       ヒトラーはピストルを自分の頭蓋骨に撃ち込むことと、青酸カリを飲むことを併用し「自殺」を確実なものにしようと考えるのですが、ピストルが単に頭蓋骨を傷つけるだけで終わってしまう可能性がある、と軍医に言われて、「一秒」早く、青酸カリを煽り、その窒息死をより確実化するためのピストル発射、という軍医の推薦する組みあわせをうけいれます。このヒトラーの「手段」としての自殺行為の把握は、自殺を「形式」に閉じ込めた三島由紀夫の厳しい論理性、意識性とは全く別の意味で、論理的であり、意識的である、ということができる。映画は巧みに、自殺の日に日一日と近づくヒトラーを、少しずつ死に化粧させていくのですが、ヒトラーは、側近の中で唯一といっていいほど正気の人物であるシュペーアに、「永遠の安らぎに自分は逃げこむ」と宣言しますが、自殺を形式でなく手段として冷徹に感受しつくすところに、自殺行為の目的である「死」の存在が重くのしかかる、という精神力学が作用している気配がある。どんな形であれ(ヒトラーの言葉のレベルでの「死」論であっても)「死」とは何か、という考えを背負いながら自殺行為に向かう、ということが「自殺」の本質ではないか、ということを考える私にとっては、ヒトラーの自殺の方に(もっとも映画の中のヒトラーですが)思索性を感じることができます。あるいは、自殺における形式論の非思索性を提示している、ということもできる。「哲学的思索とは、死への準備に他ならない」というプラトンの言葉に従えば、「死とは何か」という問いを避けている「自殺」は、全く思索的でないといわざるをえないからです。比べて三島由紀夫の自殺には、形式性の中にある美意識の問題は激しく提示するけれど、「自殺」そのものの世界を考察することからは遠ざかるものだ、といわなければならないのではないでしょう。「形式」論ということも、私達が陥りやすい自殺論の誤謬の一つではないか、と私は思います。自殺の世界において、「形式」と「死」はどこか、対立しているように、私には思われます。
      三島由紀夫とヒトラーの自殺の比較における「形式」と「死」の対置を考えるとき、私がいつも思い浮かべるのは、カントの「判断力批判」における美と崇高の問題ですね。例によって、カントの世界での「美」と「崇高」は、私達が使う日常語の美と崇高の意味とはだいぶ異なっています。美も崇高も、美的な快感を与えるというという意味では同一ですが、両者を「形式」という点で境界線が引ける、とカントは指摘します。たとえば「宇宙の無限」というものを意識したときの私達が直面する感情は、美的判断力に属することだとはいっても、「美」に属する感情でなく、「崇高」に属する感情ということになる。「宇宙の無限」というものが私に与える美的な快感というのは「形式」を有していないからですね。あるいはたとえば、「情熱」という感情も「崇高」に属する美的判断力であるといえましょう。
      「崇高」の世界は更に広がりを見せる。「無感動」も、「崇高」に属するものだとされのですね。蕩尽や怠惰の中で私達は何かに足をすくわれるように次第に無感動になっていってしまうけれども、これも、形式をもたないものから受ける美的感情の一種だといえるのです。このことから、ラカンは、性的蕩尽を繰り返すサドの背徳文学の世界の「無感動」と、一見するとサドとは全く正反対の思想家と思われがちなカントの「崇高」の酷似性を指摘しています。私達が「美」と「崇高」を混同しがちである、ということ以上に、「崇高」が非常に広い美的感情にかかわっていることを気づかせることにカントの美学論の面白さがあるのですが、これを自殺論の世界に私なりに応用すると、こういうことになります。
       三島由紀夫はよく、「美」については語り尽くすけれども、実は「美しいもの」についてしか語っておらず、美的判断力については無頓着な作家だ、と言われますが、私に言わせると、そういうそうはいえない。三島は、それらについて、意識的だったがゆえに、自殺から、死という「崇高」を綺麗に捨象し、「美」という形式を確立しようとした、ということがいえるように私には思えます。そしてラカンの指摘に従えば、サドを礼賛していた三島には、根本的な陥穽がある、ということにもなる。サドの追及した性的蕩尽の果ての無感動や死の世界は、「崇高」に属する美的判断力の世界であり、「崇高」から絶えず美的形式を見出そうとした三島は、サドとはとうてい相容れない思想家だったといわざるをえないことになるでしょう。三島にとっては、「死」のあまりの不定形、不確かさ一般には、耐え切れない。「死」に「形式」を与える、ということになれば、自殺の世界を選択することは、三島にとって、実に論理必然だった、ということになるでしょう。しかし「自殺」の本質を(あるいは「死」の本質は)「美」の問題としてとらえた途端、思索は止まってしまうと思われます。にもかかわらず、三島の「自殺」への追求は執拗で、病的なものでさえあります。それは実は、三島が、自殺における「美」を追求すればするほど、思索性の欠如に意識的にならざるをえない背理に苦しんでいたことを示すのではないでしょうか。「崇高」は否定的感情も含みますが、自殺はどこかに否定的感情を伴うものであり、それを、あえて、「美」という否定的感情を含まない世界に閉じ込めようとしたところに、三島の自殺論の苦しさがある、と私には思われます。三島はあえて、自殺を思索から距離を置かせることにより、自殺を「美」として完成させることに、創作と行動のエネルギーを注いだといえましょう。
     自殺という行為は、そもそも、思索的行為とは距離をおかなければ、行為として決断実行することは難しいものなのでしょう。ニーチェは、行動というものは、それが過激なものであればあるほど、幻覚という秘密のヴェールによって、自分自身に虚構を築かなければならない面があるといいましたが、これは、三島由紀夫の自殺への行動論と大体一致するといえるでしょう。では、いったい何に対する虚構なのでしょうか。
     サルトルは「高らかな精神をもって処刑台に望もうとした人間が不意にスペイン風邪で死んでしまうことに、いつまでも私達の不条理はある」といいましたが、サルトルが言いたいのは、自殺者も非自殺者にも(殺人者にも非殺人者にも、英雄に凡人にも、善人にも悪人にも)「死=永遠の虚無」が等しく訪れるという不条理の方が、自殺そのものよりも遥かに大きな不条理を私にもたらす、と考えるべきだ、ということですね。その不条理は、カントの美的判断力論からすれば、「崇高」の問題である、ということができるでしょう。しかし、自殺行為というのは、どんな形であれ、その瞬間に誘われるときは「高らかな精神」をもって臨むものです。そのことを熟知していたショーペンハウアーは、自殺自体には否定的な見解を言いながら、自殺を決意した人間の激しい意志について考察を張り巡らしましたが、「高らかな精神」にせよ「自殺しようとする意志」にせよ、その行為は、同時に、あるいは少なくとも潜在的に、「死」の絶対的不条理を破壊しようとします。「死」という「崇高」に属さざるを得ない世界は、決して、「美」によっては救い出されない。しかし、こうした精神的行為の幻影によって救い出される、という逆説が存在する。ここにおいて、自殺が、ある種の「宗教性」を帯びる、という奇妙なロジックが現れてきます。
      「自殺」が「宗教的」ということはどういうことでしょうか。「宗教は阿片だ」(マルクス)という息苦しい俗説を言う人間は、死の不条理を覆い隠すために、私達は来世を、あるいは宗教的世界を虚構したのだ、と遠大な観念的議論を言うのかもしれないですが、「自殺」の世界の宗教性は、そのようなレベルでとらえられるものではありません。「殉教」という行為は自殺とは根本的に相違しますが、しかし、死の自覚的選択という面においては、類似していないとはいえない。キリストは「キリストの死」という殉教行為を置き、死の不条理を拒絶している。これは教義上、天国があるとか死後の世界があるとかということとは、区別されるものです。キリスト教の言葉の世界は、キリストの殉教行為という、特殊化された「死」によって、何ものかに変えさせるような観念のメカニズムを有しています。死はキリストにとって一種の行為であり、それは思想の実践でもあった、ということになる。もちろんキリストの死は、死に関しての思索性をもっているものではありません。しかし、その自覚的な死の世界への選択は、「死=無」の不条理を、いまやその多くが形骸化している宗教などよりよほど確実に覆い隠し、死から救済されようとしてしまうのです。人類史は様々な自殺教団を有してきました。また、キリスト教を筆頭に、その原始的教義には、自殺を禁止する文言は見当たらないのに、自殺禁止を教団が付け加えるのは、「自殺」が実は、自己の宗教教義をおびやかす最大の宗教行為になりうる可能性を知悉しているからだ、といえます。もちろん、特別な死に方、存在の消滅をしたからといって、私達の存在が「救済」される、という保障は、どこにもありません。しかし、この不明性は、「救われないという保障もない」という論理に裏返ってしまうことにもなるといえます。
       たとえば太宰治たち無頼派作家には、繰り返し、自殺をテーマにする作品が登場し、そして作者である彼ら自身も自殺を試みています。しかし、彼らの「自殺」には、何か「自殺」の本質と離れたヒューマニズムめいたものが強烈に感じられる。典型例として太宰をあげてみると、太宰文学の愛好者の大半にとって、太宰の数度の自殺未遂と最後の自殺を、太宰の「残酷」さと位置づける人はほとんどいないのではないでしょうか。太宰にとっては、自殺行為は、一種の救済行為だった、と考える人物が私の周囲の太宰ファンには多かったといえます。弱さ、優しさがゆえに彼は自殺した、ということですが、果たして、「弱い」人間「優しい人間」が、自殺を繰りかえし試みることができるのでしょうか。やはり太宰は、自殺することによって、自分の死を何ものかに変えてしまう力を信じていたのではないでしょうか。彼が、キリストに親近感を抱いていたのは、決して矛盾していることではありません。太宰たちがキリストから学んだのは、キリスト教的な天国の信仰などではなく、その死により、死の不条理から、「キリストの死」が何かの逸脱を成し遂げた、ということなのでは。だから、太宰たちは、死にたがるのです。執拗に、「死=無」を、自殺行為によって、絶対的不条理から救い出そうとするのです。ゆえに、太宰ファンの多くは、彼の死に大きな共感をおぼえ、宗教的なほどに彼を崇拝する、文学青年の一群を創造するのでしょう。
       実のところ、彼は自殺を「形式」に閉じ込めた三島由紀夫よりも、よほど「死」そのものを最後まで卒直に見つめていたかもしれません。なぜならば、太宰は、「死」の世界を明らかに、「崇高」の美的判断力で把握しているように見える。三島ほどの意識家でも論理家でもない太宰には、死を「崇高」から「美」へと救い出す作為など、思いもよらないことだったでしょう。三島の自殺には、政治的な暗喩や意思はふんだんに存在しているようにみえますが、それは解釈が可能な「形式」だから、ということでしょう。そこには、太宰の自殺のような「宗教性」というものは、ほとんど考えられません。三島由紀夫の自殺に感動した純情なナショナリストの青年が、彼への尊敬的な感情から、テロリズムの事件を起こした例は幾つかありますが、おそらくその青年達にも、三島の自殺に、同意することはあっても、その「形式」に近寄ることはできていないように思われます。太宰治の自殺は、つかみどころがないように見えて、実に近寄りやすい。私は三島の自殺よりも、太宰の自殺の方に、思索的な可能性というものを感じますが、太宰の自殺が非論理的で、非形式的であるから、つまり、「崇高」に近い自殺を試みて、それを成し遂げた作家だから、ということなのではないでしょうか。共感を得やすい自殺、というのは、美と崇高の美的判断力で死をとらえたときの「崇高」によって、「死」を広い感情でカバーしていることによって生じるといえましょう。
       しかしそのことは、太宰的「自殺」に疑問や矛盾を感じないということではありません。太宰がキリスト「死」に憧れていたとしても、物語的に整然としているキリストの死に比べて、太宰の死(自殺)は、疑問と矛盾だらけのものだ、といわざるを得ないといわなければなりません。大体、自殺が殉教的行為ならば、なぜ、何度となく他人を巻き込もうとする(心中)するのでしょうか。集団自殺や心中も自殺には変わりありませんが、自殺をどうしてもしようとする人間がたまたま同意してその場で一緒に自殺するのか、それとも、自殺行為の瞬間の不安や恐怖に耐えられなくて自殺同行者を誘うのかで、自殺行為の意味するところも、全然異なったものになりますが、私には何回も自殺同行者を求める太宰の自殺はどうしても後者にしか感じられない。実は、死という「崇高」の感情の世界に足をすくわれていた太宰には、自殺行為を独立したものとして考える視点が逆に欠如していたのではないでしょうか。矛盾した言い方ですが、太宰は「自殺しようとしたのではなくて、死にたがろうとした行為を選択した」というふうに、私には思えます。太宰とキリストの違いは、「弱さ」のあるなしである、というふうにいえると私は思います。だから太宰の死は宗教性を帯びているように見えるけれど、結果的に、宗教的になっているとはいえない、と言わざるを得ないように思えます。
       ドストエフスキーは自殺者の宗教性の考察と把握について、太宰よりも遥かに抜きん出ている。たとえば、「悪霊」の中に登場するきわめて思考実験的な自殺者であるキリーロフは、「神が存在しないならば、私自身が神だ」という有名な人神論を展開します。・・・もし神が存在するならば、自分の意思を含めた森羅万象はすべて神の意志に隷属し、その意志に反して自分は何もできない。しかしもし神がいないのならば、いっさいは僕ら自身に属することになる。自分にとっての何もかもが根源的に自由になってしまう・・・これはあまりにも恐ろしいことだけれども、キリーロフはそれを論理的に受け入れようとする奇怪な人物です。「悪霊」を読んでいて、キリーロフという人間は、人物として確かに動いていますけれど、どこかある一点において、表情がいつまでたっても見えてこないという、不思議な印象に、いつまでたっても付きまとわれる。それは、キリーロフが、神であろうとする論理に従って世間の事象をとらえようとしているからで、彼が人神論の論理に忠実に従う「論理的」人物であることがが私達をいろいろな錯覚に誘導するのだ、といえます。そして、やがて、彼の「論理的」世界は、論理的自殺を彼に導こうとする。
      「論理的自殺」が、なぜ、「神になった自分」にとって必然的行為なのでしょうか。人神キリーロフは、友人スタブローギンの「君はあの世の永遠の生命を信じるのか?」という質問に対し、「いや、来世での永遠の生命など信じない。僕はこの世での永遠の生命を信じているのさ・・・そういう不思議な瞬間がある・・・」という奇怪な言葉を口にします。つまり、「自分が神になってしまったという感覚=すべてが許されるという感覚」は、もはや死後の自分が存在しえないということを前提とした、この地上のみでの、一人一人の人神が集う「永遠の生命の王国」を作り出さなければならない、ということを意味します。「地上での永遠の生命」というキリーロフの妄想は矛盾していますけれど、しかしそれは、キリストがかつて口にした、「来世での永遠の生命」と同じくらい矛盾した言葉であり、それを口にしなければ、自分自身が神になる、という人神論の世界は、とうてい成立しない。言い換えれば、「死=無」の不条理を忘れさせ続けたキリストの「来世での永遠の生命」と同じものを、キリーロフは語らなければならない。これが人神論のロジックなのですが、キリーロフは、その人神論から、さらに、自分の自殺を論理的に導き出そうとします。なぜ「神」になった自分が自殺しなければならないのか。それはさらに謎めいた論理のようにみえますが、よく読みこめば、決してそうではないように思われます。カミュが指摘したように、キリーロフは実は「隣人愛」のために自殺をするのです。
      キリーロフは死を完全な虚無と考えています。虚無にもかかわらず、なぜ「隣人愛」が説かれなければならないのか。それは「地上の永遠の生命の王国」を創造するためなのです。彼は自殺のピストルを握り締めたとき、「自分のピストル音が、一人一人を皇帝にし、究極的革命に導くことになるだろう」と言い残します。キリーロフにとっては、キリストと逆さまの行為を選択しなければ、人神論が破綻してしまうことになる。キリストは来世を説きながら、この世を去っていった。しかしキリーロフはキリストが「天国の入り口にたって、自分が天国に入る資格のないことを知らされた」という光景を夢想します。「来世の王国」は破綻したのですね。ならば、「地上の永遠の生命の王国」は、完全な虚無である来世に自分がしっかりと入ることで、実は逆さまに証明されるのではないか。つまり、現世と来世は、時間的に逆で、私達は、死後、虚無に回帰してしまうのだけれど、来世=無に進んで自分が進むことが、人神たちが集うこの世界の永遠を証しするのだ、かくして、「自分自身が神になれる」ということの証が、自殺という「論理的行為」だ、ということになるのですね。
       そこには、極限化された自殺行為の宗教性というものが提示されているといっていいでしょう。「自由」の問題が不可避的に自殺の可能性を提示し、それは宗教性を帯びた行為として成立する、という裏返しの論理的行為を、キリーロフは示そうとしているように、私には思えます。死が虚無だから、私達は死をおそれ自殺をおそれる、というコモンセンスも、キリーロフのロジックでは完全に逆転されてしまっています。「死=無」であることが、自殺の回避理由でなく、自殺と分かちがたく結びつくことになるのですね。そして、「死」が「崇高」の混沌から救い出される。人神である自分が自殺することによって、死は非平等化され、私達は「善人にも悪人にも等しく訪れる」死の不条理から救い出される、ということになる。
  キリーロフについて語っていると、私自身が引き込まれ、まるでキリーロフが実在の人物であるかのような錯覚に陥ってしまいます(笑)しかし、キリーロフ的自殺は、決して、小説内部の妄想ではないように私には思えます。キリーロフ的自殺を、「原因論」にすっかり覆い隠されてしまっている、現代人の自殺を想起して考えてみましょう。自殺行為を精神的行為と考えて自殺する人間が、「死」をどのように考えているかは、自殺を回顧するという行為が厳密にはありえない以上、何ともいえないですが、もし稀少であっても、死後の世界を完全な虚無と認識し、なおかつ、自殺に精神的救済という宗教性を求めるのならば、自殺する人間がいたのならば、キリーロフのロジックと同じものを採用するのではないでしょうか。「人神論」はキリスト教徒にとってはおそるべきロジックですが、他の宗教風土や無神論的世界の住人にとっては、必ずしも採用しえないロジックではありません。「宗教的自殺」と「論理的自殺」はここにおいて、奇妙な一致を見ることがあるように、私には思われます。「なぜ自殺するのか」は私の関心外ですが、「自殺とは何か」という問いに関してならば、私は以上のことから、「宗教的に自殺」し、あるいは「論理的に自殺」する、というのが、答えになる、というふうに考えます。自殺が、時として、連鎖性・連続性を起こしたり、集団自殺のような事例、自殺教団の存在についても、以上のことが根底にかかわっていると私は思います。
       しかし、そうだとしても、「自殺」について考えながら、「自殺」という言葉に、ひっかからなければならないことを忘れてしまっているような問題があるように思えます。たとえば、私達は、「時間とは何か」という哲学的問いを発するとき、知らず知らずのうちに、近代的社会での「時間」概念を疑わないような前提を受け入れてしまっています。哲学的思索でなくても、「大陸文化からの文化の渡来」というとき、「大陸」を、20世紀以降の世界地図で考える誤謬に陥ってしまう、というようなことも私達は歴史的思索で、よく起こしてしまいます。同様のことが、「自殺」の前提にもあるように、私には考えられる。「自殺」は読んで字の如く、「自」分を「殺」す行為なのですが、果たして殺すに値する「自分」が存在するのかどうか、という問題に私はひっかからないまま、居酒屋や喫茶店での彼女達の告白、ワイドショーでの特集、三島由紀夫、ヒトラー、太宰治、キリーロフの自殺を論じてしまっているという陥穽にあるのではないか、ということですね。ビジュアルな世界で、混濁した理解力を有している現代の子供達に殺人の「人」が認識できているのかどうか、という問題が、自殺に関してもある、ということですね。もし「自」分がなかれば、いくら表面的に自殺行為が存在しても、その実質は自殺でも何でもないことになってしまいます。これは「自殺という行為は果たして成立しているのか」という、あまりに基本的ですけれど、絶えず問いかけなけばならない問題である、といえましょう。「自殺」が自殺でないのなら、私が考えてきた自殺の宗教性も論理性も、世間で言う自殺の紋切り型の批評も、その他自殺を巡るいっさいの考察が、無効である、ということになってしまいます。キリーロフの逆さまのロジックではないですが(笑)ここで、応用(宗教性・論理性)から逆行したプロセスへ、つまり自殺の根本の面に立ちかえってみることにしましょう。
       先述したように、デュルケームは、未開社会でも「自殺」が存在していたことを、精密な分析によって指摘しました。デュルケームは同時に、未開社会での「自殺」は、自覚的なものであるものは時代を遡るにつれて少なくなり、共同体の要請による老人の自殺(いわゆる姥捨て山)にみられる自殺のタイプが多くなる、と指摘します。しかし、にもかかわらず、意識的な自殺者(これをデュルケームは自己本位的自殺者といいます)もまた、非常に多くの部落に見られる行為であるとされ、この中間に「後追い自殺」がある、としますが、「後追い」自殺は、慣行的な意味での義務性があったとしても、やはり自覚的な自殺であることは間違いないように思われます。こうなると自殺の社会学的な遡行もどこまでできるか難しいですが、「動物の自殺」が絶対言うに有り得ない以上、「意識」の発生と「自殺」が同義であると考えるべきではないかと私は思います。
      「意識」の発生と「自殺」の発生が同義であるということは、どう説明したらよいでしょうか。再びサルトルの登場ですが、サルトルは、私達が多数人から他人(ピエール)をさがすとき、「彼はピエールでない」ことを繰り返すことを通じて、私達は「無のピエール」というピエールとは別の対象を発生させていると言いました。動物には、目の前にあるものしか対応できません。動物は親しい人が現れたとき、「いつも可愛がってくれるAだ」ということは判断できますが、「Aがいつも自分をいじめるBでない」ということは判断できない。サルトルが言いたいのは、これは私達人間が「否定」ということを通じて「無」を知っていることに他ならない、ということです。動物にも動物なりに意識がある、と判断する人もいるでしょうが、しかし、「否定」ということを知ることはできない。
      言い換えれば、人間は、自分自身が「無」であることを判断することができる動物だ、と言うことでもあります。「無の自分」を知っているということ、「無」への行為=自殺ができる動物でもある、ということです。動物には「?でない=否定=無」ということは存在しないがゆえに、自殺という行為もありえないのです。私達が死の不条理を認識できるのも、「無の自分」を知っているからであり、それは自殺ということと、意識の関係を示す、説明であるということができるでしょう。意識の発生ということは、「否定の発生」ということに他ならず、それがとりもなおさず、自殺の起源ということに他ならない、ということができるわけです。「否定」という判断ができる限り、私達は、「自殺」というものから、絶対に離れることはできない、というべきでしょう。
      しかし、「無の自分」を知っているからといって、「無の自分」の「自分」が何か、という問題が更に残るといえます。「無の自分」が、ゲーム的な世界でつくりだされた、空想的な自分であった場合、自殺者は、「無の自分」でなく、「無の架空の自分」を殺害するという分裂的な精神状態に陥ることになります。あるいは、全体主義的国家の、非人間的な戦争教育というのも、「無の自分」を、「無の架空理想的な自分」への誘導という形でなされる、ということができます。かくして、「自殺行為は果たして成立しているのかどうか」という問いかけを通じて、自殺論は、主体性の確立という、実存主義的ヒューマニズムに、遠まわしで到達する、ということができることになります。「無の自分」が成立するということが、自殺という行為の成立の生命線であるわけですから、「無の自分」の「自分」が不在である以上、自殺論のいっさいが成立しないことになる。「われ思う」というデカルトの主観主義と同じものを、ここで私は感じなければならないのではないしょうか。「無の自分」とは、哲学思索にせよ、社会学にせよ、おそらく通俗的自殺論にせよ、あらゆる自殺論が、議論しつくしても疑うことができないような前提であるのだ、と私は思います。
      「無の自分」の自分という、自殺論の前提を考えると、私が最初に軽視した「原因論」も、違った形で見えてくるように思えてきます。なぜならば、自意識が成立していないような状況であれば、自殺そのものが成立しないのだから、「原因論」は、自分あるいは自意識というものが成立しているのかどうかを射程に入れたものでなければならない、ということになるからですね。           
      有名な言葉ですが、死の不条理をテーマにした数々の小説を描いたカミュの、不完全だけれども不完全だからこそおそろしく暗示的な評論「シーシュポスの神話」の冒頭にある「真の哲学的問題はただ一つしかない、それは自殺ということだ」という一節は、決して、自殺が「哲学的行為」だということを意味していません。周到にも彼はその冒頭の言葉のしばらく後で、哲学的熟考は自殺とは無縁である、といっていますね。自殺と哲学思索は無縁なのですが、しかしもし、「完全な不条理」が私達を襲いかかったとき、私達が自殺というものから果たして自由かどうか、つまり哲学性を破壊してしまうのかどうか、という意味において哲学的だ、ということがカミュの言わんとすることでしょう。そして、自殺を「無の自分」の自意識論に広げて考えれば、自意識に最大の刑罰を与える不条理は、哲学性を破壊する自殺という行為の意味も破壊する、という意味で、最大の「哲学的問題」に大きくなる、ということがいえるでしょう。カミュの「シーシュポスの神話」は、考えようによっては典型的な自殺原因論ですが、自意識を破壊するものは何か、という問いかけを、そういう問題設定によって、大きな自殺論にしているのだ、と読み取れます。
        「シーシュポスの神話」は、神に命じられたシーシュポスが、絶対的に無意味で無目的な労働を命じられることを通じ、時間の完全な空虚というものに直面する話を描いています。この世界にあるいかなる私達人間の単調な労働も、微細であっても、実のところ、何らかの意味と目的を有している。しかし、シーシュポスにはそれさえも奪われている。ゆえに・・・ドストエフスキーもまた自分の流刑体験を通じ、どんな凶悪犯であっても、自分が食うため、という目的さえ失わせた無目的な労働や作業が、凶悪犯である彼を震え上がらせる、といっています。極限的な自殺原因論ですが、しかし、自意識の極限ということが自殺原因論の極限だ、ということになれば、このテーマは、原因論から限りなく離れて、「無の自分」の自意識の問題に到達する、ということができます。ビジュアルなゲーム世界や、非人間的な全体主義的国家教育が、もし、完全な空虚に耐えられる人間を完成してしまったら、ということを私は考えます。自意識があってこそ、私達はシーシュポスの神よりの刑罰の不条理を理解でき、そして、自意識による否定行為を行いそれを理解できる。そのいっさいが破壊されてしまったとき、私達は、「シーシュポスの神話」は、再び新しい神話へと書き換えられなければならないでしょう。「無の自分」の自分さえも失い、自殺の意味さえもままならないまま、自殺を繰り返す、気味の悪い喪失者達の神話、ということですね。それはもはや自殺とはいえない自殺行為といわざるをえない世界の自殺なのだ、と私には思えます。自殺の復権、というのは恐ろしく矛盾めいた表現ですが、自殺について考察を重ねるうちに、私はそういう表現に到達してしまったようです。
        
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COMMENT

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世界滅亡・おかしなタイムマシン
戸田聡 | URL | 2008-07-24-Thu 04:24 [EDIT]
前回、前々回は失礼しました。
今回も失礼してお邪魔します。戸田聡です。

肉親にまで「役に立たず、かつ、死ねない息子」
と思われて笑われてまで、憐れみに縋って、
生きてゆく気になどなれるものか・・・意図して
思考を停止させるぞ!という私の個人的な
恥ずかしい屁のような吠え面は置いといて・・・

鬱の症状に世界没落感というのがあるのですが、
自殺者の中には自分にとっての「世界没落」を超えて
自分が「世界を没落~滅亡させたい」願望というのも
あるのではないかという気もしてきます。
自殺は自分を滅することだが、自分が無になる以上に
自殺者自身にとって「世界がなくなる」ことだという
気持ちから、自殺者の心情の中に
「自分に世界を滅亡させる力はない、代わりに
自分の死によって逆に、自分にとって世界を滅亡させる」
という意思もあるとしたら・・・自分を包む全てに対する
絶望から怒りそして全否定さらに世界の孤独への復讐
みたいな意思表示のようで・・・世界にとっては1人が
いなくなるだけですから、ここにも思考停止がある
とは思うのですが・・・これは相当な怨念が渦巻いて
残っているような「同じ目に会え、巻き添えにしてやる」
みたいに睨んでいる夥しい目があるような
何とも不気味な感じがします。
殆ど怪談ですね・・・また非論理的・
感情的な話しで申し訳ない・・・(苦笑)

話しは変わりますが・・・幼稚だとは思いながら・・・
過去の自分に戻って自分を殺せたら・・・
と考えたことがあって、今になって、考えてみると
・・・という感じで書いたもの1作投稿します。


  おかしなタイムマシン

仮にタイムマシンがあったとして
過去に戻り
過去の自分を殺したとしよう
そのとき今の自分は消え失せる
他殺による自殺の完成・・・?
というわけにはいかない
歴史を変えてはいけない
・・・という話ではない
過去の自分を殺したとき
消え失せるのは今の自分だけではない
殺したとき以降の全ての自分だ
したがって過去に戻り
過去の自分を殺す自分も消え失せる
つまり過去の自分を殺すことは出来ない
過去の自分を殺したら
過去の自分を殺すことが出来ない
という空想タイムマシン遊びの
パラドックスというより矛盾だろう

いくら憎んでも懐かしんでも
やり直しの利かない過去なのだから
欠け目と穴だらけの
継ぎ接ぎだらけの
フィクションのような記憶から
遊びと学びと病?から
さらに継いで接(は)いで
未来が今に
今が過去になり続ける
迎え送るしかない
留まることの出来ない今である

これも遊びに過ぎなかったが・・・
過去に接(つ)ぎ穂は出来ないのだ



何だか最近の私の投稿、幼稚なだけでなく
最後っ屁みたいで、メチャクチャですね。すみません。
では、気が向いたら、また。拝。

               戸田聡 不具


失礼いたしました。さらに2作・・・
戸田聡 | URL | 2008-06-30-Mon 02:34 [EDIT]
動物的人間と植物的人間・・・戸田聡です。
何かとても幼稚なことを書いてしまったようで・・・
人間を2つに分類するわけではなく・・・
デジタルではなく・・・言い訳がましいが・・・
そういう人間もいるような「気がする」という
アナログ的な個人的な感覚でした。

さらに「他人よりも、自分を責めやすい人」と
「自分よりも、他人を責めやすい人」にも
似たような感覚で、アナログ的に、
分けられるような気がしていました。そんなことを
よく中途半端に考えてきたもので・・・
もちろん100%というのではありませんが・・・

どちらも、かなり私の人間に対する
好き嫌いの感情に基づくもので、
この論文の主旨からは的外れなのかもしれませんし、
「論」としての体(てい)は成していないのでしょう。
失礼いたしました。失礼ついでに
・・・そういう感情について2作・・・


  好きです

悔いが作らせるような
哀しい歌が好きでした

自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです

小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
悲しい歌が今も好きです


  かなしいことに

自分を責めてしまいがちな人がいる
自分を責めることをしない人がいる
前者は弱さを認めざるを得ず
自分の頼りなさを痛感する
後者は弱さを最も嫌い
自分の力のみによる強さを疑わない
前者は慎みをもって
限りない祝福を願う
後者は手段を選ばず
限りない成功を求める
前者も後者も失敗すれば反省するが
前者は悔い改めを伴う
後者は作戦の練り直しに過ぎない
前者は責任逃れをしない
然りは然り否は否と言い
口に恐れを持ち
嘘を吐(つ)かない
後者は責任を認めず
人の責任ばかりを追及し
保身に汲々として
嘘を吐く
前者は傷つきやすく
壊れやすく壊されやすい
後者は傷つけ壊し
気づかぬうちに自分を壊している
前者が滅びれば終末だ
後者が滅びれば再臨だ
しかし一人の人間の中に
かなしいことにしばしば
前者と後者が同居している
終末も再臨も近くて遠い
責める
責めない
悔いる
悔いない
改める
改めない
対象が違う
目的が違う
中味が違う
間違う
鬩(せめ)ぎ合う
この世では前者も後者も
いずれ滅びゆく定めである
終末も再臨も遠くて近い


考えてみると、理由が何であれ、
人を殺してから自殺する人も昔からいるようだし、
どちらかをする人も、どちらもしない人もいるわけで
・・・その人たちが、これから先「自殺」も「他殺」も
「する」か「しない」かは分かりませんね。

また、私事を含め、場違いなことばかり
書いてしまいました。ではまた。拝。

                 戸田聡 不具

自己不全感、丸出しで?
戸田聡 | URL | 2008-06-28-Sat 04:31 [EDIT]
また相変わらず情緒的に・・・戸田聡です。

>「自殺しようと思ったことは一度ならずあるわよ」
<

先ず「自殺しようと思ったことがある」と
「自殺したことがある」とは全く意味が違いますね。
後者を語れる人はいないわけですから・・・。
前者が、ある種の、共感であるなら、それは
自殺そのものではなく自殺念慮、言い換えれば、
実行しなかった自殺を考えるに至るまでの
思考のプロセスにについてでしょう。
それは思考停止に向かうのプロセスでもあるでしょう。

>死は回顧できないものである以上、
経験とはいえないのですが、
だとしたら、自殺を経験的に語れる人も、人類史上、
皆無であって、自殺について回顧的に語れる人は、
自殺未遂者でしかない、ということになります。
そして、自殺未遂者が、「死」に対して、
深い思索を有しているかどうかは、
これは必ずしもそうとは言い切れない
<

おっしゃるとおりだと思います。ただ
実行しなかった自殺はもちろんですが、
実行しようとして失敗した自殺未遂についても
やはり既遂と未遂では大違いです。
死を体験として語れる人はいません。
しかし自殺未遂者については自殺の
思考(停止)に至るまでのプロセス体験
という意味においては
「深い思索を有していない、むしろ、捨ててしまう。」
ということを考える上で参考にはなるかもしれません。
その原因や絶望から「死ぬ気」につかまってしまうまで
人はどのような気持ちを持つかということについて・・・

今日食べるパンがあるあいだは私は自殺しないつもりですが
例外はあります。まるで一種の適応事項のように・・・私は、
個人的なことですが、実家の厄介になっている無職の
教会に行かないクリスチャンで・・・最悪の場合
厄介をかけている人(母)から
「お前など必要ない」または「死ぬことも出来ないくせに」
「死ねるものなら死んでごらん」みたいなことを言われたら
死ぬしかないだろうな・・・と思っています。もし
そのときに死ねなかったら食べるパンがあっても、それは
人(母)の奴隷か乞食になって恵んでもらうパンですから
・・・それには耐えられないような気がします。
たとい最大の罪であっても・・・。それにしても稼ぎがなく
経済的に自立できていないというのは辛い・・・失礼。

生き続けることの恐怖が、死の恐怖より大きくなる
と感じるとき人は容易に自殺念慮へ向かうような気がします。
思考停止~「思考を捨てる」ような気がします。

そのとき、命だけは助かりたい動物的人間と、
命を失うより怖い感覚を持つ植物的人間とが
分かれるような気がします。この類型の分け方は、
特に植物的人間というのは、言葉として
不適切かもしれませんが・・・

盗みをしても乞食になっても、たとい殺人に走っても、
肉体の命だけは助かりたい前者は
他殺はしても自殺だけはしないような気がします。
そして自殺へ向かう後者の植物的人間?のほうが
元々の思考と感情は豊かなのかもしれません。
だから植物的というのは変ですが、動物的と比べて
ストイックというのに近いかな?という感じで
・・・ストイックというのも変かな?・・・失礼。

どちらなのか・・・私については分かりません。
いざ死ぬとなると怖いでしょうから・・・(嘆・苦笑)

旧作2作:再投稿になると思いますが・・・


  もうよそう

ひとりは首を吊り
ひとりはビルから飛び降り
ひとりは高い橋の上から飛び降りた
砕け散った肉や骨を拾うのが大変だったという
ひとりは死に際に哀しい視線で・・・
もうよそう
死ぬのに勇気は要らぬ
死を上回る恐怖があればいい
生きるのに勇気は要らぬ
死を上回る死があればいい
ストレスから逃げて逃げまくって生きてきた
そして死んだ自分を数えている
死んだ自分がまだいる ここに
ひとりの夜に対話する独語
団結はしないね
けんかもしない
いつかバイクの後ろに
いつも君が乗っている
スロットルを開ければ開けるだけ
君は笑ってついてくる


  歌い

歌い終えた本を閉じて
短い食卓につく
答えのない食欲につく
歌い終えた食欲を閉じて
別のことを始めているつもりで
ふらつきながら机につけば
始めたことを忘れてしまうほど
部屋は終わりに満ちている。
斜めに吹いているらしい
窓の外の風
いつか斜めになっているのはこの体
このめまいは
することがないということかもしれず
できないでいるだけといえばそれが正しいようで
結局みんな知ることのできない贈り物だったんだ
未来(あした)を見れない目で
過去(きのう)を聞くことのできない耳で
現在(いま)を触れない手で綴った
長い不眠につく
歌い終えた一日を閉じて。
歌い終えないまま人生を閉じて
永い眠りについた人たちが
何も言わない


>ビジュアルなゲーム世界や、非人間的な全体主義的国家教育が、
もし、完全な空虚に耐えられる人間を完成してしまったら
<
>自殺の意味さえもままならないまま、自殺を繰り返す、
気味の悪い喪失者達の神話
<

これは他殺にも言えるのではないでしょうか。
また仮定としてではなく、命の意味も
死の意味も考えずに自分も他人も殺す・・・
戦時中、いや、いつの時代においても
思考の禁止や停止~狭窄または空虚に
ならざるを得ない時代があったのではないか
・・・また再び現在、既に、そういう時代に
なっているのではないかと危惧します。

「自殺について」再録ということですから、
「自殺について」前にいっぱい書き込みましたから、
コメントも再録になっているでしょうね・・・(苦笑)
ということで・・・お赦しくださいませ。

近作1つ載せてみます。


  やましさのおもちゃばこ

残ってしまったのは
罪深さと疚しさだけが
生きているようなもので
肉体だけが業の深さで
死なずにいるような
「なら早よ死ね」という声が
聞こえてきそうな世の中だが
「あんたに言われて死にたかねえよ」
とでも言い返しておけばいい
どうってことはない
この生きにくい世の中を
すいすい渡ってゆける連中を
うらやむこともあるまいよ
生きにくさを背負い過ぎて
死にたいと思う人ほど本当は
生きたい願いは強いのだろう
平気で「死ね」と言える奴ほど
生きにくさにうんざりしているのさ
傷だらけのままひっくり返された
玩具箱の兵隊たち


逸れクリスチャンとして、さらに
個人的な近作1つ・・・
今日のパンがなくなりそうなときの
・・・吠え面です。(苦笑)


  運ばれるもの

現実的には
しばらく様子を見る
全ての真実が明るみに出た上で
全部返そうと思っても
貯金では足りない
母のお金には手は出せない
生命保険か・・・
死ぬのは怖いが
三十年以上封印し
抑制してきた自殺念慮
処分対象者死亡によって
義務消失の可能性・・・
何とも情けない
オートマチック
(トランス)ミッション
現実的だが機械的で短絡的な
最大の罪であることよ
皮肉なところで
病気が役に立つ・・・?

笑止!
肉体の生死を恐れるとは
肉体の生死を求めるとは

信仰に拠るならば
神様が救うなら
どんな形であれ
誰が何を言い 何をしようとも
必ず赦され 救われて
御国へ至るであろう
また逆に
神様が地獄行きと定めるなら
どんなに うまく立ち回り
どんなに足掻こうと
自ら何を言い 何をしようとも
必ず地獄へ落ちるのである

在って在る御方に比べれば
人などは
在って無きが如きものではないか
神様に運ばれて
運ばれるままに
身を任せる以外にないのである
神様は必ず運ぶ
それに抗うことも
逃れようとすることも無意味である

肉体の生も死も恐れなければ
神様が必ず運んでくださるのだから
知る必要もない 成り行きを
案ずることは無意味であり
知る必要もない 行く先を
恐れることも無意味である

魂を生かし
魂を滅ぼすことの出来る御方
神に全ての栄光は帰されるのだ
神様以外のものを恐れるな

肉体の生死を恐れるな
自ら歩けない者よ
塵に等しい者よ
神に任せよ
何処へでも
背負われ
運ばれてゆけ


いつもながら非論理的で申し訳ない・・・
また書きたくなったら書きます。ではまた。拝。

                戸田聡 不具

すいません
N.W(うさねこ) | URL | 2008-06-10-Tue 14:58 [EDIT]
 一つ前のコメント題名は「anthroposさんへ」です。すいません、途中で切れてしまいました。
an
N.W(うさねこ) | URL | 2008-06-10-Tue 14:56 [EDIT]
anthroposさんへ

 コメントありがとうございます。お久しぶりですね。
 
 いやはや、あまりにいろんな原稿が忙しくて、更新もなかなかできないのです。ですので、過去の原稿を再掲載するということにいたしました。「倶楽部ジパング・日本」の方でも、過去に他のネット言論誌で掲載したものを再掲載しました。よかったらご一読ください。

 「完全な空虚に耐えられる人間」なんて、私はありえないと思っていたのですよ。ところが、本当におそろしいことですけど、おっしゃるように、そういうことに耐えられる人間を見かけることが不意にあるんですね。私は現代にドストフスキーやカミュを再出現させて、彼らにもう一度、あの不条理な観念世界を描いてほしい、と思います。闇はそれを見つめる目を許すことによって最低限に逆説的であるように、あらゆる絶望が書かれた書を読むことが唯一の希望である、と三島由紀夫がいいましたが、こういう時代だからこそ、私もそう思いますね。
 
自殺の世界について
anthropos | URL | 2008-06-09-Mon 00:29 [EDIT]
おひさしぶりです。
再録されたんですね、この論文。
今あらためて読み直してみて、以下の一節に非常な共感を覚えました。

……ビジュアルなゲーム世界や、非人間的な全体主義的国家教育が、もし、完全な空虚に耐えられる人間を完成してしまったら、ということを私は考えます。自意識があってこそ、私達はシーシュポスの神よりの刑罰の不条理を理解でき、そして、自意識による否定行為を行いそれを理解できる。……

「完全な空虚に耐えられる人間」。じつに背筋が寒くなってくる概念です。しかも、世界の大勢はそのような人間を生産する方向に流れようとしているように思えてなりません。もはや、苦しみも迷いもなく、弛緩した幸福だけが残された世界。考えるだけで怖気がはしります。

小谷野です | URL | 2007-04-12-Thu 19:16 [EDIT]
心理学や科学を万能的に見るのは危険ですよね。
僕に言わせれば、世の中で心理学的問題と言われている事象の大多数が、哲学的、倫理的問題だと考えます。
哲学的問題を心理学的問題にすり替えて、やたら、病名をつけて病人を増やしている。
コンプレックスは、コンプレックスとなる物自体が問題なのではなく。
認識する側の自己が確立されていないことが問題なんですよね。
最近、心理学では、なんでもかんでも鬱だと決め付けますが。
よく聞いてみると自己が確立されていないケースがよく見受けられます。
戦前の日本では、儒教的価値観が牢固としてあった。
その堅牢さによって自己が保たれていた側面があります。
だから、戦争という極限状態でも精神が保てた。
戦後は、その土台を徹底的に破壊してしまった。
徹底的に破壊しておきながら、それに変わる価値観を準備していなかった。
だから、戦後生まれの人間には、牢固とした価値基盤がない。
その結果、こんなに平和な世で、精神に異常をきたす。
多様な価値観なんて欺瞞ですよ。
否定しようにも、否定すべき価値基盤が与えられていないんですから。
だから、自己を確立しようがない。
価値観すら、相対化している。
それでありながら、可哀相に当人がそのことすら気がついていない。
だから、相手によって価値観が変化してしまうんですね。
つまり、カメレオン状態です。
こうなると、その時々の言動に固執せざるを得なくなる。
もはやその行為自体が、精神病ですよね。
価値観が、相対化するという事は、常に、自分の価値観が揺れ動いているわけですよね。
批判したくても、価値観が相対的なのでは、批判のしようがない。
反対したと思えば、賛成してみたり、
議論している内に立場が正反対になっていたりする。
それでいて当人が気がついていない。
先ず否定しても良いから、絶対的基準の価値観を持つことですよね。
それは、心理学や科学ではなく。哲学の仕事。
なぜならば、心理学は、相対的なのですから。
その為に、僕は信仰心は大切だと思う。
少なくとも、自殺しようとする者の心を支えている部分は、否定しようがないし、否定すべきでもないと思う。
最後に救えるのは、神のみだと私には思えますね。
(クリスチャンの)自殺
戸田聡 | URL | 2007-04-05-Thu 10:22 [EDIT]
クリスチャンも自殺することがあります。
ML・HPなどに書いて、
今日まとめてみた2作投稿します。


  クリスチャンの自殺

うすうす知っていたことではあるが
「クリスチャンも自殺することがある」
改めて訃報に接すると
「神様はクリスチャンが自殺するのを
止めてくださらないことがある」
自分も例外ではない

自殺者を次から次へと
偽者・偽クリスチャンと決め付けて
「クリスチャンは自殺しない」
と辻褄合わせで思い込むのか

「神は神の都合により
人には理解できない計画によって
あらかじめ天寿を全うする人と
自殺する人を定めおかれる。
したがって
自殺者は使命を果たして天国に行く」

「神は存在であり
存在こそが神であり
それがすべてである。
それを知るかどうか
知ってどう行動するかは
人の意思に任される」

「神は人に自由意思を与えた。
自殺するか生き続けるかどうかの
瀬戸際の選択において
神は人の自由意思に任せて
敢えて沈黙する。
生きることを選択した者のみが
神の都合によって守られる」

「御子を信じる者が一人も
滅びることのないように」
という聖句は何なのか
自殺者の人生と苦悩は
何のためにあったのか
クリスチャンが信じている神様は
「呼べば答える神」ではないのか
新約の主イエスの御名によって祈る
その祈りに
神は答えてくださらないというのか
神様は
民となることを告白した者の信仰を
育ててくださる神ではないのか

御心、測りがたし・・・されど

神様が沈黙するとき
神様は
苦難のときにこそ
人が自由意思によって
神様のほうを向いてくるのを
期待しておられる
ように思えてならない


  死ぬ気・死んだ気

「死ぬ気になれば
 何でもできるじゃないか」
本当に死ぬ気になったら
死ぬことしかできないのではないか
他に何もできないと感じるから
死ぬ気になってしまうのではないのか

「死んだ気になれば
 何だってできるじゃないか」
「死んだ気」とは何なのか
誰が死んだ気になれるというのか
死んだ人だけではないか・・・
いや死んだ後に「死んだ気」など
残り得るのか・・・そんなこと
誰にも分からないではないか
それに死んだ後に
「死んだ気」になったところで
意味がないではないか

この二つの言葉は
本当に「死ぬ気になる」前の
まだ「死」について
考えることのできる人の言い分
またそういう人に対する言い分
と言うべきだろう
だから
「死ぬ気」に捕まってしまう前に
「逆境の日には考えよ」
(伝道の書七章十四節)

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

以上、失礼しました。 戸田聡 不具

自殺と今
戸田聡 | URL | 2007-03-21-Wed 14:37 [EDIT]
少しは影響を受けたつもりで・・・戸田聡です。
今日書いた1作、誤解を恐れず、投稿しておきます。

  自殺と今

自殺を考えるとき
今を生きていない
今は確かに生きているのに
今しか生きられないのに
今を生きていない
欠片(かけら)だらけの記憶という過去や
不確かな想像だらけの未来に
あたかも既知であるかのように
怯(おび)えて絶望する

今の今を生きるとき
得るものも失うものもない
今さえ作り物ではないのか
これが今だ
と誰が指し示すことができようか
誰が今を保存できるだろうか
今というファイルは存在しない
在るのは思いだけだ

自殺を考えるとき
思いが過去と未来という苦しくも
滅裂なものに隷属を強いられている
だから自殺を考えるとき
楽になりたい
という自由を夢見ている

自由は隷属を拒否することだが
自殺を考えるとき
その拒否の根拠は
皮肉にも隷属に他ならないのだ

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

            戸田聡 不具

収穫のないコメント
戸田聡 | URL | 2007-03-12-Mon 04:26 [EDIT]
石田様へ。戸田聡です。

>
     それと私はキリスト教批判はしましたが、
     戸田様個人を攻撃した覚えはありません。
<

私に対する個人攻撃ではないことは最初から明らかです。
しかし私の信仰であるキリスト教を攻撃されれば私も私なりに
受け止めて、石田様の批判を咀嚼することは極めて困難でしたが、
私なりに書かざるを得なかったということです。

>
     少なくとも「オーム戸田教」とは言ってません。
<

私の信仰は単純なものなので、経緯や感慨はよく書きますが、
石田様のように長々と自説を説いておりませんから
オウム戸田教と言われる筋合いもないわけです。

>
     ただ、あなたと私は根本的に認識が違いすぎます。
     その原因は、あなたのキリスト教信仰というよりも
     あなたの認識不足という感じが強くします。
     私が霊的真実について学んだ基礎知識は
     英国国教会のスピリチュアリズムの専門家の著作も
     かなり含んでいます。彼らは周囲から尊敬されている
     立派なクリスチャンです。
<

はい。救いがたいほど認識が違います。
認識不足がが知識不足ということなら認めますが、
私個人の信仰は多くの知識を必要としていません。
英国教会の・・・なんてさっぱり知りません。
それでも信仰を持ってしまっているのです。
それは理屈ではありません。自説自論ではなく、
述懐として・・・書いたものですが・・・


  宗教

 私は宗教は嫌いである。できれば最小限の道徳とヒューマニズムをもち、宗教に関しては無神論というよりは無関心でいたかった。多くの日本人がクリスマスにはケーキを食べ、大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けると初詣に行く。しかして三つの宗教のどれも本気では信じていない。私はそれさえも面倒くさくてしないですませたいと思う。
 キリスト教だけでも百を越える教派があると聞く。キリスト教を名乗る新興宗教などを加えるとその数の多さにまず疑問を抱く。さらに宗教人の哀れみの表情や態度に、悟らない下等動物をみるような蔑みの目を感じてしまう。それでも悪意がなければ、苦い吐き気を隠しながらも何とか耐えられる。
 私は愚か者である。と言ってみてもしようがないが、加えて人に言えるほどの何の才能もない。無能と言ってもいい。自らは悪意をもち、あるいはもったことがあるにもかかわらず、自らに向けられた悪意・作為には耐えられず逃げるほどに気は弱いようだ。それを神様にお祈りしても勇敢な正義の味方になるわけでもなく有能になるわけでもない。その気の弱さと社交性の乏しさのせいであろうか、私は独りでいることが多く、独りで考えることが多い。独りで存在することの耐え難い不安が私をキリスト教に向かわせたのかもしれない。そして聖書に表わされた人のような神のような生き方と死に方をしたイエスキリストのへの想いが断ち切れないために今も聖書を少しずつ読むという生活になっているようである。
 イエスは常に貧しい人たちを訪ね彼らとともにあり慰めと励ましを与え、どういう癒しかはよくわからないが病気を癒したという。広く(旧約)聖書に通じていて、それを人のために生かし、終生富を求めず、私利私欲を求めず、最後には抵抗も言い訳もせず、十字架につけられ死んだ。福音書はキリスト・イエスの肉体をもった復活を説いている。しかし肉体をもって復活されたのなら、忙しくはなるだろうが時々天から下りてきて困っている人々を当時のように助けに来てくださればよいのにと思う。
私についていえば復活は聖書を通じての霊的な精神生活以上には起こっていないので、それ以上を無理に信じる気にはなれない。今でも私は宗教は嫌いである。あまりお近づきになりたくない。しかし私は全く個人的にイエスの存在を必要としており、イエスを主と呼ばざるをえず、キリスト(救い主)と呼ばざるをえず、それよりも存在することの孤独と不安を癒してくださる同伴者・永遠の友として頼みとせざるをえない。


>
     それとこれまで私は幾つかテーマを決めて
     感想と意見を書いてきましたがキリスト教信仰しか
     念頭にないあなたのレスは往々にして的外れです。
<

私のことですから的外れはあるでしょうが、
何をもって的外れとおっしゃっているのか分かりません。

>
     輪廻転生や霊の世界の実在性を
     反キリスト教思想だと思われているのなら
     もうどうしようもない気がします。
<

「反」というより「無縁」でしょう。
聖書に書かれてもいない「輪廻転生」などは・・・
だから理解できないのは仕方のないことで、それで
「もうどうしようもない」なら、私もどうしようもないです。

>「福音書」の読者は、キリストや12使徒を誉める義務があるのでしょうか?
<

義務ではありません。そういう「義務」と私の
信仰は無縁です。義務、例えば聖書を読むこととか
祈ることとか、が生じるとすれば信じた後に自らが
考えることだと思います。
私は理屈ではなく、上にも述べたような理由で、
キリストに縁付いております。

> 中世キリスト教社会の宗教裁判官の非道と、
共産主義社会の共産党の当局者の非道は極めて似通っています。
<

非道という点だけわかります。事実でしょうから。

> もし「聖書」の読者がみな等しくキリストを神として受け容れる義務があるのなら、最初から私は「聖書」を読まないように致します。
<

何をおっしゃりたいのか分かりません。
私は上に書いたとおりです。

>「聖書」への批判能力のない神学者なんてただの御用学者じゃないでしょうか?
<

御用学者もいるかもしれませんが、文献的考察など
を含めて聖書は解釈する人が必要です。でないと
石田様のような途方もない解釈を
キリスト者も強いられる危険性がありますから。

> 日本もアメリカと開戦した以上は、国民に英語文化を強要してでも徹底的に敵国の文化を体験させるべきであったのです。どうも原理主義者というのは、こういうところで正反対の対応をしてしまう。原理主義者っていうのは信仰はあっても現実的感覚がないのですね。
<

日本は下手で無謀な戦争のやり方をしたとは思いますが、
ここで言う原理主義って何のことでしょう。
冒頭に書いておられたイスラムでもなさそうだし・・・
それと歴史についてしばしば書かれておられますが、
日本の軍国主義とその時代のことは不思議なくらい
殆ど書かれていないようですね。

>「福音書」というイエスの弟子達が編纂した「聖書物語」がキリスト教創設期の史実を書く筈はない。
<

こういう決め付けが話を必要以上に辛辣なものにしています。

あと・・・

> 左の十字架につけられたのはイスカリオテのユダ
<

などは大いに疑問をいだくところですが、
答えるには知識が不足しておりますので、
こういう聖書解釈論争のお相手はできません。
答えられるのは上に述べたような聖書学者・神学者でしょう。

> 私は人に教えを説く宗教家の傲慢くらい嫌なものはないと思っています。
でも自分が真実と感じたことはストレートに表現したがる人間です。
<

そして石田様は自分の教えを長々と説いてらっしゃいます。
「教えを説く」ことが傲慢とも思いませんけれどね・・・

> 私は、「宗教」なんてないほうがよいと思ってます。正確に言うと「宗教組織」

「団体」は一切ないほうが良いとおもっています。私の理想はあらゆる宗教が消滅して、誰もが共有できる「哲学思想」と「スピリチュアリズム」のデータベースが存在する社会です。
<

宗教のない社会、
それは私などのような者が生きていけない社会のようです。
生きていてはいけない社会のようにさえ感じます。
同時に宗教組織や団体が教理を押し付けてくる
ような社会もまた私の住めない社会です。

以上、収穫はお互いなかったと思います。失礼します。

                戸田聡 不具

スターリン神話とキリスト神話
石田 俊義 | URL | 2007-03-12-Mon 00:53 [EDIT]
<スターリン神話とキリスト神話>

戸田様へ:オーム石田教?は石田経に訂正してください。
     私は確かにキリスト教批判も書きましたが、批判どま     りです。
     そして激しく非難しているのは共産主義と原理主義で     す。
     別に「ネオコン」を非難してはいません。
     主にイスラーム原理主義を非難します。
     国家神道を非難します。
     一神教の神についての私の不信感の根拠は、
     一番最初の
     戸田様へのレスで書かせていただいたとおりです。
     それと私はキリスト教批判はしましたが、
     戸田様個人を攻撃した覚えはありません。
     少なくとも「オーム戸田教」とは言ってません。
     キリスト教批判がキリスト教信仰者にとって聞くに
     耐えない苦痛だとおっしゃっておられるのなら
     それは素直に謝ります。
     ただ、あなたと私は根本的に認識が違いすぎます。
     その原因は、あなたのキリスト教信仰というよりも
     あなたの認識不足という感じが強くします。
     私が霊的真実について学んだ基礎知識は
     英国国教会のスピリチュアリズムの専門家の著作も
     かなり含んでいます。彼らは周囲から尊敬されている
     立派なクリスチャンです。
     輪廻転生や霊の世界の実在性を
     反キリスト教思想だと思われているのなら
     もうどうしようもない気がします。
     それとこれまで私は幾つかテーマを決めて
     感想と意見を書いてきましたがキリスト教信仰しか
     念頭にないあなたのレスは往々にして的外れです。
     それでもここしばらく感想・意見を書き続けたのは
     私自身の心の整理と普段あまりに非哲学的生活、
     非精神的生活しか送っていない自分自身に対する
     戒めを込めました。
     私は文章を書くとき常に私を見つめている守護霊
     、指導霊がどう思っておられるのか、また戸田様
     が信仰しておられる神様がどう思っておられるのか、
     私が信仰している神々がどう思っておられるのか
     意識しながら書くように努力しています。
     必ずしもそうだったとは言いませんが・・・
     これはきっとお怒りになるかなと思うことも敢えて
     正直に書きました。
     というか私を見守っておられる神霊の方々の反応
     を意識していました。
     「自殺するライオン」は皮肉が強すぎていけなかった
     かも知れませんね。
    ともかく、私の感想と意見はこれが最後になります。
    「もうやめろ」と厳しく無言の圧力以上の恫喝が
    昨夜ありましたので、これ以上続ければ間違いなく
    「殺す」というメッセージが1時間も続きましたので
    やめるしかありません。
    本当は今、こうして最後の感想・意見を書いている
    ことも「約束違反」なのですが。
    突然うちきったのでは、不可解な印象を残しますので
    「ルール違反」覚悟で最後の長文を書きます。

<スターリン神話とキリスト神話>

マルクスの「資本論」の読者は、マルクスを誉める義務があるのでしょうか?
レーニンの「帝国主義論」の読者は、レーニンを賛美する義務があるのでしょうか?
確かに、共産党の支配する国家ではそういう義務があります。
どうやら日教組の教師にもそういう義務があるようでした。
「福音書」の読者は、キリストや12使徒を誉める義務があるのでしょうか?
確かに中世のキリスト教社会ではそういう義務があったかもしれません。
プロテスタント勃興以前のヨーロッパ社会においてローマカソリックから破門されることは、かなりの勇気がいったそうです。
キリスト教会に逆らって、破門になった背教者
は自分は地獄にいくのではないかと本気で心配したといいます。
日本で奈良仏教、天台仏教においても仏門に入った男子は厳しい戒と律によって自らを律する義務がありました。女犯の罪を犯そうものなら破戒僧と呼ばれて破門されちゃいます。その厳しい掟を敢えて犯して妻帯した親鸞聖人は死ぬ直前まで自分が地獄に行くのではないかという不安に苛まれています。
なんせ天国の門の鍵は初代ローマ法王であるペテロに預けたとキリストが言ってるのですから、その法燈を受け継ぐローマ法王庁から破門されることはキリスト教信徒にとっては恐怖です。
天国にいたる多様な入り口を破門されかかっている宗教人が求めたのは理の必然でプロテスタントが「聖書」に立ち返ることをことさら強調したのは、『天国の門の鍵』を継承しているローマ・カソリックの権威が恐ろしかったのだと思います。
中世ヨーロッパの科学者は自分の発見した自然界の論理をキリスト教の宗教裁判官に気づかれないように細心の注意を払っています。欧州社会の秘密結社の教義の中には中世の科学者が苦心惨憺して自分の発見した真理が隠されています。
「総ての科学、学問はスコラ哲学のはしためである。」
というのは中世キリスト教神学の権威がいかに強圧的であったかを示す言葉です。
これと全く同じことを唯物論神学の権威の下に行ったのが共産主義社会です。
1920年代、新生ソ連邦の文学者、音楽家、芸術家、科学者達に対して当局は徹底的な自己批判を要求し共産主義への忠誠を誓わせています。
「総ての学問、総ての芸術は決して誤ることのない共産党と国家のはしためである」
というのが共産主義社会の守るべき掟となったからです。
作曲家プロコフェイエフは党の命令に応じて自己批判をした。
リフシッツとの共著「物理学教程」で有名な物理学者ランダウも自己批判した。
ランダウの親友のジョージ・ガモフは自己批判する代わりに恋人と二人でボートをこいで黒海をわたりきり自由の国アメリカへ亡命した。
個人的な話ですが、私は「特殊相対性理論」のピタゴラスの定理的説明に全然納得がいかなかった。ところがランダウの「古典力学」の微分形式の不変式を使用した解説は極めて明解で即効で理解できました。さすがランダウ、数学センスが滅茶苦茶良い物理学者ですね。っていうか著名な関数解析学者リフシッツとランダウの息がピッタリ合ってるんですね。他方、ランダウの親友のジョージ・ガモフは凄い数学音痴。よくあれで理論物理学でノーベル賞候補になれたなあって思います。ちなみにランダウは「極低温」の世界の理論でノーベル賞を受賞しています。

中世キリスト教社会の宗教裁判官の非道と、
共産主義社会の共産党の当局者の非道は極めて似通っています。
「魔女狩り」によって異端とみなされた罪なき男女に情け容赦のない拷問と火刑を行った宗教裁判官の精神は、そのまま共産主義国家の異端審問と「魔女狩り」に継承されたのです。
「聖書」を読んだ感想も、戸田様のように「キリスト教信仰」をお持ちの方とそうでない私のような非信仰者とでは違って当然です。もし「聖書」の読者がみな等しくキリストを神として受け容れる義務があるのなら、最初から私は「聖書」を読まないように致します。
「仏典」の読者がみな等しく仏教信仰を持つ義務があるというのなら、それでも私は「仏典」を読みたいと思います。
「神道」は、文字で書いた経典がない宗教です。あえていうなら「祝詞」がそれに相当しますが、基本的に「神道」は経典の体裁も理論書も持たない宗教です。
それでも私は日本の神々を尊敬します。

しかし「聖書」への批判能力のない神学者なんてただの御用学者じゃないでしょうか?
「資本論」への批判能力のないマルクス主義の教授なんてただのアホ学者じゃないでしょうか?
『神道』への批判能力のない国家神道主義者なんてただの国粋主義者じゃないでしょうか?
歴史の中でキリスト教がヨーロッパ史と共に歩んできた事実が、「聖書」を世界一のベストセラーとした以上は、まずは「聖書」を読むべきでしょう。それは欧米人と認識を共通化させる為です。
同じ論理でユークリッドの「幾何学原本」も読むべきでしょう。
アブラハム・リンカーンは「幾何学原本」の愛読者であったそうですが、この偉人もまた一人の教養人として「聖書」知識と「幾何学原本」の知識を身につけたということです。

どこかのお馬鹿な国粋主義者は、英米と開戦したにもかかわらず英語の学習どころか使用を禁止した。こんな相手と戦うアメリカは国粋主義者に感謝してもしたりない。
旧ソ連は敵対しているアメリカを諜略する為に、わざわざアメリカ合衆国とそっくりの都市を建設した。その都市で生活するKGB要員は、英語の会話しか許されない。生活習慣も完全にアメリカ人になることを要求された。毎朝、マクドナルドのハンバーガーを食べコーヒーを啜って気分も言葉も完全なアメリカ人になりきる。
KGBのアメリカ担当官は、この合衆国そっくりの都市生活のシミュレーションをもとにしてアメリカに対してどういうアクションを起こすのが最も軍事的、政治的に効果があるかということを本気で研究する。
まるで孫子の兵法を地で行くような作戦である。
日本もアメリカと開戦した以上は、国民に英語文化を強要してでも徹底的に敵国の文化を体験させるべきであったのです。どうも原理主義者というのは、こういうところで正反対の対応をしてしまう。原理主義者っていうのは信仰はあっても現実的感覚がないのですね。
私も共産主義に勝ちたければ、「資本論」も「帝国主義論」も大真面目で読むべきだったんだと思います。 クリスチャンと対話する以上は「聖書」についても大真面目で読むべきだったのですね。理解が浅いもので戸田様に突っ込まれています。

「福音書」の物語を、史実として受け容れるのは「信仰心」の強い人か、疑うことを知らない正直者。
私のように日教組に徹底的に苛め抜かれた?生徒は、共産主義に対しても、キリスト教にたいしても不信感が強くなる。
(まあ当時の私のクラスメートから見れば私が学校を苛めて
いたと思ってるかも知れない。なんせ、日教組の教師は共産主義国家と社会をやたら礼賛するだけで歴史的現実については驚くほどの無知・無反応)
私の通学していた京都の府立高校の図書館には、東欧諸国の学術機関が編纂した大部のハンガリー史、ポーランド史、チェコスロバキア史、ソビエト・ロシア史がありましたが1945年以降1960年までの長文の歴史物語には、共産党のクーデターも人民裁判という名の大量リンチ、と無差別テロも一切登場しない。
すべては情け深いソ連赤軍の慈悲で労働者の天国を共産党が建設していくという感動的な物語が延々と展開する。
これを読んで感動するのは日教組の教師かマルクス信仰のある左翼少年くらいのもの。
「石田さん「資本論」て素晴らしいわよ。あなたならきっと好きになります。」
って地理の教師が言ってました。
「資本論」を読む前に、私は「唯心論者」になってしまったのでどうもマルクス主義は馴染めなかったですね。
ソビエト共産党が編集したソ連邦史には
戦時共産主義体制下で、チェーカーの行ったロシア聖職者30万名の惨殺行為もロシアの農夫1千万名を虐待死させた非道も一切登場するわけがない。
ましてや1921年3月のクロンシュタットの赤軍水兵1万5千名の反乱の悲劇が登場する筈もない。
1921年3月8日第10回ソビエト共産党大会
レーニンは1917年10月革命以来、3ヵ年続いた内戦が終結してロシアが完全に共産化されたことを宣言します。その宣言の最中、クロンシュタットでは3年前ボルシェビキの煽動で武装蜂起してロシア革命の口火をきった赤軍水兵1万5千名が
「我々はボルシェビキに騙された」のだと気づいて、反乱をおこした。
レーニンは1万5千名の赤軍水兵を一人残さず悉く殲滅します。
これらクロンシュタットの水兵1万5千名を殲滅する総指揮官となったトハチェフスキー元帥は13年後には、スターリンの粛清で処刑された。この赤軍のナポレオンと呼ばれた男の母親は、中央アジアの街角で乞食となって息絶えた。
因果応報、盛者必滅の典型のような話。
またクロンシュタットの勝利者トロッキーもそれから10年もしないうちに反逆者の汚名を着せられてメキシコでソ連共産党の刺客に暗殺された。
共産主義の歴史を見ていて感じることは勝者も敗者もない、誰もが冷酷と非道の犠牲者でもあり加害者でもあるということです。
こういうのを修羅界というのでしょうか。
地獄を創造した共産主義の唯物神は、続いて修羅界を創造したのです。
またそれは『「労働者の天国」という名の地獄』なのです。
1929年12月のスターリン生誕50年祭から1953年3月5日のスターリンの死去までの24年間、スターリンは共産主義の「絶対神」としてソ連邦のみならず世界中のコミュニストの崇拝の対象となりました。
スターリンと対立したボルシェビキ幹部、及び赤軍の首脳の殆どは粛清で家族もろとも銃殺刑となり、世に言うスターリン独裁の治世が続きました。
この間、ソビエト共産党の党員とその家族のみならずソビエト・ロシア人民の約1割が粛清の犠牲者として中央アジアやシベリアの強制収容所での過酷な肉体労働と少ない食料で衰弱死しています。その数2000万名を超えると推測されます。
毛沢東は約7000万名から8000万名の中国人民を文化大革命で惨殺しています。
この二人は共産主義ソ連邦、共産主義中国の絶対神そのものとして方や2億2千万、方や7億の人民を強圧支配したのです。

1956年2月14日、第20回共産党大会
ボルシェビキ幹部の殆どが無実の罪で処刑されたことを堂々と非難したフルシチョフのスターリン批判は、ソビエト共産党のみならず世界中の共産主義者を震撼させた。
27年間続いたスターリン神話が崩壊した瞬間です。

この1956年の秘密演説が起爆剤となって1956年11月4日にハンガリーの首都ブタペストで反ソ暴動が発生し20万名のハンガリー市民がソ連軍によって殺害された。
1956年10月にはポーランドで反ソ暴動が発生してときのスターリン主義者の政権は失脚してパルチザン派のゴムウカがポーランド共産党第一書記に就任した。

2000年キリスト教史でフルシチョフ的役割を果たしたのが、カルビン・ルター、ヤン・フスといった改革派の神学者達。
彼らの言動が契機となってというよりは、ヨーロッパ・ルネサンスの魂の胎動の中で起こるべきことが宗教界でも発生して中世キリスト教社会を近代化していったというべきか。
1956年以降、世界共産主義運動という標語は消滅し「共産主義プロテスタンテイズム」という共産主義へ至る多様な道を東欧共産圏は主張しはじめた。
ヨーロッパ宗教改革が約1000年ぶりにキリスト教を分裂させていったように、フルシチョフの秘密演説はスターリン批判となって共産主義圏そのものを分裂させていったのです。
そしてこんな史実は共産党国家の編纂した正史にも、日教組の教師の知識の中にも存在しない。

ってことは「福音書」というイエスの弟子達が編纂した「聖書物語」がキリスト教創設期の史実を書く筈はない。
「物語的に整然としているキリストの死」は当たり前だろって言います。
それはソ連邦正史、中国共産党正史が整然としているのと同じ理屈。
あれは、キリスト教信仰の為の「物語」なのだから整然としていて当然である。

初代キリスト教の時代に、フルシチョフはいなかったのか?
初代キリスト教の時代に、カルビン・ルターはいなかったのか?
まあいるにはいた、
イエスの無二の親友というべき男がいた。
その名は「シモン・マグス」
ギリシャ医学とグノーシス派の神秘主義に精通したこの
ゼローテ党の党首はイエスを二重に助けている。
一度はAD.33年3月21日クムランの洞窟7と8、通称「墓場」に放り込まれていた瀕死のイエスを300ポンドのもつ薬ミルドを使って施術してその命を助けている。
「死して後、3日後に復活した救世主」
は100%シモン・マグスのアイデアである。
異教徒の神秘主義者へ布教を行う上で、「死して3日後に復活した救世主」というのは恰好の物語。
この物語でイエスは宗教家としても命拾いする。
十字架事件はイエスにとって予定の出来事でも予測できた出来事でもない。
数日前に発生したナショナリストのグループによるローマ兵士殺害事件の首謀者を捜索していたローマ総督ピラトに、その犯人グループであるシモン・マグスを密告したのはゼローテ党副党首だったイスカリオテのユダ。彼はイエスの育ての親、マタイ・アンナスという西方派の大祭司からシモン・マグスとイエスを密告するように買収された。
報酬は銀貨30枚というのは誤解で、正確には海外在住のユダヤ教徒から集まる献金のうち一人あたり銀貨30枚を受け取るという条件。従ってユダの取り分は当時の国家予算に匹敵するくらいの膨大な金額。決して銀貨30枚で密告したわけではない。
また、ユダが密告したのはゼローテ党のライバルであったシモン・マグスであってイエスではない。
シモン・マグスの家に官憲が押し入った際、たまたまイエスはシモン・マグスの家にいたのでついでに逮捕された。ピラトにとっては、ローマ兵士殺害犯を逮捕したかっただけでイエスなんて全くの想定外。
ところがイエスと対立していた東方派の大祭司カイファはイエスを逮捕するようピラトに要求する。このときローマ兵士殺害犯の真犯人としてマグスやイエスとは全く別のナショナリストが逮捕されていた。その名はテウダ、偽称バラバ。彼は強盗なんぞではない。
イエスの実父ヨセフの戦友で、生涯の友情を誓った仲である。
「杖と杓」が、二人の友情の証。
「杖」はユダヤ人ナショナリストのリーダーヨセフ、
「杓」は戦友テウダの通称である。
ヨセフが大工だなどというのは、レフ・ワレサが一介の電気工だと主張するような誤解がある。レフ・ワレサは確かにグダニスク造船所の電気工ですが、同時に自主管理労組「連帯」のリーダーとして祖国ポーランドを東欧民主化革命に導いた英雄でもあります。
同様にイエスの実父ヨセフは大工であると同時にユダヤ人ナショナリストのリーダーでありローマの官憲から常にマークされるお尋ね者でもあります。
イエス誕生の直後、ヨセフとマリアが赤子のイエスを伴ってエジプトに逃げたとあるのはヨセフがユダヤ人ナショナリストのリーダーとしてかなり危険な活動をしていたからです。
この為、ヨセフは当時「エジプト」と呼ばれていたクムランの洞窟群の中に逃亡したのです。隠れるにはもってこいの環境です。

ヨセフは福音書に明記されたとおりイスラエル王国の英雄ダビデ王の直系の子孫でありイスラエル王国復活の暁には国家元首となることを自他共に認める人物でもあった。
そして少年イエスは、養父ヨナタン・アンナスによってイスラエルの皇太子の儀式を正式に受けている。イエスが「わが父、わが神」と呼んで幼少時代より慕っているのは師匠であり養父である大祭司ヨナタン・アンナスのことである。しかし十字架事件でイエスを官憲に売り渡すようにイスカリオテのユダを多額の報酬で懐柔したのもこの男である。イエスは信頼しきっていた師匠に裏切られた怒りで十字架上では蛇の毒の酒を拒絶した。

当時の処刑法は、罪人を十字架に手首、足首を固定して動脈が窒息するくらい強く縛りつける。罪人は体内の血液が逆流する驚愕の中で酸欠状態に陥って苦しみ抜いて絶命する。
釘を手足に打ちつけるような野蛮な殺し方は、当時のユダヤで行われた処刑法には存在しない。
罪人は血流の逆流する苦しみを和らげる為に、蛇の毒の混じった酒を飲まされる。
それは酸っぱい葡萄酒の味がする。
イエスも飲むように促されたが断った。
最初、ゴルゴダの丘に建てられた3本の十字架の真ん中にシモン・マグスが縛り付けられた。イエスはシモン・マグスの右手の十字架、シモン・マグスの左手には、ヨセフの戦友テウダが十字架に縛りつけられていた。
「聖書」の中ではイエスが真ん中で両側に強盗がいたことになっている。
また左の強盗がイエスを罵ったとあるが実際に左の十字架につけられたイスカリオテのユダは、イエスやシモン・マグスとは会話していない。
イエスとシモン・マグスはしきりに言葉を交わしている。親友だから当然ですよ。

ところが当時のローマの風習で保釈する金を積んだ罪人は処刑を免除される。
その金は総督ピラトの懐へ入る。ピラトはこの方法でユダヤの総督時代にかなりの不正蓄財をしたらしい。後々、彼の不正蓄財がばれてピラトはローマ政府から処分された。

金はテウダの仲間が用意してテウダは釈放された。
そしてテウダの身代わりに空いた左の十字架につけられたのはイスカリオテのユダである。
イスカリオテのユダは、シモン・マグスを裏切ったつもりだったが彼はイエスの養父で西方派の名門ヨナタン・アンナスに見事に裏切られたのだ。ちなみにマタイ伝のマタイはアンナス家の長男マタイ・アンナスのことである。
AD.33年3月20日の午前9時~午後3時まで6時間晒し者の屈辱と血脈が窒息する苦痛を味わって失神したシモン・マグス、イスカリオテのユダ、イエスの3名は、クムランの洞窟7,と8、通称「墓場」に閉じ込めらた。このまま数日放置されれば3名ともに死体で発見される筈だった。
が、決死の覚悟で洞窟を塞いでいる石をこじ開けて重体の3名を救おうと墓にしのびこんだのは、テウダとイエスの弟ガマリエルの二人。
二人は救急医薬品である300ポンドのミルド(もつ薬)を洞窟7,8に持ちこんだ。
まずシモン・マグスが二人の介護で息を吹き返すと、マグスは親友イエスを医薬品とギリシャ医学の知識を駆使して施術する。
イエスは死ななかった。テウダの決死の救済とシモン・マグスの医療技術のおかげで見事息を吹き返したのだ。
そのころ洞窟8では、イスカリオテのユダが虫の息であった。
シモン・マグスは、裏切り者ユダを、洞窟の開いた窓から崖下に突き落とした。
ユダは内臓破裂で即死。
聖書ではユダが自分の罪深さに恐れおののいて首吊り自殺したことになっている。

一命こそとりとめたものの生涯、足の不自由な体になったイエスはそのごリハビリの為一定の距離を歩く練習を幾度も行っている。そしてその後は滅多に弟子達の前に姿をあらわさなくなった。普段は隠れ家の天井裏から弟子達を見守っている。
この「墓場」のあるクムランの洞窟7,8の窓からは、真下の方角に私生児の養育施設
アインフェシュカ、通称「女王の家」とか「ベツレヘム」、あるいは「馬小屋」と呼ばれた施設が見える。この施設はユダヤの街角で捨てられた赤子を救済する為のものであった。マリアはこの施設で私生児としてイエスを産んでいる。
十字架事件直後、この敷設にはマグダラのマリアとマルタが待機していた。
「墓場」の窓から、明かりが点灯したのを目ざとく見つけたマグダラのマリアはすぐにイエスとマグスを迎えに出向いた。確かに十字架事件後最初にイエスと会話したのはマグダラのマリアです。

シモン・マグスは、この十字架事件を有効に使う為の策を練り上げた。
二人が墓場で死んだことにしておけば、ローマの官憲は二度と自分達を捜索しない。
しかも友人イエスについては「死して3日後に復活した救世主キリスト」として
使えば、異邦人の布教の恰好のネタになる一石2丁の効果がある。
あとはこの十字架事件を「整然とした物語」にすればよい。
しかし、その後ほどなくイエスとシモン・マグスは喧嘩別れすることになった。
原因は、シモン・マグスがイエスに無断で自分がキリストと名乗る別のキリスト教団を組織したから。
しかもこのマグスのキリスト教団は、淫示邪教と呼ぶべきいかがわしい行為を行ってイエスを激怒させてしまう。
おかげでシモン・マグスは、ヨハネの黙示録の中では、「赤い龍」、「666」の人物として悪者扱いされている。

「オーム石田教」ですか、どうせ言うなら「オーム石田経」って言って欲しかったですね。
確かに私は17歳で「数学信仰」を持って以来、「唯物論」は大嫌いになってゆきました。
「唯心論」については強い信念を持つ人間になってましたから。

私は人に教えを説く宗教家の傲慢くらい嫌なものはないと思っています。
でも自分が真実と感じたことはストレートに表現したがる人間です。
だからキリスト教という宗教は嫌いですが、一部のクリスチャンの真実性は私が感じたままに賛美します。

だから「石田教」じゃなくて「石田経」の方が適切かと思います。
「仏教」と我々が呼んでいるものの殆どは、お釈迦さまのあずかり知らぬ後世の仏教思想家達が書き連ねた「お経」という悟りの寄せ書きの集合体です。
原始仏典だけを「仏教」と考える思想はありません。

さらに「神道」にいたっては、どうやら「経典」による文言化を日本の神々自身が拒絶されています。それは「言霊信仰」が根底にあるからだと思います。
「言葉」の本質は「霊」そのものです。
いくら言葉と連ねても、その言葉に相応しい『霊』が伴わなければ空しいということを「神道」の「神々」くらい強く意識されている神様はおられないように感じます。

ヨハネ伝でも似たようなこと言ってますね。
「初めに言(ことば)ありき。言(ことば)は神と共にあった。
・ ・・・
すべてのものは、これ(ことば)によってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」

私は、「宗教」なんてないほうがよいと思ってます。正確に言うと「宗教組織」「団体」は一切ないほうが良いとおもっています。私の理想はあらゆる宗教が消滅して、誰もが共有できる「哲学思想」と「スピリチュアリズム」のデータベースが存在する社会です。
人は共有のデータベースから、それぞれがお気に入りの「哲学思想」と「神霊思想」を検索して人生の糧とすればいいのです。
『マルクス主義』も「唯物論哲学」もゴミ箱行きですね。

少し、戻りますが「神道」が、「経典」を持たないことは実に意味深ですね。
「経典」なんてものがあると、人は経典の文言、言葉を「真理」と誤解してしまいます。
どんな立派な「経典」であっても書かれた文字だけでは「真理」の1%も表現できないのです。その言葉に相応しい『霊』が顕現しなければ「言葉」は空しいからです。
カソリックのある神父様が、
「聖書は、読むものではなくて聞くものだ」と厳しくおっしゃったという話を聞いたことがありますが今になってからなるほどと思います。
イスラームはもっと徹底していて
「クルアーン」の文言は、専門の読み手が独特の音韻で
信徒にその響きを伝えます。
「クルアーン」は読むものではなく体でその響きを感じ取るものなのです。

いずれも「音韻」が聖句以上に大切であると言っているのです。

そしてこの真骨頂が「神道」の祝詞です。

    高天原に神留坐す
    神魯岐・神魯美の詔以て
    皇御祖神伊邪那岐大神
    筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
    御禊祓へ給へし時に生座る
    祓戸の大神等
    諸の曲事罪穢を祓ひ賜へ清め賜えと
    申す事の由を
    天津神国津神八百萬の神等共に
    聞食せと恐み恐みも申す

 (もろもろのまがごと罪穢れを払い清めてくださいという願いを天の神も国の神も八百萬の神も共に聞き届けてください)と謳い上げる。 古神道の中の祝詞の言葉は人がこの世で身につけた様々な妄執を洗い清めて素にならなければ心の故郷へは還れないことを常に繰り返し繰り返し意識させられます。
こんなに経典が短いと、音韻が極めて重要になります。
読む人の悟りのレベルと心の清さ次第で祝詞の価値は大きく変わるように思います。
私は、「神道」の経典は、この日本という国で生活してきた日本人の品性の中の美点、
そして日本人固有の季節感と「死生観」、「自然観」、そして「言霊信仰」そのものであるように
感じます。
1532年ポルトガルのリスボンで生まれたフロイスがキリスト教伝道の為、はるか彼方の日本の地へやってきて九州の小さな漁村で出会った村人の礼儀正しさに感動したという話を読んだことがあります。
上は戦国大名や信長、秀吉といった天下人から、武士、町人、片田舎の村人にいたるまで幅広く交流したこの宣教師は、日本という国を強く愛する人間に変わっていきます。
そしていつのまにか日本という国に伝道されていたのです。
「日本教」という無経典、無団体の宗教に伝道されてその信仰者になっていたのです。
死後、実在界へ戻ったフロイスは、自分の愛した日本の心が「神霊」という確かな実体であったことに感動したはずです。

< 心の闇 >
ウサネコ様、小谷野様へ

>人の心の闇というのは、他人には、伺い知れないところがあります。

昨夜、2007年3月11日(日)午前2時~3時の約1時間近くに渡って
私は、悪霊から激しい攻撃をうけました。
1976年2月以来、31年間にわたって時折目寝込みの肉体と幽体のバランスの不安定なタイミングを見透かして悪霊が私の肉体生命を奪いにくることが過去数百回はありました。いつもは数分の格闘が続いた後、私が自分の念を肉体に押し込むことで悪霊は私の肉体から退散していきます。
たった数分ですが激しく疲れます。
そして昨夜は、1時間という異例の長さで続きました。
肉体的に疲れきっていて念を入れる気力が希薄であったせいもありますが祈ろうがあがこうが悪霊は私の体を背後から締め上げて幽体を空中に引きずり出しました。
凶悪な悪意と殺意が全身をしめつけて上下前後左右に振り回される恐怖感は、体験したものでないと解りません。
かような長時間の攻撃は、31年前に悪魔の憑依した中学生に直接殺されかかったとき以来です。私は悪霊が何かを要求しているのを直感して
「あのブログへの、投稿をやめればいいのか?」と念で問いかけました。
その直後、激しかった攻撃がぱったりと止み私の周囲の霊気は極めて穏やかになりました。
「あのブログ」と言うとき、今回の投稿の「キリスト神話」を意識して問いかけました。

今回の私の投稿は、悪霊たちにとって余程都合が悪いものだったようです。
私はこの直後、あなたは聖書の神なのか?と問いかけましたが無言。
もし私の「キリスト神話」が荒唐無稽と判断したなら神も悪魔も放置するだけで、私に干渉してこないでしょう。

私はこのとき
「人の心の闇というのは、他人には、伺い知れないところがあります」という
小谷野様の感想を思い出しました。
昨夜の体験で私が感じたのは
「人の心の闇」なんて「神の心の闇」に比べれば極めて浅いということです。
「神」と「悪魔」は、相反する存在でありながら、
「協調」しあっているように感じたのが私の思い過ごしであって欲しいと思います。

 「ヨブの呪い」は、神に対する私の問いかけです。

あなたは、ヨブを信じているからこそ敢えてヨブを試練する。
そして試練する為に「サタン」という「心の闇」を手段として使う。
この「心の闇」は一体、誰の心の闇なのですか?

「あなたの心の闇」ではないのですか???

< 最後の最後に戸田様へ >

 私の拙文につきあって下さってありがとうございました。
 私はまだ死ぬつもりはありませんのでとりあえず
 悪霊の要求に従います。
 あしからず。

補足
戸田聡 | URL | 2007-03-11-Sun 07:09 [EDIT]
石田様へ。戸田聡です。

不毛の議論について
もう書くことはないような気がしていましたが、
石田様のコメントについて
もう少し補足的に書いてみようと思います。

石田様の神の心境についての記事について

私が内容について全部否定しないと書いたのは、
石田様が書いた神と人の違いに類似しますが、
神様は人の寿命を遥かに超えた永遠の存在であり
神様は万物の創造主であり
神様にできないことは何一つない
という私の考えに似たようなものを
石田様の記事にも感じたからです。
したがってその部分について私は
否定しないということです。

聖書を読んで独自の人生観・世界観・宗教観を持つ
ということは個人の自由としてありうることですし
自分と違った考え方もあると、肯定はできなくても、
受容することはできると思います。

しかしキリスト教の聖書を
引用しながら、上の部分を除けば、
大方キリスト教とは懸け離れた内容であり、
それは石田様のキリスト教批判~反キリスト教思想
に繋がっている。

キリスト教の聖書の都合のよい一部だけを
一見肯定的に引用しながら
結論としてはキリスト教否定になってゆく文脈
というのは肯定に始まり否定に終わるわけですから
引用と結論に一貫性がなく整合性もなく、
矛盾と言わざるを得ないと思います。

聖書と関係なく
単に自説を述べることと比べても、
そういう話し方は皮肉以上に
狡いと思うし意地悪だとも感じます。

これまでのやり取りにおいて私は
石田様の死生観なるものを
一方的に攻撃してはいないと思っています。

私が反発や批判の対象にしたのは
石田様が私の信仰を脅かし否定するように
攻撃して来た場合だったと思っています。

そこには基本的な見解の相違があると思います。
見解の相違があると分かった時点で、
見解の相違があるということを明らかにするだけでも
議論する価値はあるわけですから、
見解の相違ですね・・・ということで
議論を終わらせることを考えてもよいでしょう。
それでもなお議論を続けるのならば
何らかの接点を見つける作業だと思うのです。
相手の見解を受け入れる必要なないけれど、
ある程度は相手の立場や見解を尊重する姿勢がないと、
受ける側のほうに疲労感が溜まるだけで、
一方的な説教か泥仕合にしかならないと思いますよ。

原理主義と戦っているとおっしゃっていますが、
原理主義といえばイスラム原理主義だけでなく、
キリスト教原理主義という言葉も聞いたことがあります。
新保守主義「ネオコン」のことでしょうか、
知識が乏しいけれど、前にも書きましたように私にとって
信仰は何々イズムでも何々主義でもありません。また
信仰は私にとって倫理体系でも道徳観でもありません。
だから「信仰は理屈ではない」という意見には賛成しました。
「キリストの教えに帰り、それを守る」
のが正しいキリスト教という考え方には反対です。むしろ
「キリストの教えを守れない、
神よりも低く造られた人間に帰れ」と言いたいところです。

何の一致点も接点も見出せないままだと、
議論をやめても続けても虚しく寂しいものです。
そういう気持ちを込めて、書いてみました。

              戸田聡 不具

不毛に近い
戸田聡 | URL | 2007-03-09-Fri 19:01 [EDIT]
石田様へ。戸田聡です。

>『自殺するライオン』は、『自殺論』に対する私なりの皮肉を言ったつもりで、
まさか真面目に反論してくる方がおられるとは意外でした。
<

まともに受け取った私が馬鹿でした。が・・・

>「イザヤ書 65章17節~25節:
 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する、
・ ・・
・ おおかみと子羊は共に食らい、
・ ししは牛のようにわらを食らい、
・ へびはちりを食物とする。」
と預言者に語ったとき空想的未来を語っておられたのでしょうか?
<

聖書のこの部分が空想的未来だとは言っておりません。
この部分についての私が書いたコメントは
聖書という大きな文脈の流れの中で私が
考えられることを書いたまでです。

石田様の後のほうの話が空想的未来だ
と書いたつもりですが・・・何のことはない、
やっぱり皮肉だけでなく本気で信じているじゃないですか。

> 神様の心境を私なりに考えてみました。

神様の心境を考えるということは私も
想像や推測を試みることはありましたが、
それならもう少し、想像に過ぎないという、
謙虚さがあってもよいのではないかと思うのですが。

聖書の一部を持ち出しながら
いったいどこの神様の心境なのか・・・

書いてある内容については私にとっても
必ずしも全部否定するわけではないけれど、
誰でも考えそうな当たり前と思えることもあり
石田様の宗教観としか思えないこともあり・・・

聖書を引用しておきながら
神様が仏教用語を使っていたりするのは・・・

結局、自説を説かれるのは勝手だが
聖書を引き合いに出さなくてもいいような、また
引き合いに出されていい迷惑のような感じもします。

神様の心境というより、自分を神の立場に置いた
石田様の心境~教祖的教えに近いと感じました。
オウム真理教よりは、真剣な分、ましな
オウム石田教のようです。(「オウム」には
「宇宙の真理」みたいな意味があったような気がするので、
これは必ずしも揶揄ではありません。独自の宗教のようだ
という意味です。)

> 私は、この「自殺論」というテーマの、感想・意見の中で
常に現実の歴史について語ってきたつもりです。
<

そういうところがあったことは認めますが、
しばしば一方通行的な自説の押し方に私は、
ほとほと参りましたと言うべきなのか、
ほとほと呆れましたと言うべきなのか・・・

> 私にとって戸田様と議論して負けようが勝とうがそんなことはどちらでもかまいません。
<

私も勝つことを目的として議論してはいません。
何か共有できるものが1つでも見つかれば
議論は無駄ではないのですが・・・私は、
信仰を否定されて、受け止めることに精一杯で、
石田様は目一杯押してくるだけだから
議論は不毛に近くなるのです。

今回レスを書くのにあまり時間を要しませんでした。
レスを書ける内容があまりにも少なかったから。

             戸田聡 不具


魂の進化&私のイライラ
石田 俊義 | URL | 2007-03-09-Fri 00:24 [EDIT]
<魂の進化&私のイライラ>

『自殺するライオン』は、『自殺論』に対する私なりの皮肉を言ったつもりで、
まさか真面目に反論してくる方がおられるとは意外でした。

>遠い将来、人間に取って代わる知的生命体が
>進化によって登場することを想定なさっているのでしょうか。
>否定はできませんが、私は、そういう空想的未来より、
>現に生きている今の人生と時代を考えたいと思います。

戸田様の信仰しておられる神様は

「イザヤ書 65章17節~25節:
 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する、
・ ・・
・ おおかみと子羊は共に食らい、
・ ししは牛のようにわらを食らい、
・ へびはちりを食物とする。」
と預言者に語ったとき空想的未来を語っておられたのでしょうか?

私は、かなり本気で語っておられたのだと信じます。
なぜ、そう信じるのか言いましょうか。
このときの神様の心境を私なりに考えてみました。

・・あなた方は、いまでこそ自分をいっぱしの人間だと思っているが
・・あなた方も、幾千万年前は一匹の獣でありその心の有り様は
・・動物そのものであり、知性も理性も希薄な獣であった。
・・愛情の世界も母性愛こそあったがそれは本能そのものであり
・・慈しみとか、優しさといった高次の感情には程遠いあなた方
・・であったのだ。
・・まさしく獣に過ぎなかったあなた方が
・・今は、知性と理性を持ち哲学する生命として生きている。
・・そして我々、あなた方の導き手である神を意識できるまでに
・・その魂は進化の階段を登り詰めたのである。
・・私は、ねたみの神と言われようと
・・裁きの神と言われようとかまわない。
・・かって獣であったあなた方が幾億年のときを
・・経て進化の階段を上りつめて人の魂へと
・・変貌したように
・・いま又、次の進化の階段を経て
・・我々の仲間になる段階へと至らせてみせよう。
・・あなたは人が、我々のように
・・生命を育み、新しい天地を創造する神霊に
・・まで進化することなど不可能だと思っているかも
・・知れないが、私に不可能なことなどない。
・・かって獣に過ぎなかったあなた方を人にまで
・・その魂を進化せしめたように
・・いま又、人の魂を神々の魂にまでひきあげて
・・みせよう。
・・それは決して優しい道のりではない。
・・常に苦しい道のりである。
・・あなた方は、誰一人楽な人生を送るものはいない。
・・肉体の死を迎えて帰天すれば、
・・もう2度と転生は嫌だという心境でおるに違いない。
・・しかし、次の転生が過酷を極める人生であったとしても
・・あなたは敢えて苦しみと悲しみを求めて転生しなければいけない。
・・人として生きる苦しみ、哀しみを味わいつくし
・・人生で出会う、自分とは全く性格も価値観も異質な個人を
・・消化しつくすまで、
・・人生で出会う、宗教、哲学、芸術、科学、文学、を消化しつくすまで
・・幾百回でも、幾万回でも
・・私はあなた方を、転生させてその魂を鍛え上げるつもりである。
・・やがて数千万年のときを経て
・・あなた方は、自分の魂が完全に変貌しつくしたことに気づく
・・このとき
・・あなた方はもはや自分の意識が人でなくなっていることに
・・気づくであろう。
・・この数億年、自己の体で幾億もの固体生命を育んできた
・・地球神霊の心境を我が心境とするあなたは見かけこそ
・・人であってもその魂と霊は神そのものである。
・・このときあなたは自分の眼前に
・・新しい天と新しい地が広がっているのを見る。
・・おおかみと子羊は共にわらを食らい、
・・ししは牛のようにわらを食らい、
・・へびはちりを食物とする。
・・この光景をあなたは「空想的未来」と呼ぶのか?
・・わたしは、数億年前あなたがまだ一匹の獣であったとき
・・この獣心しかもたぬ生命体が数億年後
・・知性と理性と暖かい心をもった人として
・・生活する光景をわたしは、しっかりと意識していた。
・・そうでなかったら今、あなたがたは人として
・・生きてはいない。ずっと獣のままだったのだ。
・・数千万年は、人にとっては「遠い将来」
・・かもしれないが、神である私にとっては
・・数億年という時間は、決して悠久の時間ではないのだ。
・・地球神霊は、その生誕のときから最初の生命が芽生えるまで
・・そして人が命を育むようになるまで数十億年間も
・・ずっと忍耐し、待ち続けたのだ。
・・私にとって一日は千年のようであり、
・・千年は一日のようであると言ったとおりなのだ。
・・わたしは、人にわたしが数億年も人への進化を忍耐して
・・待ちつづけたように、あなた方に数億年間、
・・忍耐せよとは言わない。
・・あなた方人には、数十年の人生が限界だからだ。
・・しかし、あなた方が人の本質が霊であることの意味を
・・魂の奥底に刻み付けるまでは、あなた方は
・・輪廻の宿命から逃れられない。
・・キリスト教の神を信じてクリスチャンとして生涯を
・・送った者は、次は仏教信徒として無常観を養う人生を与えよう。
・・文学者として言葉に磨きをかけたその者は、次の転生では
・・科学者として理性に磨きをかける人生を与えよう。
・・芸術家として人々を癒した者には、次の転生では
・・数学者という理性の芸術家としての生涯を与えよう。
・・宗教家としての多くの民衆を教導する人生を送った
・・者は、次の転生では実業家として社会に貢献する人生
・・をおくるがよい。
・・これらの人生に飽きたら、大道芸人として転生するのもよい。
・・ともかく、あなたはそれぞれの人生で出会う、人、思想、科学、
・・哲学、芸術、歴史の総てを消化しつくすべきである。
・・ゆっくり休んでいる暇などない。
・・いつも決死の思いで切実に生きる人生でなければならない。
・・寸暇を惜しんで思索すべきである。
・・寸暇を惜しんで学習すべきである。
・・寸暇を惜しんで仕事に学ぶべきである。
・・寸暇を惜しんで人を学ぶべきである。
・・失敗、挫折は幾度でも体験すべきである。
・・真剣に失敗し、真剣に挫折すべきである。
・・ともかく総てを消化しつくす人生を目指せ。
・・失敗も、挫折も、栄光も、屈辱も、呪いも、怒りも
・・総ての心境を味わいつくせ。
・・死して肉体も、幽体も脱ぎ捨て
・・霊としての自分に戻ったとき
・・人生の中の、あらゆる心の葛藤と努力が
・・生命を持った生き物として自分の前に展開するのを見る。
・・人の心の世界という、儚きとらえどころのない存在が
・・じつは、堅牢で極めて確かな実体であったことを知るとき
・・人は、自分の心にある創造力の大きさに唖然とする。
・・そして、生前は確かな実在だと思い込んでいた
・・物質世界が、実は実に危うく儚い夢幻であったことに
・・気づかされる。
・・人の本質が霊であることに気付かされるのだ、
・・そして霊の本質は、創造性そのものであることを
・・偽りの善と偽りの正義に生き抜いた悪党も、善良に生き抜いた人も思い知る。
・・生前の自分の心の思いが、巨大な実体のある生き物となって
・・自分に対峙してくるからだ。
・・人は、まだ心というものの力の巨大さに気づいていない。
・・地球神霊はその心に思いを込めるだけで直径数千キロの惑星一個を出現
・・させてしまう。
・・人の肉体という妄執の鎧のなかで人の本質であり真実の自我である霊は
・・常に窒息死した瀕死の状態で呻いている。
・・この霊は、地球神霊と同質でものである。
・・人の心が信じて疑わなければ、天変地異は自在のままに生起する。
・・何故なら霊の本性は創造力そのものだから。
・・しかし、現実の人にとってそれは空想だと一笑に付されてしまうのは
・・人の心があまりに鈍っているせいに過ぎない。・・そのことを皮肉にも思い知らされるのは
・・死して後、数十年の生涯で自分の心の中で創り出した
・・奇怪な生き物が現実となって自分の眼前に出現した
・・ときに違いない。
・・この世の常識や、科学的と言った言葉くらい
・・霊の目から見ていい加減で無責任極まりない言葉はない。
・・この物質世界ほど確実な実在はないと思い込んで生涯を生き抜いた
・・死者は、実は物質世界ほど儚く希薄な実体はなかったことを思い知らされる。
・・そして己れの心の片隅で見向きもされず呻いていた霊としての自分に
・・気づかされる。

私は、この「自殺論」というテーマの、感想・意見の中で
常に現実の歴史について語ってきたつもりです。
ヤーナもニコライ・コークロフもイエスのような2000年前の宗教家でも3237年前のモーセのような預言者でもありません。
20世紀のソビエト・ロシアの史上空前の過酷な共産主義社会において人としての真実味を失わなかった希有の男女です。
カロル・ボエテイワもレフ・ワレサも20世紀後半の東欧共産化の激動期をカソリック信仰と黒いマリア信仰を心のよすがとして高潔に生き抜いた極めて人間味のあふれる人物です。
彼らの人としての真実味が奇跡を生み出しているのです。

私にとって戸田様と議論して負けようが勝とうがそんなことはどちらでもかまいません。
私の生涯の敵は、共産主義と原理主義だけです。
キリスト教が私によって嫌われているのは共産主義国家の思想と歴史を命がけで非難する上で、この宗教があまりに目障りになっているからに過ぎません。
私は、レーニンとその夫人クルプスカヤが作り出した
共産主義の学校で実際に行われた、非道の現実を語りました。
「現に生きている今の人生と時代を考えたい」気持ちが多少でもある方なら
私の感想と意見に対して、どこまでもキリスト教信仰にだけこだわった反応は決してされなかったと思います。
今、現実に原理主義国家イランでは多くの民衆が、イスラーム革命党の秘密警察による密告と恫喝の君臨する社会に苦しんでいます。
今、現実に北朝鮮では多くの民衆が朝鮮労働党の密告と恐怖の生活に怯えています。
今、現実にチベットでは中国共産党が情け容赦のないテロと恫喝による支配によって仏教徒を苦しめています。
私は彼らを共産主義とイスラーム原理主義から救済する為に何が必要かよく考えます。

イランにおいてキリスト教の福音は、これら地獄の苦しみの中にいる民衆にとって希望となりえます。見つかれば処刑が待っているのを覚悟で簡単なパンフレットを片手に
単身でイランに潜入して伝道を行っている命しらずの若いクリスチャンの女性がいることを私は知っています。彼女たちの命がけの伝道がイスラーム原理主義の支配するイラン国家で急速に隠れキリシタンを増やしています。江戸時代初期の日本と同じくらいの数のイランの民衆がアッラーの神では癒されない、恐怖感をキリストの福音の言葉によって癒されています。

共産主義国家は、過酷な情報統制によって鉄の支配を実現しています。
中国共産党が、旧ソ連共産党が、もっとも恐れるものは西側社会の世論が自分達の悪事を暴きたてることです。
日本は本格的な軍備を持たない平和国家ですが、中国共産党を分裂・瓦解させることは可能だと私は思っています。中国共産党が過去60年間に自国民に対して行ってきた数々の
非道を正確に公表しつづけるだけで中国共産党は内部告発によって瓦解するに決まってます。
1985年12月にソビエト政治局の頂点に立ったゴルバチョフは、ペレストロイカを宣言して見事に失敗しますが、同時に始めたグラスノチ=情報公開は、効果的面で
たった6年で70年間続いた共産主義国家を瓦解させたのです。

もし日本のマスコミが本気で中国共産党の悪事を告発しつづければ、たぶん数年で中国共産党の一党支配は崩れ去って、民主化が実現するに違いありません。
またそのとき中国共産党という後ろ盾を失った北朝鮮は一気に、体制崩壊に向かって突進するしかないでしょう。日本人拉致問題など総て解決する筈です。

しかし、そのことを一番よく了解しているのは中国共産党と朝鮮労働党の幹部達で中共と北の言いなりになることを唯一の正義であり人権と考えている左翼の言論人がそうはさせじと頑張っています。
この左翼文化人の愚かさが私の人生52年の最大のイライラなのです。
信仰・見解の違いです
戸田聡 | URL | 2007-03-06-Tue 16:42 [EDIT]
石田様へ。戸田聡です。

><大反論:後編>の一部にするつもりで書いた短文を投稿させていただきます。
<

これで短文と言われるのだから驚きです。
イザヤ書は一応通読したことがあります。
かなり私はゆっくりで、時間が掛かりました。
そのころに旧約聖書で、他のクリスチャンに紹介されたものも
含めて、心に残った言葉をまとめたものが
あるので載せておきます。有名な箇所が多いですが。


  聖書抜粋

詩篇8:4-6
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧(かえり)みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉(ほまれ)とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治(おさ)めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。

詩篇19:12-13より
だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、
故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。

詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

詩篇23:4
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。

詩篇34:18
主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。

詩篇39:4-6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。

詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10-11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。

詩篇51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。

詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。

詩篇88:11-13より
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに
宣(の)べ伝えられるでしょうか。
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。

詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
同141
わたしは取るにたらない者で、人に侮(あなど)られるけれども、
なお、あなたのさとしを忘れません。

箴言30:8-9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。

伝道の書7:14-17
 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。

イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。

イザヤ書53:すべて(省略)

イザヤ書54:7-8
「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、
大いなるあわれみをもってあなたを集める。
あふれる憤りをもって、
しばしばわが顔を隠したけれども、
とこしえのいつくしみをもって、
あなたをあわれむ」と
あなたをあがなわれる主は言われる。

イザヤ書57:15より
わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。

イザヤ書60:15
あなたは捨てられ、憎まれて、
その中を過ぎる者もなかったが、
わたしはあなたを、とこしえの誇(ほこり)、
世々の喜びとする。


> イザヤ書 65章17節~25節:
 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する、
・ ・・
・ おおかみと子羊は共に食らい、
・ ししは牛のようにわらを食らい、
・ へびはちりを食物とする。
「主」は自分がエジプトから導きだして選民としたイスラエルの民の末裔達の所業に我慢がならず
イザヤ書の1章から64章までくどくどとぼやきまくったあげく、短気を起こして
「新しい天と、新しい地を創造する」と宣言したのです。
じゃモーセやヨシュアを通じてヘブル人と結んだ契約は一体なんだったのか?
「新しい天と、新しい地を創造する」ってことは
もうおまえらイスラエル民族は用済みだよって言ってるようなもの。
<

預言者によって言われた神の言葉を「ぼやき」と、
また「イスラエル民族は用済み」と受け取るかどうかは、
信仰に関わることだから、
読んだ人の勝手としか言いようがありません。

私は違う受け取り方をしたとしか言えません。
前にも書きましたが・・・旧約聖書は
モーセからバビロン捕囚に至るまで
「主を恐れよ」で貫かれているように感じます。
神は「ねたむ神」とも言われるように
「背けば罰し、悔い改めれば救う」
の繰り返しが多い。そしてイスラエルのみならず
キリスト以降の神の民であるクリスチャンにとっても
教訓となりうる書であるから
旧約聖書として残ったのではないかと考えます。
新約聖書に旧約聖書からの引用が多い
ということもあるでしょう。

一部だけを取ってきて読解や評価をするのではなく
旧約聖書の「恐るべき神の、ねたみと救い」という
大きな文脈の中の1箇所として読むということです。
では「新しい天と、新しい地とを創造する」というのは
どういう意味でしょうか。しばしば見捨てるようなことを
神は言うけれども、信仰に立ち返れば救いも用意してある。
それは見違えるような「新しさ」をもって与えられるものだ
と受け取ってよいのではないかと思います。それを
「新しい天と、新しい地」と表現されたのだと思います。
創世記の天地創造や、天国と
全く関連がないとまでは言えませんが
信仰による救いのメッセージと受け取ります。
神様はここだけでなく何度も何度も自分の民に対して
「自分のほうを向きなさい」と語っておられるように思えます。

信仰についてのメッセージですから、
石田様が理解できないのは当然かもしれませんが・・・
信仰は理屈ではないのに・・・妙なところで
文字通りに受け取るのですね。

一方で民を滅ぼすと言い、逆にまた、
一方で民を救うと言われる。その繰り返しです。そして
救うときは、文言は違っても、見違えるように恵みを与える
というようなことは何度も、旧約の他の預言書などにも、
書いてあると思います。

>「神」と「人」を峻別しているのは次の2点だけです。
① 「人」の肉体生命がたかだか数十年の寿命であるのに対して、
 「神」の肉体生命は「不死身」で幾万年でも生き続ける生命力がある。
② 「人」の知識が極めて貧弱なのに対して「神」の知識は肉体生命を創れるくらいに圧倒的な実力がある。
<

だいたい私もそう思いますが、
「2点だけ」と言うにはあまりに大きな違いです。

> 結論から言いますと私はあと幾万年、幾億年かかるか判りかねますが
非常に遠い将来、現在の「人」が「神々」並みの倫理観と知識を常識とするくらいに進化した暁には可能であると考えます。
つまりその時分には「ライオン」は現在の『人』くらいの倫理観と常識をもつ哲学的存在に進化している筈だからです。
でもまあひょっとするとその時代は「人」は「神々」に進化したように「ライオン」は現在の『人』並みに悩んで「自殺するライオン」が社会問題となるのかもしれませんね。
<

遠い将来、人間に取って代わる知的生命体が
進化によって登場することを想定なさっているのでしょうか。
否定はできませんが、私は、そういう空想的未来より、
現に生きている今の人生と時代を考えたいと思います。

それにしても人が神様並みに進化するというのは、
とうてい理解できることではありません。

いつも「神」ならぬ「神々」と世界について
語っておられるけれども、見解の相違が根本にあるようです。
同じようなことを繰り返し書くのも私は飽いてきたので、
繰り返しになると判断したときにはスルーさせていただきます。

まだ書いていないことがあれば、また書くかもしれませんが。

                戸田聡 不具


自殺するライオン
石田 俊義 | URL | 2007-03-03-Sat 12:04 [EDIT]
<自殺するライオン>

「黒いマリア」で精魂を使い果たしたせいなのか、会社の決算準備が佳境に入ってきて帰宅が遅くなってきたせいなのか
奥歯の神経が化膿して凄い頭痛に襲われています。
で今週の私の感想・意見は、一月前に<大反論:前編>を書いた際に<大反論:後編>の一部にするつもりで書いた短文を投稿させていただきます。


>人神キリーロフは、友人スタブローギンの「君はあの世の永遠の生命を信じるのか?」という質問に対し、「いや、来世での永遠の生命など信じない。
>僕はこの世での永遠の生命を信じているのさ・・・そういう不思議な瞬間がある・・・」という奇怪な言葉を口にします。
>つまり、「自分が神になってしまったという感覚=すべてが許されるという感覚」は、もはや死後の自分が存在しえないということを前提とした、
>この地上のみでの、一人一人の人神が集う「永遠の生命の王国」を作り出さなければならない、ということを意味します。

「地上の永遠の生命の王国」という思想は、旧約聖書の中にもあったように記憶しています。

イザヤ書 65章17節~25節:
 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する、
・ ・・
・ おおかみと子羊は共に食らい、
・ ししは牛のようにわらを食らい、
・ へびはちりを食物とする。

「主」は自分がエジプトから導きだして選民としたイスラエルの民の末裔達の所業に我慢がならず
イザヤ書の1章から64章までくどくどとぼやきまくったあげく、短気を起こして
「新しい天と、新しい地を創造する」と宣言したのです。

じゃモーセやヨシュアを通じてヘブル人と結んだ契約は一体なんだったのか?
「新しい天と、新しい地を創造する」ってことは
もうおまえらイスラエル民族は用済みだよって言ってるようなもの。
つくづくこの「主」なる神って、どこかの超頑固な爺さんにそっくりなんですね。
「いまの若いやつは・・・」
「わしが若いころは・・・」
っていう懐古趣味のボケ老人どこにでもいますよね。

でただのボケ老人とちと違うところは
「新しい天と、新しい地を創造する」という明確な(?)ビジョンをもっているところ。
この「新しい天と、新しい地を創造する」ってなんなの?
というと
  「おおかみと子羊は共に食らい」
  「ししは牛のようにわらを食らい」
  「へびはちりを食物とする」
という理想世界。
ところで別に「新しい天」でなくても
「実在界」って幾千年、幾万年も大昔からそういう世界。
もちろんライオンが草食って空腹をしのいでるかどうか知りませんが
もともと「実在界」は、肉体のない「霊体・幽体」のみの世界ですから食わなくたって生きてゆける世界です。

またいくら肉食獣が草食獣を餌食にしようと襲いかかったところで草食獣の生きたいって思いのほうが強ければ肉食獣の凶暴性なんて無力なのです。

こういう世界で「新しい天」なんて無意味。

したがって「主」なる神の宣言している「新しい天と、新しい地を創造する」ってのはあくまでもこの「地上世界」が対象なのです。
もともと「人の死後」についてまったく無頓着な「主」がいまさら「来世」を改革しようなんて夢も理想もあるわけがない。

じゃあ、キリーロフの「地上の永遠の生命の王国」と
「主なる神」が創造すると宣言した「新しい天と、新しい地」は共通性があるのか?

私はもしキリーロフの肉体が「不死身」でその叡智が「超人類的」であるという2個の前提条件を仮定すれば、
キリーロフの思い描く「地上の永遠の生命の王国」と
「主なる神」のビジョンの中の「新しい天と、新しい地」
は完全に一致すると断言します。

というのは、一神教の「神」というのがそういう存在だからです。
「神」と「人」を峻別しているのは次の2点だけです。
① 「人」の肉体生命がたかだか数十年の寿命であるのに対して、
 「神」の肉体生命は「不死身」で幾万年でも生き続ける生命力がある。
② 「人」の知識が極めて貧弱なのに対して「神」の知識は肉体生命を創れるくらいに圧倒的な実力がある。
 
もちろん一神教の「神」を「神」とみなすならばという前提がつきますが・・・

>「自分が神になってしまったという感覚=すべてが許されるという感覚」
このキリーロフの感覚と「一神教の「神」」の感覚は確かに似ていますね。
というよりは
>「自分が神になってしまったという感覚=すべてが許されるという感覚」
というのは、キリーロフの妄想であり、「一神教の「神」」自身の妄想だとしか私には思えないのです。

前段がまたまた長くなりましたが
  「ししは牛のようにわらを食らい」
という一節に私自身すごく魅かれてしまうのです。

現実の獣性むき出しのライオンとは全く違う、人のような哲学性と徳性を持ったライオンは果たして可能なのか?

結論から言いますと私はあと幾万年、幾億年かかるか判りかねますが
非常に遠い将来、現在の「人」が「神々」並みの倫理観と知識を常識とするくらいに進化した暁には可能であると考えます。
つまりその時分には「ライオン」は現在の『人』くらいの倫理観と常識をもつ哲学的存在に進化している筈だからです。

でもまあひょっとするとその時代は「人」は「神々」に進化したように「ライオン」は現在の『人』並みに悩んで「自殺するライオン」が社会問題となるのかもしれませんね。

石田様へ。偶像その他・・・
戸田聡 | URL | 2007-02-26-Mon 14:05 [EDIT]
石田様へ。戸田聡です。
前にもお断りしましたが、私のキリスト教観は個人的なもので
キリスト教を代表するものではありません。
そういう観点からしか私はコメントを書けませんので、
その点は悪しからず・・・。

> どんどん自殺論から離れてしまってウサネコさんには申し訳ないのですが、一神教嫌いの私と戸田様というクリスチャンに「自殺論の感想」なるものを求められたウサネコさんのアイデア???の必然のような展開になっているように思えます。
<

私も最初は「自殺について」から書き始めました。
それがキリスト論(私にとっては
キリストについての個人的な考えなのですが)になったのは、
うさねこ様の記事やレスにキリスト論が書いてあったから私なりに
考えてみたということです。さらに
石田様がキリスト教批判を次々に書いてこられるので私なりに、
これは答えねばと無い知恵を振り絞って、
書けることを書いているだけなのです。
長文と歴史で迫って来られても、答えられないことは
答えられないので、書けなかったことも多かったと思います。

>52歳にもなってなんの肩書きもない不器用な人生を送っているつきあい下手で口下手の私がいるのみ。
<

私について言えば53歳にもなって無職で病気で、
不器用な人生・生活さえも作れず、
付き合い下手で口下手な私がいるのみなのでございます。

> 宗教も民族史の中で千年以上も歴史を重ねるといろいろな事件と係わり合いを持たざる得ません。それはキリスト教も仏教も例外ではありえません。
前回の戸田様の
「偶像」論の中の『純粋な信仰』という厳しいフィルターにかければ、
不純としか言いようのない、あるいは偶像崇拝と言われるしかない慣習がカソリック教徒の日常生活の中にも、日本人の仏教信仰の中にも色濃く残っているだけでなくそれが民族にとって畏敬の対象になっていることもしばしばあります。
<

「偶像」は私の信仰生活における
苦しい体験談と信仰観のようなものを書いたつもりです。
壮大な歴史についてしかもフィルターとして私の書いたものを
当てはめるのはスケールも的も外れているような気がして
少々呆気にとられています。
私はプロテスタントの教会で洗礼を受けました。しかし
カトリックの偶像については切っ掛けとして書いたまでで、
カトリックの信仰が偶像崇拝だと批判する意図はありません。
ああいうものは壊してしまえなどという意図もありません。
私が参加しているクリスチャンのMLには
カトリックの人もいるようです。ここと違って、
そこは論争の場ではありませんが・・・
というよりカトリックについては
批判するだけの知識がありませんし
批判しようとも思いません。
キリストを信じるということにおいては共通だと思います。
私が読んだ数少ない参考書は殆どカトリックの神父か神学者が
書いたものですから、マリア信仰についても私は否定できません。
それぞれの人がそれぞれの経緯で信仰に至るわけですから
信仰観の違いはあるでしょうが、あって当然だと思います。
イエスをキリスト・主と呼ぶということは共通していても、
極端な言い方になりますがキリスト教について言えば
キリスト者がいれば、同じ数だけのキリスト教がある
(信仰観においては)ような気さえしています。
前にも申しましたが、それで救われているのなら、
他者の信仰を否定することはできません。
否定しないのではなく、否定できないものだと思います。

オウム真理教などのカルトについては根っからの詐欺師が
いろいろな宗教を真似て作ったものだから話が別だと
言うのは簡単だけれど、では何故彼らを
伝統宗教は救えなかったのかという疑問が残ります。


   宗教と狂気と堕落

 長い歴史をもつユダヤ教を母体としているとはいえ、キリスト教も成立当時は紛れもなく新興宗教であったはずだ。
 ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教である。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟をもつ。律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのだがイエスの時代には形式主義をかたくなに守っていた人たちがイエスの敵となった。
 その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったわけで、そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていった。聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのであろうか。
 宗教は古い新しいを問わず狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていると考えるべきであろう。
 宗教だけから戦争が起こるということは、少なくともキリスト教においてはありえないことのように思われるのだが、利害関係や政治的な争いに宗教がからむと戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなる。
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えてしまう。確かに宗教が社会に有害であってはならない。しかしキリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ない。


  人間宗教(キリスト教について)

 百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教がある。それが今の世である。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。守ろうと努める者であり、守れないことを魂の底から最もよく知る者のことをいう。そうでなければどうして罪を知りえようか、どうして救いを知りえようか。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうる。
 イエスキリストは神であり神の子である。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人をいやし慰め励まし導かれる。そのことを否定しようとは思わない。個人的に否定できないからである。
 ではいったい人は何者なのか。感じることも考えることも人の自由である。しかし神の導きを知りうるものではない。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて人間としてのものであることをわきまえるかぎりにおいて人に許された自由であり信仰である。
 いかなる修道も信仰生活も伝道も人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもない。信仰は、ただ人を人間として高めるためにある。
 何よりも神の前に正直であれ。疑いをもったならば、それを正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
魔術を捨てよ。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。

奇跡を否定するわけではありません。
しかし物や肉体に起こる奇跡にこだわりすぎると、
魂の奇跡を見失う恐れがあるのではないかと思います。

プロテスタント・カトリックを問わず、私が
問題にしたのは「心の中の偶像」です。また私は
未だ「純粋な信仰」の境地に到達し得ておりません。
恐らく一生ないような気がします。だから
一生考え続けなければならないのだろうと思っています。


  偶像イズム

イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは

私は主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている

思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない

信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である

本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるようなものではない
多くの宗教人が信仰の名の下に、そして
間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている


そういう危険が常に、もちろん私にも、伴うのが宗教であり
信仰であろうと思っています。

> ポーランド人にとって「黒いマリア信仰」は理屈ではないのです。
民族の熱い情いと「黒いマリア」の奇跡の心の絆そのものだからです。
<

まさにその通り、
信仰は理屈ではないのです。心の絆そのものなのです。
信仰は信条ではない
と書いたのはそのことなのです。
だから信仰観の違うキリスト者も、異教徒も、私は
頭ごなしに否定する姿勢は嫌いです。私が書いた
「偶像」を勘違いなさっておられるような気がします。

> 異教徒をキリスト教信仰に改宗させるというのは並大抵のことではないのです。
キリスト教という後発宗教が既存の民族神を押しのけて神の位置に立つ方法は2つあります。
一つは、大航海時代のスペイン、ポルトガルが南米大陸でやらかしたような血生臭いやり方。先住民を片っ端から殺すか、奴隷化して国家と民族を乗っ取り一方的に自分達の宗教
を押しつけるやり方。
一つは、布教先の民族神をキリスト教信仰の中に取り込み土着の宗教をキリスト教化するやり方。
<

私の拙い知識においても、恐らく前者も後者も事実でしょう。
何故キリスト教は生き残っているのかということを考えます。
南米に限らず歴史的な過ちや悲劇や恨みがあっても、
キリストによって顕された救いには無視できないものがあり
無視できない人々がいるということではないでしょうか。
それは過ちの弁解にはなりませんが、歴史的な経緯と
キリスト教そのものを混同して評価してはならないと思います。

> 後者の方式の典型が「クリスマス」という祝日。
「クリスマス」は、『純粋な信仰』というフィルターに通すとき「偶像」以外の何者でもない。
「クリスマス・イブ」=「聖夜」というイメージこそ、偶像信仰の極めつけなのです。
イエスの生誕日は決して12月25日なんかではない。
こんな冬の季節に羊飼いが野宿して羊の番をしてる筈がない。
というか時のローマ法王がローマ市民にキリスト教信仰を普及させる為の窮余の一策として思いついたアイデアが、ローマの太陽神ミトラの聖誕祭12月25日をキリストの誕生日
とすること。
お祭り好きのローマ市民は、ローマの女神ミトラの誕生日12月25日を祝って毎年盛大な催しを行う風習がある。
これにキリストの誕生日をあわせるという涙ぐましい布教努力(?)というか
<

実際のキリストの誕生日は明らかではない
ということは参考書で知りました。
涙ぐましい努力か、ちょうど都合のよい日があったから
かは知りませんが・・・。


  クリスマスに寄せて

ローマの収穫の祭りか何かに
都合よく宛(あてが)われた
イエス・キリストの誕生日は
それでも無いよりは増しなのだろうが
生まれた日よりも死んだ日の方が
よっぽど根拠がある しかし
イエス・キリストの悲劇的な命日を
祝うわけにもいかないから
では復活祭はというと なかなか
馴染めないだろう この国の人々
とバレンタインデーから
ホワイトデーまで この国だけの
習慣を作って抜け目なく
盛り上げた この国の商人たちも
三月から四月へは
「雛」から「白」から
「馬鹿」で済ませて
さらに就職・進学セールの
シーズンだから
もう充分 ?

自由な恋愛を許したばかりに
殉教したローマの司祭
セント・バレンタイン
トナカイではなく馬か何かに乗って
贈り物を配ってまわったという
小アジアの司教
セント・ニコラウス
未だ明らかでない
キリスト生誕の日
とはいえ
蝋燭(ろうそく)を灯し
粛々と祈りのうちに
クリスマスを過ごす この国の
一部の人々

クリスマスを二四日と
クリスマスをキリストが
磔(はりつけ)になった日と
間違える この国の人々は
さすがに少ないだろうが・・・

一二月になるとキリストよりも
サンタクロースよりも
売らんかな
でジングルベルとドンチャン騒ぎが
主役になって広告・宣伝・街中を
賑わせておいて
二五日を過ぎると
何もなかったかのように
消え失せてしまう 一晩で
新年に装いを変える この国の街


> キリスト教の公認によって俄かに増えたミトラ信仰からの改宗者が自分達の宗教慣習(偶像信仰)をキリスト教会の中に大量に持ち込んだ結果らしい。
しかし毎年12月25日世界中のキリスト教会ではクリスマス礼拝が行われ10億以上のキリスト教徒が救世主キリストの生誕をお祝いしています。この日がもともと太陽神ミトラのお祝いの日であったなんて意識しているクリスチャンは滅多にいない。クリスマス・イブ独特の聖夜の雰囲気には、なんとも言えない魂の郷愁を感じてしまいます。
<

偶像崇拝や民族宗教がお好きなのでしょうか。
それとも歴史の重みに思いを馳せての感慨なのでしょうか。
歴史の悲劇も、今の悲劇も、
重く受け止めるべきことですが・・・私にとっては、
人間も教会も幾多の過ちを犯してきたけれども、
遥か遠い約2千年前の中東イスラエルで誕生した
イエスという御方が約2千年という途方もない時を越えて
極東の小さな島国である日本において、
さらに虫けらのように小さい私という人間に影響し
キリストと呼ばせていることが何とも言えない感慨です。


  小屋から

小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら

小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて


  基督像

誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない

どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と

彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に

 *

息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ

「主よ 私です
 私は来ました」

信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について

 *

礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった

人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像

たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう

何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから


   日本

 この国は狭い国土ながらも亜熱帯から雪国までを有し、四季に富む緑豊かな国である。島国であり異民族に蹂躙され支配された歴史をほとんどもたない。
 イスラエルは長い歴史の中で独立国家を維持していた時期は約五百年くらいであり、異民族に何度も支配され蹂躙され散らされた苦く長い歴史をもっている。
 日本は異国の技術を取り入れ加工し発展させることが上手であり、異国の文化を本質よりも風俗習慣として取り入れる特徴をもつ。日本の文字は中国から、ローマ字は欧米から、宗教にいたっては先進国ではめずらしくいまだに多神教が残っている国であり、一方では仏教の影響を強く受け、またキリスト教の影響も受けている。しかしそれらは宗教というよりも文化・風習となってしまっていて、御先祖様を敬う心はあるけれども、熱心に宗教を求める者は少ない。変化に対する適応能力に優れているがゆえに、熱しやすく冷めやすい、拾いやすく捨てやすい、流行りやすくすたれやすい。
 荒野と苦難の中に育ったユダヤ教から生まれたキリスト教の本質を日本人が理解するのは難しく、望みがあるとすれば同じ喜怒哀楽をもつ人間であること、そして日本には日本の苦難があり、これからも来るであろうから、宗教を求める人々はいるということであろう。栄えた国はやがて衰えるときが来るからである。
 キリスト教は日本において必ずしもメジャーな宗教となる必要があるかどうかは疑問でもある。メジャーであればあるほど慣習に堕してしまいそうで、むしろマイナーであるからこそある程度純粋性が保てるという部分もあるかもしれない。

荒野に乳と蜜の流れる国を夢見た異国の民に向かって
この国に荒野はない、見ることもなかろう、と言えるだろうか
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる


  未熟な象形

読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである


  このままと今

このままでいいのか
と考えてしまうとき
このままであり続けること
など善かれ悪しかれ
あり得ないことを忘れている
時々刻々私は私でなくなってゆく
か新しい私になりつつある
今はいつも新しい今に
取って代わられ続けている
来(きた)る未来と去りし過去
未来と過去が持続する今を造っている
思考と記憶の恐るべき創造である
神は自らに似せて・・・
少しく低く人を造られ・・・
だから人は自らに問い続ける
このままでいいのか
このままではいけないけれど・・・
誰もが知っている最後の結末は
また誰も知り得ない結末であり
その不安を敵とし友としながら
問わずにはおれない低さと弱さの分だけ
人は生きてゆける


長文に答えるということは、書いたものが幾らか既にあっても、
なかなか難しいことです。どこかで誤解しており、
どこかで自己矛盾や齟齬を来たしているかもしれません。
少々疲れました。また書きたくなったら書きます。失礼。

               戸田聡 不具


黒いマリア
石田 俊義 | URL | 2007-02-25-Sun 03:51 [EDIT]
<黒いマリア>

副題:偶像に隠された真実

どんどん自殺論から離れてしまってウサネコさんには申し訳ないのですが、一神教嫌いの私と戸田様というクリスチャンに「自殺論の感想」なるものを求められたウサネコさんのアイデア???の必然のような展開になっているように思えます。
日常生活では全く考えもしないことを考えさせられて即興で思いつくままに反論的感想と意見を書かせていただいて一体自分がどうしてこんなふうに考えてしまうのか不思議でなりません。ここに意見を書き込む直前まで一度もこんなふうに思ったことも考えたこともないのですよ。一体これは本当に自分の思考回路の産物なのか?日常生活は職場での仕事とか人間関係に忙殺されていて全く考えもしないし、思いもしない言葉が次々に出てくる。これは本当に私の意見なのか?
ここに感想と意見を書いている瞬間だけ全く別人の私が浮上してきているとしか思えない。
普段はどこにでもいる普通の会社員。52歳にもなってなんの肩書きもない不器用な人生を送っているつきあい下手で口下手の私がいるのみ。

「黒いマリア」の奇跡(前編)
宗教も民族史の中で千年以上も歴史を重ねるといろいろな事件と係わり合いを持たざる得ません。それはキリスト教も仏教も例外ではありえません。
前回の戸田様の
「偶像」論の中の『純粋な信仰』という厳しいフィルターにかければ、
不純としか言いようのない、あるいは偶像崇拝と言われるしかない慣習がカソリック教徒
の日常生活の中にも、日本人の仏教信仰の中にも色濃く残っているだけでなくそれが民族にとって畏敬の対象になっていることもしばしばあります。

フロイスというキリスト教宣教師の視点から見れば、日本の寺院仏閣に安置されている阿弥陀如来像も、観音像も、弥勒菩薩像も悪しき偶像崇拝の証拠品にしか見えない。
信長がこれらの仏像を寺院から没収して破壊する行為を当然として受けとめています。
全くもって日本人の神経を逆撫でする信長の行為でありフロイスの宗教観です。
私はフロイスという人物が大好きですし織田信長を尊敬しますが、フロイスの日本史を読んでいてこの箇所だけは不快でした。
その民族が大切に思っている信仰対象、敬意を払っている信仰対象というのは必ず民族の歴史と強く結びついているものです。
なかでもポーランド民族にとって「黒いマリア」くらい神聖不可侵な「信仰対象」はない。
イコンに描かれた「黒いマリア」を、「偶像」なんて呼ぼうものならポーランド民族全員を敵に回すようなものです。
それ程、この「黒いマリア」はポーランド民族の心と固い絆で結ばれているのです。
ポーランドがキリスト教を国家レベルで受け容れたのが966年。
以来千年以上にわたってポーランド民族はカソリック信仰と共に歩んできました。
国家の両側をプロイセンとロシアという軍事大国に挟まれた地理的条件がこの民族を
常に圧迫しつづけたことは世界史に詳しくない一般人でも知っています。その極めつけが1939年の独ソ協定によるポーランド分割の悪夢です。この民族の苦難に際してポーランド市民の心のよりどころとなったのがチェンストホーバアの大聖堂に安置されている「黒いマリア」のイコンです。ポーランド人はこのマリア像を誇りをこめて「ポーランドの女王」と呼んでいます。
17世紀にスウェーデン軍が侵略してきたとき首都ワルシャワも古都クラクフも蹂躙の憂き目にあいながらチェンストホーバアの「黒いマリア像」の安置されている城砦でポーランド軍は奇跡的勝利をおさめた。
以来、この聖母のイコンはポーランドの国民的誇りとカソリック信仰のシンボルとなった。
聖母のイコンには勲章のいっぱいついた上衣が着せてある。いずれもポーランドが戦った戦闘や戦争の記念品です。

ポーランド人にとって「黒いマリア信仰」は理屈ではないのです。
民族の熱い情いと「黒いマリア」の奇跡の心の絆そのものだからです。
『黒いマリア』を通じて大きな力が働き、ポーランド民族存亡の危機を2度までも
救済したことに対してポーランド人の誰もが強く感謝しているのです。

宗教に奇跡はつきものだと言えばそれまでですが
国難を救うような偉大な奇跡を偽りの神、偽りの宗教が顕現することはできない。偽りの神にできることは世紀のマジックショーで人々を驚かすことまで、それが力の限界。
無論、強い信仰が奇跡を起こすことはままあります。
迫撃砲の砲弾が飛び交うエルサレムの市街地を整然と歩く修道女マザーテレサ、彼女の周辺だけ砲弾も銃弾も避けて通過したという話を聞いたことがあります。
そして1920年「黒いマリア」は身を挺してポーランドをソ連赤軍の侵攻から守り抜いたのです。当時、白衛軍を駆逐してロシア全土を共産化したレーニンが次のターゲットとして隣接するポーランドの共産化を目指したの極めて自然ななりゆきです。ロシア全土を情け容赦のないテロで蹂躙した赤軍がポーランドの首都ワルシャワの門前にまで迫った時「ビイスワ川の奇跡」が起こり赤軍は歴史的敗北を喫して退散します。

ロシア正教の無残な姿を目の当たりにしているポーランドの民族神にとって共産軍のポーランドへの侵入が如何なる悲劇、惨劇をもたらすかは明らかです。
『黒いマリア像』はただのイコンかも知れませんが、このマリア像を通じて顕現した力はポーランドの国難を救うだけの威力と権威を持っていたのです。
2000年の歴史を持つキリスト教史の中で何故、聖母マリアの方が本家のキリストより一般民衆から人気があるのか?
それはヨーロッパ各地に残る聖母マリアの出現による奇跡伝説です。
イエス・キリストが出現して直接、民衆の苦しみを癒したという話は聞いたことがありませんが、聖母マリアが出現して多くの民衆を苦しみから救済したという伝説は数多くあります。
純粋な聖書信仰の立場から言えば、聖母マリアやマグダラのマリアの救世主的ふるまいなんてのは実に怪しげでしかありませんが、これは理屈ではないのです。多くの民衆が聖母マリア様の幻によって現実に奇跡を目撃し魂の救済を体験しているのです。
20世紀になってからもこの聖母マリアは活発に民衆を救済し励ましています。
スペインの片田舎ファテイマに出現した聖母マリアの奇跡は、ローマ法王庁が正式に「秘蹟」と認定せざるえないほど多くの民衆が目撃しています。

しかし、いくらなんでも「黒いマリア」はないだろって思われる方もおられるかと思います。この「黒いマリア像」はフランスの中央高地で集中的に出土して土地のカソリック
信徒がありがたがり勝手に信仰の対象として教会に安置したという経緯があります。

このフランスの「黒いマリア像」の由来については、ガリアがキリスト教圏となる以前の
この地の女神信仰の像が、キリスト教の布教と共に遺棄されて地中深く埋められたものであるらしい。
キリスト教の布教と共にそれ以前の民族神というのは表向きは消滅するのですが、誇り高き民族神がキリスト教の神に大人しくひれ伏す筈がない。
また、異教徒をキリスト教信仰に改宗させるというのは並大抵のことではないのです。
キリスト教という後発宗教が既存の民族神を押しのけて神の位置に立つ方法は2つあります。
一つは、大航海時代のスペイン、ポルトガルが南米大陸でやらかしたような血生臭いやり方。先住民を片っ端から殺すか、奴隷化して国家と民族を乗っ取り一方的に自分達の宗教
を押しつけるやり方。
一つは、布教先の民族神をキリスト教信仰の中に取り込み土着の宗教をキリスト教化するやり方。

後者の方式の典型が「クリスマス」という祝日。
「クリスマス」は、『純粋な信仰』というフィルターに通すとき「偶像」以外の何者でもない。
「クリスマス・イブ」=「聖夜」というイメージこそ、偶像信仰の極めつけなのです。
イエスの生誕日は決して12月25日なんかではない。
こんな冬の季節に羊飼いが野宿して羊の番をしてる筈がない。
というか時のローマ法王がローマ市民にキリスト教信仰を普及させる為の窮余の一策として思いついたアイデアが、ローマの太陽神ミトラの聖誕祭12月25日をキリストの誕生日
とすること。
お祭り好きのローマ市民は、ローマの女神ミトラの誕生日12月25日を祝って毎年盛大な催しを行う風習がある。
これにキリストの誕生日をあわせるという涙ぐましい布教努力(?)というか
キリスト教の公認によって俄かに増えたミトラ信仰からの改宗者が自分達の宗教慣習(偶像信仰)をキリスト教会の中に大量に持ち込んだ結果らしい。
しかし毎年12月25日世界中のキリスト教会ではクリスマス礼拝が行われ10億以上のキリスト教徒が救世主キリストの生誕をお祝いしています。この日がもともと太陽神ミトラの
お祝いの日であったなんて意識しているクリスチャンは滅多にいない。クリスマス・イブ独特の聖夜の雰囲気には、なんとも言えない魂の郷愁を感じてしまいます。

この類いの話は、日本の仏教にもいえます。
仏教の本筋からいえば日本固有の神々なんてのは預かり知らぬ余分な存在なんですが、
いつのまにやら日本の神々は、仏教の偉い如来や菩薩に化けてしまった。
私の居住する滋賀県にも神仏混合の寺社というのが結構あります。
日本の仏教文化の発信地でありつづけた延暦寺は
「山の麓の日吉大社を鎮守社として日吉山王権現と称し崇めた。」
とあります。延暦寺の本尊である薬師如来は、日吉大社7社の1社東本宮の本地仏でもある。
仏教の如来も菩薩も日本固有の神々の本地仏として取り込まれてしまったのです。
こんなことお釈迦様が聞けばびっくり仰天しますよ。
日本という国は仏教思想を国家の建国理念とする一方で、仏をまんまと神々の仲間にとりこんでしまったのですね。

私は黒いマリア像のイコンの背後にポーランド民族を守護しつづけている民族神の決死の覚悟を感じます。この民族を守る為だったら黒い聖母マリアになりきってしまう覚悟は、ポーランド人の熱い信仰心と表裏一体であるように感じます。

「黒いマリア」の奇跡(後編)

槇枝元文議長(日教組)・富塚三夫事務局長(国労)
1976年7月の総評第53回定期大会で選出され,’83年7月の第69回定期大会での改選に至るまで7年間続いた総評指導部のこの二人は日本人の私にとって悪夢の如き存在です。
特に槇枝元文は反日憎悪教育の発信源であり続けた。
そして判で押したような共産国家礼賛論

槇枝元文【元日本教職員組合委員長・元総評議長】
「今こそ主体思想を深めていく事が日本人の重大任務な任務であり」「私達 訪問団は皆、社会主義の成功を目の当たりにして熱い感激に包まれて」いて 「良識ある日本人は全て偉大なる金日成同志に心から尊敬の念を持っている」
「この国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理や怪我人のために社会安全員が街角や交差点に立っているだけ。」
「私は常々一番尊敬している人は、という質問に対して金日成主席と答えてきました。」

これが日教組の教師の平均的善悪感だとは思いたくもないが、現実に私が京都の府立高校で日教組の教師達や無責任な左翼シンパと孤立無援の孤独な闘いを強いられたのは間違いなくこの槇枝元文の底なしの馬鹿さ加減が原因である。
全くもって反吐のでるような二人の反日憎悪主義者。

この元総評の大馬鹿二人のうちの一人、富塚三夫事務局長と私は一つだけ共通点がある。
それは私も富塚三夫もレフ・ワレサという男にほれ込んだことです。

1980年のポーランド、時の共産党政権が生活必需品の値上げを一方的に発表したことが発端となって労働者の怒りが爆発した。2万人以上の労働者が働くグダニスク造船所でストライキが自然発生したとき一人の電気工がグダニスク造船所のみならずポーランド中の労働者に呼びかけて自主管理労組「連帯」を立ち上げた。
共産圏の歴史で初めて非官製の組織、しかも労働者という社会生活の担い手が自主的な組織を立ち上げた瞬間である。
こんなことが可能であった最大の要因は、ポーランド人民のカソリック信仰による固い結束力にある。
ロシア革命とソ連軍の進駐によって形成された共産圏の中で共産党政権は報道機関と警察を支配下にして民衆の信仰のよすがである教会組織を徹底的に破壊しつくしたのですが一国だけ例外だった国家があります。
ポーランドはソ連共産党の傀儡であるべき共産主義者まで含めて人民の95%以上が熱心なカソリック信徒。
レーニンがロシア正教の30万人以上の聖職者を惨殺して民心のよりどころを奪ったようにはいかなかった。
共産化されながらもポーランドのカソリック教会は全国民の一致団結によって共産党の支配から精神的な独立の立場を唯一守り続けたのです。
この奇跡がなかったら1989年秋の東欧民主化革命は難しかったかもしれない。
ロシア正教の村民が大半をしめるロシアの農村部でもロシアの農夫は決死の覚悟で教会を守り抜こうとしましたがチェーカーの徹底したテロによって多くの犠牲者、殉教者を生み出したのみで1918年から1920年の3ヵ年であっけなく粉砕されてしまいます。
ロシア正教の聖職者には高潔で優しく村民の尊敬を受ける人材も多かったのですが結果的には無残としかいいようがないありさま。
他方、ポーランドだけが何故教会を守りぬけたのか?
それはポーランド国民の結束力の固さです。
そして何がこれほどの結束力を生み出して国民の絆を強め続けているのか?
それはチェンストホーヴァの「黒いマリア」信仰です。
1980年 総評の富塚事務局長の招きで来日したレフ・ワレサの胸にも
1978年 第264代ローマ法王に選出されてバチカンへ赴くカロル・ヴォイテワの胸にも同じ「黒いマリア」のイコンの像がかけられていた。

それはポーランド人の誇りであり民族の結束の証であるからです。

この結束がなければ「東欧民主化革命」はありえなかった。

共産党とソ連軍の圧力から心の独立を勝ち得たポーランド国民の証がなくして他の東欧諸国が、民主化運動で互いに連携しあって民主化へ向かって結束していくことは困難であったと思います。

そういう意味で「黒いマリア」の果たした役割はあまりに大きいのです。
偽りの神、偽りの信仰に国家、民族を救済する力はない。
「黒いマリア」信仰は、正当なキリスト教信仰ではないが、偶像信仰とは言えないのではないでしょうか?

1980年12月ソ連軍がポーランドに軍事介入せんとしてソ連とポーランドの国境に迫りつつあったときローマ法王ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヴォイテワ)は
ソ連共産党に対して下記のような書簡を送りつけました。

「もしソ連軍が、祖国ポーランドに侵入する事態になれば
 私はローマ法王の職を辞して、一兵卒としてソ連軍と闘う」
彼の決意表明はブラッフではありません。
半世紀以上も共産党の官僚と我慢強く闘い続けたロルク(カロル・ヴォイテワ)には
いつでもローマ法王と7億のカソリック信徒の教父という地位も名誉も投げ捨てて
一兵卒として共産主義と闘う覚悟があるのです。

ブレジネフは、ローマ法王が本気だと知ってあわててソ連軍をポーランド国境から引き上げさせました。

このロルクを見つめ続けている、そしてレフ・ワレサを見つめ続けている
「黒いマリア」の心は極めて温かい。


1989年12月
自主管理労組「連帯」は戦後ポーランドで初の民主的選挙で圧勝して、
レフ・ワレサは一介の電気工からポーランドの大統領になります。
2期8年で任期を終えたワレサは大統領から再びグダニスク造船所の一工員に戻り一工員としての年金生活者となり余生をおくっています。

彼は極めて素朴で無欲な男です。
必要に迫られて大統領として民主化ポーランドの舵取りを勤めた後、
潔く引退してもとの一電気工に戻った男を「過去の人」と表したマスコミの特派員
がいますがこの日本人のジャーナリストにとって東欧民主化は全くの他人事なのだと感じました。

日教組の元委員長といいこの特派員といい自己の発言について無責任極まりない。

そして1980年の連帯発祥以後、ワレサと連帯を物心両面で支援した日本人が
保守派の大物でも、人権派の言論人、実業家でもなく
富塚三夫という総評のこちこちの反日憎悪主義者であったことは
お粗末としか言いようがない。

最後に私自身の気分の悪さを直す為に

<ノバ・フタの奇跡>
を紹介します。
1960年:
共産党当局はポーランド市民の意識変革の為に
古都クラクフの郊外に社会主義的な新都市ノバ・フタを建設し、レーニンの名を冠した巨大な製鉄工場ができあがりました。
それは広い街路、高層アパート、そして教会はない。
社会主義的労働者に宗教は無用だからです。
しかし労働者は社会主義的スローガンよりも教会を必要としていた。
1960年のことだがこの町で老婆を含む何百人という信者が、
それまで戸外で行われた礼拝の中心だった木製の十字架を守るべく三々五々集まってきた。
警察が十字架を取り除こうとすると、群衆は投石を始め、警察は催涙弾で応酬した。
しかし十字架は残った。

それから数年間
この「社会主義の町」の4千人から6千人の労働者が日曜のごとに
戸外の木製の十字架の下で捧げられる12回のミサにあずかった。
戸外のこととて、しばしば雨のなか、時には雪のなか、
そして多くはぬかるみのなかにひざまづいて。


17年後:
1977年5月15日、労働者、兵士、女子供からなる数千のカソリック信徒が
雨の中でヴォイテワ枢機卿がノヴァ・フタの最初の教会を祝福している間忍耐強くたちつくしていたのだ。

現在ノバ・フタには新しい工場が二つある。
新しい製鉄工場と「聖霊」の新しい工場、つまりポーランドの女王である聖母マリアの新しい教会である。

逆説的なことにこの教会はノバ・フタのカール・マルクス通りとプロレタリア大通りの合流点に立っている。


カロル・ヴォイテワは、この教会を建てるための17年に及ぶ共産党当局との
闘いでいつでも先頭に立っていた。
そしてついに勝利者として献堂式の司式にあたったとき、
ヴォイテワ枢機卿は、随喜の涙を流している5万を超える群集に対し、
「ノバ・フタは神なき町として建てられた。
しかし神の意志と、この町に働く者の意志とが勝った。
このことを教訓にしよう。」

石田様へ+私の逆説
戸田聡 | URL | 2007-02-19-Mon 07:58 [EDIT]
石田様へ。美しく輝いたことのない戸田聡です。
ヤーナについての話、興味深く読ませていただきました。

> 霊界における法則で一番大いなるものが
「愛の原理」とよばれる法則です。
愛するもの同士を引き離すことは如何なる力をもってしても不可能だといいます。
<

ヤーナの話への伏線になっているようです。
霊界はよく分かりませんが、おっしゃっていることには
共感できるところも真実もあると思います。

> ちなみに霊界において「信仰」という言葉が特定の宗教を意味することはありえない。
信仰に宗教色がつきまとうのは精霊界という霊的に未熟な生命体の生活圏までで全うな人間霊界まで来れば、
「私は神を信じています。」なんていう霊は一人もいない。
なぜなら霊にとって「神」が自分の霊性の中に臨在するという感覚があって当然で「神」の存在を疑う霊などいないからです。
<

霊界はよく知りませんが、それを含めて、
今私たちがいる現世において霊(界)について語るのは
石田様の宗教的確信以外の何ものでもないように思います。

>「私は****教を信じてます。」という表現は失笑以外のなにものでもありません。
<

これは霊界と石田様が信じて言われている世界
での表現・発言なのでしょうか。
ならば何も言えません。言うだけ虚しいと思いますし、
石田様の死生観は石田様のものだから傷付ける意思も持ちません。
ひょっとして現世の精神生活のことを含むのなら
現世においては
「ヤーナはキリスト教を信じていた」わけでしょう。

> なかには生前の自分の名説教に自己陶酔していつまでも、したり顔で霊界の村々を回りながら
聖書片手に辻舌鋒してる著名な宗教家がいますが、誰も相手にしません。
「神様が偉いことくらい、そして愛が最高の力であることくらい、あんたにいちいち言われなくても誰でも知ってるよ。」
<

まるで見てきたような話ですね。

> ラジオをつけっぱなしにしておいたらキリスト教の牧師の説教する言葉が幾度か耳に入ってきたことがありますが
なんとも白々しい。
あんな説教で悔い改めて心が洗われる人がいれば奇跡ですね。
<

説教も聖書の言葉も常に感動的とは限らない
とは思います。しかし聖書や説教によって
信仰についての知識や知恵について
ヒントみたいなことを学ぶことはあると思っています。

>「つきあっていくうち私は彼女が熱心なクリスチャンであることを知った。
そして共産主義に対して異常なほどの嫌悪感を抱いていることも。」(コークロフ)
<
> コークロフという殺人のプロを夫として
さりげなく受け容れてしまうヤーナを支えているものは
間違いなくキリスト教信仰です。
情け容赦なくキリスト教徒を惨殺しまくっている共産党政権よりも、彼女は神を恐れたのです。
<

尊敬に値する立派な信仰です。

> 真実というのは宗教の教えや経典の中にあるわけじゃないのです。
真実は生身の人の中にこそ宿る生命の光そのものです。
人が総てなのです。
宗教や経典、思想、哲学は人という存在の装飾品以上のものではない。
信仰が美しいと感じるのは信仰している人の心が美しく輝いた瞬間だけです。
<
> 人というのは本来、生命の光の真実体と言ってよいと思います。
ヤーナのことを想いめぐらせているとそう言いたくなります。
<

信仰が戒律ではないのと同様に
本質的なところでは信仰は信条ではないと私は思っています。
しかし信仰に至るためには聖書を読み、あるいは
誰かに教えてもらうことも必要でしょう。
ゆえに聖書が装飾品だとは思いません。
「世の光」という言葉は聖書にもあります(マタイ5-14など)。
「光の子」という言葉もあります(ルカ16-8など)。
ヤーナの信仰の光が愛となってコークロフを照らし、悪から
目覚めさせたと受け取ってよいのではないかと思います。

なお「真実は生身の人の中にこそ宿る生命の光」「人が総て」
には共感できます。

引用が前後しますが

> 私はクリスチャンという人種の一部を尊敬しています。
キリスト教という宗教には何の真実味も感じませんが
そのキリスト教を信仰しているクリスチャンという人種の一部に対しては強い真実味を感じるからです。
<

石田様が真実と言われるクリスチャンの一部は、
ヤーナも宣教師もそうですが、
どうやってキリスト者になったのでしょうか。
聖書を読み説教や誰かの経験などを聞いているうちに、
信仰に目覚め信仰を持つようになったのではないでしょうか。
そうでなくて、どうやってクリスチャンになれるでしょうか。
常に感動するとまでは言えなくても
聖書の言葉には少なくとも感動→信仰に繋がる多くの
ヒントが隠されていると思います。

最後に長いけれど参考までに試験・拙作を載せておきます。

   偶像

 カトリックとプロテスタントの違いの一つとしてよく言われることに偶像の有無ということがあります。確かにプロテスタントの教会にはキリストの磔(はりつけ)像もマリアに抱かれたキリスト像もありません。カトリックの人はイメージとしてだから構わないというかもしれません。しかしキリスト像やマリア像のかもし出す独特な雰囲気には怪しげなるものを感じます。大仏や美しい仏像・神社仏閣を見たときに感じる荘厳な雰囲気に似たものがあるかもしれません。しかしここで述べたいのは眼に見えるイメージとムードだけの偶像のことではありません。プロテスタントには偶像はないのでしょうか。私はそうは思いません。カトリック・プロテスタントを問わずキリスト者(クリスチャン)にはもっと警戒しなくてはならない偶像があります。それは目に見えない心の中の偶像です。
 キリスト教の教典は言うまでもなく聖書です。しかし聖書は神様が自ら筆を取ってかかれたものではありません。聖書は様々な時代の様々な複数の著者、つまり紛れもなく人間によって書かれた書物です。それを教典・聖典とするのは人格的唯一神であるキリスト教の神様とその御子なるイエスキリストについて書いてあるからで、また聖書のほかにそういう書物がないからです。したがって著者たちの霊感つまりインスピレーションに信頼して神と人との契約について書かれた書物としてキリスト教の唯一の教科書として聖書と呼び学ぼうとするのでしょう。
 しかしながら聖書は易しいようで難しく難しいようで易しい不思議な書物だと思います。その一行によって救われる人もいれば一生を費やしても知識だけが増えていくだけということもあるでしょう。聖書を読めば読むほど信仰が深まるという保証は私の知る限りありません。言い換えると聖書をたくさん読んだ人の信仰が一行しか読んでない人の信仰より深く正しいというものではないのです。もちろん聖書を読むなと言っているわけではありません。信仰というものは誰のがより良くて誰のがより悪いあるいは間違っているなどと比較することは人間にはできないということです。聖書を読み、その言葉に触れることが全くなければ信仰に至ることはないのですから聖書を読むことは大切です。また信仰生活の中心でもあります。キリスト者も洗礼をまだ受けていない求道者も聖書を読み聖書についての解説書や参考書を読みます。また牧師や神父から説教を聞き解釈を学びます。時には感動したり感心したりすることもあり知識として身についていくこともあるでしょう。しかしある時の感動や蓄えられていく知識は、それはそのまま信仰と言えるでしょうか。聖書の解釈は人間がすることです。だから様々な解釈があります。私は文献的考察を視野に入れた伝統的な解釈を信頼します。しかしそうではない解釈をする人たちもいます。また伝統的な解釈にも細かい部分では語る人によって違いがあるのです。人間のすることだから間違いや不十分なところや分からないところは必ずあるとみるべきでしょう。しかしわかったと思っている部分については解釈は往々にして排他的です。
 そこで本題に入っていきたいと思います。心の中の偶像とはなんでしょう。聖書の言葉、ある時の感動、解釈とその知識という自分が知ったことを人間は受け入れ、しばしばそれが信仰だと思っているということです。感動は既に失せてしまった知識さえ理屈のように辻褄を合わせて信仰と思い込んでしまいやすいということです。信仰は知識でしょうか。物の考え方・思想・倫理観でしょうか。そうではないはずです。信仰は神と人との契約に基づいています。神様が関わっている以上、神様から与えられるものだとみるべきでしょう。人間の方から神様に契約を結びに行くことはできません。人間が人間の知恵だけで作ったり勝ち取ったりするものではないはずです。キリストとの出会いは理屈だったでしょうか。いつのまにか知識や理屈・倫理観にすぎなくなっているもの、ときには思い込みや掟や戒律のようにさえなっているものを信仰として守らなければならないと思わせている心の働きを心の中の偶像と呼びたいのです。キリストとの出会い・絆(きずな)によって与えられ自分をキリストから離さないでいる信仰は理屈ではありません。生きていくのには知識も倫理観も思想も必要でしょう。しかしそれと信仰を混同してはいけないと思います。ここで一つの命題をあげておきます。本質的なところでは、
 信仰に
 信条はない
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように片方の合意がなくなれば消えてしまうというものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしてもキリストがその絆で捉えて離しません。何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。推測ですが、その「くびき」は人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるといったような部分に結び付けられているからではないでしょうか。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しかし言葉に尽くせるものではありません。
 それでも自分の信仰は百%ピュアであり自分には心のうちに偶像などないという人には私も何も言うことはありません。自分の心の中に偶像がある、あるかもしれないと思う人にだけ話を続けましょう。では心の中の偶像を少しでもなくし純粋な信仰を持つためにはどうすればよいのでしょう。ここでもう一つ逆説的な命題をあげます。
 信仰を純粋なものとして守るために
 人間の方から積極的に取りうる唯一の手段は
 信仰を捨てることである
悪魔は人の心の中に偶像ができることを喜びます。それは人にキリストとの絆を見えにくくするからです。内省して偶像だけをなくそうと思っても人には難しく人よりは強い悪魔が容易にそれを妨げるでしょう。神様がそこで助けてくれるかもしれませんが御心は計りがたく、その保証はないかもしれません。しかし人が信仰のすべてを捨てようと思ったらどうでしょう。信仰のすべてを捨てるなら悪魔は喜び邪魔をしないでしょう。そして神様はこの最終的な危機においては、もはや御子との絆を固くして契約を守られるでしょう。神様が守られるのだから神様にはかなわない悪魔はそこまで手を出すことはできません。これは神様を試みることではないかと思う人もいるでしょうが、純粋な信仰に立ち返りたいという人の気持ちと危機感が本気であるならば神様を試みることにはならないと思います。信仰の悪いところだけ取り除いてなどという甘い考えではいけません。信仰のすべてを否定してみるだけの覚悟が必要です。しかしこの段落では「神」と「人」と「悪魔」の関係について知識に基づいて話を単純化しすぎたので話が観念的で詭弁くさい感じにさえなっていることを反省します。それほど信仰というものは言葉では尽くせないものなのだと思います。
 信仰を捨てる、捨てにかかるというのは聖書を読むのをやめるとか教会に行くのをやめるということではありません。聖書を捨ててしまっては信仰を守るどころではないでしょう。具体的な方法を明示することは私にはできません。私は体験を語るほかありません。私は「基督の歌」の中で起こりうる最悪の状況を設定してそれで否定できる信仰なら捨ててしまおうという一種の思考実験を詩という方法を用いて試み自分の信仰を問い直してみたつもりなのです。その結果いかなる悲惨な姿であってもどうしてもキリストのイメージだけは消えなかったのです。思考実験・詩という方法、苦肉の策というべきでしょう。それほど迷っていたということですが、それでもまだ十分とは思えません。主の導きにより我が主イエスキリストとの絆の固からんことを祈るばかりです。
 人格的唯一神はその御子イエスキリストによって呼べば人間の持っている感性のレベルで答えて下さる神様です。人がキリストに近づくのではなくキリストが人のレベルに近づいて下さるのです。したがってキリストとの絆は強くそして暖かい絆です。決して人間離れした超越的な感覚を要求するものではありません。最後にあと一つ命題をあげて終わりたいと思います。
 信仰が恐怖によって人を駆り立てるとき
 その信仰は偽物か偶像である

また書きたいことが見つかったら、書きます。

              戸田聡 不具


愛の逆理
石田 俊義 | URL | 2007-02-18-Sun 11:31 [EDIT]
愛の逆理

次第に自殺論から離れていってますが、私の逆説的感想を述べさせていただきます。

>興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは (信仰ではなく!)愛であ>ると言い切っていることである。

霊界における法則で一番大いなるものが
「愛の原理」とよばれる法則です。
愛するもの同士を引き離すことは如何なる力をもってしても不可能だといいます。

ちなみに霊界において「信仰」という言葉が特定の宗教を意味することはありえない。
信仰に宗教色がつきまとうのは精霊界という霊的に未熟な生命体の生活圏までで全うな人間霊界まで来れば、
「私は神を信じています。」なんていう霊は一人もいない。
なぜなら霊にとって「神」が自分の霊性の中に臨在するという感覚があって当然で「神」の存在を疑う霊など
いないからです。

「私は****教を信じてます。」という表現は失笑以外のなにものでもありません。

なかには生前の自分の名説教に自己陶酔していつまでも、したり顔で霊界の村々を回りながら
聖書片手に辻舌鋒してる著名な宗教家がいますが、誰も相手にしません。

「神様が偉いことくらい、そして愛が最高の力であることくらい、あんたにいちいち言われなくても
誰でも知ってるよ。」

私はキリスト教という宗教に何の真実味も感じません。
以前、ラジオをつけっぱなしにしておいたらキリスト教の牧師の説教する言葉が幾度か耳に入ってきたことがありますが
なんとも白々しい。
あんな説教で悔い改めて心が洗われる人がいれば奇跡ですね。

本当にどうしてここまで自分がキリスト教という宗教が嫌いなのか不思議ですよ。

しかし、私はクリスチャンという人種の一部を尊敬しています。
キリスト教という宗教には何の真実味も感じませんが
そのキリスト教を信仰しているクリスチャンという人種の一部に対しては強い真実味を感じるからです。

戦国時代、はるかスペイン、ポルトガルから苦難の末に日本へ布教に赴いた南蛮の宣教師達は
不屈の精神の持ち主でした。1569年京で宣教師フロイスと謁見した信長は、フロイスの無欲で
真摯な態度に感動して京での布教許可を与えたのです。
しかし、信長もキリスト教布教者の誰もがフロイスのようではないことくらい見抜いていた筈です。
同時代のヨーロッパの修道院の内部での乱痴気騒ぎで聖職者が若い尼僧を身篭らせて生まれてきた嬰児を
闇に葬った話は有名です。ヨーロッパの宗教界の退廃的な空気に抵抗するように反動宗教改革を
行ったイグナチウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルといったカソリックの戦士は奇跡と宗教的情熱を杖にして新天地を求めて日本にまで宣教師を送り込んだ。欧州キリスト教社会のような退廃と無秩序に汚染されていない新天地を日本で実現したかったんですね。
日本へ布教にきた宣教師達は通信使を通じて布教状況の書簡を多数、ヨーロッパに送っています。
それは日本で獲得した信仰者の殉教をかえりみない純真な信仰姿勢を知らしめることでヨーロッパのキリスト教関係者に猛省を促したかったんですね。

他方、私は仏教思想が好きですし、仏陀のみならず仏陀入滅後、幾世代にも渡ってお経を追加していった
数々の仏教哲学の名僧に対して敬意を払いますが
日本の仏教僧、仏教信徒には何の真実味も感じません。

信長が叡山を焼き討ちにしたのは当然だと思ってます。
仏教の権威と土地の利権を盾にして恩着せがましく通行者、住民から金銭を巻き上げて何の痛痒も感じない
寺社勢力の横柄さには信長でなくたって腹が立ちますよ。

先月、毎週末の日課としているマウンテンバイクでのツーリングで草津の自宅から山を二つ越えて信楽方面へ行っての帰り道、休息の為、石山寺の門前の駐車場横。小さな公園のベンチの前に自転車をとめようとしたら寺に雇われている駐車場の管理人が詰めよってきて「ここに自転車をとめてもらっては困る向こうのトイレの横にとめろ」
言ってにらみつけられた。冬のベンチは寒すぎて誰もいない、しかもどうみたって公共性のあるスペースである。
あのときは本気でムカツイタですね。
ちなみに石山寺は平安時代に創建の名刹。西国八十八番札所でその昔、紫式部が源氏物語の構想を練ったことで有名。紫式部が滞在した部屋には現在、式部の人形が置かれている。
寺社勢力と真正面から戦った戦国の英雄、織田信長は一代で滅んだのに、この石山寺は創建以来千年以上も利権と関わりあいながら存命している。
ろくでもない組織ほど長生きするんですね。

では今回の私の反論のメインテーマ:愛の逆理

ヒロインの名前はヤーナというロシア人女性です。

1942年3月モスクワ
ドイツ軍の破竹の進撃にソ連軍はなす術もなく負け続け、スターリンは負けたことを実感した。
ドイツ軍のモスクワ占領止む無しと判断したソ連軍首脳はモスクワ撤退を決定し、スターリンも同意。
しかし、僅かの可能性にかけてソ連軍は撤退と引き換えに数名の破壊工作員を残しておいた。
その一人に選ばれたのが若干20歳の特殊部隊員ニコライ・エブジェネッツキ・コークロフ。
父親は革命以前から共産党幹部であり、革命後は情報関係の仕事をしていた。
党のエリートの子息の特権で特別な家庭教師をつけてもらったコークロフは外国語能力に磨きをかけた。
高校卒業後彼はモスクワに行き映画・演劇関係で働き始めた。将来は映画監督になるのが夢だった。
1941年ドイツ軍がモスクワ近くまで進軍したとき、コークロフはソ連軍特殊部隊に引き抜かれた。

撤退するソ連軍主力を尻目に見ながら破竹の勢いで進撃してくるドイツ軍の後方に単身でパラシュート降下した
コークロフは完璧なドイツ語を話すドイツ軍将校というカバーでミンスクを統治するドイツ軍総督クーペに近づき見事に総督を暗殺する。

苦戦を強いられるソ連軍に英雄が誕生した瞬間です。

コークロフはスターリンじきじきにレーニン勲章を与えられた。
コークロフに関する映画までが上映されて、彼は若干20歳にしてソ連邦の英雄となったのです。
得意の絶頂にあったコークロフに祖国が与えた任務はNKGB(秘密警察)の諜報員。
そのご3年間のルーマニア勤務を経てモスクワに呼び戻された彼はモスクワ大学に入学して言語学を専攻する。その任務はインフォーマー。つまり他の学生や教授の言動の監視係。
モスクワ大学といえば、日本でいえば東京大学のようなステイタスの高い大学。
その教官の中には世界的に名高い数学者、物理学者も多数在籍している。
しかし彼らの言動もこういうインフォーマーによって逐一監視されて秘密警察に報告される。
在学生の3分の1がインフォーマーでインフォーマーがインフォーマーを密告するという現象も日常茶飯事であった。
ちなみにゴルバチョフもモスクワ大学時代はKGBのインフォーマーをしている。
密告して互いを監視するというのは共産主義社会の理想としてレーニンが提案したシステムである。

自分の息子、娘の密告によって両親が訴えられて共産党当局によって銃殺されると
訴えた少年、少女は国家的英雄として学校に銅像が建つ。

1930年代のソビエトにおいて少年、少女のヒーローはパブリック・モロゾフという14歳の中学生。
彼の父親は忠実な共産党員であったが、スターリンの農業集団化の際のパージで1千万名以上の農民が殺された際、追跡から逃れようとする農民数名を自宅にかくまった。
党の模範であるモロゾフ少年は父親と叔父を当局に密告した。
父と叔父は処刑された。
これに怒った村人が少年をリンチにかけて殺したが、その直後当局が村全体を破壊した。

この密告少年モロゾフは党と国家に忠誠を貫いた英雄として賛美されてソ連中の学校にモロゾフの銅像が建った。


この精神をそのまま踏襲したのが北朝鮮。
1948年北韓がソ連軍によって共産化されると小学校では少年、少女達に両親を監視するようしむけた。極秘でキリスト教を信仰していた両親がその息子によって当局に密告されて銃殺になると金日成は、その少年を国家的英雄として表彰した。

朝鮮は儒教の国だから両親を大切にする伝統があると宣伝している愚かなマスコミと
日本の言論界というのは全くどうしようもない人種である。

この密告型社会の頂点に君臨するのがKGB(秘密警察)
名称は、レーニン時代のチェーカーに始まりその後
GPU,NKGB,MGB,そしてKGB
と変わっていくが人民の言動を逐一監視し、密告させる機能は全く変化していない。

そしてこのKGBの最重要部門が第一管理局の第13課
(1969年以降はⅤ課)という要人暗殺部門

ここに所属するということはソ連邦のみならず衛星国である東ドイツ、チェコスロバキア、
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアまで含めた3億人以上の市民の
生殺与奪の実権を掌握したということである。

若干20歳でソ連邦英雄となりこの部門に抜擢されたコークロフはそのまま進めば
間違いなくKGB長官、そしてソ連邦の最高権力者である第一書記に就任していた筈なのだ。

それが何の間違いか、祖国から裏切り者扱いされてKGBの暗殺者リストのトップに乗る人物になってしまった。

ゴルバチョフのように党組織の中で我慢しつづけてチャンスをうかがって最高権力者にのし上がってからこの陰険極まりない国家の改革者になろうと思えばなれた人物である。

それが生涯KGBのお尋ね者として、たった一人でKGBという巨大組織を相手に互角に闘い続けているというか、闘わざるえない状況をずっと忍耐して生き続けている。

一体、何が彼をここまで変えたのか?

それはモスクワ大学に在学中に知り合って後に彼の妻となるヤーナというもの静かで無口な女性との出会いある。

ナチスの総督を暗殺してドイツ軍の快進撃をストップさせた
コークロフは国民的英雄としてモスクワ大学内でも特別の存在であった。
女子学生達にとって英雄コークロフは憧れの的で誰もが彼とつきあいたがっていた。
が、ひとりだけ彼に全く無関心の女性がいた。
「物静かで周囲から自分自身を故意に隔離しているという感じだった。」(コークロフ)
そして何故かコークロフは自分に一切興味も関心も示さないこの物静かな女性に魅かれていく。

「つきあっていくうち私は彼女が熱心なクリスチャンであることを知った。
そして共産主義に対して異常なほどの嫌悪感を抱いていることも。」(コークロフ)

インフォーマーの任務からいえば、コークロフは秘密警察に彼女を密告する義務がある。
しかし、
「私にはできなかった、彼女にほれていたからだろう。」(コークロフ)

そしてコークロフは
「危険だからあまり反共思想や反政府姿勢をおおっぴらにするな」と忠告するが
しかし
「彼女は私の忠告を聞き入れなかった。
それどころか私の思想や考え方を変えようとし始めたのだ。」
そこでニコライ・コークロフはやむなく
自分がMGB(秘密警察)のメンバーであることを打ち明けた。

ここからがヤーナの凄いところ

ヤーナはコークロフの決死の打ち明けに全く驚かなかった。
まるで知っていたとしか思えないような彼女の落ち着きぶりだった。
彼女は憐れみに満ちたまなざしでコークロフを見つめて言った。
「あなたは本当に可哀想な人ね。だけどあなたがまともな人間に戻るよう祈り続けるわ。」
「私はそのときハンマーで頭をぶんなぐられたような衝撃を受けた。」
とコークロフは回想しています。

その6ヶ月後、二人は結婚した。
一年後、二人の間には男子アリューシャが生まれた。

ソ連邦の英雄で暗殺と破壊工作のスペシャリストとして得意の絶頂にあった男と、
レーニンが徹底的に破壊した筈のキリスト教信仰を熱烈に守っている
寡黙な女性が惹かれあって結婚し一児を設けたのです。

1954年

コークロフはモスクワに呼び戻されて、
オペレーションラインという暗号名のついた次の任務を与えられた。
その任務は西ドイツに亡命しているロシア人組織の指導者であった
ゲオルギー・セルゲービイッチ・オコロビイッチを暗殺すること。
彼は人望が厚く多くの支持者を抱えていた。

彼の暗殺は幾度かこころみられたが総て失敗している。
そこで暗殺のスペシャリスト、コークロフを刺客として差し向けたのだ。

1954年2月
オペレーション・ラインの暗殺実行者としてコークロフは二人の西ドイツ人共産主義者を
選んだ。さらに9名のサポートエージェントが集められた。
KGB研究室からは特別な弾丸がこめられたシガレットケースが送られた。
準備完了である。

1954年2月18日の夕刻
コークロフはオコロビッチの居住するアパートを訪ねた。
「モスクワからあなたを殺しにきました。」
  オコロビイッチの顔が恐怖で青ざめた。
 「ソ連共産党中央委員会はあなたを抹殺することを決定したのです。
  その任務を私が任せられました。
すでに二人の暗殺実行者も用意しています。
しかし、ご心配なく。
この命令を遂行する気持ちは私には全くありません。」

コークロフはオコロビイッチをKGBの暗殺の謀略から守るために全力をつくした。
しかし、その為にコークロフは最愛の妻と息子アリューシャを失うことになるのです。

コークロフはKGB13課から亡命してアメリカに協力する交換条件として
自分の妻と息子をアメリカ大使館がかくまうという提案をして
アメリカ側に約束させるが
その約束をアメリカは守らなかった。
「私は裏切られたのだ。アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官、そして彼の弟で
CIA長官だったアレン・ダレスに。」

コークロフという殺人のプロを夫として
さりげなく受け容れてしまうヤーナを支えているものは
間違いなくキリスト教信仰です。
情け容赦なくキリスト教徒を惨殺しまくっている共産党政権よりも、彼女は神を恐れたのです。

またそういうヤーナの信仰の光というものの真実性が
コークロフをヤーナに強く魅きつけたのです。

美しい容姿を要求されるスーパーモデルは、自己の内面から美しくなる為に
常に哲学書や宗教書の読書を心がけて内面を磨いているということを聞いたことがあります。

やはり女性が本当に美しくなる為には、容姿のメンテナンスも大切ですが
またそれ以上に自己の内面を磨くことが必須アイテムになります。

ヤーナは純朴で芯の強い古き善きロシア人女性の常として
神を恐れる気持ち、キリストやロシアの聖人に象徴される偉人への敬愛の念が強い女性なのです。

本当に何故、国家人口の95%以上がロシア正教の国家が共産化の悲劇を味わなければならなかったのか?

暗殺と破壊工作のプロフェッショナルとしてソ連邦の英雄となった男を
KGBの暗殺者リストのトップにでてくる男に逆転させたのは
ヤーナというロシア人女性の素朴な信仰の美しさなのです。
そしてそういう物静かで熱い信仰を持ったヤーナを愛するが故に
コークロフはソ連邦英雄という栄光と権力を投げ捨てたのです。

コークロフが英雄から反逆者へ変身する決断をさせたのは
間違いなくヤーナへの強い愛です。
そしてコークロフがそこまでヤーナにほれこんだ理由は間違いなく
ヤーナという女性の純朴な信仰が放つ真実が彼の心をとらえたからです。

コークロフ自身はキリスト教信仰とは無縁の人物のままです。
ただ真剣にヤーナを愛しずっと愛し続けているだけです。

私はキリスト教にも聖書にも何の真実味も感じません。
がヤーナとニコライには強い真実味を感じます。

真実というのは宗教の教えや経典の中にあるわけじゃないのです。
真実は生身の人の中にこそ宿る生命の光そのものです。
人が総てなのです。
宗教や経典、思想、哲学は人という存在の装飾品以上のものではない。
信仰が美しいと感じるのは信仰している人の心が美しく輝いた瞬間だけです。

人というのは本来、生命の光の真実体と言ってよいと思います。
ヤーナのことを想いめぐらせているとそう言いたくなります。

石田様へ。
戸田聡 | URL | 2007-02-13-Tue 07:57 [EDIT]
石田様へ。  戸田聡です。

> 今回、<ヨブの呪い>
を投稿するのはかなり勇気がいったのです。
テーマが信仰に直接かかわるだけに、今まで以上に読む方の心証を害しやすい。
<

お察しいたします。念のため、私が書いたことは
あくまで私個人の意見ですので・・・
その点ご承知おきくださいませ。

> また特定の宗教を信じているわけじゃありませんので
<

でも石田様の死生観は宗教的、宗教、信仰とも思える
ほどの確信だと感じましたが・・・。

>19歳の頃、私がいろいろと悩んでいるとき夢の中で「ヨブ記」が現れてきたからです。
その後、確かにヨブ記のままの苦しみを1年間くらい体験しました。
それが総てです。
全然読んだことも見たこともない聖書物語の体験をさせられてたのです。
<

突然の理不尽な悲劇あるいは不幸ということでしょうか。
詳しいことは分からないけれど、不思議な体験ですね。

> でもヨブだって「ヨブ記」を読んだことはなかったのにそういう体験を一方的におしつけられたんです
<

ヨブは当然「ヨブ記」を読んでいなかったわけです(笑)。
でも少なくともヨブは神を恐れ信じる人でした。
神様は神様の都合で、しかも
何の説明もなしに、人を試されます。
信じる者は試され、ゆえに恐れるのです。
私も神を恐れます。正直言って怖い。それで前に
「キリスト以外の神を知らない」と書きました。
異端的な考え方かもしれません。追加1作。

  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)

私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ

 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか

私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である


> もし私があなたより物知りだとあなたが誤解されているとすれば
それは私が彼らの苦しみを真剣に考えて生き続けてきたからだけです。
<

真剣に考えることは大切ですが、
それでキリスト教を否定して、
そのようにしか思えないのですが、
多くの人を救うことができたでしょうか。

> 私はマルクスに対してもイエスに対しても言いたいのです。
あなた達は、民衆の救済の為によかれと思ってそれぞれの思想と信仰を
後世に残されたのでしょうが、
結果は、天国という名の地獄を出現させてしまったのは何故でしょうか?

あなたの残した宗教と思想の為に多くの人が地獄の苦しみを味わっています。
<

先ずマルクスと
イエスを一緒に語ることはできないと思います。

マルクスについてはよく知りませんが
「宗教は阿片」と言って否定したのはマルクスでしたか
・・・よく知らないけれど、迫害する側と迫害される側、
暴力と非暴力、まるで対極にあるような気がします。

イエスは言うべきことを言い、非暴力を貫かれました。
「剣によって立つものは剣によって滅びる」の言葉通り。
迫害に直面したときキリスト者はどうするでしょう。
信仰を守るために殉教して殺されるか
死の恐怖のために信仰を捨てるか
信仰を捨てたように見せかけて心で信じ続けるか、
どれを選んだ人も、私は、軽蔑することはできません。
生と死の崖っ縁に立たされて、
それは恐らく想像を絶する状況だから、
私自身が殉教すると言えるだけの確信がないからです。

また逆に殉教しなければ地獄行きだという
恐怖に駆り立てられて、本当は死にたくないのに、
死へ向かうならば、それは悲しいことです。
神様の前で自分を偽ることになると思うからです。

駄目クリスチャンである私のような者は、
気づいていることも気づかないことも含めて、
毎日のようにキリストを裏切り続けています。
その罪は許される以外に救いはなく、
そういう罪びとであっても許し救ってくださる
キリストであったから、キリストであるから
私はキリストに縁付いたのだと思います。

キリスト者である、あるいはあった、
という理由だけで、即、殺される状況においては、
もうどうしようもありません。
しかしそれをキリストのせいにはできないですよ。

宗教は怖いものです。考え方を誤れば、
その誤った考え方に神の御名を掲げる狂信
に陥る危険が常にあると言わざるを得ません。拙作。

  悔い改め

キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける

それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ


それでも最後に申し上げます。
イエスという名のキリストによって多くの人が癒され救われています。

          戸田聡 不具


戸田様へ
石田 俊義 | URL | 2007-02-12-Mon 23:57 [EDIT]
今回、<ヨブの呪い>
を投稿するのはかなり勇気がいったのです。
テーマが信仰に直接かかわるだけに、今まで以上に読む方の心証を害しやすい。
少しだけ弁明させて下さい。
まず私は、哲学者でも宗教学者でもありません。
というか主題について哲学的に価値があるかないかなんてことに一切興味も関心もありません。
また特定の宗教を信じているわけじゃありませんので
ある主題がその宗教を信仰している方にとって重大な問題であるかどうかということについてあえて配慮しないかも知れません。
私が一神教と共産主義に対して根強い不信感がある最大の理由は
これらの宗教的理念のぶつかりあいが情け容赦のない殺し合いの道具になり続けてきたからです。
キリスト教について死生観が稚拙だと感じるのは
私の少し特異な人生体験によるもので別に私の拙い知識がそう思わせるわけじゃありません。
結構、いつも書くと長くなりますが別に私が博識なわけでも特別に宗教、哲学について研鑽をつんだわけでもありません。
クリスチャンでもユダヤ教徒でもない私がなぜ「ヨブ記」を話題にしたのか
それよりどうして「ヨブ記」を知っているのか、
19歳の頃、私がいろいろと悩んでいるとき夢の中で「ヨブ記」が現れてきたからです。
その後、確かにヨブ記のままの苦しみを1年間くらい体験しました。
それが総てです。
全然読んだことも見たこともない聖書物語の体験をさせられてたのです。
でもヨブだって「ヨブ記」を読んだことはなかったのにそういう体験を一方的におしつけられたんです。
私が14歳以来38年間いつも真剣に悩み続けてきたのは共産主義と原理主義だけです。
密告と恫喝の支配する陰湿極まりないソ連、中共、ホメイニ革命後のイランの恐怖社会で不安に怯えながら生きている市民の辛さを感じてしまったからです。

もし私があなたより物知りだとあなたが誤解されているとすれば
それは私が彼らの苦しみを真剣に考えて生き続けてきたからだけです。

私はマルクスに対してもイエスに対しても言いたいのです。
あなた達は、民衆の救済の為によかれと思ってそれぞれの思想と信仰を
後世に残されたのでしょうが、
結果は、天国という名の地獄を出現させてしまったのは何故でしょうか?

あなたの残した宗教と思想の為に多くの人が地獄の苦しみを味わっています。

(母親が明日は会社だからもういい加減寝ろとうるさいのでここで止めます)


石田様へ「のろい」?
戸田聡 | URL | 2007-02-12-Mon 13:44 [EDIT]
>文章を書く気力も読む気力も失せています。
<

それでこれだけ書けるのだから、驚いてしまいます。
今回の話題はパウロの書簡と「ヨブ記」。
「ヨブ記」は「詩篇」や「伝道の書」と並んで
旧約聖書の中で私の好きな書です。
一人のキリスト者として思ったことを書いてみます。

あとイスラム教でイエスがイーサーという名で
預言者になっているというのは何かで読んだことがあります。
イスラム教について私はよく知りません。
キリストの教えをそのまま守っていたのでは
やっていけない、戦わざるを得ない、状況が
あったのかもしれません。よく知りません。

ただキリストの教えをそのまま守るのがキリスト者
だとは思っていません。守れないからです。
守れないことを意識するときキリスト者は常に
罪と直面することになります。
前に書いたような気がしますが、
守れないであろうということを
キリストは既に見抜いていて承知していたから、
罪については厳しい見方をされた。ゆえに
罪→許し→救いの道を説かれたと思っています。

ソビエトによる迫害についても私には知識がありません。
ソビエトに限らず、歴史上、為政者は自らの体制の脅威に
なりうる者に対しては迫害しています。

先ずヨブ記に関係するかな・・と思われる拙作

  臨終

見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして

賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと

 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた

彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ

「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」

去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある

こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り

彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った


> パウロのような病的な発言をする嘘つきになっちゃいます。
「コリント人への第一の手紙」の中のパウロのくどくどしい「愛」の説教はファンも多いがアンチパウロというのも
多いのです。
<

パウロの「愛の賛歌」について拙作

  コリント一・十三・愛の賛歌

寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
とうに「愛」は死んだが
ここにおいて
まだ「愛すること」は死んでいない
守れる者が一人もいないからである

-------------------------------------
 コリント人への第一の手紙・第十三章、聖書では有名で「愛の賛歌」とも呼ばれる。この章の最初にパウロは、どれだけ厚い信仰を持っていても愛がなければ全ては空しいことを説いている。次に前述の言葉を全て肯定形にした愛のあるべき姿を示す。さらに愛はいつまでも絶えることがないが、預言は廃(すた)れ異言はやみ知識は廃れるであろうという。
 異言とは宗教的恍惚・忘我状態において発せられる言葉のことである。預言は聖書においては未来に起こることを言う予言というより、それら予言や先見を含むこともあるが神から託された言葉を啓示として述べることをいう。
 確かに預言も異言も今の時代では、いかがわしいものとして廃れたと言ってよいだろう。そして愛も、依然として憎しみも絶えることがない。
 パウロには元々キリスト者を迫害していて後に改宗したという負い目があったと思う。それ故であろうか殊更に熱心な伝道者であった。伝道者であるから、この章においても信仰について語っているのである。
 しかしここで私の思い込みについて述べておこう。愛は男女・親子・人間愛の全てを含んでいるように思えてならない。愛は、特に愛するということは、男女の愛(セックスという意味ではないよ)も親子の愛も信仰上の愛も全ての愛は本質的には同じものだと思っている。恋愛の愛は性愛を孕(はら)んでいて複雑で見えにくくはあるが愛と呼べるものが残るとすれば他の愛と変わりないものだと思う。
 そしてここにおいてパウロが述べているのは人が人を愛しているという状態としての愛だけでない。それよりももっと愛するという行為を賛美するとともに、その難しさ・厳しさを説いていると私は受け取っている。
 興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。愛という言葉が殆ど死語に近いので表現しにくいのだが、人間の信仰は人間の持っている暖かい感性に響くもの即ち人間としての愛がなければあり得ない、そこから離れたものになってはいけない、人間の信仰は人間離れしてはいけないと言っているよう思えるのだが如何だろうか。

「一人もいない」は言い過ぎかもしれませんが・・・。

愛といっても性愛というのは、満たされた後は、
いつまでも続くものではないような気がします。
特に同じ相手とは・・・後に残るものを考えています。

反対に欲求不満は結構長く続きますけれどね。

>「神」が存在しようとしまいと「人」というのは
「肉体」という生存の為の根源的欲求を背負いながら、一方で理性を働かせて生きていかねばならぬ
現実において極めて自己矛盾した存在です。
ローマ人への手紙7章22節~24節:
 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法をよろこんでいるが、
 わたしの肢体には別の律法があってわたしのこころの法則に戦いをいどみ、
 そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
 わたしはなんというみじめな人間なのだろう。
「肢体に存在する罪の法則」なんつうのは万人共通であって救世主キリストだって市井の凡夫だって変わりはない。
「肉体」という生存の為の根源的欲求を「罪の法則」と呼んだパウロに悪意を感じるのは私だけなんでしょうか???
<

上の引用のあとに
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に使えているのである。」と続きます。
肉体を持っている限り、キリスト者においても
信仰における教えや知恵との葛藤や矛盾に苦しむ
ことは常であって、例外ではありません。
ゆえに罪の意識→許しの救いが必要なのだと思います。

「肉体」という生存の為の根源的欲求に任せてしまえば、
大変なことになる。自らを律するものが必要だが、
まさしく自己矛盾や葛藤があるということを承知で
パウロは語っているように私には思えるのですが。

>「銀河系の幾万もの光の大霊の一人を前にして『われ以外に神なし』と自己主張する勇気があるのか?」
って訊きたくなるくらい怪しげな「神」でしかないのです。
<

聖書が説く神は人格的唯一神ではありますが、
万物の創造主でもあります。
銀河系だろうと全宇宙だろうと「光の大霊?」だろうと
それを神の被造物と考えず、別のものと考えるのは
見解の相違だと思います。それゆえ
そのことについては、ここまでにいたします。

> 自分の階級章をそのまま教団名にしたってところに「キリスト教」の発生の起源が隠されています。
<

言葉の問題だと思いますが・・・当初がどうであれ
キリストは「油注がれた者」「王」から、
「救い主」という意味の称号になっていますから。

>「人」ヨブにとって「主なる神」は、恐ろしい主人なのです。
なんせいくら全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっていても平気で試練を
与えてくるんですからたまったもんじゃない。
<

旧約聖書には神の愛を感じさせる聖句も多くありますが、
前にも述べましたように、多く「神を恐れよ」というテーマ
に貫かれているように思えます。拙作・・・


  ヨブ記とお叱り

ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。


> 試練をうけているのは「しもべヨブ」だけではありません。
「主なる神」も同じ試練の辛さ、苦しさの中にいるのです。
そうでなければ「しもべヨブ」と「主なる神」のあいだに心の絆は成立しようがない。
という意味で試練というのは、「主なる神」自身が「人ヨブ」への信仰を試されているとも言えるのです。
サタンはヨブと神の我慢比べのレフェリー役だとも言えなくはない。
<

面白い見方だと思います。唯一神でも、むしろ
血も涙も分かる「人格的」唯一神である
ということとして受け取っております。
血も涙も分かる神様としては理解できない
箇所もありますが・・・「神を恐れよ」ということ
なのだろうと受け取っております。

< 自分の亭主がそういう馬鹿をやらかしたらヨブの妻でなくたって
 「神をのろって死んだほうがましじゃないの」
って言うに決まってます。
さもなきゃさっさと離縁して家を出て行くか、亭主を家から追い出すかどっちかですね。
>

また決め付けですか・・・。
そういう妻ばかりではないように思いますが・・・
ヨブの奥さんについては「えらい冷たい人やな」
というのが、今のところ、私の感想です。

>「全きかつ正しいが故に『非』とされる苦しみ」
「神を恐れ悪を遠ざけるが故に罪びとのように裁かれる苦しみ」
なのです。
この苦しみだけは如何なる聖人、君子であっても耐え難い。
<

そのとおりですよ。
キリストは肉体を持った人間として生まれ
生きたわけですから、それはそれは
耐えがたい苦痛だったと思います。

> イエスの十字架の苦しみは6時間足らずですが
それでも耐えがたく最後は
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
と絶叫して果てた。
<
> なぜここだけ原文のままなのか?
それは翻訳するのが憚られたということだと最近気づきました。
<

この部分がキリスト教にとって都合が悪いのなら
翻訳しないことよりも、
削除すればよかったのではないでしょうか。
(キリストが)打たれた傷によって
癒されるために(イザヤ53)
この部分は生きてきます。

>イエスが最後に吐いた言葉は、
「神への呪い」に違いないのです。
<

「呪い」ですか。決め付け・断定が多いですね。
前にも書いたつもりなのですが・・・
賛美へ続く詩篇22を省略して冒頭だけを言われたのだ
という考え方もあるでしょうが、
ではなぜ22章を選ばれたのかと考えます。
肉体の苦痛が耐えがたかったために
「わが神」に叫んだとして不思議はないと思います。

最後の最後に神様を呪うくらいなら、
分かっていたはずの理不尽な死を避けたいのならば、
死を覚悟してエルサレムへ上ることも
司祭らの反感を買うような伝道もしなければよいのです。
生き残る術も、理不尽な死を避ける術も、幾らでもあったはず。
しかしイエスは使命感を持って伝道し、死と復活を預言し、
十字架への道を選ばれたのです。
そこには当然理不尽な死が待っていることを承知の上で。

私のような信仰の薄い駄目クリスチャンならば
神を呪うこともあるかもしれませんが・・・。
そしてそれによって罪を意識することになります。
私のようなキリスト者はその繰り返しです。
呻くように与えられる死を願うこともあります。拙作。

  感謝と呪い

人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている

人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている

しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある

  祈りと叫び

いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから


幾つか改めて聖書を繙いてみる切っ掛けになりました。
コリント1:8-2(口語訳)
「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、
知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」
ピリピ1-29(口語訳)
「あなたがたはキリストのために、
ただ彼を信じることだけではなく、
彼のために苦しむことをも賜っている。」


最後に拙作もう1つ・・・。

  二人の背教者

 神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が狼狽しつまずいた。
 裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。「あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれをした。
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。」

また思いつくことがあったら、また書きます。失礼。

              戸田聡 不具


ヨブの呪い
石田 俊義 | URL | 2007-02-12-Mon 02:54 [EDIT]
<ヨブの呪い>

2月になって情報システム部から財務経理部への移動と東京での出張研修が続き、職場環境が激変した為かなり疲れてしまって
文章を書く気力も読む気力も失せています。しかし、このままだとなんとなく中途半端なのでもう2回くらい
死力を振り絞って私の感想と意見を書かせていただきます。

キリーロフがいくら
>「神が存在しないならば、私自身が神だ」という有名な人神論を展開したって「人」に「神」の代わりは務まらない。
>もし神が存在するならば、自分の意思を含めた森羅万象はすべて神の意志に隷属し、その意志に反して自分は何もできない。
>しかしもし神がいないのならば、いっさいは僕ら自身に属することになる。
>自分にとっての何もかもが根源的に自由になってしまう・・・
「人」がいくら頑張ったって森羅万象を自分の意思に隷属させることはありえない。
それどころか
「自分にとっての何もかもが根源的に自由になってしまう・・・」
筈がない。
大体、「人」なんてたとえ1日だけでも自身を自己管理することすら困難な生き物です。
「五蘊盛苦」っていいますが肉体の諸器官に内在する欲求は熾烈を極めます。
食欲、性欲、睡眠欲いずれも肉体の生存にとっては根源的な欲求です。
1週間も飲まず食わずでおれば間違いなく飢餓状態になりますし、凄まじい食への欲求が
突き上げてきます。
また思春期を迎えたばかりの若い健康な肉体の発する性的欲求くらい激しいものはない。
少年、少女から大人の男、大人の女へと変化していく過程での葛藤を適正に自己管理できる人間なんてまずいない。
数年前17歳の少年達による殺人事件が多発して世の中が騒然としましたが
彼ら少年、少女達に限らずたとえ聖人君子であっても肉体に内在する欲求を
理性的に自己管理するのは難しいものです。

あまりこだわると
パウロのような病的な発言をする嘘つきになっちゃいます。
「コリント人への第一の手紙」の中のパウロのくどくどしい「愛」の説教はファンも多いがアンチパウロというのも
多いのです。
私はパウロの説教を意識すると、何故か
オウム真理教の上祐史裕を思い浮かべてしまう。
詭弁を正論にすりかえてしまう弁舌の巧みさは、あれがオウムの弁護でなければ爽快で
マスコミ受けしやすいんでしょうが、私にはペテン師にしか思えない。
そしてパウロも同じ穴の狢じゃないかと本気で疑ってしまいます。

「神」が存在しようとしまいと「人」というのは
「肉体」という生存の為の根源的欲求を背負いながら、一方で理性を働かせて生きていかねばならぬ
現実において極めて自己矛盾した存在です。

ローマ人への手紙7章22節~24節:
 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法をよろこんでいるが、
 わたしの肢体には別の律法があってわたしのこころの法則に戦いをいどみ、
 そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
 わたしはなんというみじめな人間なのだろう。

「肢体に存在する罪の法則」なんつうのは万人共通であって救世主キリストだって市井の凡夫だって変わりはない。
「肉体」という生存の為の根源的欲求を「罪の法則」と呼んだパウロに悪意を感じるのは私だけなんでしょうか???

キリーロフもせめて一神教の「神」くらいの身体能力と知識がないと「神」の代理は務まらない。
私自身は、聖書の中の「主なる神」や、クルアーンの中の「アッラーの神」といった自称絶対神に
森羅万象を統べるほどの能力があるとは思っていませんが
でもヨブを前にして信仰者の何たるかを説くくらいの能力と気概があるとは
信じています。

一神教の最大の欠陥は、
「人」と「神」なんていう2元論的な対置をすることです。
数学的に言えば「有限」に対する「無限」を一つの値とみなすようなもので
「解析学」でも「無限遠点」=「∞」は、数学の記述上便利なのでよく使いますが
「無限量」としても「濃度」としてもこういう扱いは全然正しくない。
「無限量」の集合の濃度は、「有限量」の集合の濃度よりはるかに大きいからです。

ところが
「神」と表記した途端から、絶対的な権威と権限をもった架空の実体があたかも真実の存在のような顔をして一人歩きし始める。
「主なる神」や「アッラーの神」も預言者モーセや最終預言者ムハンマドを相手にして自己主張してる分には「神」の顔をしておれますが、
霊太陽を前にして自分を「創造神」と「自己主張」する勇気を持ち合わせておられるのか?
霊界においては「霊太陽」が生命の根源であることを認識していない霊など一人もおりません。いかなる高級霊といえども「霊太陽」の「光」を絶たれたら息絶えるしかないからです。
ましてや
「銀河系の幾万もの光の大霊の一人を前にして『われ以外に神なし』と自己主張する勇気があるのか?」
って訊きたくなるくらい怪しげな「神」でしかないのです。

それでも「人」よりは余程、身体能力、知識力は高い。
しかしそれだけで「神」づらされても迷惑極まりないのですが・・・

一体、一神教の『神』がどの程度の「神」なのかは
ヨブ記を読めばある程度推測がつこうというものです。

ヨブ記は有名なので読まれた方も多いと思います。
簡単に話しの概略を解説しておきます。

 ヨブ記:第1章1節~12節
   ウヅの地にヨブという名の人があった。
   その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
・ ・・
    主はサタンに言われた、
    「あなたは私のしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、
     悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」
・ ・・
     サタンは主に答えて言った、
    「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
・ ・・・
いまあなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。
彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」
主はサタンに言われた。
     「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に
     手をつけてはならない。」

  以上はヨブ記の出だしの部分です。
  「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブがなんでまた
  試練にあわなきゃいけないのか・・・
  このあたり私には理解し難いんですが、
  この後、ヨブの総ての僕と、家畜の羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百匹、雌ろば5百頭が
殺されて、息子7名と娘3名は嵐で家がつぶれて圧死。
短期間でヨブは全財産と家族を失ってしまいます。

   このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った。
   「わたしは裸で母の胎を出た。
    また裸でかしこに帰ろう。
    主が与え、主が取られたのだ。
    主のみ名はほむべきかな」

すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

これがヨブの第一の試練。
続いて第2の試練

ヨブ記:第2章3節~6節
主はサタンに言われた。
「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、
 悪に遠ざかる者のないことを気づいたか。
 あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、
 彼はなお堅く保って、おのれを全うした」
 サタンは答えて言った。
「・・・しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉を撃ってごらんなさい。
 彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」
主はサタンに言われた、
「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ。」

旧約における「神」と「人」の契約関係は、確かに「主人」と「しもべ」の
関係です。私自身、「主人」と「しもべ」という関係のほうがしっくり理解できます。
新約における「父」と「子」という「神」と「人」の契約関係は、
イエスという人物の特異性であって「律法学者」にも「パリサイ派」にも
「サドカイ派」にも受け容れがたい異端でしかない。
イエスの生みの親である「エッセネ派」の祭司達にとっても受け容れがたい。
結局「エッセネ派」の中の分派であった「キリスト教」は
母体であるエッセネ派と決別して、初代エクレジアと
後世に呼ばれる別の教団へと進化していきます。
まだこの時点ではイエスは「キリスト」であっても「神」ではない。
エッセネ派の役職と階級章では
最高位が「ミカエル」、no1が「ガブリエル」、no2が「サリエル」、no3が「ラファエル」、
さらに「コハト」、「ゲルション」、「メラリ」、「王」、「皇太子」
「王子」、「王子客」、「客」、「母」、「処女」、「寡婦」、「妻」
と4天使と12の階級章に分かれている。
うち上位3名については
「ミカエル」=「エリア(祭司)」、「ガブリエル」=「モーセ(預言者)」、
「サリエル」=「キリスト(王)」という通称を使っている。

軍隊でいうなら「大将」、「中将」、「少将」
という感覚です。自分の階級章をそのまま教団名にしたってところに「キリスト教」の発生の起源が隠されています。
自分が国家元首になっても以前の自分の階級章をそのまま使っていた人物がいますね。リビアのカダフィー大佐、この男案外イエスを真似たのかも知れない。

ソビエト共産党もレーニンが健在の1924年までは
政治局の中で一番地味で日のあたらない部署が「書記局」だった。
ところがスターリンがユダヤ人ボルシェビキを片っ端から失脚させてその殆どを家族もろとも処刑して独裁を確立した暁には「書記局」が共産党の政治権力の代名詞になるまでに昇格している。
日本共産党においても最高権力者は書記長であって委員長ではない。
もしイエスの階級章がガブリエルだったら「キリスト教」ではなくて「モーセ教」になっていたに違いない。

預言者ムハンマドにとってもキリスト教の「イエス」=「神」ってのは理解しがたい。
『イーサー(イエス)はイブラヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーセ)、につづく預言者の一人であって「神」なんぞではない。』という
ムハンマドの言い分は確かに正当性があります。
「人」ヨブにとって「主なる神」は、恐ろしい主人なのです。
なんせいくら全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっていても平気で試練を
与えてくるんですからたまったもんじゃない。
ここで試されているのは、「しもべヨブ」と「主なる神」の心の絆なのです。
「主なる神」が「しもべヨブ」に対して「主人」でおれるのは「神」がヨブの誠実さを信じきっているからです。
ですから試練をうけているのは「しもべヨブ」だけではありません。
「主なる神」も同じ試練の辛さ、苦しさの中にいるのです。
そうでなければ「しもべヨブ」と「主なる神」のあいだに心の絆は成立しようがない。
という意味で試練というのは、「主なる神」自身が「人ヨブ」への信仰を試されているとも言えるのです。
サタンはヨブと神の我慢比べのレフェリー役だとも言えなくはない。

ヨブ記:第2章7節~10節

  サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで
  いやな腫れ物をもって彼を悩ました。
  ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
  時にその妻は彼に言った。
  「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。
   神をのろって死になさい。」
  しかしヨブは彼女に言った。
  「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。
   われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも
   うけるべきではないか」
  すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪をおかさなかった。

怪しげな新興宗教に嵌って全財産を失ったうえ本人も病魔に犯されてる人物なんて現在の日本にだって掃いて捨てるほどいますね。
自分の亭主がそういう馬鹿をやらかしたらヨブの妻でなくたって
 「神をのろって死んだほうがましじゃないの」
って言うに決まってます。
さもなきゃさっさと離縁して家を出て行くか、亭主を家から追い出すかどっちかですね。

そういう家族の冷ややかな視線を横目に
ヨブと神の二人の孤独な心理戦が始まります。

ヨブの苦しみは7日7夜続いたとあります。

ヨブ記:第3章~37章までヨブの苦しみの大きいのを知って慰めに来た友人3名と
激しく葛藤するヨブの対話が延々と続きます。

ヨブの苦しみは肉体を覆う腫れ物の苦しみだけではありません。本当の苦しさは
実は、全く心理的な苦痛なのです。
それは「全きかつ正しいが故に『非』とされる苦しみ」
「神を恐れ悪を遠ざけるが故に罪びとのように裁かれる苦しみ」
なのです。
この苦しみだけは如何なる聖人、君子であっても耐え難い。

イエスもまた十字架磔刑において午前9時から午後3時まで
6時間この苦しみを味わい続け
最後に
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
(我が神、我が神なんぞ我を見捨てたまいし)
と絶叫して果てた。

高潔で美しい心根の人であればあるほどに
汚れ果てた悪人のように裁かれるときの苦しみというのは耐え難いものです。

1948年東欧諸国が駐留ソ連軍の支配する警察と報道機関のバックアップを受けて共産化された直後から始まった聖職者狩りによって多くの神父、尼僧が逮捕されて拷問、処刑されていった。高名な聖職者で発狂死した人も多数いたといいます。
1918年から1920年の戦時共産主義体制化の
新生ソビエト連邦ではレーニンが徹底した聖職者狩りをやっています。
なるたけ残忍になるたけ冷酷になるたけ多くの聖職者を殺傷することを
レーニンが決断した最大の理由は
全人口の95%以上がロシア正教の信徒というロシアの風土において
聖職者が最も尊敬されているからでした。
聖職者を抹殺しない限りロシアを共産化することは不可能だということを
レーニンくらい明確に認識していたテロリストはいない。

速やかに処刑されて殉教していった幸運な人の10倍以上の
ロシア正教の聖職者が逮捕と拷問の後、シベリアの強制収容所へ送られて朽ち果ててゆきました。

彼らの味わった苦しみというのは極寒の地での1日14時間の強制労働という肉体的苦痛だけではない。むしろそれ以上に彼らを苦しめたに違いないのは
彼らの精神が高潔で正しいが故に「非」とされた苦痛であり
強制収容所の看守に屈従する奴隷として「獣」のような生き方を強制された苦痛に違いないのです。

その苦しみは、ヨブの苦しみに限りなく近い。

イエスの十字架の苦しみは6時間足らずですが
それでも耐えがたく最後は
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
と絶叫して果てた。

全く、かつ正しく、神を恐れるヨブですら7日が限界だったのですよ。

そしてロシア正教の聖人・聖女達の苦しみは肉体生命が朽ち果てるまで幾百日、幾千日も続いたのです。

ってことはたぶん数ヶ月以内にその高潔な精神は崩壊して
一匹の獣に変貌してしまった可能性が高い。

1919年2月、英国聖公会カンタベリー大僧正に、ロシア正教の惨状を訴えたロシア正教会
オムスク総主教は
「・・・ボルシェビキが権力を握ったところではどこでもキリスト教会はキリスト教の最初の300年間よりもずっと野蛮な迫害を受けました。
尼僧は暴行され、女性は共産主義者の共有財産として弄ばれ、
放縦と劣情が蔓延っています。
いたるところに死がそして窮乏があります。人々は完全にうちひしがれ、戦慄すべき経験に曝されているのです。
あるものは苦しみによって救われますが、他のものは惨めに屈します。・・・」と嘆いた

この文章を読んでおられる方に聞きたい。

ヨブが自己の高潔さを否定されたときに生ずる情いが如何なるものと思われますか?
イエスが自己の潔癖さを否定されたとき生ずる思いが如何なるものと思われますか?
ロシア正教の聖徒達が強制収容所の看守に惨めに屈従する獣に堕ちたとき生ずる情いが如何なるものと思われますか?

それは神への呪いです。

福音書の原文はギリシャ語で書かれました。
そしてイエスが存命のとき語ったのは間違いなくヘブライ語です。
福音書の編集者であるイエスの孫弟子達は先輩がヘブライ語で語るイエスの物語をギリシャ語に翻訳したか、もしくは直弟子達がギリシャ語に翻訳してイエス物語を伝承した
かいずれかです。
そしてイエスの十字架磔刑のクライマックスの一番の名場面

マタイによる福音書27章45節~46節:
さて、昼の12時から地上の全面が暗くなって3時におよんだ。
そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。

私は30数年前、初めてこの箇所を読んだときから不自然な感覚が残りました。
なぜここだけギリシャ語に翻訳しないで原文のまま放置したのか?
イエスが十字架で苦しんでいる様子を母マリアもマグダラのマリアもそして多くの人々が見守っているのです。
イエスが絶命の直前、大声で叫んだ言葉を全員が聞いていたんですよ。
なぜここだけ原文のままなのか?
それは翻訳するのが憚られたということだと最近気づきました。

イエスが最後に吐いた言葉は、
「神への呪い」に違いないのです。

自分を犯罪者として裁こうとしている劣等な人種の罵声や罪状の押し付けなど
さして苦にはならないが、信頼しきっている神に裏切られてしまったという現実を
受け容れざるえなくなったとき激しい憤りがこみあげてくる。

もちろんこのとおりなら
パウロの「十字架贖罪説」は吹っ飛びます。
というか2000年キリスト教史そのものが吹っ飛びます。

ですからキリスト教関係者は絶対に認める筈がない。
1947年死海のほとりのクムランの洞窟で発見された壺の中から
2000年の眠りを経てイエス存命当時の大量の教会日誌が出現した。
それから60年が経過するのにクムラン文書の詳細は
いまだに公表されない。
というか公表しようがない。
それはキリスト教がまだ現役の宗教だってことです。
死海文書の謎を見事に解明した聖書学者がいます。
バーバラ・スイーリング女史の解析力は天才というに相応しいものですが
キリスト教関係者は「荒唐無稽」と評して受け付けない。
あれほど明解に解析した女史の聡明さと博識について鈍感な
聖職者の脳みそこそ「荒唐無稽」だと思うんですが・・・

1991年12月のソ連邦崩壊後、KGBの秘密文書の一部が
流出公開できたのはロシア共和国内で共産党政権が現役でなくなったからです。

しかし
ヨブ記38章~42章を熟読すれば十字架磔刑上で最後にイエスが吐いた言葉
はおおよそ推測がつきます。

ヨブ記:第40章1節~8節
  
   主はまたヨブに答えて言われた、
   「非難する者が全能者と争おうとするのか、
    神と論ずる者はこれに答えよ」
  
   そこでヨブは主に答えて言った、
   「見よ、わたしはまことに卑しいものです、
    なんとあなたに答えましょうか。
    ただ手を口に当てるのみです。
    わたしはすでに一度言いました、また言いません、
    すでに2度言いました、重ねて申しません。」

   主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、
   「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
    わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
   あなたはなお、わたしに責任をおわそうとするのか。
   
   あなたはわたしを非とし、
   自分を是としようとするのか。
・・・・・・
  7日7夜
全きかつ正しいが故に『非』とされる苦しみの限界に達した
   ヨブは神を非とし自分を是としようとしたってことです。

  6時間
   その精神が高潔なるがゆえに『非』とされる苦しみの限界に達した
   イエスは激しく神を非難したんですよ

  幾百日
   高潔で美しい心根であるが故に『非』とされて一匹の獣に
  堕とされる苦しみの限界に達した
  聖女は神を呪う心境を味わねばならなかったのですよ。

ヨブはつむじ風の中から聞こえてきた主の声と
対話することによって自分の思いあがりを悔い改めさせられてるんですが
同時にヨブと神の間には強い心の絆が成立しているんですね。
ヨブと神の間に直接的な情の交流が発生したからです。

これが律法の世界における人と神の契約関係の真髄です。

ヨブは神の気持ちを直接体験的に感じとったんです。

イエスが十字架磔刑以後どういう形で神との関係を修復したのか
今の私には解りかねます。案外ずっと冷戦状態だったりして・・・

そしてなによりも
ロシア正教の30万名以上の無名の聖人・聖女達の呪いは
解けたのか?????

私が死んで霊界に戻ったら真っ先に訊きたいことなのです。



死生観・信仰
戸田聡 | URL | 2007-02-06-Tue 21:20 [EDIT]
長い投稿ありがとうございます。
筆を走らせるのに長けた頭脳をお持ちのようです。

> 私の死生観は奇異かもしれませんが、それ程特殊な死生観だとは思いません。
<

奇異だということではなく、「大霊界」に似たところのある
石田様の死生観だということです。あくまで
石田様の信仰、あるいは
石田様の想像と思索に基づく確信だということです。

>誰だって幾度か体験している筈の生から死へ至る瞬間のごくありきたりの光景
<

誰だって幾度か・・・ごくありきたり・・・というのは私には
理解できません。教科書的とも思えません。

>「死」=「無」の不条理で
肉体の「死」でもって「人」の人生が終わりなら「自殺者」は、それで現実の「不条理」から永遠に
「開放」されるわけで「自殺」もありかなと思います。
しかし「死後」もさらに「再生」もありの永遠の魂が人の真実の姿だとするならば、「自殺」というのは
その人の「死生観」の未熟さでしかないように思えるのです。
<

死が人生の終わりというのは、
この世の意識と思考が及ぶ範囲の終わりだと思います。
人にとってもキリスト者にとっても
永遠の命も復活も現世の思考では分からないことだと思います。
キリストが言われたから私は信じているということで、私にとって
死後を理解することではありません。だから信仰なのだと思います。

> イエスが、自分の絶命(???)を前にして隣の強盗に
「あなたは私とともにパラダイスにいるであろう。」と言ったことが本当だとすれば彼にとって
「生」と「死」は不連続なものではなくて完全に連続している。
<

天国についてもキリストが言われたから、何か
とても良いところなのだろうと信じています。
いろいろ想像はしてみるけれど、
自らの想像をそのまま信じることはしません。
信仰においては連続しているけれど、
この世の意識や思考で理解できるとは思いません。
前に投稿したかもしれませんが・・・


  祈り・永遠の命

過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです


細川ガラシャについての記事を読ませていただいて、
知識が乏しいので批判も反論もできませんが・・・

戦国時代の武家の家族は死と直面しながら、
また死を覚悟せざるを得ない状況で生きていた。
テレビドラマでは出てこない武家の妻のやることとして、
夫が取ってきた敵の首を洗うことが妻の大事な仕事の1つであった
と何かで読んだことがあります。現代では考えられないことです。
現代でも死体を遺棄したりバラバラにしたりは聞きますが、
それは仕事ではありませんからね。

聖書から
「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」
注意深く冷静であれ。神の定めたことには、それが何であっても
受け入れなさい。・・・というような意味なのでしょうか。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」
(どちらもマタイ10)を思い出しました。

また思いつくことがあったら書きます。失礼。

               戸田聡 不具

石田さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-02-04-Sun 15:32 [EDIT]
  いつも長い興味深い議論、大変ありがとうございます。反論は大歓迎なので、どんどんお願いします。
  三島由紀夫の自殺に感動した人間は確かにいませんね(笑)彼の自殺は、形式の中に存在していると同時に、歴史的・人間的エピソードを厳しく拒むようなものがあります。ポツリとおかれているような建築物、というべきでしょうか。要するに、彼の自己主張なのであり、言葉によってつくられたもの、ということです。細川ガラシャのような、歴史や人間の流れの中にあった自殺というものとは趣を異にするものだと思います。幽斉、忠興その他の人達の流れで説明できるような物語的な説明の時間の中に、三島の自殺はおかれていない、ということですね。やや余談ですが、私は細川家の歴史物語は非常に好きですね。幽斉、忠興、ガラシャのそれぞれの人間性の琢磨が、現代的に生きる私達にも有益なニュアンスを与えてくれるからですね。
  「死=無」の主題に関してですが、スウェーデンボルグを愛読したカントのエピソードは確かに有名で、私もスウェーデンボルグは愛読しています。こういうことを言うとブログ文の内容と矛盾するかも知れませんが、私は「死後の世界」というものの存在を、石田さん的な意味で信じる人間なのですよ。死んでしまってそれですべてがいっさい終わる、というふうには考えていません。
  では「死=無」ということはどういうことなのか、ということですが、それは存続しつづける「私」とは何か、ということに帰着する問題です。たとえば、単純な教室設例として、私の脳を切り離し、脳が消滅し、脳以外のすべてが存在し続けるとした場合、それが「私」といえるかどうかということがあります。もちろん、その逆も考えることができましょう。あるいは、「私」を完全に再現しうるような生命体の創造の可能性を考えた場合、何から何まで同じのその「私」は、果たして「私」なのかどうか。またあるいは、私達の意識で、私達が知覚したにもかかわらず、完全に記憶から消滅してしまっている自己体験というものを、後で映像や証言で指摘される場合、「自分にとって存在してしない過去の自分」というものを不意に感じることがあると思います。
  意識とは何か、という定義もいろいろと可能でしょうが、「記憶」ということと近づけて意識の存在を考えると、「私」が存在するかどうかというのは、実は大問題であると考えなければならないと思います。「死」の後に、何かが残るとしても、その「私」が、いったいどこまで意識の連続性・同一性を保てるのか、と考えるに、私は大いに疑問を感じざるを得ません。たとえば、生前の怨念や思い出の場に、霊が現れる、としても、そこにある死後「私」は、脳と脳以外の切断の喩えからして、いかなる「私」か、という話を考えなければならないということになります。とかく私達は死後の世界を生前の世界よりもより完全な世界と思いがちですが、「永遠の霊」は、生前の私達の記憶力の欠点をやはりもっているのかどうか(笑)そして生物学的「死」は、意識の連続性に関して、最大の危機をもたらすのは明らかなように思えます。私が言う「死=無」というのは、そうした「最大の危機」ということです。「死=無」だからといって、「生=有」ということが哲学的に対置できるとは限りません。
   カントは、スウェーデンボルグを愛読はしましたが、「死後の世界」の有無は、哲学的にさしたる問題ではない、ということで、それを哲学・倫理学の中心主題にはしていません。「私」があるということが前提になって、死後の世界の有無が論じられるのであって、それに反して、哲学的には「私」というものがあるかどうかということが問われ続けなければならないからです。その上で「死」とは何か、ということですが、「私」というもの(もともとないものかもしれない私が)消えてしまう可能性が最も高まるものとしての「死」ということです。そういう意味では、哲学者や思想家は「死」を最重要視しますが、安易な無宗教論者のような「死=無」論を採用しない。「死」が何か、「死」を考える私もまた虚構かもしれない、というふうに考え続けることが、哲学的だからです。しかしその思考の中断をもたらす大いなる可能性として、死を重視する、ということも事実です。そういう意味では、「死=無」でなく、「死=存在の最大の危険性」というふうに言い換えてもいいのではないかと思います。
  
鬼と蛇
石田 俊義 | URL | 2007-02-04-Sun 03:18 [EDIT]
25年続けた仕事がシステム統合でなくなり部署が変わって2週間目そろそろ仕事がきつくなる頃、夜遅く帰宅してから深夜は幾何の研究、
さらにはこのサイトへの感想といいますか意見を書きたくなるんですね。つまるところ寝る時間を削るしかなかった。
しかしこれで2ヶ月連続、風邪熱でダウン。家族からは日頃の不摂生だと笑われ、自分のメインテーマ(3次元多様体の作図)へいい加減 
戻りたいのですがこれだけは言っておきたいって気持ちに引きずられて余計なことまで書いちゃうのですね。
私の死生観は奇異かもしれませんが、それ程特殊な死生観だとは思いません。
誰だって幾度か体験している筈の生から死へ至る瞬間のごくありきたりの光景を教科書的に記述したまでのこと。
これが奇異だと言うのなら世の中の常識がおかしいって言いたい。

「死」=「無」の不条理で
肉体の「死」でもって「人」の人生が終わりなら「自殺者」は、それで現実の「不条理」から永遠に
「開放」されるわけで「自殺」もありかなと思います。
しかし「死後」もさらに「再生」もありの永遠の魂が人の真実の姿だとするならば、「自殺」というのは
その人の「死生観」の未熟さでしかないように思えるのです。

「死」を徹底的に「形式」の中に閉じ込めて『割腹自殺』した三島由紀夫に自分の死後についていかほどの自覚が
あったというのでしょうか? 
私が日本の古代史を教わった神道の霊能者は川端康成の直弟子でもあって川端氏がガス自殺した際は大慌てで
霊の救済に出向いたって言ってました。私はこのとき「たしか三島由紀夫も川端康成の弟子でしたね?」って言ったら
「彼と私は関係ないよ」って実に素っ気なかった。

イエスが、自分の絶命(???)を前にして隣の強盗に
「あなたは私とともにパラダイスにいるであろう。」と言ったことが本当だとすれば彼にとって
「生」と「死」は不連続なものではなくて完全に連続している。
また、殉教願望者、細川玉子(洗礼名:グレーシア)が石田の軍勢に大坂の細川邸を包囲されて「死」の
覚悟を決めたとき、彼女の心は一人のキリシタンとして命を散らすことに至上の喜びを味わっていた。
主キリストの殉教死に追随することがキリスト教信仰に触れて以来、玉子の最高の願望だったことは

フロイスの日本史第2部106章の一節に明記されています。
・・
すべて(上記)の出来事は、我ら(イエズス会員)の追放の報せが五畿内に伝えられる以前に生じたことである。
その報せが(奥方)に届いてからは、(彼女は)涙にくれる一方、言葉に尽くせぬほど(信仰熱)にとりつかれた。彼女はこう言っていた。
「もし暴君(関白)が大坂に帰り、キリシタンを迫害するとか、信仰のために彼らを殺そうとかするようなことがあれば、それは(私にとって)
 またとない機会が与えられることになりましょう。すなわち私は他のキリシタンの婦人たちとともに、真っ先にその場に赴いて
殉教するからです。」

これは彼女が授洗する前の言葉です。

玉子にとって「死」は「無」への投身自殺ではなくて、一人のキリシタンとして帰天する為の過程に過ぎない。

時世の句:
「 散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」(享年38歳)

「美しく死ぬ」ということにかけて彼女の感性は天才的です。

利休七哲の茶人として高山右近と親しかった細川忠興は授洗こそしなかったが、亡き妻ガラシャへの思い入れの強さはそのまま
キリシタンへの思い入れにならざる得ない。
1601年大坂の教会で妻ガラシャの葬儀を壮大に主催した忠興はオルガンチーノの説教に大泣きしてしまいます。

フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集より

越中殿とその家来たちはいたく感動し、涙をこらえることができず、ただ泣くだけであった。
すべての人が我らの教会の祭式の厳粛さとその説教で聞いたことに異常に驚嘆し、我らのことどもを飽くことなく褒め、
越中殿は時々公然とこう言った。「日本で仏僧たちが行なう聖祭はこれに比べると笑止の沙汰である。
これほど神聖で敬虔なものを見ようとはこれまで想像したこともなかった」と。
(我が姫垣より http://www.tamahime.jp/text/episode/sougi.htm )

細川玉子の最期は、クリスチャンのみならず多くの人を感動させているのです。

三島由紀夫の「割腹自殺」の美しさに感涙した人っているのでしょうか???

細川玉子の死は、覚悟の自害であることは確かですが、また非常に多くの人を感動させる『殉教死』でもあったことも間違いないのです。
自殺か殉教かという2元的な解釈を許さない状況証拠がそろっているように思います。

  ところで玉子と忠興の二人の夫婦関係について納得のいく解説をしてくれる書き物に出会ったことがない。
  仲の良い夫婦だったとは決して思えないが、この二人の間に愛情が無かったとも思えない。
  玉子と忠興の間には3男2女が生まれている。
  夫婦仲が悪けりゃここまで子供はつくらないだろう。
  忠興は、戦国武将の常として玉子の居住する大坂屋敷に5人の側室を住まわせており、そのことと
  忠興の玉子への暴力が玉子を相当に苦しめている。
  玉子は夫と離縁して西国へ行きたいと書状で宣教師に相談してますが
   「一つの十字架から逃れる者は、いつも他のより大きい十字架を見出す。」
  という宣教師の書簡による回答でなんとか思いとどまります。(フロイスの日本史第2部111章)

 やはり忠興がどういう人物か判断する材料がないと玉子の実像が見えてこない。
 日本史の教科書の中の細川幽斎、忠興父子といえば足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と4人の
 天下人を巧妙に渡り歩いて戦国時代を生き延びた武将という印象が強いのですが、
 この親子は武人である前に当代一の教養人であったということも留意すべきだと思います。
 関が原前夜、西軍1万5千が細川幽斎の居城田辺城を包囲した。守る幽斎側は5百。
 これを知った後陽成天皇が「もし幽斎が落命するような事態となれば古今集の秘伝は永久に絶えることになる。
 すみやかに城の包囲をとくように」との勅命を下して西軍は撤退、幽斎は城を西軍に明け渡すことで危機を
 乗り切る。実に強運、この強運を呼び寄せたのは三条西流の歌道伝承者としての著名度で包囲している西軍
 の武将の中にも幽斎の弟子は大勢いたといいます。自分の和歌の師匠を攻めるんじゃあんまり気がのらない。
 やっぱり自分にしかできない特技、自分にしか解らない秘伝の知識ってあったほうが良いんですね。
 自分を潰せば、相手も困るんですから人生の防衛手段にはなってくれます。その筈だったんですが・・・

 3年前若干100名たらずの私の会社が、三井グループに買収されて始まったシステム統合。統合される
 側にとっては従来の事務手順が大幅に変更になるのでそれだけでも大変なのですが、もともと当社の10倍の
 陣容の組織において有効に機能するシステムをたかだか百名たらずの企業組織で運用すると事務負担ばかり大きく
 デメリットのほうがはるかに大きかった。金融会社にとって生命線とも言える企業与信のシステムだけは
 そういうデメリットを受け入れるわけにはいかず審査部がかなり抵抗して私が以前開発した中小零細用の
 企業分析システムを残すことになったのですが、開発者の私自身は先月辞令が出て情報システム部から
 財務経理部へ。ところが判別関数、集中楕円を使った異常値の検定、3σによる各財務指標値のクリーニング
 なんて文系の人種や、数学能力のない理系の連中しかいない会社じゃ引継ぎのしようがない。
 「仕様書くらい2週間もくれたらすぐ書ける」って言いましたが、「君の仕様書など誰も理解できない。」

 「誰も理解できないシステムを存続させることは出来ない。」そうでここに来て雲行きがあやしくなってきた。
 企業にとっては「誰にでも理解できる」ことが大切なんですね。私の上司が「俺に理解できる言葉で説明してくれ」
 って言われて文系の人種にも解る言葉で解説したんですが、それで出来上がったシステムの概略で
 私のシステムを外注できるって本気で考えてるんでしょうか???
 本当に文系の人間てのは救いがたい人種ですね。

 三井グループの与信システムは年商が数十億円規模の企業群が基礎データとして使われて決算書による
 格付けを行っているが、当社の顧客は年商5億円以下が6割、年商1億円以下が3割という超零細企業群。
 こんなのに年商数十億円の企業群の財務データを基礎にしている財務分析を適用しても適正な格付けが
 できる筈がない。
 判別分析も主成分分析も、母集団に線形関数を適用してサンプルデータの判定を行いますが、
 線形関数なんてものは母集団の質が相違すれば当然、相違する。つまり分析対象を真にグローバルな領域
 から鳥瞰するときそれは非線形だからです。
 しかし「非線形」を前提にして統計学を適正に論じる統計学者なんて見たことも聞いたこともない。
 所詮、統計学者の数学センスなんて理工系の学生程度でしかない。
 これが経済学者だと割合まともな数学センスの人物がいてノーベル賞をとったりもしているんですが・・・

 おもわず愚痴っちゃいましたが、
 さて細川幽斎の教養が当代随一であったことは間違いありません。その教養は息子の忠興にもしっかり
 継承されています。
 そして光秀謀反の後、丹波に一時期幽閉されていた玉子の教養と博識は舅の細川幽斎を凌いだといいます。
 しかも凄い美女。
このあたりのことを

 フロイスの日本史第2部106章:「丹後の国の貴婦人にして明智(光秀)の娘であり、異教徒(細川)越中殿の奥方なるガラシアの改宗について」
 から抜き出しますと:

 両人は24,5歳を出るか出ないかの年輩である。
 彼女の夫の父、舅(細川幽斎)は、つねに我らのキリシタンの教えに反対の立場をとってきた。彼は、老境に入った現在、妻や嫁とともに
丹後の国にいて、禅宗にはげむことをもって信心の勤めとしていた。・・・
 彼らのうち、嫁(玉子)は繊細な才能と天凛の才による知識においてモンストロ(超人的)であったので、他の誰よりも一段と秀でており、
すでに(彼女は)師匠のそのまた師匠でありうるほどであった。

 とあるように玉子は24,5歳にして禅宗の知識においてはかなりの域に達しています。

また、玉子にキリスト教信仰を伝えたのは侍女頭の清原佳代(マリア)という授洗した公家:清原枝賢(しげかた)の娘であると「細川ガラシャ夫人」
(三浦綾子)には書かれているようですが、

 フロイスの「日本史」という玉子を伝道した側の教会史では

  奥方は、夫の口から、彼の大親友である(高山)右近殿が彼に話してきかせたデウスの教えに関することとか説教のことを耳にした。
  夫は、我らの教えを改めて聴聞し、すでにキリシタンになりたいとの気持ちを抱いていた。
  彼女はそれらの話を夫から聞かされたときに、それをもっと深く知りたいとの異常な望みにかられたが、たとえ彼女が一人の修道士が自分の
  家に来るようにしてもらいたいと頼んだところで、いずれとうてい許してもらえるはずはないと思われたので、彼女はそ知らぬふりをしていた。

フロイスの日本史第2部106章後半の一節:

  キリシタンになることを決めて後の彼女の変わり方は顕著で、当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には1日中部屋に閉じこもって
  外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとせぬことさえあったが、今では顔に喜びを湛え、家人にたいしても快活さを示した。
  怒りやすかったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙遜で温順となって、彼女の側近者たちも、そのような
  異常な変貌に驚くほどであった。

当代一の知識と教養をもった絶世の美女と武勇と教養に秀でた武将、細川忠興のカップルというのは古今東西の歴史の中でも珍しい。
自他共に認める美人の上、禅宗の知識の深さにおいては著名な教養人であった舅の細川幽斎をも凌いでいる、となるとプライドが高くて
当然。
「高学歴で容姿は抜群だけど、怒りっぽく、気位が高い、鬱病の女。」
どこかの国の芸能人にこんなのいっぱいいそうですね。
それが初めて、教会で復活祭のミサを体験しただけでこうも性格が変わるんだからキリスト教というのは不思議な宗教ですね。
彼女が教会に行ったのはあとにもさきにも授洗する前の一回きりです。夫が九州遠征中にこっそり身分を隠して教会のミサを経験
したわけです。

関が原以後、
家康が秀吉の禁教令以来、再度禁教令をだした際の諸大名の対応は温度差があります。
法華経徒の加藤清正が領地の肥後で徹底的なキリシタン弾圧を始めたのとは対照的に細川忠興はキリシタンに甘いってんで
清正と忠興は取っ組み合いの大喧嘩寸前までいった。

大坂の細川邸での夫忠興にまつわる伝承はいずれもあまり芳しくない。
 <鬼の夫と蛇の妻の逸話:
   ある時、奥の台所で何があったのか騒がしい折のこと。下部が一人紛れ込んでいるのを忠興君が見つけ、
云い付けを背くからこのようなことになるのだと言ってその下部をお手討ちにされた。
その刀の血を伽羅奢(玉)様のお召しになっている小袖で拭いたが、(伽羅奢様は)すこしも騒ぐことなく
その小袖を3、4日召してお着替えにならなかった。忠興君もさすがに困り果てて侘びられ、ようやく御召しかえとなった。
この時
忠興が
「お前は蛇のような女だな」
 と言えば
「あなたの様な鬼には蛇の女房が似合いです。」
と言い返す。

侍女たちが驚き騒いだのを、女といえども武家に給仕するものはみだりに騒ぐべきでないとお示しに成られたのだ

忠興君がお手打ちになった者の首を、上様(玉)は自分の部屋の棚に置きいつまでもそのままにしておかれた。
忠興君もさすがに困り果てて幽斎君が侘びられてようやく首を取り除くことになったという>
(我が姫垣より http://www.tamahime.jp/text/episode/sougi.htm )

このエピソードだけ読むと忠興はかっての主人織田信長の気性とそっくりの短期な暴君
(忠興は少年時代、信長の小姓をしている)
なのですが、決してときの権力者に媚びないでしっかり自己主張する気概を持ち合わせています。
このあたりは反骨の知識人のような一面があるのです。

利休が秀吉から自害を命じられた際は、
「処罰覚悟で死を待つのみの利休の見送りに行った」気概といい

   マニラへ追放される高山右近が長崎から最後に手紙(と形見)をおくった人物でもあることといい

   常に「死」を覚悟して生きているような「緊張感」が溢れています。

   それは妻のガラシャも同じこと。
   いつでも『殉教死』できる覚悟をして生きているのです。

やはり似たもの夫婦なのだと私は思います。

「あなたの様な鬼には蛇の女房が似合いです。」
二人ともただものではない。

凄い緊張感の中で生きている男と女なのです。

だから緊張感のない使用人がうっかり無神経な振る舞いをしてしまえば
即刻、首をはねてしまう。

ガラシャももともとそういう気性の激しさがあったのだと思います。

「怒りやすかったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙遜で温順となって、
彼女の側近者たちも、そのような異常な変貌に驚くほどであった。」
っていうフロイスの記述は真実に近いと思います。

もし忠興も親友の高山右近の影響で洗礼をうけてキリシタンになっておれば妻の
玉子のような変貌をとげたのだと思います。
もちろん、忠興がキリシタンになっておれば細川家は江戸初期に断絶して滅びさって
しまったに違いありません。

母の玉子が幼児洗礼までした3男忠利が、
島原の乱では、キリシタン弾圧の急先鋒となって活躍したのは悲しい皮肉ですね。

しかし、両親の性格のプラス面を継承した細川忠利は非常な人格者で肥後熊本藩の
藩祖としても有名です。

「当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には1日中部屋に閉じこもって
  外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとせぬことさえあった」
父親の明智光秀とその一族が非業の死をとげ一人謀反人の娘として残された玉子が
たびたび鬱病に悩まされて、一日中部屋に閉じこもって外出しなかったのは
当然ですが、鬱病の原因はそれだけが原因ではないように思います。
師匠のそのまた師匠でありうるほどの知性と教養を持っている向学心旺盛の
玉子は、常に凄い「緊張感」の中で生きています。
気力・体力が充実している時はともかく疲れているときはかなり精神的に不安定に
なるんじゃないでしょうか?
そして精神的にまいっているときに、夫の忠興が度々話題にしている親友高山右近の
キリシタン信仰に自分の心を開放してくれる世界があることを直感したに違いありません。
本当に聡明な女性というのは男性よりもはるかに直感が鋭いように思います。

ともかく玉子も忠興もただものではありません。
並みの人間が二人の関係を理解しようたって無理なのだと思います。

玉子も忠興も常に「死」を意識して非常な緊張感の中で生きているのです。

忠興「汝は蛇なり」
    玉子「鬼の女房には蛇かなる」

「鬼」と「蛇」
という二人の関係は確かに真実なのです。
合戦で一番槍をいれて信長から感状をもらっている武人の忠興はその後も幾多の
合戦で先頭をきって白兵戦を切り戦って生き抜いています。
いくら武の達人でも運の悪い者は討ち取られてしまうことも多い合戦で、
常に勝ち続けている忠興は「鬼神」のような凄みがあります。
また、自力で生き抜いているという気概があればこそ天下人の秀吉にも家康にも
媚びないで決死の自己主張もできたのだと思います。

一人の信仰者として武人として利休七哲の茶人として常に強い「緊張感」の
中でいきている高山右近と気脈が通じるのは当然かも知れません。

右近と忠興の唯一最大の相違は、キリシタン信仰をもったか遠ざけたかだと
思います。気質も趣味も教養も本来そっくりの親友であったのだと思います。

その「鬼」をさりげなく受け入れてしまう玉子は確かに凄い。
おまえは「蛇」かと夫にいわれても、わたしが「蛇」なら
あなたは「鬼」だとやりかえす。
そして二人の目のまえには忠興が手打ちにした使用人の首が置かれている。
二人とも身近な人間の生首を見ながら全然動じない。
忠興にすれば玉子が美しい女性らしく生首にうろたえて取り乱すのを期待していた?
のに全く平然としている。一体この美くしくて気位がたかいだけの女だと思って
いた妻の一見冷酷ともとれる落ち着きぶりに夫の忠興のほうがうろたえさせられている。
おまえは蛇かって言った時点で忠興は妻ガラシャに心理戦で負けている。
そして追い討ちをかけるように
「鬼の女房には蛇がなる。」
あなたのような「鬼」には「蛇」の女房が似合っているのです。
完全に忠興の負けなのだ。

ほんと女って怖いですね。

細川ガラシャ夫人を「蛇」なんて形容すればまた誰かさんに
叱られちゃいそうですが
この玉子という人物は、ただものじゃない。
美しく殉教死して夫のみならず多くの人々を感涙させた偉人であると
同時に「蛇」のような冷酷な覚悟と「死」の「緊張感」を常に
もって生きている女性なのです。
石田様へ。小谷野様へ。
戸田聡 | URL | 2007-01-29-Mon 20:18 [EDIT]
石田様へ。
「大反論」と言われても、
全体に石田様の体験と知識と信仰観を断定的に述べておられると受け取るしかありません。反論というより自論・主張でしょう。
ゆえにそれはそれとして読ませては頂きますが、「大反論」に対する反論はできません。前にも述べたように元々私は議論は苦手ということもありますが、あくまで感想として書くしかありません。

> 別に学問も知識もなくても、純粋に「人とは何か?」「生とは何か?」「死とは何か?」ということを追求する心さえあれば自らその探究心の強さに比例する
回答がインスピレーションとして与えられるものです。
 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」
 「探せ、そうすればみいだすであろう。」
という山上の垂訓の一節のとおりです。
<

山上の垂訓は福音としての
キリストによる救いという大きな文脈の中で語られているので、
キリストによる救いを信じても語ってもいない人に、
ここだけキリストの言葉を引用されてもな・・・って気がします。

> その21歳当時の私が恐怖の中で思い知らされたことは「無知は恐怖の源泉である。」ということでした。
「死」=「無」の不条理
というのは「死」について無知だからこそ生じる恐怖感であると思います。
<

 私は死についても生についても無知です。一方で天国という未知のものを信じている者でもあります。天国について語られていることは少ない。この世なのか、あの世なのかさえよく分かりません。考えても想像の域を出ない。でも既知なら信じる必要はないのです。私はキリストの言葉・キリストによる救いとして、今生きるために、信じています。
ゆえに不信仰な私は個人的には死に対しては恐怖と願望の両方を抱いております。
でも石田様が死について、既知のように、語っておられることは石田様の信仰に他なりません。他者の信仰については否定も肯定もできないものだと思います。
本当に既知であるなら、誰にとっても、信じる必要はないのです。

>「悪魔」という存在に対する「無知」でした。
当時の私の「悪魔」対する唯一の知識は
聖書物語の中の
 エデンの園で暮していたエバをそそのかして「善悪知るの木」の実をとって食べさせた「悪魔」=「蛇」
 くらいのもので何の現実味もないおとぎ話の世界でした。
<

創世記についてはそのまま信じている人もいるようです。前述の通り、そういう信仰を否定も肯定もできません。実際どうであったかについても。
私が昔牧師に教えてもらったのは実存的解釈というもので、おとぎ話という言い方でもよいのかもしれないが、創世「神話」としての読み方でした。つまり罪を犯さざるを得ない人間、罪を犯して生きてゆく今の人間の姿を示す話という見方です。
私にとって抵抗なく受け入れられる解釈だとは思いました。だから、おとぎ話であろうと、「許し」という救いの信仰に結びつくものとして軽視することはできません。ただ私は聖書解釈と信仰とは、本質的なところでは、別のようにも思っていますけれどね。
悪魔については自らのうちにあって悪しきことへ誘惑する邪(よこしま)なるものという感が強いです。
映画の「エクソシスト」は見たことがあります。石田様は大変な体験をなさったものだと思います。私だったら鳩尾を打って気絶させるというような器用な真似は出来ないので、そのまま殺されていたか、あるいは逆に殺していたかもしれません。自分の中にこそ底知れない恐ろしいものが潜んでいるような気がします。

>「死後の世界」を体験した個人は有名、無名を問わずかなりの数のいる筈です。
もちろん、「自分が来世を見てきた。」なんてことは口が裂けても言えません。言えば周囲から狂人扱いされて社会から
隔離されるに決まっているからです。
<

クリスチャンのあいだでもMLなどで臨死体験は話題になることがあります。話としては興味深いけれど、あくまで話題に過ぎません。私にとって信仰に直結する問題ではありません。

>『死』=「魂の永遠の進化の過程の一里塚」
というのはこれら総ての霊界体験者の共通の認識だということができます。
私にとっては
『死』=「肉体という不浄の発生源からの開放」
という感じが強いのですが・・・
<

前おっしゃっていたことと、ほぼ同じですね。共感できるところもあるのです。
でもそれはキリスト者として汚れた現世を離れ、それがキリストが言われた天国なのかは別として、聖なる領域へ行くというキリスト者としての私の信仰においてです。

> 瞬間的に悟って肉体生活から抜け出し速やかに次の段階へ移行していきますが、生前特にそういう自覚なしに死期を迎えた個人は『死』の恐怖感のあまり自分のもはや機能停止した肉体にしがみついてしばらくは離れようとしません。
いわゆる「死後硬直」って状態です。
<

科学的に間違っているという批判も可能でしょうが、私は死後硬直の科学的メカニズムを忘れているので、そういう批判はできません。それに批判をしたところで何になりましょう。石田様はそれを百も承知で言っておられるのですから。個人の信仰的確信を批判することは虚しいことです。

「大霊界」という映画を見たことがあります。石田様の記事に似ているところがあるような気がしました。それにしても自殺者は酷い扱いになっていました。

数学がご専門なのですか。文系の哲学か宗教だと思っていたので驚きました。そう言えば前に「娘さんが線形??」って書いておられましたね。
レベルの低い話しになりますが、私は40代後半から時々高校数学の復習みたいなことをやってました。去年テレビで見て驚いて本を買ってオイラーの公式については少し勉強しました。最近はテレビやネットでピタゴラスやディオファントスなどを少々・・・余談ですが
無限というのは不思議ですね。演算法則が成り立たないから数ではない。感覚のようなものなのか。だけど、オイラーの公式もそうですが、無限において収束するものを考えている。0.999・・・=1などの極限値というもの。
また整数と偶数とはどちらが多いかと問われれば、どちらも無限にあるのに、整数が多い、2倍多いと答えるでしょう。レベルの低い数学においても、数ではないのに無限を数えているのです
・・・ホントに余談でしたね、失礼。お体ご自愛くださいませ。


 最後になってしまいましたが、石田様の記事の前に
小谷野様のHPの記事に「望む国へ行く」というような記事があって、同じようなことを言っていた「大霊界」を思い出しました。

> 死にたいという欲を人間本質の欲と捉えるところに、ブッタの凄さがあり様な気がします。
<

「物欲」「死にたくない」欲は分かりますが、
「死にたい」は欲なのでしょうか。
絶望→希死が人間にしか起こらない
ということは分かりますが・・・。

不思議なことや未知のことが現世にも
まだまだいっぱいあるようです。
終わりに、しょうもない拙作1つ載せておきます。


  次元に遊ぶ

上下を見ることができない虫が
白い紙の上を這(は)っている
そこに指を置くと虫にとっては突然
障害物が現れることになる
指を離すと虫にとっては突然
障害物が消えることになる
2次元の平面にとって
3次元からの動作は
神出鬼没でありうる
指を置き続けると
虫には指の向こうが見えない
3次元空間からは白い紙の続きが見える
透視のようなものだ
虫を押したり弾(はじ)いたり・・・
2次元から見れば
念力のようなものだ しかし
3次元からでも1秒後の虫の位置を
行動半径の推測はできても
正確に予知することはできない
3次元は2次元の時間を支配できない
2次元+時間は3次元空間ではない
2次元にとっても3次元にとっても
時間は時間だ だから
3次元空間+時間は4次元空間ではない
3次元空間に時間を加えた
4次元時空ではなく もし
4次元空間というものがあったら
その4次元からの動作は
3次元においては神出鬼没で
透視も念力も可能なのかもしれない
では予知能力は・・・?
時間軸を覗(のぞ)くことは・・・?
できないことは何一つない
と言えば信仰の話になる


以上、失礼いたしました。

            戸田聡 不具



小谷野です。 | URL | 2007-01-29-Mon 11:18 [EDIT]
死は、何度も何度も考えましたよ。
一度は、半年も山籠もりをしましたからね。
自分の周りには、死にたがり屋が沢山いましたし。
直接かかわった人間で自殺した人間は、あまり居ません。
それでも二人ぐらいいますか。ただ、間接的に関わった人間は、結構いますね。
よく死にましたから。僕は、死なせなかったって言う事は自慢ですね。自分で切った手首の後を見せられたりしながら、電話している最中にガチャンと切られて、真夜中に飛び出していったら、当人ケロリとしていたり。
そんな時、ブッタの話を聞いたんですね。仏教で言う欲には、三つあり、一つは、物欲ですね。もう一つは、生きたいという欲、つまり、死にたくないと言う欲。そして、もう一つは、死にたいという欲だと言うことです。
僕は、それを聞いた時、すごく救われた気がしました。
お釈迦様でも死にたいと思うことがあるのだと思って・・・。
死にたいという欲を人間本質の欲と捉えるところに、ブッタの凄さがあり様な気がします。
大反論<前編>
石田 俊義 | URL | 2007-01-27-Sat 17:15 [EDIT]
私が今から述べる死生観は一神教文化圏の死生観とも、仏教文化圏の死生観ともかなり違っています。
敢えていうなら仏教伝来以前の日本民族の死生観、仏教発生以前以後の古代インドのウパニシャッド哲学の死生観、あるいは古代の北米インデイアンの死生観、
初代のエジプト王朝の死生観に近いと思っています。
そしてよーく考えて欲しいのは2000年前の日本民族、紀元前3000年の北米インデイアンに特筆するような文化、文明があったかというと現代社会に
継承されて評価、考究の対象となる学問も文学作品も残されていない。

別に学問も知識もなくても、純粋に「人とは何か?」「生とは何か?」「死とは何か?」ということを追求する心さえあれば自らその探究心の強さに比例する
回答がインスピレーションとして与えられるものです。
 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」
 「探せ、そうすればみいだすであろう。」
という山上の垂訓の一節のとおりです。

「知は情を制する」と31年前、あるクリスチャンのお姉さんに言われたことがあります。
その21歳当時の私が恐怖の中で思い知らされたことは「無知は恐怖の源泉である。」ということでした。
「死」=「無」の不条理
というのは「死」について無知だからこそ生じる恐怖感であると思います。
わたしが思い知らされた「無知」とは
「悪魔」という存在に対する「無知」でした。
当時の私の「悪魔」対する唯一の知識は
聖書物語の中の
 エデンの園で暮していたエバをそそのかして「善悪知るの木」の実をとって食べさせた「悪魔」=「蛇」
 くらいのもので何の現実味もないおとぎ話の世界でした。
そして突如私を襲ってきたのは
 私が家庭教師をしていた中学2年生の少年に憑依した悪魔の大群でした。
 最初に私を恫喝してきた悪魔は「ペール」と名乗っていました。
 少年が隠し持っていた錆ついたナイフ(包丁くらいのサイズでした)で私を刺し殺そうと迫ってきたのです。
 「いますぐ信仰を捨てろ、捨てないなら殺してやる。」
断っておきますがその当時も現在も私は自分がクリスチャンだなんて思ったこと一度もありません。
ただ、数学を通じて「神体験」した直後の事件であったことは確かです。
どういう「神体験」だったかは説明しなくちゃいけないでしょうね。
当時の私は「解析学」について考究する過程で「無限小実数」、「無限大実数」という有限から飛び出した世界
が整然とした構造を持っていることに気づかされた瞬間がありました。その「瞬間」に神の霊と呼ぶべき何者か
の強い情動が私の中に入りこんできて激しく泣いた体験があります。
このとき自然発生した「私」と「神」=「数学神」との心の絆を、悪魔は「信仰」と感じたのです。
なお、私が気づいた世界は数学用語では「Non-Standard Analysis」=「超準解析」
と呼ばれるもので1964年にオランダの数学者ロビンソンによって理論づけされていました。
「数理論理学」を駆使したその難解な記述はプロの数学者からも敬遠されているようでこんなものを使って
「解析学」を記述する数学者は殆ど皆無に近いとまでは言いませんが、少数派。
「実数体という連続濃度を真に含む超実数体の存在」を論理の出発点とするロビンソンの理論につきあっていると
『解析学』の本質は見えてきますが『解析学』の諸定理はさっぱり見えてこない。
コーシー以来のε-δ法による論理展開のほうがよほど解りやすい。
あれはやはり「連続体仮説」=「可算濃度と連続体濃度の間の濃度は存在しない。」という哲学の延長上の世界
でこそ有用で、解析学の具体的展開の中では極めて使いづらい代物だというのが正直な感想です。
 で21歳の私を神体験にまで導いてくれた超準解析は、その後私の中で全然進化せず記憶のかなたに消え去って
行ったのに対してその後、突然襲ってきた悪魔の来襲という災禍は以降30年以上、幾十回も私を悩ませ続けた
のです。この深刻すぎる難題に対してキリスト教くらいいい加減でたよりない宗教はなかった。
なんせ悪魔についてはエデンのおとぎ話の中の蛇くらいしか認識してないのでお話にならない。
他方、私を恫喝してきた悪魔達は極めて狡猾で才知に長けていたのです。
1976年2月というのは私の人生で最大の悪夢というよりは、悪魔が現実に実体化した瞬間でした。
全共闘の友人にその話をしたら「エクソシストっていう映画にそっくりだな」と言われました。
少年に憑依した悪魔「ペール」が私を刺し殺そうとした一件は、私が一瞬間の判断で少年の鳩尾を右手の握りこぶし
で突いて少年が気を失った直後、その少年が憑依から開放されて私は死なずにすみました。
それから21年後の1997年6月
神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗も14歳の中学2年生だった。
私もあのとき14歳の少年に憑依した悪魔を追い出し損ねておれば土師淳くん(11歳)や山下彩花ちゃん(10歳)
と同じ運命になっていたに違いない。人権派の馬鹿な弁護士達が少年Aの冤罪説をぶちあげて警察官と検察官を
「特別公務員職権乱用罪」で告発したそうですが、とんでもない!!
14歳の総てに未熟ながきたれだからこそ安易に悪魔に自分の魂を売り渡して事の深刻さに気づけないだけの
ことです。ちなみに1976年2月に私をナイフで突き殺そうとした中学生も「悪魔信仰」に心酔していたらしく
「悪魔」と会話している瞬間が一番幸せだったようです。
 私にとってはこの事件が「実在界」を真剣に考えるきっかけになりました。
 
>「死後の世界は科学の対象にはならない」し
>「誰が死後の世界を知っているというのでしょう。得体の知れない世界であり、誰かが死後の世界を教えたとしても
> 体験に基づくものではありえない。」・・・・
>「死後の世界」は誰が何を説いても稚拙だと思います。」

35年前の私なら戸田さんと同じことを言っていたかも知れませんね。
しかし17歳以降、幾度か発生した私生活上の事件と体験はその都度私に大きなカルチャーショックを与えてきました。
「死後の世界は科学の対象にはならない」というのはそのとおりかも知れませんが
「死後の世界」を体験した個人は有名、無名を問わずかなりの数のいる筈です。
もちろん、「自分が来世を見てきた。」なんてことは口が裂けても言えません。言えば周囲から狂人扱いされて社会から
隔離されるに決まっているからです。
勇気を持って告白した唯一の著名人といえば18世紀の科学者スウェーエデンボルグくらいのものでしょうか。
1740年(52歳)のときに突如、霊眼の開花したこの科学者は自らの体験談を
1772年(84歳)にロンドンで客死するまでの32年間にわたって延々と記録し続けます。
その著作の一部は「霊界からの手記」というタイトルで日本語版が幾冊か出版されています。
彼が敢えて体験談を公表し続けたのは既に科学者として著名な業績を幾多残しており社会的信頼と地位を確保していた
からだと思います。無名の一般人が彼と同じことをすれば間違いなく精神病院行きですね。
明治後期、東京帝大教授であった福来友吉博士は心霊科学の研究を公にした為に学会から追放になりました。
映画「リング」のストーリーは、福来友吉博士と霊能者:御船千鶴子の実話と酷似していますね。

カントもゲーテもスウェーデンボルグの著作は読んでいます。
ゲーテの「ファースト」のモデルはスウェーデンボルグだと言われています。
昭和25年の四国の山間部でスウェーデンボルグと全く同質の体験をした老人がいます。
たまたまその老人の息子が亡き父の遺稿を見つけて丹波哲郎に送ったことで老人の体験談が
「続:霊界旅行」というタイトルで出版されたことがありました。
他にも「霊界、神界、宇宙界」の諸相での体験を極めて率直に告白している書物として英国のスピリチュアリズム協会
の書籍群があります。
私は、その中でもシルバーバーチという5千年前の北米インデイアンの霊訓に一番感銘を受けました。
浅野和三郎の夫人に憑依した足利時代の武将三浦氏の妻:小桜姫の物語は日本固有の霊域の特色がよく表現されています。

私自身はその後傾倒した神道系の霊能者から色々と神代の時代の日本の古代史や霊界のことを教わりました。

『死』=「魂の永遠の進化の過程の一里塚」
というのはこれら総ての霊界体験者の共通の認識だということができます。
私にとっては
『死』=「肉体という不浄の発生源からの開放」
という感じが強いのですが・・・

人が死期を迎えてから以降、誰もが通過する体験を教科書的に書いておきます。:

個人の霊的自覚の度合いや霊格のレベル差による差異はありますが、人生を全うに終えた通常の人であれば
その人を数十年の生涯にわたって見守り続けてきた守護霊がその人に死期が近づいていることを知らせに来るものです。
やがて臨終となり、肉体の諸機能が停止状態を迎えると霊的覚醒の進んだ人は、自分を迎えにきている霊が何者かを
瞬間的に悟って肉体生活から抜け出し速やかに次の段階へ移行していきますが、生前特にそういう自覚なしに死期を
迎えた個人は『死』の恐怖感のあまり自分のもはや機能停止した肉体にしがみついてしばらくは離れようとしません。
いわゆる「死後硬直」って状態です。
もはや地上界にとどまる意味合いは無いのですが自分の肉体の生活圏を離れがたく死後も執着心のままに地上を徘徊
する者も多いようです。でも大抵の死者は49日後には地上界への未練をたちきって自分の魂の故郷へ戻る為の
第一の関門である精霊界の待合所へ集合させられます。
イエスが強盗にあなたは私とともにパラダイスにいるであろうといったのはこの精霊界の待合所のことです。
待合所には、まだ自分が死んだことが理解できない者達が大勢おります。
そりゃそうでしょう。生前と全く同じ姿同じ肉体のままの自分がいて服装も靴も生前のままなのですから。
「どうして俺が死んだって言うんだ、このとおり手も足もしっかりあるしピンピンしているじゃないか?」
って喚いているのもいます。
しかし、悪人も善人も皆一様に不安なのです。
「一体、自分はこれからどうなるのだろうか????」って不安でたまらないのです。
それぞれの介護役の霊があなたがたはもはや死んでいることそしてこれからそれぞれの魂の故郷である霊界の
邑(村)へ帰る心の準備をせねばならないことを教え諭します。
それからの死者の旅路は人それぞれです。
ともかく全うに霊界で生活する為には地上生活の間に体にしみついた様々な執着を総て取り去って素の状態に
ならねばいけないからです。
幼子のようにならなければ天国に入ることはできない。
金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴をとおるよりも難しい。
というイエスの言葉は全くそのとおりなのです。
日本人の多くは死者の霊が
「三途の川」を通過すると思っているようですが
これは死者の霊が地上生活で身に着けた様々の金銭欲、名誉欲、権力欲を
「三途の川」で落としていかないと欲の重みで溺れてしまうことを表現しています。

2年前、私の会社の男性で家の屋根から転落して肋骨が折れて肺に突き刺さり瀕死の状態になった
方がおられました。その男性が語った臨死体験では
やはり「三途の川」の川岸に立たされて向こう岸に行けばもう二度と現世へ戻ってこれない状況で
かなり迷ったそうです。24時間の仮死状態のうち1割くらいの時間が天国の美しい花園の中、あとの
9割の時間は地獄の世界であったと言ってました。

話を精霊界の待合所に戻します。

さてここからが死者にとって人生最大のカルチャーショックの数十秒間がスタートします。
介護役の霊は、死者一人一人に彼らの数十年の生涯を反省させる為にとんでもない現象を起こします。
幾十名、幾百名の者が見ているまえで一人ずつ指名された死者は自分の生涯が
大パノラマとなって大空にその一部始終がほんの数分の間に展開されていくのです。
人生を全うに生きた善人にとっては、苦労の生涯を思い出して涙するひとときですが、
悪人にとっては自分の悪事、悪意を映像で公開されてしまうのですから恐怖で顔がひきつってしまいます。
この大パノラマを見せつけられた瞬間はどんな凶悪の人でも反省せざるえないものです。
しかし、以後それぞれの死者の霊は生前に作ってしまった執着を取り除くのに相応しい環境へ行くことに
なります。
シルバーバーチは「埋め合わせの原理」と呼んでいます。
生涯を不遇のうちに他界してきた芸術家は自分の天才を存分に発揮する環境を与えられて
無念の生涯で積もり積もっている芸術衝動を存分に発揮して優れた芸術作品を量産する自由が与えられます。
私自身は、できれば30年くらいは数学の研究一本で過ごしたいと思っています。
大学時代も悪魔に襲撃されたりその他いろいろあってあまり基礎知識を習得することもままならず、
企業に就職してからはノンバンク系のS.E.として金利計算、財務分析、手形の管理から仕訳と勘定の
追跡とかおおよそくそ面白くもない仕事で連日の残業と休日出勤。寝る時間を削って多様体の作図を意地になって
した挙句、2006年12月、に続き2007年1月も風邪熱でダウン、きっと死ぬまで数学と真正面から
取り組む機会はありそうにない。こんな欲求不満をかかえたままで霊界へ戻れる筈もない。
霊界は完全な調和の世界です。
情緒不安定で心の振幅が激しい状態では霊界の村で生活できるわけがない。
精霊界の街にはそういう無念の芸術家が生涯の不遇をぶつけるように創作した芸術作品が大量にあると
いうことですが、それは数学者、音楽家、文学者も同様だと思います。
スカルソープという英国人のスピリチュアリストは守護霊の案内でそういう精霊界の海辺の光景を
見学しています。南国の明るい日差しのさすビーチでたくさんの子供達が波乗りをして喚声をあげて
遊んでいる光景をスカルソープ氏は不思議そうに眺めています。子供達は遊び疲れると世話役の霊が準備
したジュースとお菓子めがけて突進してきて素手でつかんで口にほおばっていきます。
スカルソープ氏が多少不快な気分になったのをすかさず案内役の霊が諫めます。
「彼らは生前、自由に遊びまわったこともなくまともな食事を与えられることもなかったのです。」
埋め合わせの原理とはこういうものです。
生前の不幸な体験が魂の傷、や無念となっている死者の霊が霊界生活へ戻る為には
その傷を癒してやらねばならないのです。
丹波哲郎編:「続霊界旅行」の中の四国の老人の体験は実に具体的です。
平家の落人伝説の残る高知県の山間部 
明治16年:巡礼姿の男が、神賀山の神官に「15年後、14,5歳の子供を集めて山へ登らせるように。」
言います。
明治31年頃:神官は巡礼の言葉を思い出して14,5歳の子供達を山へ登らせると15年前の巡礼が現れて
一人の少年を指名して「50年後この少年によって平家の霊は浮かばれる。」といって祝福する。
昭和8年:64、5歳になった少年はお告げのとおり「神賀山の奥の山腹を平家の財宝を求めて発掘開始」
10年間掘り続けて何も出ず。
昭和25年11月7日午前6時前後:81歳の老人は自分が掘り進めた洞窟の中。66年前の巡礼の男が
突然現れて2日後に起きるバス転落事故の一部始終をイリュージョンで目撃させた。
昭和25年11月9日
老人の目撃どおりのバスの転落事故が発生し33名が即死。重傷27名、軽傷4名。
本当の奇跡はその後、老人は転落事故の犠牲者のその後の経過を詳細に知ることになります。
スウェーデンボルグと同様の仮死状態となった老人は幽体離脱して精霊界の待合所で不安気に過ごす
バス事故の犠牲者達に出会います。
突然死者となった霊には、それぞれに地上に残してきた家族や、既に先立たれた夫や両親への結構深刻な
思いがあるものです。
昭和25年という時代のせいでしょうか、高知のこのバス事故で亡くなった男女のそれぞれの人生のパノラマ
は、あまりに不幸と苦労の連続で読むのが辛くなります。

突然ですが、風邪熱で体力・気力を奪われているせいかもはや疲れきっています。
とりあえず大反論はここまでを<前編>として一旦うちきります。
小谷野様へ
戸田聡 | URL | 2007-01-27-Sat 17:11 [EDIT]
一般的なことを議論するこのブログに
個人的なことばかり書いている戸田聡です。

 小谷野様も哲学者だったのですね。HP少し拝見しました。いちばん読みやすそうな「神について」を通読させていただきました。キリストは登場していないようですが、聖霊様が語るという寓話的な話だから私も読む気になったようです。

 いずれ精神疾患や性格傾向などにも、どの遺伝子が関係しているといったことが分かるかもしれませんが

> 人の心の闇というのは、他人には、伺い知れないところがあります。僕は、医学や科学でそれを全て解明しようと言うのには限界があると思います。
<

 私もそう思います。体もですが、特に脳や「心」の働きを医学や科学で究めることは結局できないのではないかと思います。
 神様は人が1つの発見をし1つの謎を解くと、さらに深い謎を用意されておられるように思えます。

> 死んだ気になればと言うのに、僕自身は、肯定も、否定もしません。ただ、僕は、そう言われ続けてきたという事です。
<

ということは
 小谷野様も希死を考えたことがあるということでしょうか。詮索するつもりはありませんが・・・そういう経緯を経て

> 僕の結論は、信仰ですね。最後は、神にしか人は救えないのではないのかという事です。
その神を否定したところに、現代社会の病根があるそれが、僕なりの結論です。
<

という結論に達したということなのでしょうか。私にとって
哲学者が神を信じているというのは意外でした。しかも本気で熱心に神について説いておられる。自らの存在から神の存在を考えておられ「われ思う。ゆえに神在り」というか「われ在り。ゆえに神在り」という感じを受けました。

> 神を否定する者は、自らを神とする。その時、人は、自らの依って立つところを見失う気がします。
<

 生きる拠り所ということはキリスト者でもよく言われることです。あるキリスト者は「自我に死んで、聖霊に全てを委ねる」ことを熱く語っていました。
 自らを神とすることには矛盾を感じざるを得ません。人は世界を造れませんからね。しかし神の立場で物を言いたがっている人がたくさんいるような気がします。キリスト教では「キリストに帰れ」ということが叫ばれているようです。私は教会に行っていないので詳しいことは知りませんが、それはキリストの教えに帰り教えを守れという保守的な動きのようです。そこには戒律主義の危険があるような気がしています。私はむしろ「キリスト(神)の下にある人間に帰れ。神のように全知でも全能でもなく罪を犯さずには生きてゆけない人間、という立場をわきまえる人間に帰れ」と言いたいところです。
 一方で神を信じなくても普通の(あるいは特殊の?)道徳と良心を持って、特に悪いことをせず、一生を終わる人もいます。そういう人たちは、よほど人間的に強いのか人間性に恵まれているのか。あるいはやはり何らかの拠り所となるような、信仰とは呼ばないけれど、信仰のようなものを持っているのか。よく分からないところです。異教徒や無神論の話と重なりますが、そういう人を、尊敬できる人はいるかもしれないが、少なくとも軽蔑することはできません。
 私の場合は信仰を忘れ祈りをしなくなったら、われを失い、狂気へ向かうような恐怖を感じます。神様による束縛を離れることは私にとって決して自由ではありません。信仰によって辛うじて正気を保っている感が強いです。神様という祈る相手がいるということが私の救いになっていると言わざるを得ません。
 参考にはならないと思いますが近作1つ載せておきます。


  私の終末

世の巷(ちまた)は
聞こうともしないか
聞くには聞くが知ろうとしないか
知るには知るが
わきまえようとしない者たち
ばかりではないか
聞き耳を潰さず
万軍の主を恐れ
いつくしみ深き主を喜べ
神の前にひれ伏し
主の御名によって祈れ
沈黙の神におののき
流血の主に嘆き悲しみ
罪の深さを知れ
そして血を惜しまれることのない
主にあって楽しめ
ひそかに終わりは近づいてくる
その日までを取り分として受け取り
主の血と肉に与(あずか)れ
悦び楽しめ
そして聞き耳を立てて
しずかに目を覚ましていなさい

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

あくまで「私の」終末ですので・・・
この世の扉の向こうへ行く心の準備みたいなことを
私も考えてみたということです。

              戸田聡 不具


小谷野です。 | URL | 2007-01-25-Thu 13:00 [EDIT]
人の心の闇というのは、他人には、伺い知れないところがあります。僕は、医学や科学でそれを全て解明しようと言うのには限界があると思います。
誤解しないでくださいね。
死んだ気になればと言うのに、僕自身は、肯定も、否定もしません。ただ、僕は、そう言われ続けてきたという事です。
でも僕の結論は、信仰ですね。最後は、神にしか人は救えないのではないのかという事です。
その神を否定したところに、現代社会の病根があるそれが、僕なりの結論です。
僕のホームページにのせてありますが、神を否定する者は、自らを神とする。その時、人は、自らの依って立つところを見失う気がします。ただひたすらに神を信じ、神に祈る。僕にはそれしかない気がしますね。
意識・無意識・また病気
戸田聡 | URL | 2007-01-23-Tue 19:01 [EDIT]
うさねこ様へ。

>どちらかが真実である、というような平穏な状態が「こころ」であり「意識」だ、と私(たち?)は考えがちです。どちらもが本当の姿だと真に感じるとき、私達は「こころ」や「意識」の本当の底知れなさに出会います
<

 「こころ」「意識」の底知れなさを考えるとき、やはり底知れないところにあるにある「無意識」というものも考えてしまいますが・・・。精神分析の「無意識」というより、私は精神分析の知識はないのでそれは置いといて、言い方を変えると「気付いていない自分」というものがあるのではないでしょうか。「気付いていない自分」の底知れなさというもの。
 畑違いの(というか畑を持たない)私に哲学用語で「意識」と書かれると一般的な意味における「気付いていること」と考えてしまうので、むしろ「こころ」「自己」の同一性・統合性という書き方のほうが分かりやすいです。でも、できるだけ咀嚼するように努めてはみます。
 穏やかな自分であるとき、殺人鬼である自分を意識できるだろうかと考えます。逆もそうです。できるとも思います。殺意を抱いている自分を穏やかな自分と同時に感じることはあると思います。
 でも、できない場合もあるのではないだろうかとも思います。殺人鬼としての自分を意識できないから、かえって突然殺人を犯してしまう。殺人鬼であるとき、穏やかな自分が意識されない場合には葛藤も意識上に上ってきていない状態。どちらにしても分裂していながら「気付いていない自分」があるとしたら、相当怖いことです。「意識」が「気づき」、「無意識」が「気づかない」状態としての話しになってしまいましたが・・・。「気付かない」というのは「意識」なのだろうか「無意識」なのだろうか。また「気付く」ということが可能なのか、あるいは不可能な部分もあるのかどうか。不可能な部分によって行動することがあるのかどうかということも考えてしまいます。
 また病気の話しになってしまいますが例えば躁病の人が薬物治療によって落ち着いた状態になったとき、いったいどちらが本当の彼なのかと思ったことがあります。ある哲学系の人は「どちらもですよ」と笑っていました。となると薬物治療は治したのではなく、社会適応の方向に、変容させたということになります。
 また私は精神病は、単に神経生理や代謝の異常ではなく、解剖学的な脳内ネットワークの偏り~個性を素因として起こる機能的変容状態ではないか。神経伝達物質関係の薬が効くのは、元々そういう神経伝達物質を持つ神経線維の多少によるのではないかと、私の妄想に過ぎませんが、思ったりもします。論理に妄想を持って来てすみません。それはさておいても病理と言われるものが表す人格も本人自身であるわけですから治療というのは微妙なものになってきます。本人が生きやすいように、機械を直すのとは違って、不利な本人を隠し、有利な本人を目立つように変容させる行為ということになります。
 裁判のときに責任能力や心神喪失や心神耗弱が問題になりますが、病的なものを含まない犯罪があるのだろうかとも考えます。一方で犯人以外のものが罪を犯させたかのような心神喪失状態というのも、どちらも本人だと考えると、疑問に思えてきます。考慮されるべきは3択ではなくもっとアナログ的なもので犯した罪において本人に、どれくらい自己による予防的制御が不可能な本人があったかということになるのではないかとも思えてきます。
 ここから外れたら真実の自分ではない「らしくない」と1本の線引きをされるのは堪ったものではないですね。実際には自分で線引きしているところもありますが・・・(苦笑)。

>私達が典型的に陥りがちな、自己や時間を同一的・統一的と考える落とし穴が政治や文芸について語るときにも(ときにこそ)大きく広がっていて、私達の思考や感受性を閉ざしている
<

 大方共感できるような気がするのですが・・・その上に書いた私の文章が
うさねこ様に対する反対意見なのか賛成意見なのか関係ないのか自分でもよく意識できず気づけないまま書いておりますので、その点ご容赦くださいませ。

それから念のためですが
小谷野様へ
(今までの書き込みから、もう大体お気づきとは思いますが・・・。私は昔、精神科の医者でした。今は抗うつ薬等々で服薬治療・療養中の患者です。)
 先日「死ぬ気になれば何でも・・・」に対して
私が「自殺の引き金になる・・・」云々書きましたが、だから遠慮して書いてくださいという意味ではありませんので悪しからず。あくまで私が一般的と思うことを書いただけです。
 ご不快であればお詫びしますが、この哲学のブログに書き込みをするような人に書くことを遠慮したり、過剰に気を使う人はいないと思っているので私も遠慮なしに書いております。
今回の終わりに私がよく自己紹介のついでにアップする1作を載せておきます。


  あの頃僕は

あの頃僕は滅茶苦茶頭がよくて
だから今は頭がメチャクチャだ
あの頃僕は無茶苦茶努力家で
だから今はムチャクチャ浪費家だ
今更借りを返すことになろうとは
あの頃僕は我利我利に覚えることに貪欲で
だから今はガリガリに記憶が痩(や)せる

         戸田聡 不具

戸田さまへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-22-Mon 14:29 [EDIT]
  おっしゃるように、私が考える「同一性」の問題は、性同一性障害のような、あきらかに生理的次元でも同一でない、というようなことを考えているわけではありません。
  私は無意識というものをあまり信じないで、やはり意識というものが人間にとっては最重要で、しかし意識は「決断」とか優柔不断」とかということよりも、もっと広範な現実的葛藤を意味するものだと思いますが、性同一性障害のような生理学事例は、意識の問題が介在する余地はありませんから、私の哲学的関心からはとりあえずはずれることになりますね。「こころ」と言い換えても差し支えありませんが、私が同一性のことで心理学に疑問を言いたいのは、「違う意識」になったり「分裂した意識」になったとき、それが自分自身への「嘘」という価値判断に従い、嘘をつき続ける自分を異常とみなすことについて、ですね。
   たとえば穏健な人が殺人鬼に変貌したりするときに、私たちはよく「信じられない」といって不思議がりながら、実は、本当の意識の不思議さに目を閉ざしてしまっている、ということですね。なぜかというと、殺人鬼の時の意識か、あるいは殺人鬼でないときの意識か、そのどちらかが「真実」だ、という論法に陥ってしまうからですね。「自分に嘘をついている」というのは、私に言わせれば、実にノーテンキな精神状態です。つまり、どちらかが真実である、というような平穏な状態が「こころ」であり「意識」だ、と私は考えがちです。どちらもが本当の姿だと真に感じるとき、私達は「こころ」や「意識」の本当の底知れなさに出会います。「多重人格」という言葉は、多重人格を操る、超意識的意識みたいなものの存在を、暗に否定しています。ところが、否定しながら、多重人格者は「多重人格」において統合されているのだ、という奇妙なロジックが言われる。多重人格者は、多重人格間にあって、真実と嘘の「安易な関係」で結びついていると私達は考えてしまう、というふうにいえると思うからです。
  西尾幹二さんのエッセイに、こういう話があります。イタリアの作家ピランデルロが、ファシズム政権とかかわりをもったことについて、西尾さんの仲間の外国文学者仲間が、「あれはピランデルロの保身術だ」とか「いや本気に一時期転向したんだろうよ」とか、様々に、実証的な議論をする。しかし、西尾さんはそれに段々嫌気がさしてきてしまいます。つまり、「保身術」といい「転向」といい、人間が「変わる」と私達が思う背景には、実は安易な人格統一を私達が信じており、外国文学仲間のピランデルロについての語りも、そういうものだった、ということなのですね。
  実はピランデルロの妻は、完全な精神異常者であり、しかし彼は彼女と別れることなく付き合い続けた、という背景があります。ピランデルロは生涯、人間にとって、「虚と実」「仮面と本当」とは何か、つまり狂気の妻と狂気になる妻は同一のものとして愛さなければならないのか、あるいは狂気の妻と接している自分はいったい何なのか、そういうことに生涯身悶えして苦しんだ人間なのですね。自分に対して嘘をついているかもしれないこの自分が偽者とはいえない、それがピランデルロのファシスト政権とのかかわりで本当に考えられなければならない問題だといえましょう。ピランデルロの「変化」について安易に語るといううちに、ピランデルロをよく知る専門家でさえも、私達が典型的に陥りがちな、自己や時間を同一的・統一的と考える落とし穴が政治や文芸について語るときにも(ときにこそ)大きく広がっていて、私達の思考や感受性を閉ざしている、ということではないかと私は思います。
かんたろう様へ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-22-Mon 12:59 [EDIT]
  コメントありがとうございます。今年もいろいろと議論のやり取りができることを心から楽しみにしています。
 キリーロフの自殺論は全くその通りだと思いますね。意味の回復としての自殺が成立するロジックというのは、恐ろしいけれど、成立する余地があると私は思います。ニヒリズムや無そのものは、確かに実におそろしい。しかし本当にそれらが絶対恐怖ならば、私達は一刻でも長く生きるということしか選択肢はないはずです。しかしニヒリズムや無が破壊した意味を取り戻すために、本来、言葉によるニヒリズムなんかよりずっと巨大にニヒリスティックな「自殺」によって、死という無を完全に証明するという、裏返しの意味の回復が、実は自殺者内部のロジックに存在している余地があるのではないか、ということですね。
  あるいは激しく生きようとしながら自殺を考える、という一部の人間が居ます。ゴッホが典型的だと思うのですが、激しく神を愛し、激しく女を愛し、激しく絵を愛し、激しく自分を愛し、しかしそれがゆえに、彼は自殺へのエネルギーにもあふれかえっていた、と私には思えます。「激しく生きようとする」という言葉は世間で言うは安しですが、その針の触れは、「激しい絶望」へと触れる、ということもいえると思います。このサイトでよく意見を記してくださる小谷野さんの「死んだ気になれば」という言葉は、かんたろうさんのコメントでは、「触れをすくなくする」ということだと思います。「激しく生きようとする」のではなく「したたかに生きようとする」、ということですね。「したたか」は「強か」です。激しすぎる恋愛のエネルギーがある日憎悪のエネルギーに瞬間的に変貌してしまうように、私は激しい人生のエネルギーは、自己破壊に容易に転化するのではないだろうか、と思います。
同一性について
戸田聡 | URL | 2007-01-21-Sun 17:41 [EDIT]
同一性について

> 私は心理学という学問が非常に嫌いなのですが、同一性障害とか自我障害という言葉を聞くとますます嫌いになります(笑)なぜなら、同一性や自我の連続性や統一性を疑うことこそが、哲学のスタートラインだからです。
<

 うさねこ様が嫌いだからといって私がそれに同調する必要はないので前回それなりに書いてみようと思ったのですが全然まとまりませんでした(失礼・笑)。それで改めて書いてみますが、またまとまらないかもしれません(また失礼・笑)。

 先ず同一性という言葉はブログの流れの中で、私は哲学者ではないので、殆ど直感的に連想したに過ぎません。特に同一性なるものの存在を私が信頼しているという意味ではありません。

 アイデンティティという言い方もありますが、これはしばしば自意識や職業意識という意味で使われていると思います。例えば「医者としてのアイデンティティ」などとという使われ方です。「哲学者としてのアイデンティティ」と言うかどうかは知りませが・・・(笑)。この使い方の場合、同一性とは言わないことが多いと思います。と考えてみると
 うさねこ様が嫌いなのは、やはり同一性=連続性という意味においてではないかなと思います。「過去と現在と未来がつながっていない」と前に書いておられたことと、ほぼ同じ意味ではないかなと思いました。

 では例えば「性の同一性障害」という病名があり、連続した性の自意識があって、その自意識が生物学的な性と一致していないために苦しむ障害だと聞いております。治療の対象になっているようですが、これについても同一性障害というものはないと言い切れるかどうかを考えてしまいます。私には共感しがたい障害ではありますし、また言葉の問題でもありますが、この障害における連続性・同一性というものについてどのように疑うのでしょうか。

 一方で人格障害に近似して単に「同一性障害」と言う診断名が使われることがあります。この同一性障害については私もよく分からないのです。いい加減な病名のような気がしています。あるドクターは「同一性障害もひどくなれば統合失調症」と言っていました。

 それで統合失調症について考えてみると昔は「分裂」という言葉が病名に使われていました。名前を変えたところで病気自体が変わるわけではないので、この病名変更は病気の名前から一般に印象の良くない差別的な意味の「分裂」を人為的に社会的な理由で取り去る目的だったと思っています。
 自我障害は主に統合失調症で言われる症状で「実感が湧かない」とか離人体験や疎隔感を伴う症状のことを言うようです。医学用語なので、それをそのまま哲学に当てはめて考えることには少々無理があるような気がします。しかしそこには統合された人格というものの連続した存在が前提としてあるようです。
 うさねこ様は、そこに疑いを持っておられるのではないかと考えております。人格というものが統合され連続しているものではないという主張を感じます。統合は本質的に失調しているのだということ・・・(?)。もしそうだとしたら私は賛成です。私もまた統合失調症なのだいう結論になったとしても・・・情緒的に私は共感できるもので。

> 分裂を認識できる自分というものがあるのもまた間違いなく、そうすると分裂は更に不思議さをもって私達に襲いかかってきます。ゆえに私達は考えることをやめるべきでない
<
> 本当に絶望・分裂していたのだとしたら、更なる不安や懐疑で、自殺さえできないのではないか
<

 哲学とは離れた話題になるかもしれませんが・・・統合失調症の患者さんの中には、私の勘違いならよいのですが、分裂を認識できない人もいる。これは病識の有無とか、感情鈍麻とか言われるものです。そういう人は自殺をする傾向が少ないような気がします。
 かえって病識を持てるほどに回復した患者さんのほうが、鬱になったり、自殺しやすい傾向があるように思います。彼らは「分裂」した自分を認識しながら、それゆえに「自我統一」の呪縛のために、別の意味で考えることをやめて絶望に陥ってしまうのかもしれません。
 それで統合失調症の残遺症状というのは、ある意味、「分裂」を直視させないための、生体の破壊に対する、防衛反応なのかもしれないと考えることがあります。これはもちろん私が感じたことであって、一部であって、病識を持てる人が順調に回復するということもあるわけですが。

このブログに投稿を重ねるようになって
思い出した1作載せておきます。
聖書の記事をもじったようなもので、
聖書解釈とは離れた私の主観に過ぎませんが・・・
わからなければ、また聞きに来ます、また書きます
ということです。


  旧約・イザヤ・二十一~二十二

罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて車だけが残る者よ
家の鍵を失(うしな)う者よ
開(あ)けて閉じることなく
閉じて開(ひら)くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈(かが)んで聞くに堪(た)えず
見るに堪えない
憧れた黄昏(たそがれ)は
もはや戦(おのの)きとなった
頭を禿(かぶろ)にし
荒布(あらぬの)を纏(まと)うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時(なんどき)ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい

            戸田聡 不具

考えてみます
戸田聡 | URL | 2007-01-20-Sat 16:36 [EDIT]
まず袋小路をモチーフに書いた1作投稿しておきます。


  自殺の小路

死ぬのは一瞬で済む
生きることは持続だ
死ぬためには
一瞬のエネルギーがあればよい
生きるためには
持続するエネルギーが必要だ
死ぬほうが楽にも見えてくる
しかしそれは妄想か思い込み
あるいは一種の狂信である
死ぬことが一瞬のエネルギーで済む
と考えるのは現世の思考に過ぎない
今見えている現世の思考を
底知れない現世の外に適用する
という安易さへ追い詰めるのは
絶望と恐怖が駆り立てる視野狭窄だ
自殺念慮が切迫しないうちに
「死」と「自殺」について
よくよく眺めてみるべきだ
足元が底なしに抜けてゆく
見る物がなくなるのではなく
見ている自分が永遠に
見ている主体である自分が
永遠にいなくなるという闇に
色も味もつけようがない
主体が無くなるという
決して見ることのできない
永遠の底なしの闇を見よ
切迫した衝動が思考を奪い
袋小路に嵌る前に


次に情緒的ですが記憶について1作。矛盾を内包しながら・・・


  時は過ぎ去る

ときは すぎさる
きおく は すぎさらない
きおくは わすれられるより
わすれられたかどうかを
わすれられて

たのしいときは すぎさる
たのしい きおくは すぎさらない
たのしい きおくは
かなしいときほど
たのしかったと
なげきのうちに おもいだされて

かなしいときは すぎさる
かなしい きおくは すぎさらない
かなしい きおくは
たのしいときほど
かなしかったと
よろこびのうちに おもいだされず

かなしいきおくはすぎさらない
ひきずられたり うしろがみをひいたり
なんども なんども
うつむくような おもさと
あじをもって よみがえる

さいわい ときは すぎさる
かなしみや くるしみを
たまもの の ように のこして
もし じかんの じく を
くうかんのように みることができたら
だれも 生きる き
になどなれないだろう


 記憶があるばかりに過去を考えてしまう。それだけでなく記憶は不確かなものなのに、記憶も記録も100%できるものではないのに、過去だけでなく未来さえも記憶の延長上に決め付けてしまう。時が過ぎ去るのも時が積み重なるのも記憶という頼りないものがあるから・・・しかし記憶がなければ生きることも死ぬこともしなくなるだろう。一方で人には必ず連続を断ち切られる時すなわち死が訪れる。

 うさねこ様の「同一性」の記事は、いつもながら意表をつくような逆説で、興味深く読ませていただきました。貫かれているものは「考え続けること」でしょうか。

 哲学者でない私でも同一性=連続性には疑う気持ちを持っていて「今しかない」「人は過去と未来を想像している」と書きました。
 アンビバレンスというのか多くのこと、特に人間について、好き・嫌いが同居しています。また「死にたい」「死にたくない」が、さらに「死ぬべきではないか」「生きるべきだ」と混在して同居しています。
 他にも理想と現実とかを「分裂」から連想しました。「かくあるべき」と「あるがまま」なども・・・的外れかもしれませんが、いろいろなことを連想します。

まとまりのない文章になってしまいました。伝えたい思いはあるのだが・・・また考えてみます。

              戸田聡 不具

あけましておめでとうございます
かんたろ | URL | 2007-01-18-Thu 00:18 [EDIT]
意味を取り返すアクションとしての「自殺」と、意味そのものの破壊としての「自殺」・・・ というような感じがしたのですが、実際の自殺という行為においては、意味の破壊と意味の取り返しというそれらが激しく交錯しているのかもしれないですね。あるいは、意味の喪失へと傾いてしまった針を急激に意味の回復へ向けて逆転させることが自殺において目指されている、ともいえる場合があるかもしれません。

キリーロフ的な論理も、「死=無(意味)」を証明することによって「この世」の意味を回復(救済)するものと捉えれば、それは意味を取り返すアクションであるということができるようにも思います。「あの世」と「この世」が逆転していても、それはあまり重要ではないのでしょう。(わたしは『悪霊』を読んでないのでよくわかりませんが)

無(意味)と有(意味)の間で揺れ動く心の針のようなものがあるとして、それが激しく大きく振れれば振れるほど、そこから生じるリアクションも強烈なものになりうる、というようにわたし自身は考えています。簡単に言うと、極端に右に振れた針は、それだけ極端に左に戻ろうとする、というようなイメージです。逆に、揺れの幅が狭いものであれば、たとえそれがかなりの高速で(あるいは凄まじい速さで)振れているとしても、心にかかる負荷は比較的小さいと言えるかもしれません。(ついでに言うと、まったく揺れずに+-ゼロで静止している針は、有(意味)も無(意味)も示さないものでしかないでしょう。)

わたしは(あるいはわたしだけでなく他の人も)そうした針の振動に翻弄されつつどうかこうか生存しつづけているわけですが、どこでその針が大きく左や右に振れないとも限らないし、あるいはまったく動かなくなることだってあるかもしれません。わたしは自分の自殺し発狂しないということを確信をもって宣言はできないのです。そういう意味でははなはだ心細いものだと言わなければなりませんが、まあそういうものかもしれないといいかげんに打ち過ごしている状態です。

年末年始からなかなか落ち着けず、すぐに目を通すことができなくてすみませんでした。といっても、ふと見るとコメントはすごい分量なので、まだ本文しか読めていません。あと、おそくなりましたが、あけましておめでとうございます。どうぞ、今年もよろしくおねがいいたします。

N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-17-Wed 17:01 [EDIT]
舎さん、お久しぶりです。そして戸田さん、小谷野さん、いつもありがとうございます。
  私は心理学という学問が非常に嫌いなのですが、同一性障害とか自我障害という言葉を聞くとますます嫌いになります(笑)なぜなら、同一性や自我の連続性や統一性を疑うことこそが、哲学のスタートラインだからです。心理学が前提とする「健全人」しかいないとなると、哲学はおろか、いろんな人文科学の実践者が消滅してしまいますね(笑)ただ「時間」も「自分」も単一なものでない、幾重にも分裂しているものだ、と考えても、その先を考えなければならないということも確かです。というのは、そうした分裂を認識できる自分というものがあるのもまた間違いなく、そうすると分裂は更に不思議さをもって私達に襲いかかってきます。ゆえに私達は考えることをやめるべきでない、というロジックが成立します。考えているという私の意識だけは確かに存在している。私は自殺否定論にもし唯一の論拠があるとしたら、そういうことになるのではないかと思います。しかし心理学的世界観に毒されている私達は、「分裂」していたらそれだけで絶望してしまう、そういうふうになりがちですね。
  「死んだ気になれば」という小谷野さんのご意見にしても、「死のうと思う」いながら「死んだ気になれる」自分たちの意識の不思議さとはいったいなんだろう、と考え続けることによって、より「死んだ気になれる」と思います。私は分裂している、と言う人が、実は安易な「自我統一」のもとに生きている場合が多いのと同様、自殺には安易な「自我統一」があるのではないか、と私は思います。「分裂」したと「わかった」から自殺する、という背理があるかもしれないと私は思います。
  失恋で自殺を考える、ということはたいへんなことだと思います。ただ私は厳密にそれは何か、と考えたとき、絶望を理解できたのだ、という逆説的に健全な状態が存在したのではないか、と思います。本当に絶望・分裂していたのだとしたら、更なる不安や懐疑で、自殺さえできないのではないか、と思います。絶望・分裂さえ理解できないんだ、と思うとき、私達は本当の意味で「死んだ気」になれるのではないでしょうか。
  舎さんが言う「無」になる気持ちというのも同じことで、私達は「無」になる気持ちとは何か、「無」とは何か、ということを考え続けるということによってのみ、「無」があるのだ、という逆説が存在するのですね。「無」と「自殺」の間に因果関係がある、と考えることは、きわめて安易な思考だと私には思えます。

舎 亜歴 | URL | 2007-01-17-Wed 00:15 [EDIT]
自殺の心理はやはりわかりにくいです。他殺の気持ちは持ったことがありますが、自分には証拠を隠せる能力もないのでやっていません。

私には無になる気持ちは、なかなか持てなそうです。
道理・心理・病理
戸田聡 | URL | 2007-01-16-Tue 23:29 [EDIT]
私が投稿したら
小谷野様の投稿がありました。またまた
自殺の原因の話になってしまいますが・・・

> 受験勉強に失敗して自殺するとか、失恋で自殺するとか、事業に失敗して自殺するとか。イジメを苦にして自殺するとか。なぜ、状況を変えられないのだろうかと。冷静になって考えれば、違う生き方ができたはずなのに。なぜか、逃れられない袋小路に自分から入り込んでしまっているように見えます。
<

 私は最初が失恋で自殺を考えたくらいの情けない男です。そのときは信仰と、まだ若かったので、先送りして、試しに生きてみようと思って何とか思いとどまりました。でも相当厳しかったです。学生でした。教科書の1行を読んで、次の1行を読む。前の1行を忘れているんです。鬱状態における仮性痴呆というのがあります。鬱は精神活動にブレーキが掛かっている状態ですから、あらゆる精神の能力が低下するみたいです。そういう状態で冷静になるには、刷り込みでも何でも、強い拠りどころがなければ難しいのでしょう。幸い死ぬ怖さが私には、ある程度、そのとき保たれていました。
 自殺する人というのは精神活動能力の低下や思考の制止状態においても自殺衝動だけは恐ろしく強い。何故だろう。能力の低下を自覚するゆえに、そのことがさらに生き続けることの恐怖になるのかもしれません。
 プラットホームに立って前へ進めば「死」後ろへ戻れば「生」、しかも理性ではなく、大方情動的・感情的・病理的なものしか持っていない。何の目的でそこに立ったかを思うとき、「死の不条理」を考える理性的な余裕はなく、「生の不条理」を痛いほど知りすぎて来たからではないかとも思います。一種の視野狭窄があり、おっしゃるとおり袋小路だと思います。
 子供の場合は、生きた経験が少ない分、死の恐怖は大人より少ないということがあるのかもしれない。では何故大人が?という問題になります。生きてきた経験が長いから、なおさら「生の不条理」が積み重なっているのかもしれません。「不条理な死の世界」に飛び込む勇気を持っているのではなく、今住んでいる世界から逃れたいだけというくらいに情動・衝動が問題を単純化してしまって無思考になってしまうのかなとも思います。
 子供の自殺の原因としてイジメを苦にというのはニュースなどで問題になっていますが、子供だけではない。大人になれば大人の感覚で子供よりいっそう強い陰湿な虐めの世界があるでしょう。
 雑誌で読んだプログラマーの悲話ですが、大きなプログラムは分担して作るらしい。思うように捗らない人は逃げ道として一番遅れている人のせいにして保身をはかる。寄って集って皆から責任を押し付けられて、一番遅れている人は「楽になりたい」と思うようになる。もちろん楽になれる保証はどこにもないのに、追い詰められて袋小路に嵌ってしまう。追い詰められることが、感情にグサグサッと突き刺さり続けて理性の働きを妨げ、視野を狭くしてしまうのかもしれません。そこで何らかの弁明や反論をするとか、転職や休職等々を冷静に考えられればよいし、実際そうして思いとどまる人もいるでしょう。そうできない人がいるのは残念としか言いようがないですが。他にも人に苛められ役所に苛められ社会に苛められ、などなど子供以上に追い詰められる機会が多いのが大人の世界です。

> 死ぬ気になれば何でもできるではないかと。
<

 それが道理なのですし、それを考えて思いとどまる人もあると思います。しかしながら自殺を考えるとき道理だけでなく心理だけでもなく、病理というものも考えなくてはならないと思います。鬱病の極期において動かず話しもできない混迷状態において突然窓から飛び降り、それを止めようとした看護師がいたにもかかわらずお構いなしに二人とも落ちて死んでしまったという話を聞いたことがあります。殆ど生物学的原因で自殺したかのようです。これは極端な場合ですが、心因性うつ状態とか衝動的とかいった自殺においても病理のプロセスの関与は考えておく必要があるでしょう。
 死への衝動が、家族や愛する人々がいるにもかかわらず、本人を殺す病理に、「死ぬ気になれば何でもできる」という道理は通用しないことがあると思います。死ぬ気になって(死のうと考えて)死ぬのではなく内なる何ものかが本人を殺す場合には、死ぬ気にさせられて駆り立てられるように死へ向かうこともある。駆り立てるもの・追い詰めるものは外からも内からもありうることです。よく心因をストレスなど外因と混同することがあります。心因にはストレスとなる外因だけでなく、ストレス耐性や性格などの内因も含まれています。
 何を言いたかったかというと・・・切迫した自殺念慮を持っている人に「死ぬ気になれば何でもできるじゃないか」という説得は、それでも何もできない(と思っている)本人が却って追い詰められることになって、ときに自殺を誘発しかねない禁句になりうるということでした。それでその普通理解可能な道理について、ちょっと気になったのです。
 ではどうしたらよいのか、よく分かりません。激しい鬱に対しては薬物療法や、特に混迷状態に対しては電気ショック療法を含めた医療に任せるしかないのでしょう。話しができるときには話すことを促し聞くことと必ず治るという保証(厳密な意味でなくても、実際、鬱状態がいつまでも改善しないということはないので)と、休養・医療を含めた具体的な対策を話しの流れの中で示すことくらいでしょうか。あと、専門家に任せたほうがよいかもしれませんが、前の保証に基づいて、死なない約束を交わすこともあるようです。

> 今生きているこの空間とその境の向こうの世界とは、実は紙一重ではないのかと。
<

 同感です。いつだけでなく何処で死ぬかも分からないですからね。例えば私は今PCに向かって書いているけれど、次の瞬間立ち上がり転んでテーブルの角に頭をぶつけて死ぬかもしれない。人を死に至らしめる道具は日常の中に数え切れないくらいあります。「異質の空間」は自殺の名所と言われる所だけではなく、普段意識しないだけで、何処にでもある。あらゆるところが、いつ「異質の空間」になるか分からないものだと思います。最近よく階段を上るとき後ろに倒れたら・・・なんてことを考えます。

 主に自殺の原因について、この哲学ブログの趣旨に反するのかもしれませんが、「追い詰められる」をキーワードにして考えてみました。「知」よりも、はるかに「情」に応える状況として。その先に理性や知性の働かない袋小路が待っているのではないかと。
 だからこそ酷い自殺念慮の袋小路に嵌る前に「死」「自殺」について論理的でも情緒的でも考えておかなければならないのでしょうね。
 最後に拙作1つ添えておきます。


  風を追う

来し方を振り返れば
風を追うようなものだ
行く末を眺めれば
風を追うようなものだ
今日一日を大切に・・・といっても
今日一日がいちばん近くて
今日一日がいちばん身に沁みて
今日一日がいちばん辛(つら)くて
危なくはないのか
(だからこそ・・・GOTO5行目)
という狭いループを抜け出して
少しく広い息
いずれ滅びることは分かっている
塵(ちり)に帰ることも知っている
犯した過ちは訂正できないのに
逝った人は戻って来ないのに
いつどこでどうなるかなんて
まるで分からないのに
独り姥捨山(うばすてやま)に坐って
どうして此処(ここ)に居るのかと
首を傾(かし)げるように
何ゆえか悔い
何ごとか案じて
風に追討ちを食らっている
気息奄々(きそくえんえん)
誰の吐息か
誰の呼気か
今吸い込んでいるのは
どこから恵まれた風か


以上。数々の罪と不具を悔いて。失礼いたしました。

               戸田聡 不具

自殺と未来そして過去
戸田聡 | URL | 2007-01-16-Tue 19:09 [EDIT]
貴重なご意見ありがとうございます。
 幾つかのご意見から「自我同一性(セルフ・アイデンティティ)」という言葉を連想しました。「連続性」と言ってもいいかもしれない。ライフ・サイクルのない私にとっては崩れっぱなしです(笑)が、心の病において「自我障害」「同一性障害」という言い方もするようです。これが直接的に自殺や希死に結びつくかどうか
は分かりませんが、「未来」も「過去」も虚構かつ不確かで繋がっていないという考え方から思い出した3作投稿してみます。
 「あるべき未来」というものがあって、あるいは決めていて、その最低ラインさえも満たされそうにないとき希死は起こってくるのではないかと思います。最低ラインを引き下げる試みをしないから、さらに切迫してくるのではないかと。その最低ラインさえも実は相当理想化されている。
 動物は食べることが出来れば、それで満足します。人間はそれ以上のことを求めてしまいます。だからこそ人間なのかもしれませんが、だからこそ未来という分からないものに理想あるいは当然の事実!?を貼ってしまうのだと思います。未来は未来であって事実など、来て見なければその一部さえ、分からないにもかかわらず。
 どうも私は自殺の原因やプロセスのほうに関心が行ってしまいます。何だかまるで私のHPから移植しているみたいだなと感じつつ・・・(汗)


  創造


今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している

ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する

存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる


これは神様が登場しているので一言:
 誰が嘘つきと言っているわけでもなく・・・神は過去も現在も未来も、あらゆる時空を創造されるのかもしれません。しかし人間は不確かな記憶と記録によって過去も未来も想像しているに過ぎない。人はそういう立場にしか立てないと思うのです。


  希死と質量

体重はあるが
質量がない
と自己評価を
重力以上に下げて
死にたいと思ってしまうとき
その陰で軽々しくも罪を
誰かの何かのせいにしてはいないか
自ら死にたいと望んだとしても
死ぬことを好む者はいない
死を思う分だけ切実な
生きる願望
死を思う分だけ薄弱な
生きる欲望
当たり前だったはずだから
意識されなかった生きるための条件
しばしば希死において考慮されないのは
自己評価は下げるのに
生きているという事実に基づいて
生きる条件を下げる試みである
差し迫って今
誰かが何かが殺しに来る予定はなく
仮にあったとすれば
希死にかかわりなく死ぬのであるから
今息をしている
というところまで
条件を下げることが出来たら・・・
とは言っても辛いとは思うのだ
体重はあるが質量がない
これが下げるものは重くも軽くもない
量(はか)れない質(たち)なのである


  主観

今が一番幸福なのかもしれない
と考えることがある
過去そして人生は大方
現在によって評価される
今が不幸なら
過去のいかなる幸運も
転落のための落差に過ぎない
今が幸福なら
過去のいかなる不運も
懐かしい思い出になる
未来だけでなく
過去も変わるのだ

未来はもちろん変わりうるものだが
どこへ向かおうとしても
門があり玄関があり
守衛か受付が居て
冷淡に丁重に
断られ拒まれそうな現在に在って
ただ自分にとって大切な
一片の希望を捨てない限り
未来も現在も
それゆえ過去も変わる

底の薄い小舟
揺れる細い吊り橋
踏めば破れそうな床
進むしかない
希望よりも見通しの利かない
過去の移ろいへ

今が一番幸福なのかもしれない


「記憶されていない自分」、興味深い言葉を頂きました。
 記憶という曖昧な能力があるだけに「記憶されていない自分」を意識の外に置いてしまいがちです。実際は今の自分でさえその一部しか意識できないのに、その不確かな自分から過去を事実化し未来を事実化している自分に気がつかない自分がいます。また考えて、書きたくなったら書きます。

             戸田聡 不具


小谷野です。 | URL | 2007-01-16-Tue 18:18 [EDIT]
誤字があります申し訳ない。無効は、向こうです。

小谷野です。 | URL | 2007-01-16-Tue 18:16 [EDIT]
時折、自殺者の話を聞いているとわからなくなりますね。今という時間の袋小路に入り込んでしまっているのではないのかと。
たとえて言えば、受験勉強に失敗して自殺するとか、失恋で自殺するとか、事業に失敗して自殺するとか。イジメを苦にして自殺するとか。なぜ、状況を変えられないのだろうかと。冷静になって考えれば、違う生き方ができたはずなのに。なぜか、逃れられない袋小路に自分から入り込んでしまっているように見えます。
今の状況を絶対化して。死ぬことはないだろうと。自分には、思えるのですが、自殺する者は、死ぬしかないと思い込んでしまっている節がある。
僕には、自殺する者は、どこか異次元に入り込んでしまったのではないのかという気すらします。死ぬ気になれば何でもできるではないかと。
実は、私の両親が住むマンションで飛び降り自殺をした人がいるんです。僕にとっては、何の変哲もない空間なんですが、自殺を覚悟して上がってきた人は、一体どんな精神でこの風景を見たのか、それを考えると空恐ろしい気がするんです。もうどこか、魂が行ってしまったんではないのか。そして、その刹那、その人の時間は、止まってしまったんではないのかと。そして、その人が立った場所に行ってみると、そこは、何か異質の空間に見える。たとえて言えば、電車のプラットホームに立っていると、その2メートル先に今進んでいけば、そこには、違う次元との境があるといった奇異な気分に襲われる事がありますね。今生きているこの空間とその境の無効の世界とは、実は紙一重ではないのかと。

N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-16-Tue 13:29 [EDIT]
未来・現在・過去というのは実は全然つながっているものではないですからね。私達は未来に対しても様々な作為をはたらきますが、過去に対しても絶えず再構成をしています。自分に関しての他人の記録や映像などを観ると、自分が思い込んでいたことと全然記憶的に違う事象が起きていることがよくあります。そう考えると「過去」と分かち難く結びついているように安穏としている「自分」が存在するのかどうか、という疑問が湧いてきます。「記憶されていない自分」とはいったい何なのか、そしてその「過去」というのは、現在と果たして連関性があるのかどうか、ということですね。少なくともいえることは、「過去」もまた、私達の現在からの何かしらの虚構化ということがあってはじめて存在するものだと私は思います。そして未来は、その虚構された過去の過去化という、二重の虚構の上に成立するのですから、更に不安定なものだ、と私は思うのですね。
  小谷野さんがおっしゃるように、不確かさということは、裏返せば可能性ということも意味しますね。しかし、「不確かさ」が「確かさ」の対になってしまっては、私はその可能性はいかがわしくなると思います。「未来の過去化」の典型例は受験競争ですが、全くの白紙の可能性の時間である未来に、過去的な時間を敷いている。「二浪、三浪はいけない、だからがんばれ」という未来の「可能性」はすでに「過去化」されているものですね。私は可能性や恣意というものはもっと存在全体的なものであって、こうした時間の作為の虚構に根ざしたものではない、と思います。原因論としての自殺論になってしまいますが、自殺というのは、虚構的な「未来」や「過去」に圧迫された「今」に絶望しているから、ということになると思います。


小谷野です。 | URL | 2007-01-16-Tue 12:18 [EDIT]
未来も不確かだけれど、過去の方がもっと不確かだと誰かが言っていました。未来はまだ確かめようがあるが、過去は、確かめようがないからだと。未来も過去も不確かなら、まだ期待がもてます。不確かさというのは、マイナスなイメージがありますが、不確かだからこそ、人間の恣意が入り込めるのだと思いますね。人間の恣意にこそ、人間の意志や願望が織り込めるのだという気がします。とすると、自殺というのは、今に行き詰まり、絶望しているからするのでしょうかね。
レスありがとうございます
沢村圭 | URL | 2007-01-16-Tue 02:42 [EDIT]
とても、興味深い返信をいただき、ありがとうございます。

戸田様へ

 未来があり、必要とされている人間だということが逆に重荷になることもありますね。人は誰しも、何かを背負い、負けられないもの、譲れないもの、曲げられないもの、そんなものがあるのでしょう。
 だからこそ、人は力強く生きれるのでしょうが、重荷になり、押しつぶされてしまった場合、理想の未来を失う。
 その瞬間に、ふと思い立って、絶ってしまうのでしょうか。

 確かに、よくよく考えてみれば、人は孤独なのかもしれませんね。でなければ、誰かが誰かにプレゼントを渡したり、共にいた時を写真に残したり、気持ちを伝えた文章を綴るなど、存在意義がないように思えます。
 形に残すことで、日常のいたるところに転がっている孤独と戦うのでしょう。

うさねこ様へ

 なるほど、未来を「過去化」するという考えは、とても興味深いですね。自分の中で予想立てた、少し先の未来を大前提として、更に次の未来に希望を抱くとすれば、それは恐ろしいことになりかねません。
 もし、未来を夢見て、今日があるとすれば、ふとした、ほんの些細な違和感すらも、自分への不信に繋がるのかもしれませんね。
沢村さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-15-Mon 14:50 [EDIT]
 こちらこそお久しぶりでございます。お忙しい中、コメントありがとうございました。
 生きているというこの瞬間が不思議であるかどうか、という沢村さんの指摘は、実は哲学的にも非常に重要なことです。そして「生きている」ということが不思議でないから自殺の原因になる、という考えもたいへん興味深い考えです。私達は未来というものが確かにやってきて、思い通りに自分がその未来に生きられない、ということから、未来から疎外されがちですが、本当は未来というものは全くの闇の中にあるものです。私達この未来への本来的な不安を覆い隠すために、様々な虚構を未来に仕組み、それを信じるようになっています。ある時間論の哲学者が言っていることですが、私達は未来を「過去化」して安心するのです。時刻表などが典型ですが、未来があらかじめ存在するような錯誤によって私達は未来という虚無を信じるようになっています。信じるだけならばいいのですが、こうした未来の過去化は、私達の人生全体が、一定の時間的流れの法則の中に置かれているかのような、逆の疎外状態を私達にもたらしているとはいえないでしょうか。「かくあるべき人生」から距離をおいてしまっていると思ってしまうからこそ、私達は絶望してしまう。不思議と偶然の連続ならば、不思議と偶然に対して、絶望するということはありえないはずです。「かくあるべき人生」という「当たり前」の状態をなぜ私達が考えてしまうかといえば、私達の時間感覚の虚構化に由来するのではないか、と私は考えています。言い換えれば、未来という虚無への本当の絶望を知らないから、私達は絶望してしまう、という逆説が存在するのではないでしょうか。
詩のようなもの投稿
戸田聡 | URL | 2007-01-15-Mon 05:06 [EDIT]
戸田聡です。相変わらず情緒的に
今日書いた詩のようなもの拙作1作。


  ヨブ・伝道者・キリスト

真昼の空にある星たち
真冬の海に降る雪たち

かけがえのない
孤独の夜に散る命
孤独の昼に叫ぶ命

どこかで過ぎる
この世の時間
どこで送るのでしょう
あの世の時間

ヨブほどに栄えることもなく
ヨブほどに悲惨なこともなく
試されているとき
キリストほどに孤独でもなく
キリストほどに語られることもなく
主よ
空の空
伝道者よ
楽しめる取り分は
目の前に
明日に
昨日に?
意識しなければ
見えないものたち
どこにありますか


http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

             戸田聡 不具

PS:
沢村様へ。

>自分で自らの命を絶とうと考える人は、生きている、ということを当たり前と考えているのかもしれませんね。出逢いや、別れなどに関して、偶然は必然とはいいますが、明日、明後日に、自分が生きているかどうかに100%ありません。
<

 この点は共感できます。関連しているかどうか分かりませんが、拙作1つ載せておきます。


  超常現象

リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ


>自殺を実行してしまった人は、弱いのではなく、孤独な状態であると勘違いして、絶った。
<

 自分が孤独ではないと考えられる人は幸いです。幸運といってもいいくらい。孤独は人間存在の根幹的な問題だと思っています。勘違いででは済ますことのできない問題だと思います。

>自分を思う人は無く、そして、自分に未来もない。いらない人間であるという勘違い。
<

 この点は共感できるところもありますが、
これを勘違いと言える人は、まだ恵まれていると言いたくなる人もいるでしょう。未来もない要らない人間だと思っている人にも、未来はあり必要とされていることを感動をもって説ける説得力が欲しいです。

>何故、改めて自分の周りにいてくれる人のことを想い出さなかったのかと考えると、とても悲しく思います。
<

 それが却って重荷になることもあるように思います。周りにいてくれる人がいるだけに、ここが勘違いということでしょうけれど役に立たず迷惑ばかりかけている自分に目を向けてしまうということもあると思います。

 詩のようなものを投稿しようと思って開けて見たら
沢村様の投稿があったもので、今思ったことをとりあえずレスさせていただきました。なお私は希死念慮を30年以上持っている人間です。今のところ切迫した自殺念慮までには至っておりませんが・・・。
 不十分なところがあるかもしれませんが、気づいたらまた書きます。失礼いたしました。

うさねこ様へ お久しぶりです
沢村圭 | URL | 2007-01-15-Mon 03:14 [EDIT]
 初めまして、コメントですと、初めてとなりますね。
 私自身は、哲学という分野に関しての知識は持っていないのですが、『自殺』をしてみたいと思った一人として、多少、コメントを書こうと思います。

「・・・私だって、自殺しようと思ったことは一度ならずあるわよ・・・」

 きっと、その女性は、共感したわけでも、共感を求めたわけでもないでしょう。ただ、自殺しようと思う、その感情の波を乗り越えたか、乗り越えなかったか、ということであり、乗り越えられなかった人に対して、単純に、弱い、と思ったのでしょう。

 共感を求められた場合以外は、言おうとは、思いませんし、今では、只管に『生きたい』と思います。
 思いますが、事実、私自身も『思ったこと』のある一人でもあります。

 今と昔と何が違うかというと、それは、生きていることのほうが不思議だと思うようになったことでしょうか。人より、多少、無理してきた分、目の前で死にゆく友人を見てきました。そこから、それは学んだのでしょう。
 つまり、自分で自らの命を絶とうと考える人は、生きている、ということを当たり前と考えているのかもしれませんね。出逢いや、別れなどに関して、偶然は必然とはいいますが、明日、明後日に、自分が生きているかどうかに100%ありません。
 人の人生というのは、偶然の連続なのだと思います。

 自殺を実行してしまった人は、弱いのではなく、孤独な状態であると勘違いして、絶った。自分を思う人は無く、そして、自分に未来もない。いらない人間であるという勘違い。
 何故、改めて自分の周りにいてくれる人のことを想い出さなかったのかと考えると、とても悲しく思います。ただ、単純に、あれがしたい、これがしたい、と考えるのであれば、本来、シンプルであればあるほど、人とは強いものなのですが、それが難しいのでしょうね。
 考えすぎて、ありがとう、といえるタイミングは、きっと何度もあったはずなのに見逃して、孤独になって命を絶つまでに行き着いてしまったのではないかと、考えてしまいます。
 これも考えすぎなのだとは思いますが、そう考えてしまいます。

 「自殺という行為」ではなく、「なぜ自殺するのか」について触れてしまいましたが、私の考える自殺とはこのようなものです。

 すいません、議論とは、まったく違う内容です。
ガラシャ・脳死移植・しわについて
戸田聡 | URL | 2007-01-13-Sat 16:15 [EDIT]
小谷野様の自殺もいろいろ、という話から思いついたこと。
 細川ガラシャはキリシタンは自殺禁止だから家来に槍で刺すように命じて、その通りにして死んだのだと思っていました。これはやっぱり自殺ではないか。命じられた家来が、立派な夫人だと思ったとしても、いい迷惑ではないかと考えていました。
 しかし歴史も解釈次第で変わるものだなと去年NHK大河ドラマ「巧妙が辻」を見て感じました。そこでは夫の細川??(忘れた)が予め家臣に、敵の手に渡る前に殺すように命じていたというストーリーでした。敵が迫ってきたときに家臣がガラシャにそのことを告げ、ガラシャはそれを受け入れ祈りのうちに果てて行きます。死ぬ場面の前にガラシャが「奪うことでしか示せない愛もあるのでしょう」と語るシーンがありました。このストーリー・解釈が事実ならばガラシャは殉教したことになる。
 実際はどちらだったのだろうと思ったことでした。どちらにしても戦国の世に生まれてキリシタンとなったガラシャの苦悩を思えば、前者なら自殺だから悪いとかいった善い悪いの判断はしていませんけれどね。

話は変わりますが、私は脳死移植に1つの疑問を持っています。今となっては文献を調べる機会もないし、こう感じているということに過ぎませんが・・・。
 脳死移植は、脳、特に脳幹が機能していなければ=死であるという前提で行われています。日本ではドナーが少なくてアメリカなどに行って手術を受けるための募金を募っている話をニュースなどで時々見ます。
 脳波がフラットになり脳幹反応がない。脳幹は生命中枢だから、これらの条件がそろえば死と判定するという理屈は分かります。科学は理論が分かれば、それを実験によって実証する学問です。医学の場合、人体実験はできない。だから統計的実証に足るだけ(1万~10万~?)の脳死患者について、それが100%心臓死に至ったという実証をしているのだろうかと考えてしまいます。私のHPの「危険思想」というところに次のようなことを書いています。

  くウソう一・脳死
             とだソウ

不可逆的に心臓が止まることは
全身の組織への酸素供給が
断たれることを意味するから
多少の時間差はあっても
いずれ全身の壊死は避けられない
心臓死は一対一で
全身の死に対応している
脳死は一対一で
全身の死に対応しているのだろうか
他の先進国では既にやっている
脳死移植とはいえ
早い者勝ちで何でも先に
やってしまって最早
常識になっていて今さら
訂正しようがないのかもしれないし
脳死状態に陥ることを
遅らせる手段もあると聞くのに
人間が決めることの中で
最も曖昧な倫理ばかりが先行して
肝心のスタディは済んだのだろうか
例えば一万人の脳死患者を集めて
人工呼吸器をつけたままにして
光や音や呼びかけなど
外部からの刺激を与え続ける
電解質・微量元素・栄養のバランスや
循環動態や代謝を人工的に
自然と同じ状態に保つのは困難だから
管を介した人工栄養には限度がある
殆どは心臓死に至るだろう
しかしもし一人でも
フラットな脳波が活動を再開したら
脳死は死ではない
さらに一人でも
自発呼吸が戻ったら
脳死は死ではない
さらに一人でも
意識が回復したら
脳に障害を残したとしても
脳に障害を持つ人を
死人とは呼ばないように
脳死は死ではない
ましてや一人でも
完全に回復したら
何をか言わんや
ということにでもなったら
脳死状態になったら臓器を提供します
とカードに記して約束した人々は
死後の臓器を提供するのではなく
僅かな生存の可能性を
放棄するばかりか
脳障害の生を否定することになり
脳死移植は殺人あるいは安楽死移植
安楽であるかどうかは知る由もないが
以上
え?
ああ多分ウソだと思うし
勿論ウソだと願っているよ
スタディは既に
なされたのだと信じたいよ

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/kaze4.htm

 もちろん私は文献を調べていないので杞憂であればいいのですが・・・。
 もしスタディがなされていたのだとしても条件が必要です。十分な症例数に加えて、移植をしたがっている外科医では恣意的な治療およびデータ操作の恐れがあるので、完全に中立な立場の医師によってなされていなくてはならないと思います。
 ちなみに私が学生だったころ法医学の教授は、詳しいことは覚えていませんが、脳死状態から生還した症例の新聞記事みたいなものをスライドで示して心臓移植は殺人行為と言っていました。
 もし脳死が死ではなく、脳死移植ができなくなったらレシピエントがかわいそうという意見も出てくるでしょう。しかし脳死が死ではなく脳死移植が最初から行われていなければ「レシピエントがかわいそう」という意見そのものがなかったはずです。さて、実証過程は本当にきちっと済ませているのでしょうか。欧米では既に普通に行われているがゆえに引っ込みがつかない状態になってしまっているという可能性はないのでしょうか。
 一方で次のようなことも考えます。仮に脳死が必ずしも死ではないとして、脳死移植が消えてしまうかというとそうでもない可能性がある。脳死に至ったら極めて少ない確率で生き残るより、さらに生き残ったとしても高率に脳障害を残すより、脳死の段階で臓器を提供するという本人の遺言による意思表示がなされていたらどうなるか。問題は「死の定義」から「安楽死の是非」に変わるのではないだろうか。
 生きている臓器を、特に現に動いている心臓を、血管を切り取って人体から取り出すという場面を想像してみると正直言って、勇気もいるし、相当気持ちの悪い行為ですから敢えて考えて欲しいし安心できるデータがあれば示して欲しいのです。

石田様の「しわ」の話。
 テレビで見た、手を合わせ感謝の笑みを浮かべて通り過ぎるマザーテレサの姿に私も何か感じていたのですが、そうでした、「しわ」だったのです。しわくちゃの顔に笑みを浮かべて・・・生涯を奉仕にささげた人、苦労した人はあんなに「しわ」が多いのだなと改めて思い出しました。私の53歳の醜い顔を鏡に映してみると、しわもあるけれど、どちらかというと弛みだ。苦労が足りないとこんな顔になると感じます(苦笑)。


以上、特に脳死移植の話は私の無知のなせる杞憂であることを願っています。

             戸田聡 不具

小谷野です。 | URL | 2007-01-13-Sat 10:34 [EDIT]
僕も、マルクス一辺倒の時代。あれは何だったんだと思います。
あの時代も結構自殺者がいましたけれど、唯物論的こじつけで、本当の意味なんか議論できなかった。人間性なんてかけらもない。ただの物ですから。死んだって、ただの、医療用原料でしかない。自殺なんて、小市民的な人間がするものだと言う説明ぐらいですね。
川口大三郎君事件でしたか。凄いショックでしたね。それも自由を校風とする早稲田で起こった事件でしたから。なにか、思想や政治的なことを議論するのは怖いなと感じさせる風潮があったと思いますね。とりあえず、政治に関係ないことでもマルクス主義者を気取っていればいい。また、マルクスと言えば、どんな暴論でも通った。極論すれば、フリーセックスでも、乱交でも。恋愛論すら唯物論でしたからね。チュチュだとか、毛沢東主義とか。それで問題意識が高いと思いこんでいる。果ては、今の若い者は・・・。これは今でも、後遺症がありますが。よきにつけ、悪きにつけ、マルクスは利用され続けましたよね。
でも、今、言論界、教育界、労働界を牛耳っているのは、あの時代の残党ですからね。
顔のしわ
石田 俊義 | URL | 2007-01-13-Sat 00:36 [EDIT]
自殺論の感想から始まって何故かキリスト論議に、私は一神教には根強い不信感がありますのでついつい手厳しいことを言ってしまったかもしれませんね。人それぞれ数十年生きてきて経験した世界が違いますから歴史観、人間観、世界観が違って当然です。キリスト教文化圏、イスラーム文化圏、および旧共産主義
世界の死生観が稚拙だというのは私の正直な感想でして一切悪意はありません。
それと一概にキリスト教文化圏といってもプロテスタントとカソリックではその神観、世界観は大きく相違するように感じます。さらにロシア正教は非常に神秘的です。これが同じキリスト教なのかと思うくらい神観も自然観も相違します。ソルジェニーツインの信仰観を西側の文学者で理解できた者など一人もいなか
ったのではないかと思います。彼だけではありません。レーニン、スターリンの時代にその信仰の故にシベリアや中央アジアのラーゲリ(強制収容所)に送られた科学者、芸術家、作家の中にはロシアという風土への愛ゆえに国外への逃亡を拒絶して朽ち果てていった無名の聖人・聖女が数知れずおります。
彼らロシア正教の偉人達の自然観も死生観もヨーロッパのキリスト教文化圏で生まれ育った人間には理解し難い。それはロシアの歴史そのものと言うしかないのです。
個人的にはカソリック信徒に親近感を感じます。特にマザー・テレサ、カロル・ヴォイティワ
(ヨハネ・パウロ2世)は大好きです。
>つまり誰かに何かを説明し、あるいは批判することで、その人の考え方を変えようと思うならば、心を動かせる何かつまり感動のようなものを与えることが必要だと思います。(戸田さんの言葉)
まったくそのとおりですね。マザー・テレサもロルクも私を強く感動させた人たちです。
マザー・テレサの何に感動したって?
私は彼女の顔のしわに感動しました。カルカッタの路上で行き倒れになってただ死を待っている女性の姿に心を打たれたところから彼女の人生は大きく変わります。絶望している人の中に神の姿を見る彼女の心の姿勢はそのまま、毎日くたくたになるまで苦労を背負って歩き続ける一人の信仰者の姿に重なります。テレサの一本一本の顔のしわが私に「どうしてこんなに絶望と哀しみがあるのか」と訴えかけてくるのです。
本当に哀しい目をしています。
もうひとり顔のしわで私を感動させた人がいます。
ソルジェニーツインです。
ロストフ大学の物理・数学科で学び通信教育で文学を学んだ青年は大戦中に書いたスターリンを批判する手紙が検閲にひっかかってモスクワの刑務所に送られます。その後モスクワ郊外マールフィノ特殊刑務所で4年さらに北カザフスタンの政治犯専用の収容所で3年を生き延びます。ラーゲリを奇跡的に生き延びて娑婆へもどってきた頃のソルジェニーツインは異常に痩せこけて栄養失調の男にしか見えません。
1961年フルシチョフの時代に「イワンデニーソビッチの一日」で作家デビューした彼がその後たどった運命はソビエト共産党当局からの監視と作家活動の禁止という辛いものでしたが
彼の作品は地下出版されて世界中の文学者から賞賛されるところとなり1970年ノーベル文学賞を受賞しました。
当時の私は日教組の牙城である京都の公立高校の1年生でした。ソルジェニーツインがノーベル賞を受賞した作品を引き合いに出してソビエトの実情を日教組の教師に説明したことがあります。何故かひどく怒ってしまって全くうけつけませんでした。共産主義を批判した生徒だということで右翼という
烙印を押されてしまいました。
それから20年後、ソ連邦が崩壊して共産党の一党支配体制が崩れ去った頃、雑誌の中で老年のソルジェニーツインの顔を見る機会がありました。深いしわが顔一面に刻まれた老作家の顔は
一人の偉大な哲学者そのものでした。しわの一本一本が彼の苦難の体験を訴えかけてくるのです。
マザー・テレサもソルジェニーツインも二人の顔のしわは「人の人生というのはどうしてこれほどに過酷で哀しいものなのか」と私に訴えかけてきます。そして同時に二人の目には絶望している
人を癒す優しさを感じるのです。

小谷野です。 | URL | 2007-01-12-Fri 10:46 [EDIT]
嗚呼、そうそう。即身仏を忘れていました。即身仏というのは、自殺ではないのですかね。

小谷野です。 | URL | 2007-01-12-Fri 10:42 [EDIT]
自殺の背後に生きることの意味がかいま見えてくるのは、僕だけなのでしょうかね。

小谷野です。 | URL | 2007-01-12-Fri 10:40 [EDIT]
自殺と一口に言いますけれど、考えてみれば自殺にもいろいろありますよね。肝心なのは、動機ですから。
自殺的行為まで入れてしまうと、自殺は一概に言えなくなる。
例えば、切腹、自決、特攻、自爆テロ、玉砕、殉死、殉教、更に言えば、安楽死。安楽死も、医者がやれば安楽死だけども、自分ですれば、病気を苦にして自殺したになる。
日本人は、楽にしてやれと言う思想がありますから、とどめを刺すのは、武士の情け。でも以前、西部劇で、相手が殺してくれと言うのに、とどめを刺さずに立ち去っていくという話がありました。日本人である僕からみるとなんて残酷なと思ってしまう。
日本人は、潔く散ってしまえ。死んでしまえという考えがどこある。花は桜木でからね。パッと散るのが格好いい。
ソクラテスの死は、自殺なのか。ロミオとジュリエットはどうなのか。ハムレットは・・・。
最近、自爆テロが頻繁にあるが、イスラムでは、あれは自殺ではないのか。
最近の自殺は、人生をリセットするという意味みたい。
その大多数の子供が死後の世界や転生を信じているみたいですしね。人生をリセットしてやり直せると思い込んでいるみたい。
そう考えると、自殺というのは、解釈の仕方や立場でずいぶん違ってきますね。でもいずれにしても深刻な内容を含んでいますね。

小谷野です。 | URL | 2007-01-11-Thu 16:33 [EDIT]
僕も誤字脱字が多くて、失礼しています。先日もうさねこさんにお願いして誤字を訂正しようと思ったのですが、難しいらしくて、そのまま失礼させていただいています。
掲示板というのは、言いたいことを言える反面、相手に対する配慮が欠けてしまうことがあります。自分では、十分注意しているつもりですけれど、話すことと書くことの差ですかね。ときどき言い過ぎているかなと反省します。また、管理者の意図するものと違うのかなんて・・・。でも、うさねこさんや皆様に甘えさせていただいています。どうか、御諒恕の程を。
お礼
戸田聡 | URL | 2007-01-11-Thu 09:20 [EDIT]
小谷野様(間違えて小谷様と書いていました。失礼いたしました)、うさねこ様へ。貴重なアドバイスありがとうございます。
 このブログに議論の苦手な私が最初に投稿するときには、ちょっと怖かったのです。論客が待っている場で議論→論争→揶揄→喧嘩→下手をすると虐め?になるのではないかという危惧がありました。そういうサイトもあるみたいですから・・・。
 実際参加してみるとそうでもない。見解の相違はあっても、冷静で率直な議論の場のようなので投稿を続けることができました。  小谷野様の「礼儀」と「遠慮」そして「配慮」、うさねこ様の「対立」と「喧嘩」そして「間違いに気づく」ということを「考える」「和して同ぜず」など通底するところがあるように思いましたし、すんなり胸に落ちてきます。
 クリスチャンであろうとなかろうと、率直に意見を出し合って何か共感できるものや「気づき」のようなものが得られることがあればと願っております。「間違い」ということから、場違いかもしれませんが、思い出した個人的な詩のようなもの1作書いておきます。


  悲観と厭世

世を捨てるゆえに
御国を望み
よって世を生きる

とはいえ
世を捨てる前に
世に捨てられたようなものだが

もともと
生まれる世を
間違えたようなものだが

捨てた世に
捨てられた世に
拾うもの

改まるはずもなく

生きるとは
間違い探しである


独りでは改めることもしなくなりそうなので、よい機会を与えられたと感謝いたします。拝。

                 戸田聡 不具

N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-10-Wed 19:21 [EDIT]
いろいろと多忙で、しばらくご無沙汰しておりました。感想の書き込みが多くなっていて、驚くと同時にとても嬉しく思います。
  小谷野さんのおっしゃることを私なりに要約すると、「対立」
と「喧嘩」は違うということだと思います。これはどうも日本人の欠点といっていいことだと思うのですが、「和」を大切にするあまり、議論の場を空洞化してしまう、それはいつまでたっても、どこでも、続いていることだと思うのですね。「和」は大切ですが、「和して同ぜず」ということは、それ以上に普遍的な真実だと思います。
  私が尊敬する大森荘蔵さんという哲学者は、どんな初歩的な質問にも答え、そして議論を重ねるうちに、「議論して自分の考えが間違いだとわかりましたので訂正します」と卒直に言う習慣をもっていたと言われます。 私達はいろんな意味で不安定な意味の世界に生きています。どうして発狂しないのだろう、と思えるくらいですね。これほど不安定な世界をかろうじて生きるためには言葉を大切にしなければなりません。言葉を共有しているということは真理の探究を共有していることであって、だから対立は怖いものではありません。どんどん議論してどんどん対立すればいいのですね。小谷野さんが言われるように、直観を大切にし、対立を重ねることによって「考える」ということが、トータルに成立してくる。大森さんは「間違いに気づく」ということを「考える」ことを大切にした、ということなのでしょうね。礼儀だって、対立のい中から生まれてくるものです。しかし「和」を大切にして「対立」をおそれると、こういうことがわからなくなってしまいます。そして不意に生じた対立が「喧嘩」になっていまいます。
  遠慮はいらない、どころか、私は遠慮というものは「和」の一つの派生で、非常に嫌いです。書けるときに書いていただきたい、と思います。自殺論にせよ戦争論にせよ、言葉を通じて真理の可能性をさぐる限り、喧嘩のない対立の場がホームページ上でできていくものと私は考えています。

小谷野です。 | URL | 2007-01-10-Wed 18:11 [EDIT]
書ける時に書いた方がいいですよ。礼儀と遠慮は違いますから。礼儀があるから、議論もできるのとおもいます。でも、食事のマナーと同じ、礼儀の本質を見失えば、美味しいモノも美味しくなくなります。言って良いか、悪いか悩んだら何も言えなくなります。
要は、相手に対して配慮、思いやる心が大切なのだと思います。
掲示板は怖いです。僕はドキドキします。でも基本的に、相手を尊重し、真意を確認する気持ちがあれば、礼儀は保てると考えます。うさねこさんは、人を大切にする方です。だから、遠慮はいらないと思います。
僕は、思います。戦後教育で一番嫌らしいのは、考えてから決めなさいという言葉です。僕は言います。考えたら決められない。決めるから、訂正もできるし、変更もできる。最初から、完璧な事は期待できない。もっと、第一感、直感を大切にすることだと。論理的に決断をするのではありません。決断というのは、読んで字のごとく、決して断じるのです。
信仰は特にそうです。神が存在すると言えば、その人にとって神は存在するし。神が存在しないと言えば、その人にとって神は存在しないのです。
僕は、キリスト教とではありません。でも、純粋に僕は、イエスを尊敬しています。僕の信じる神は、イエスが信じた神と同じだと信じています。でも僕は、所謂(いわゆる)キリスト教とではありません。
僕にとって信仰は、直観的なものです。
また補足
戸田聡 | URL | 2007-01-10-Wed 17:37 [EDIT]
 また補足ですが、いつもこんな感じで申し訳ないのですが、このブログへの書き込みが泥仕合だとか感動がないとかいう意味ではありません。貴重なご意見として、すべてではないとしても、共感できることもあったということを書き添えておきます。また参考になる、ということも大切なこととして受け取っております。
 書き込むに当たっては勇気も要りますが、書き込みたいという動機があればそれに任せて書き込んでおります。それで小谷様の「むき出しの自分」「恐れる心」「礼儀」ということについて反省しきりなれどやっぱり書けるときに書いてしまう自分がいて、いやはや、どうしたものかと・・・考えている次第です。

                     戸田聡 不具
「わかる」ということ
戸田聡 | URL | 2007-01-10-Wed 17:14 [EDIT]
 小谷様のコメントで、関連・関係しているかどうか分かりませんが、思い出した1作投稿いたします。
 意見を述べるときにしばしば自分は理解していたとしても、他者が同じ土俵にはいないのだという経験があります。ましてや自分もはっきり理解できているとはいえない信仰について語るならば、伝道の意識の有無にかかわらず、なおさら他者に訴える力つまり説得力の無さを痛感します。


  わかる

わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう

私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さ
X軸回転体の表面積
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…
など高校の時に考えもしなかったことが
解けたとき似たような感じを覚える

数学は独特の感覚的理解を要求する
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない
詩にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない

理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の開放感
を必ず伴なう
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない


 つまり誰かに何かを説明し、あるいは批判することで、その人の考え方を変えようと思うならば、心を動かせる何かつまり感動のようなものを与えることが必要だと思います。そうでなくても参考意見としては受け取れますが、それ以上のものにはならない。
 私は聖書によってキリストに導かれた者です。元々宗教には無関心な私がキリスト者になったことは今考えても不思議です。その過程で今までにない何かを享受したのだと思います。それはたぶん感動を伴っていて、それゆえ無関心な私がキリストを無視できなくなったのだろうと思います。
 私見を述べるのは大いに結構なことだと思います。しかし批判や論争が多く結局水掛け論・泥仕合・時間切れに終わってしまうのは、情緒的享受すなわち感動が見出せなかったということを意味しているような気がします。関連してもう1作投稿しておきます。


  相対性情緒

討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
振舞うことが義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている


 本題から逸れてしまって申し訳ありません。小谷様のご意見、肝に銘じておきます。確かに言うは易し、行うは難しですけれど(苦笑)。

                    戸田聡 不具

小谷野です。 | URL | 2007-01-10-Wed 11:44 [EDIT]
自己主張というのは、僕は、心情的で情緒的なものだと思います。客観的で、非情なものだとは思いません。科学は、客観的で非情なのだと決め付けたのは誰でしょう。それこそ欺瞞だと思います。だからこそ、自己主張をする時は、勇気が必要なのです。何者かに対して畏敬心が必要なのです。神を信じるものは、それが神なのだと思います。それがないと、自分がむき出しになってしまうので、相手も自分も傷つけてしまいます。自己の魂というのは、本当に無垢で傷つきやすいものです。だからこそ、自分を越える何者かを怖れる必要があるのです。そのうえで、礼儀が大切なのだと思います。言うはやすし、行うは難しですけれど・・・。克己復礼。
補足とお詫び
戸田聡 | URL | 2007-01-08-Mon 13:40 [EDIT]
 補足しておきます。私は「自殺」がテーマになってから投稿を始めましたが、私の最初の投稿「『自殺について』など」は間違って「戦争と平和」のテーマに投稿してしまいました。お許しください。ついでにというわけではないが1作投稿しておきます。
 私は情緒的に書き心情に訴えることを基本にせざるを得ない性分のようです。それゆえ基本的に議論には向いていないのかもしれません。ただこのブログサイトには特に「自殺」がテーマになったときから、リンクを付けさせてもらっていること以上に、他人事では済まされないものを感じて今のところ書かずにはおれなくなっております。


  信仰観と信仰の間

信仰観などクソ食らえである
品質表示も賞味期限もない
信仰の干物(ひもの)である
ついに与えられ
到達したのだとしても
人は理屈にいつまでも
心を震わせていられるものではない
この世の日常の瑣事(さじ)だけではなく
信仰においてさえ
人は自らに囚(とら)われているのだ
干物を餌にして
安住しようとすれば打ち砕かれ
ゆえに打ち砕かれたそのときにこそ
主イエスの生き様・御言葉・死
そしてその目的を
キリストに縁付いた者は
思い起こさずにはいられない
信仰観は変わっても
信仰は何も変わっていない
信仰は変わることなく
最後まで残るものである
信仰が喧(やかま)しい鐘や
騒がしい鐃鉢(にょうはち)にならないために
血と肉を賭した愛であり続けるために
信仰観は試され
ときに壊され砕かれるのである

いつからか私は信仰について
糧(かて)と干物を区別したくて
理屈で考えることを控えるようになった
忘れてはならないと自戒する
これもひとつの信仰観なのである
思いで納得しなければ
何も語ることのできない人の性(さが)
この矛盾を孕(はら)みながら
総てが既に知られている所から
日々の糧は与えられている


そういうわけですから(どういうわけだ?)、
うさねこ様、いつも情緒的な書き方ですみません。 
今のところ以上です。

              戸田聡 不具

石田様へ
戸田聡 | URL | 2007-01-08-Mon 12:59 [EDIT]
 過激だが、刺激にはなるレスポンスをありがとうございます。
 先ず私の立場を言っておきます。私は前にも書きましたように、はぐれ者で教会

ににも行っていない(破門されているかもしれない)一人のキリスト者に過ぎません。したがって私が書くことはキリスト教を代表しているわけではないので、その点は悪しからず・・・。まあそれでも私を破門できるのは神様だけだと思っていますけれどね。それと聖書、私は未だ全部読んでいません。無知と言われても仕方ありません。しかし聖書に精通していなければキリスト者になれないとは思っていません。「信じて信じて」という詩のようなものに書いたと思いますが・・・。

>「生死観」と言わずに何故「死生観」と言うんでしょうか?
「死生観」という表現は「死して後、再び生まれてくる」言う意味を含んでいるじゃないのか?
ってのは私の勘ぐりすぎなんでしょうか?
<

私はどちらでもよいです。「死して後、また生まれてくる」かどうか、よく分かりません。キリスト教で復活とか再臨とかいうことは言われているようですが・・・私は理解しているとは思っていないので、否定も肯定もしていないところです。

>「死後の世界」という表現は、最初から「得体の知れない世界」という意味合いが含まれているようで
あまり適切な表現だとは思えません。一般に「実在界」と呼ぶのが適当かと思います。
そしてこの「実在界」は「心の現象界」とでもいうべき世界です。
宗教の教祖で「実在界」との交流体験は必須の要素です。
<

生も死もひっくるめてということでしょうか。馴染みのない言葉が多いので分かりにくいです。イエスをキリストと呼び、救い主・飼い主・永遠の友と信じている私としてはキリストが少なくともそれに値する偉大な存在であり神の子・人格として現世を生きられた神格であるという信仰です。キリストの人格と神格については前に私見を詩のような形で述べました。

 あとのほうで
>肉体生命の中に納まっている「私」という意識は、既に実在界の中の存在に違いないのです。
<
とおっしゃっておられますが、石田様は教祖なのでしょうか。それとも生けるものは全て「実在界」にあるという意味でしょうか。

> この真実体験のない者が神の代弁者を名乗ったとすれば間違いなく偽預言者、偽キリストですね。
中には悪神体験を神との交流体験と勘違いして増冗漫になる教祖が巷にはあふれ返っています。
<

これは事実ですね。これも前に書いたような気がするが、カルトのみならず、正統と言われている宗教においても、宗教は常に2つの危機をはらんでいると思います。1つは狂信つまり独裁的なカルト化。もう1つは風俗・習慣に過ぎないものに堕落してしまうことです。しかし1事象で全てを語ることはしません。

>一体、一神教の絶対神ていうのは殺人鬼の別称じゃないのか???
一神教の絶対神というのは私には人間よりはるかに知能レベルだけ高い
とんでもないエゴイストの知的生命体としか思えない。
少なくとも神霊たるべき高貴さも慈愛も感じないのです。
<

私も聖書、特に旧約を読んでいて、落穂拾いなど人間愛を感じることもありましたが「何でこんなに殺すかな・・・」と思います。前に書いたつもりなんですが・・・私にとっても神様は恐るべき存在です。恐ろしいです。そのままのユダヤ教であったなら私は信仰には至らなかったと思います。キリストゆえに私は信じる縁を持ったのだと思います。

 
  神とキリスト

神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません

もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです

主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました

全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない


旧約聖書の歴史の部分は、私見ですが、実際の歴史を唯一神信仰として解釈した奇跡物語と受け取っております。ただ著者たちは自らの歴史の正当化だけを書いているわけではない。そこに見るべきところがあるようには思います。だからイスラエルの民に対しても神様は厳しいです。背けば殺し悔い改めれば救う、の繰り返しです。貫かれているのは「神を恐れよ」ということでしょう。

> 私は命というものを見つめてみるとき肉体というのは命の器であっても命
の本体ではないと感じるのです。
般若心経では「不生不滅」と言ってますように人の生命の本体は不生不滅の
ものであり過去、現在、未来を問わず永遠に生き続ける光であると確信しています。
<

そうでしたか。般若心経に傾倒なさっておられるということですか。「色即是空」(この世の出来事は現象であって、実体のないもの)というような話を聞いたことがあります。それ以外はよく知りませんが。

> 肉体が寿命があって生老病死の有限な存在である事実は肉体生命が生命の本体でない証拠だと考えるのです。
生命の本体が自由に活動できる空間を私は「実在界」と呼びます。
<

石田様はそう考えてらっしゃる・・・だからといって私が「実在界」なるものを信じる必然性はないので、一つの宗教観として受け取ります。私が意識し思考できる世界は死に至るまでの現世の生き方だけです。

> 一体イエスは一人の宗教家として「実在界」と直接の交流があったのかなかったのか?
もしなかったとすれば彼は巷のインチキ教祖の一人でしかありません。
<

キリストが般若心経か石田様の「実在界」との交流云々・・・だけでなく、そういう世界を知る必然性も感じませんが・・・。キリストはキリストの世界を語り、つまり当時の律法・戒律主義の矛盾と戦ったのですから。

> 「死後の世界」なんて俗っぽい表現は捨てるにしても、福音書の中の彼の説教を見るとき、あきらかに「実在界では常識的な論理」が垣間見えます。
情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。
マタイによる福音書7章7節:
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけば、あけてもらえるだろう。
マタイによる福音書21章21節:
この山に向かって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
<

キリストが説いた相手は、律法学者などとの論争を除けば、一般民衆でした。難しい境地のようなことを説いても理解できなかったでしょう。民衆レベルの人間性で分かるような説き方になるのは当然と思います。
これも前に書いたけれど、上の姦淫などの教えは罪なき者はいない、罪びとゆえに救いにきたのだというメッセージと私は感じます。山に向かって・・・の教えは信仰による力でしょうけれど譬えなのか確信なのか、山を動かすほどの信仰を持っていない私には分かりません。のちにパウロは手紙(コリント1)の中に「山を動か
すほどの信仰があっても愛がなければ無に等しい」と書いていますから、そういう意味すなわち愛を説く文脈として受け取っています。
それ以外の上記の教えも文字通りに受け取ると難しいが、そこに貫かれているのは「信仰・希望・愛」特に罪びとを愛するために生きたキリストの愛だと思います。
キリストがそういう説き方をすることによって、山上の垂訓を含めて、民衆は希望を持ったわけです。それゆえキリストの教えはキリスト教となって広まっていった。「実在界」その他の石田様のような説き方では当時の民衆は頭を悩ませるだけでしょう。私も今、頭を悩ませていますから。貧しい民衆に対しては、誇張があっても、分かりやすく生きる望みにつながることをキリストは力強く説かなければならなかった必然を感じます。

> イエスの言葉をみていると声門、縁学、羅漢を飛び越えてさらには菩薩、
如来をも通り越していきなり創造と進化の悟りの断片を露出させてしまいます。
<

よく分かりませんが、キリストに仏教用語を当てはめるのには無理があると思います。創造や悟りについては当時の宗教的刷り込みがあったわけで、キリストは刷り込みでは救われない人々に語っていたということです。

> 創造と進化の悟りを語る一方でほぼ同時的に人間界の犯罪的な心の発露を非難してます。
そりゃあ、いきなり
  「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの
   頬を向けてやりなさい。」とか
  「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」
て言われたらこいつ正気か??って思いますよね。
<

当時の人がどう思ったかは分からないと思います。今までにない教えに驚き、あるいは好奇の眼で、キリストを特別な人だと思ったのかもしれません。

> 実際、イエスを幼少の頃より蔑視していた大祭司カイファあたりがイエスを殴ったら、きっとイエスは10倍にして殴り返すに違いない。
<

こっちのほうが勘繰りに近いと思います。キリストの幼少期・思春期・青年期つまり伝道活動以前の人生については書かれていない。旧約聖書つまり律法・預言・歴史について熱心に学んでおられた姿を想像しますが、私の想像に過ぎません。

> 聖霊に満たされているときは、その熱狂で熱い言葉を吐いたって生身の肉体を背負っている人間イエスの個性は、極めて現実的な反応をするに決まってます。
<

私は決め付けません。人格と神格については前に書きました。

> 情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。
って説教ではまじで言ってても、じゃあ人間イエスが女を愛さなかったかといえば、しっかりマグダラのマリアを身籠らせていますね。
映画ダ・ビンチコードでほんの少しイエスとマグダラのマリアの恋愛の真相が暴露されただけでキリスト教関係者は顔面蒼白になってるんじゃないでしょうか?
イエスも30歳を越した大人の男ですよ、好きな女ができればセックスくらいして当然でしょ。
<

信憑性の問題があるようですが、ダビンチコードは観ました。ラストのところの「妻を持ったキリストが奇跡を行ってはおかしいか」という台詞が印象に残っています。私は当時の生前のキリストがどうであったかということには、興味はあるけれど、あまりこだわっていません。
これも前に書きましたけど・・・キリストが史実上実在したかどうかさえも、私にとってキリストの臨在を否定するものではありません。私は聖書によってキリストを知って信じたのであって約2000年前のキリストを信じているわけではありません。当時のこととしては伝えないではおれない驚くべきことがあったのだろう、それゆえ聖書という書物が今も残っているのだろうと思っています。

> しかしまさか救世主キリストが信徒の女性とセックスしてたなんて福音書に書けるわけがない。神格化された教祖って辛いですね。
こんなこと書くとクリスチャンは怒り心頭になってしまうんでしょうか?
<

怒り心頭になってしまうクリスチャンや神学者の論客はいるでしょうね。私は論理ではなく情緒的なことにしか反応できない傾向を持った人間だから、また論客としては致命的に知識が不足しているので、今まで述べてきたように感想を書かせていただくだけです。何とか会議とやらで幾つかの福音書が異端として聖書から排除されたらしいですが、私にとって大した問題ではないのですよ。まあ、あくまで好奇心として、興味はありますけれどね。

逐一レスに近くなったので・・・ちょっと疲れました。
今回は以上です。また何か思い出したら書き込みます。

                  戸田聡 不具

戸田さまへ
石田 俊義 | URL | 2007-01-08-Mon 00:21 [EDIT]
「生死観が稚拙」という私の感想がキリスト教信仰者の気分を害しているのなら素直に謝ります。
ちょっとだけ余談ですが「生死観」と言わずに何故「死生観」と言うんでしょうか?
「死生観」という表現は「死して後、再び生まれてくる」言う意味を含んでいるじゃないのか?
ってのは私の勘ぐりすぎなんでしょうか?

>稚拙とおっしゃっておられるが、誰が死後の世界を知っているというのでしょう。
 得体の知れない世界であり、誰かが死後の世界を教えたとしても体験に基づくものではありえない。

「死後の世界」という表現は、最初から「得体の知れない世界」という意味合いが含まれているようで
あまり適切な表現だとは思えません。一般に「実在界」と呼ぶのが適当かと思います。
そしてこの「実在界」は「心の現象界」とでもいうべき世界です。
宗教の教祖で「実在界」との交流体験は必須の要素です。
この真実体験のない者が神の代弁者を名乗ったとすれば間違いなく偽預言者、偽キリストですね。
中には悪神体験を神との交流体験と勘違いして増冗漫になる教祖が巷にはあふれ返っています。

モーゼはシナイ山の山頂で80歳(??)にして初めてヤーベとの交流体験を持ちました。
そのときのヤーベの言葉が「十戒」となってユダヤ教の起源となったことはあまりに有名です。
アブラハムもモーセもこの主なる神を名乗る何者かと直接的に対話してます。
特に出エジプト記、レビ記、申命記、民数記、ヨシュア記の中の「主」は実に多弁ですね。
「主はモーセに言われた」で始まる長文が延々と続きます。この「主」はモーセを使って
イスラエル人ににこれでもかこれでもかと無理難題(?)をつきつけてカナーンの先住民を絶滅させる
そのやり方は人間の神経が耐えられる限界をはるかに超えている。
民数記第31章7節~41節で主はイスラエル人にミデアン人を攻め滅ぼさせる。男子は総て殺し、
女と子供は捕虜にし家畜と貨財は総て奪い取った。戦場から戻ってきた将校を前にしてモーセが
激怒する。「あなたがたは女たちを生かしておいたのか。・・・、今この子供たちのうち男の子はみな
殺し、男を知った女はみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、まだ男を知らない娘はすべてあなたの
為に生かしておきなさい。」
要するに処女は戦利品、以外の男女は総て殺したということ。

35節:人3万2千人、これはみな男と寝ず、男を知らない女であった。

これで懲りたのか(?)以後の戦いでは、女子供まで含めて悉く殺している。

ヨシュア記第6章:有名なエリコ入城の場面では
   イスラエルびとは7本のラッパを吹き鳴らしてエリコ城を一周するという行為を
   6日繰り返し、7日目は7周した。すると石垣は崩れ落ちた。
   
   ・・・そこで民はみな、すぐ上って町にはいり、町を攻め取った。
   21節:そして町にあるものは、男も女も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも
   ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。
 

ヨシュア記第8章25節:
 その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて1万2千人であった。
 ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまではなげやりをさし伸べた手を引っ込めなかった。

これから1800年後の
A.D.622年~650年の時代
モーセ、ヨシュア率いるイスラエルびとと全く同じことをアッラーの神の名のもとに行った
預言者がいた。
メジナの洞窟で大天使ガブリエルからアッラーの神の啓示を受けた最終預言者
ムハンマドである。
クルアーンの一節:

  「多神教徒は総て殺してしまえ」
  「ユダヤ教徒とキリスト教徒は見つけ次第殺してしまえ。情けはかけるな、なるべく厳しくせよ」
  「彼らに火の衣を着せてドロドロに溶かしてやれ」

これをアッラーの神の教えと信ずるイスラーム教徒がなにをやらかしたか言うまでもない。

ムハンマドは、アラブの民をイスラームに帰依させるとアラビア半島の異教徒の町を
悉く殲滅していく。そのやり方は
ユダヤ教徒の町に攻め入り男子は悉く殺しつくし、女と子供は奴隷とし貨財は総て戦利品
両親と兄弟を殺された一人の美しい少女の物語が残っています。
名前は忘れました。ムハンマドは一番美しい少女を自分の性奴隷とし部下達にも
好みの少女達を戦利品として分け与えました。

実に一神教のやり方というのは徹底しています。
人間の精神では到底行い得ない非道も残虐行為も
信仰の名のもとに正当化されてしまう恐ろしさ・・・・

同じ神がその一方ではかの十戒の中で

出エジプト記第20章12節~17節
  あなたの父と母を敬え。
  あなたは殺してはならない。
  あなたは姦淫してはならない。
  あなたは盗んではならない。
  あなたは隣人について偽証してはならない。
  あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
  隣人の家、しもべ、はしため、ろば、またすべて隣人のものはむさぼってはならない。

と誰にでも耳ざわりの良い無害無益な言葉・・・

シナイ山で石板に十戒を刻み付けてその舌の根が乾かないうちに
カナーンの町々を分捕る為に処女だけ残して以外の男女はことごとく切り殺せと一方的に命ずる。
そして貨財は総て戦利品としてかっさらう。

一体、一神教の絶対神ていうのは殺人鬼の別称じゃないのか???

人を殺傷することにこれほど無頓着なのは一神教の専売特許なのですかね?

一神教の預言者なんかを例題にあげたせいでつい話がそれちゃいました。
モーセに長期間にわたって一方的にしゃべりまくる「主」は一体何者なのでしょうか?
少なくとも人ではない筈。これが肉体をもった普通の人なら
いくらモーセが馬鹿でもアブラハム、イサク、ヤコブの神だとは思わない。
しかしもしこれがただの(?)幽霊なら全く信用しない筈。
本当に天地創造の絶対神なら人間モーセに小姑のように細々と指図するでしょうか?
一神教の絶対神というのは私には人間よりはるかに知能レベルだけ高い
とんでもないエゴイストの知的生命体としか思えない。
少なくとも神霊たるべき高貴さも慈愛も感じないのです。

こんなものは神でも人間でもない。
敢えて言うならば宇宙の粗大ごみ。

私は命というものを見つめてみるとき肉体というのは命の器であっても命
の本体ではないと感じるのです。
般若心経では「不生不滅」と言ってますように人の生命の本体は不生不滅の
ものであり過去、現在、未来を問わず永遠に生き続ける光であると確信しています。
肉体が寿命があって生老病死の有限な存在である事実は肉体生命が生命の本体でない証拠だと考えるのです。
生命の本体が自由に活動できる空間を私は「実在界」と呼びます。
肉体生命の中に納まっている「私」という意識は、既に実在界の中の存在に
違いないのです。

一体イエスは一人の宗教家として「実在界」と直接の交流があったのかなかったのか?
もしなかったとすれば彼は巷のインチキ教祖の一人でしかありません。
「死後の世界」なんて俗っぽい表現は捨てるにしても、福音書の中の彼の説教を見るとき、あきらかに「実在界では常識的な論理」が垣間見えます。
マタイによる福音書5章28節:
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。
マタイによる福音書7章7節:
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけば、あけてもらえるだろう。
マタイによる福音書21章21節:
この山に向かって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。

「実在界」は心の現象界です。
仏教哲学では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六界の人間の欲得が
葛藤する魂の境涯から、
声門、縁学を経て羅漢という悟りの境涯、
さらに菩薩という衆生救済の境涯、
如来という存在の愛というべき境涯
に心の階梯を解析してくれています。

別に死後の世界などという怪しげな表現を使わなくても人の心の境涯を
悟りの階梯で言えばすむ話なのです。
イエスの言葉をみていると声門、縁学、羅漢を飛び越えてさらには菩薩、
如来をも通り越していきなり創造と進化の悟りの断片を露出させてしまいます。創造と進化の悟りを語る一方でほぼ同時的に人間界の犯罪的な心の発露を
非難してます。
そりゃあ、いきなり
  「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの
   頬を向けてやりなさい。」とか
  「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」
て言われたらこいつ正気か??って思いますよね。

実際、イエスを幼少の頃より蔑視していた大祭司カイファあたりがイエスを
殴ったら、きっとイエスは10倍にして殴り返すに違いない。
聖霊に満たされているときは、その熱狂で熱い言葉を吐いたって生身の肉体を背負っている人間イエスの個性は、極めて現実的な反応をするに決まってます。
情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。
って説教ではまじで言ってても、じゃあ人間イエスが女を愛さなかったかといえば、しっかりマグダラのマリアを身籠らせていますね。
映画ダ・ビンチコードでほんの少しイエスとマグダラのマリアの恋愛の真相が暴露されただけでキリスト教関係者は顔面蒼白になってるんじゃないでしょうか?
イエスも30歳を越した大人の男ですよ、好きな女ができればセックスくらい
して当然でしょ。
側近のペテロやマルコが先生の男女関係を知らない筈がない。
ましてやイエスもマグダラのマリアも弟子たちの前で公然とキスを交わしているのです。
しかしまさか救世主キリストが信徒の女性とセックスしてたなんて福音書に書けるわけがない。神格化された教祖って辛いですね。
こんなこと書くとクリスチャンは怒り心頭になってしまうんでしょうか?
その点、日本の神々はおおらかですね。
近親相姦に近いような話も平気で伝承されています。
別にセックスしたからって神霊の品格に傷がつくってもんじゃない。
いくら高級霊だって肉体をもって生きている間は生身の人間ですから男女の
営みはあって当然でないほうが異常です。
どうも「自殺論」からはずれちゃってうさねこさんは苦笑いしてるんでしょうか・・・

これが私の「死生観」というよりは「人間観」なのであしからず

   石田 俊義

補足
戸田聡 | URL | 2007-01-07-Sun 13:01 [EDIT]
 「理性の大河の中の光」という言葉には惹かれるものを感じますが、「理性」は生きて意識があるあいだ人間が持ちうるものだと思います。死後の世界を人間の理性で真理のように語られても、意識も思考も、あったとしても、この世のものと同質だという考え方には疑問を覚えます。言い換えれば現世で今持っている意識と思考と理性によって死後の理性を説明されても私は納得できません。たとい来世があったとしても、現世と同じ意識・思考・理性だという保証は誰にもできないと思います。
 人間でないとすれば誰の理性なのでしょう。天・神・摂理のようなものを考えておられるのでしょうか。だとすれば、それは実証できないから信じるしかない信仰の世界になります。そういう意味ならば個人の信仰は自由ですから、私がキリスト・神を信じるように、そういう信仰もあるのだろうと思うだけです。私は異教徒を軽蔑したり批判したりする性癖は持ちません。私は、はぐれ者の教会にも行かないキリスト者なので、他者の信仰を稚拙だとか間違っているとか言えるほど立派な信仰は持っていませんからね。
 もし科学ということなら、一般的に永続する意識不明状態という考え方はありますが、いかなる科学も死後について明らかにはしていません。死後の世界は科学の対象にはならないと思っています。もし仮に永続する意識不明なら現世の意識も理性も無いわけですから、絶望かどうかも分からないから、まさしく「不条理な世界」ということになるのではないかと思います。
 前に死は恐怖と書きましたが、特に自殺については恐怖に負ければ絶望ということになりますから、言うまでもないと思ったので書かなかっただけで、自殺=絶望は正しいと思います。
 補足として書きました。まだ不十分のような気がしますが・・・。

                        戸田聡 不具
石田様へ
戸田聡 | URL | 2007-01-07-Sun 11:09 [EDIT]
> 旧約聖書、新約聖書も人の死後については何一つ語っていません。
<

 死後については「御使いのようなもので」というキリストの言葉がありますが、これによって死後の世界が理解できるとは思えません。キリストは死後のことを教えるために来られたのではない。キリスト教は「死後の世界はこうだよ、ああだよ」と教えて安心させる宗教ではありません。

> まず’「死」の絶対的不条理’という表現ですが私には「死」が不条理だとは到底思えません。
 むしろ「生」こそ人生最大の不条理だと思っています。
<

 心情的個人的には共感できますが、「死」はもはや人生ではないのです。人生と呼べるのは、あくまで「生」だけです。「生」については、生きているのだから人は、ある程度、理解というか感じることができます。
 稚拙とおっしゃっておられるが、誰が死後の世界を知っているというのでしょう。得体の知れない世界であり、誰かが死後の世界を教えたとしても体験に基づくものではありえない。論理的にも情緒的にも説明できないから「不条理」ということになるのだと思います。「死後の世界」は誰が何を説いても稚拙だと思います。
「苦」と「不条理」を混同なさっておられるのではないでしょうか。

>「善人にも悪人にも等しく訪れる」死は不条理ではなく、天の公平さだと思います。
新約聖書:マタイによる福音書5章45節で
イエスは天の父は、悪いものの上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨をふらしてくださる・・・
 と言ってます。
<

 真実だとは思いますが、これは「敵を愛し、敵のために祈れ」という無理難題とも思える教えの文脈の中の言葉です。そして「完全なものとなりなさい」がこの章の結びです。これもそのまま受け取ると無理難題でありますが「キリストにおいて義でありなさい」と旧約の「戒律を守る義」ではない義へとつながるものではないかと受け取っております。そしてキリストは罪びとの救いを述べ伝えています。
 また神様は、死だけでなく生においても、しばしば不公平で理不尽と思えるところがあります。「義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある」(旧約聖書・伝道の書:7-15)ともあります。だからといって悪を行ってよいと教えているわけではありません。この書においては「自分の取り分として楽しめ」から「神を恐れよ」に至る文脈があります。

>  万民を救う悟りというのは善悪を超えている。善人も悪人も等しく愛しみ育む境涯が進化と創造の悟りである。
  六道の輪廻から解脱して声門界、縁覚界に入り菩薩、如来の境涯へ至るなどという修行の論理では魂は救済できない。
  「あるがままで善し」と言ってやれる境涯でなければ人は救われない。
  六道の中で苦しむ点のような自分を自分だと思うな。本当の自分は六道どころか菩薩、如来界を突き抜けて進化と創造にまで意識が同通する理性の大河の中の光であることを忘れるな。
 そしてこれはどちらかというとマタイ伝の中のイエスの感性に近いかも知れません。
 少し違う点は天の父という絶対神も人も「理性の大河の中の光」であるという点では同質だと言い切ったことでしょう。
<

 「あるがままで善し」の件その他一部共感できるところもありますが、何だか石田様の信念・信仰を叫んでおられるような気がします。私は論理は苦手ですが、その私が読んでも、このままでは自分の結論・自説だけを声高に叫んでおられるようで説明にも問題提起にも議論の対象にもならないと思います。したがって、この部分については、こういうコメントしか書けないわけです。
 自説を声高に叫ぶことが悪いと言っているのではありません。そういう見解を持っている人もいるんだな・・・と受け取ります。しかしそこで終わってしまうのです。他者の言うことを稚拙とおっしゃるのなら、もう少し話し合いの切っ掛け・種・刺激になるような書き方をしていただけたらと思います。多分そういうことを用意されておられるような気がしましたもので・・・。
 今のところ、以上です。また何か思いついたら書き込みます。

                  戸田聡 不具


「自殺」の世界について
石田 俊義 | URL | 2007-01-07-Sun 01:32 [EDIT]
自殺論への感想その2:死生観の相違

   「死=無」
   物語的に整然としているキリストの死
   地上の永遠の生命の王国
  来世での永遠の生命
  共感を得やすい自殺<=「崇高」によって、「死」を広い感情でカバーしている
  キリストの殉教行為という、特殊化された「死」
  「死」の絶対的不条理
  「善人にも悪人にも等しく訪れる」死の不条理
  無目的な労働や作業が、凶悪犯である彼を震え上がらせる(ドストエフスキー)

 以上、幾つか私の感性が拒絶した言葉をあげてみました。
 死生観が相違するとしかいいようがないのですが、おおよそ共感し難い言葉で埋め尽くされているのですね。
 
 まず’「死」の絶対的不条理’という表現ですが私には「死」が不条理だとは到底思えません。
 むしろ「生」こそ人生最大の不条理だと思っています。
 仏教思想では「諸行無常」と表現しますが、「生老病死」の四苦は人として生きる苦しみそのものであり
 さらに「怨憎会苦」、「愛別離苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の四苦とあわせて八苦の苦しみを背負って
 生きているのが人のこの世の姿だと説きます。
 一人の企業人として生計を立てる為に30年働いてきて「怨憎会苦」という言葉は身にしみています。
 また輪廻転生は人の宿命であり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界は否応なく巡ってくるものです。
 神道では死して後、高貴の人は神に昇格します。もちろん一神教の絶対神ではありません。
 日本各地の身近な神社に祭られている神々は間違いなく何十代か以前の我々の遠いご先祖様です。
 旧約聖書の中で預言者達に多弁に語りかける主なる神と人である預言者達との間には絶対神と人という乖離
 がありますが、神道の神々と人の関係は連続性があります。血統的には同族だからです。
 神々と人の決定的な違いは生身の人間は肉体の欲求から来る動物的な感情という罪穢れをまとった存在であり
 とっくの昔に肉体が消滅して神々に昇格した方達は罪穢れのない清い存在だということです。
 生身の肉体を背負って生きている以上、食欲、性欲といった生理的欲求が必然的に生じますしそこから派生する
 感情の「罪穢れ」というに相応しい不浄さが神々に対する人の負い目になるものです。
 仏陀が比丘や比丘尼の悟りの境涯として羅漢という基準を設定していますが、神道の神々はある意味で
 羅漢などという基準をはるかに凌駕しております。高貴な精神を実践して生き抜いて肉体という不浄の発生源
 から開放された霊の能力は、肉体の不浄を背負って四苦八苦の人生を生きている人間の能力をはるかに上回って
 当然で悔しいけど神霊には拝礼するしかないのです。
 「死」というのは決して「無」ではありえません。
  「死」=「肉体という不浄の発生源からの開放」
 というのが「死」に対する私の正直な感想です。
 
 「善人にも悪人にも等しく訪れる」死は不条理ではなく、天の公平さだと思います。
 新約聖書:マタイによる福音書5章45節でイエスは
      天の父は、悪いものの上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、
      雨をふらしてくださる・・・
 と言ってます。

 私は仏教の悟りの論理で人を救うことは出来ないと確信しています。
 私が究極の悟りと信じるものは「理性の大河」で述べたとおりです。

  万民を救う悟りというのは善悪を超えている。善人も悪人も等しく愛しみ育む境涯が進化と創造の悟りである。
  六道の輪廻から解脱して声門界、縁覚界に入り菩薩、如来の境涯へ至るなどという修行の論理では魂は救済できない。
  「あるがままで善し」と言ってやれる境涯でなければ人は救われない。
  六道の中で苦しむ点のような自分を自分だと思うな。本当の自分は六道どころか菩薩、如来界を突き抜けて進化と創造
  にまで意識が同通する理性の大河の中の光であることを忘れるな。

 そしてこれはどちらかというとマタイ伝の中のイエスの感性に近いかも知れません。
 少し違う点は天の父という絶対神も人も「理性の大河の中の光」であるという点では同質だと言い切ったことでしょう。

 まだまだ言いたいことがありますがとりあえず区切ります。

石田さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-06-Sat 19:48 [EDIT]
 お忙しいところ、ご感想ありがとうございました。
 確かに感想欄だけみると、いったいこの二週間、何があったのかと思えるくらい(笑)自殺論がキリスト論に摩り替わっていますね。そしておっしゃるようにヨーロッパの思想家の自殺論なり「死」論には、一神論的な限界がある、というのはその通りかもしれません。ヨーロッパの思想家について引用や思索を繰り返しても、日本の自殺や死について語ったことにはならない場合がある、ということは根本的なことだと思います。
 ただ、問題はたとえ一神教的な限界内で議論していても、それが普遍的な指摘を有しているかどうか、ということだと思います。ったとえば私が引用したカントの美と崇高の区別、ということについても、これは普遍的な区分といっていいようなものだと思います。やはり、美術品への美的感動と、宇宙や無限への美的感動はどこか違うものがある、というふうに私には思えて仕方ない。「美しいもの」一般について、際限なく議論を繰り返している人々にはどうも馴染めないところがあるのですが、私はそういうことを絶えずスタートラインにおいて考えて、普遍性をもった哲学者をヨーロッパの世界からさがしているので、必ずしも、ヨーロッパ万歳ということでなく、またヨーロッパの世界の哲学者・思想家が普遍性に関して貧困だ、とは思いません。
 「死=無」の問題についてですが、これはある日本の思想家がいっていたことなのですが、彼の母親が老衰で亡くなる前、ずっと「私はお父さん(夫)のことへいける」と言っていたのが、死の数ヶ月前からばったりそういうことを言わなくなり、大切にしていた亡き夫の遺品も、まるでうるさそうにそれを遠ざけるようになった(愛の遺品としてでなく、死の世界からのサインのように思えるようになったのでしょうか)というのですね。「それは個体が消滅するときに蘇る、死への恐怖ということではなかったのか」ということを彼(思想家)は言うのですが、私達が、宗教や文化といった相対的世界において「死」をとらえれれていられるのは生命力が残っている段階までのことで(あるいは生命力を許されている段階までのことで)やはり本当に死が真に迫った段階において、私達は無への恐怖にとりつかれる、ということは普遍的なことではないか、と思います。輪廻転生を是とするヒンズー教徒にしても、輪廻を信じるために、実に激しい宗教段階を経るのだ、といいます。輪廻を信じられない段階、というのは何かというとやはりそれは無というもの、いっさいが死で終わるのだ、という感覚に他ならないのではないか、と私は思います。自然の一部に「帰る」日本という日本人の伝統的死生観にしても、確かにその通りだと私は思うのですが、文明論や比較文化論でそれは正当だとして、哲学論にする場合は、何らかの普遍性を抽出し、その上で、自殺や死に関しての共有的な土壌をつくる、ということになると思います。そうしますと、やはり、死に向かいあったときの私たちの無への消滅への畏怖感というものを問題にしなければならず、そうするとたとえば死=崇高、自殺=美というカントの判断力批判の私の読み替えということも、死や自殺に関しての普遍的考察になるのではないか、と私は思うのですね。ですから、カントやドストエフスキーの問題意識が狭いということは、必ずしもいえない、と私は考えています。
  たとえもし転生や輪廻が存在するとしても、その場合、意識の連続性ということは何か、ということが問題にならざるをえなくなります。私達は思い出せないことも「経験」としてあるのですが、それはいったい「自分」なのかどうか、そして思い出せないことが意識対称になりうるのはなぜなのか、ということも問題になるわけですね。そういうことを前提にして死生観を考えるとき、やはり私としては、比較文化論や比較文明論よりも、哲学論で自殺論や「死」論を考えていきたいと思います。キリスト論についても同様にするべきだ、と思います。
「自殺」の世界について
石田 俊義 | URL | 2007-01-06-Sat 17:48 [EDIT]
うさねこさんから「自殺論」のお知らせのメールが届いたのが年末でした。さっそく感想をまとめかけたら
大学1年のバカ娘が「お父さん来月15日に線形計画法の試験なの、この中から出題するって言ってる
からお願いね。」と12問の問題が印刷されたペーパーを押し付けられて、ウーンこれが解析か線形代数
なら簡単に片付けた筈ですが、LP:Liner Programing、DP:Dynamic Programing は大嫌いなのです。
正月の3日間はLPと格闘して疲れ果てました。
正月あけの週末の今日このサイトを検索したらもう既に訪問者の感想が書き連ねられてました。
うさねこさんのテーマは「自殺論」の筈ですが、感想だけ拝見しますといつのまにか「キリスト論」にすり
変わってるじゃないですか? クリスチャンの方はどうしてもイエスの十字架事件を意識しちゃうのです
ね。
感想その1:一神教文化圏の悪癖
‘自殺’について論じる大前提としての生死観があまりに稚拙ですね。
カントもサルトルもドストエフスキーもキリスト教文化圏で育った人間なのなだなあって思います。
‘死=無’というのも、死して後、天国で永遠の生命を得るというキリスト教的理念の裏返しにすぎない。
キリスト教もイスラームもマルクス主義も生死観が稚拙としか言いようがありません。
原因はこれら3つの宗教の母体であるユダヤ教そのものが人の死後について全くの無関心だからです。
信仰の祖アブラハムは主なる神と契約を結びますがアブラハムも主なる神も人の死後については何ら
関知することがありません。
旧約聖書、新約聖書も人の死後については何一つ語っていません。
イスラームにおいても同様です。
イエスの口から死後にかかわる言葉というのはゴルゴダの丘での十字架磔刑の際、隣に磔刑になっている強盗に
「あなたは私とともにパラダイスにいるであろう」
と述べた一行くらいなものです。

こんな生死観をベースに「自殺論」を展開するのは無謀というものです。

三島由紀夫も太宰治も日本人として育ってきた方ですからキリスト教文化圏の人間とは生死観が違うのではないかと思います。
少なくともこの二人の自殺は追い詰められて行き場をなくした末の自殺とはあまりに色合いが違います。
三島由紀夫の割腹自殺について「美学」なんて形容が可能なのは、確かに

「自殺」の問題を、「形式」に徹底的にとじこめた

のかも知れません。
が自殺を美学という視点から観るなんてのは、心理的に追い詰められたことのない人間のたわごとで
本気で死を選択肢として意識せざるえない状況に追い詰められた人間にとっては死の苦痛と恐怖よりも現実の絶望感の方がはるかに強かったのに相違ないのです。

私はこの追い詰められて自殺を選択した人物というとき
アン・マサーリクを思い出してしまいます。
1939年のナチス・ドイツ軍のズテーテン進駐以後、1945年までドイツに国土を蹂躙されたチェコ
スロバキアがようやくつかの間の主権を回復して社会民主党の党首ベネシュは首相に選出され
ヤン・マサーリクの息子アン・マサーリクが国民の絶大な支持を得て外相に就任します。
がナチスに替わって東欧に進駐してきたソ連軍は警察と報道機関を支配下に置くと大戦中はナチスと戦った民主化の活動家達をナチ協力者という罪名で片っ端から逮捕して収容所送りにしていきます。
本物のナチ協力者は共産党に大量入党してソ連に忠誠を誓うことで戦後東欧の支配者の地位を確保していきました。
1948年2月プラハでソ連軍のバックアップをうけた共産党がクーデターを起こし社会民主党政権はあっけなく崩壊してしまいます。以降1989年9月の東欧民主化革命までの40年間チェコスロバキア
はソ連軍と共産党の恫喝支配に屈して呻吟しつづけます。
アン・マサーリクが自殺だったのか、他殺だったのか歴史研究者の間でも意見が分かれています。
が戦後東欧史の鋭い分析で定評のあるF.フェイトは自殺説をとっています。
彼の自殺は個人の自殺の選択である以前にチェコという国家が追い詰められて自殺を選択したという深刻さがあります。
日本の歴史でこれに近い状況があったかと思いをめぐらすとき私は山背王子がそれに少し似ている
のかと思います。
私は日本という国家の礎を築いた人物が3名いると考えています。
一人は聖徳太子、一人は聖武天皇、一人は織田信長
なかでも仏教理念による国家建設の堅固な意思を最初の2人ほど明確に持っていた人物は空前絶後と言ってよいとおもいます。
古代政権成立以来続いた神道中心の政り事に仏教哲学を根底とする価値観と熱意ある人材登用による国家建設を強力に推し進めた聖徳太子の感覚は古代・中世・近代をはるかに超えています。
この偉人の急逝後、意思を継いだ息子・山背王子と聖徳太子の一族は蘇我入鹿の謀略によってあっけなく滅亡します。蘇我の軍勢に追い詰められて首吊り自殺を選択せざる得なかった山背王子の
姿には、深い絶望を感じさせられます。しかし、このまま聖徳太子のビジョンが頓挫しないのが日本の
強運なところ。聖徳太子一族を滅ぼした蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に謀殺されて体制は逆転
。さらに中大兄皇子と大海人皇子の額田姫王をめぐる熾烈な争いを経て奈良朝の最盛期、聖武天皇・光明皇后によって日本独自の仏教文化が確立します。
他方、アン・マサーリク外相を自殺に追い込んだ(もしくは謀殺した)共産党政権は以降、40年間
チェコ市民を圧制支配しつづけます。山背王子を自殺に追い込んだ蘇我入鹿があっさり謀殺された
日本の強運とは対照的な東欧国家の不遇さといいますか不運を感じてしまうのです。

‘死=無’とうさねこさんはおしゃってますが
‘自殺=絶望’というのが私の感想です。

このテーマは言いたいことが多いのですがとりあえず区切ります。

死を前にした時
戸田聡 | URL | 2007-01-05-Fri 11:13 [EDIT]
 病で余命いくばくもないことがわかっている人にとって、遺言的なものは別として、死について考えることにどれほどの意義があるかということも私は考えてしまいます。いくばくもない余命の期間にもよるでしょうけれど、すでに死の不条理は目の前にあるわけですから「「死の不条理」を考えること自体が不条理になる時」ではないかという考えです。
 強い肉体的苦痛に対してモルヒネなどの麻薬が使われるように、得体の知れない死の恐怖に対して、本人がそれで少しでも恐怖から逃れられるのなら、麻薬としてでもよいから何らかの信仰があってもよいのではないかと思います。この場合、キリスト者にとってはキリスト教の信仰になるでしょうけれど、人によっては他の宗教であったり友人や家族が傍にいて看取るということも含めてということです。名前の付いた宗教~家族愛・隣人愛まですべてが宗教的行為になるのではないかと思います。そして宗教(的行為)が麻薬であってもよい唯一の時なのではないかと思います。

                        戸田聡 不具
責務・目的:「自殺」について
戸田聡 | URL | 2007-01-04-Thu 11:27 [EDIT]
>「責務」ということは、言い換えれば目的
<

 そうですね。目的が全くなくなったら存在は底知れない恐怖に思えてくるような気がします。同時に責務(目的)の前に「少しは楽しめる」~「悲しみだけではない」~「耐えられる」が付くような気もします。「女手一つで子供を育てる」という苦労話などに、それを感じます。

>「食えればいい」という人間は非常に多いですけれど、「食えればいい」ということに、既に労働や生活の目的が存在していますね
<

「食えればいい」には目的と同時に、それが可能である状態を含んでいるように思います。「食えなくなる」とき、本当に食えなくなれば放っておいても死ぬのに、まだ食える状態であっても自殺の動機や願望になることがあるのは「食えなくなる」ことに耐えがたい恐怖を感じるのではないかと思います。生きることの無目的・無意味を伴った感情として。

> 病で余命いくばくもないことがわかっている人が、発狂せずに自殺せずに、日常の些細なことに気をとられることができる、ということは、驚くべきことなのです
<

 そういう人がどれくらいいるかは分からないですが、肉体的苦痛がそれほど酷くなくて何か目的がある場合かもしれません。じきに死ぬのに「殺してくれ」などと言って家族を悩ませる人もいるでしょう。
 死を受け入れるということ・死に至る過程と死後の非存在を意識的に受け入れるということは「安易な意味づけ・信仰(?)」をもってしても死を目の前にすればなかなかできることではないと思います。
 あるいは死というものを味わったことがないゆえに、無意味な死について考える無意味さによって、ある刹那刹那、死について深く考えることや感じることを忘れているのかも?・・・よく分かりませんが・・・ある意味、感情鈍麻は防衛反応なのかもしれないと考えたこともあります。

>自分より強い煩悩の人をみる、そして煩悩を共有する、それが自殺を回避する
<

 生きることの苦を共有できれば、さらに死について共に考えることができれば、人間関係だから食い違いもあり全てとは言えないが、かなり自殺は回避できると思います。
 自殺願望も、苦を超越していないから、煩悩ではないか・・・仏教のことはよく知りませんが・・・だとすれば自殺志願者が独りでいることはよくない。何らかの手段で交わり・関わりを持つことが大切ではないか・・・しかし、前に書いたけれど、集団自殺というのは何なのだろう。そこでは自殺願望と経緯を発散していないのだろうか。生きる恐怖も死ぬ恐怖も悲しみも表現し発散しないと、思索もなく底なしに感情だけが深まり切迫してくるような気がします。

私の場合は今のところ・・・


  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています


というところでしょうか・・・先のことは分かりませんが。
何か書き忘れたような気もします。いつものことで
・・・また何か気づいたら、また書きます。失礼。

                 戸田聡 不具

せりかさんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2007-01-03-Wed 22:17 [EDIT]
 いつもコメントありがとうございます。
 「責務」ということは、言い換えれば目的、ということではないかと思いますね。
 ドストエフスキーの流刑中の手記には、人間が完全に無目的におかれた場合の恐ろしい恐怖が描かれています。「食えればいい」という人間は非常に多いですけれど、「食えればいい」ということに、既に労働や生活の目的が存在していますね。
 数多くのサイエンス・フィクションが、人間が完全に満たされてしまったときの衰亡の始まり、退屈の極限化ということを描いています。それはドストエフスキーの主題を、いろんな角度イから描こうとしています。もちろん、目的を見失ったときの私達の意識にこそ何かの本質があるとはいえ、私達は、一生、「目的」の煩わしさに捉えられ続けることができるからこそ、衰亡や退屈を知らないで生きていける。自殺を考えないで生き続けることが可能なのだ、という逆説を背負っているのでしょう。
 病で余命いくばくもないことがわかっている人が、発狂せずに自殺せずに、日常の些細なことに気をとられることができる、ということは、驚くべきことなのですね。ほとんどの人は驚かないし、あるいは驚くべきでない。驚いた人は、それはいったい何がなせる業なのか、を延々と考える、哲学や幾つかの人文科学の徒になればいい。驚いた人々が発狂・自殺するのはやはり間違いですね。哲学者の自殺は最大の矛盾行為ですね。
 自分より強い煩悩の人をみる、そして煩悩を共有する、それが自殺を回避する、というのは実にすばらしい修辞学の一つですね。気づきそうで気づかない発見です。せりかさんの文章からはいつもたくさんのことを学ばせていただいております。

せりか | URL | 2007-01-02-Tue 12:41 [EDIT]
責務がないから自殺する
責務なんてそう簡単に見つからない
でも責務って人生の最大意義で
いまの若い人が失って久しいものだと思います

街角のゴミを拾って30年
ほんとはそういうのでいいのかもしれない
ちょっとのお給料で、いきていけるなら
それだけでも、うちの兄なら大万歳です

昨年12月10日東上野に立ち寄ったとき
お仕着せのマニュアルでここまでお客にこびる
コンビニの若いおにいちゃん店員がかわいそうに思え
たしかに迅速なの、でもこれに一生をかける人材か
ほんとうに好きなのか、バイトなのか、ききたかった
あんなに身を削って働くの、現実じゃないよ

アメ横の、大声でいせいのいいおじちゃんが
よほど恵まれて見えました
あの人たちは売りたい人を自分で決めることができるし
ちょっと化粧で媚びれば定価なんてあってないようなもん

一番簡単にマニュアル化された
人生最大の責務って、戦争
そんな結果論をおくのは、誰しも嫌でしょう
押し付けではない、自律的責務を自分の力で
掘り出せるような育て方をしよう

バチカンまで地下鉄30分のとこに住んでいます。
こちらは教育がよくもあしくも
レッセフェールじゃないかと思います
国としては豊かではないが
他人が個々の責務を心理圧力でつぶさないぶん
自殺者は日本より少ない
いや、自殺が自殺を呼ぶことを知っていて
当局があえて報道規制してるのかもしれない

せりか | URL | 2007-01-02-Tue 01:46 [EDIT]
Buon anno
Felice Navidad

聖書の話題のようなので、マイムマイムを張りますね♪

U’sh’avetem mayim be-sasson Mi-ma’ayaneh ha-yeshua”
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/mayim_mayim.htm

この歌を教えてくれたのが、オリヴィア・ニュートン・ジョンこと
織原城二さん。1996年、21歳の頃、アークヒルズ六本木の女子トイレで、交霊術を強制されました。カクテルとウィスキーの名前で、物語を作るという単純なもので、織原さんが引いたのはブラッディメアリとジェムソン13年カードでした。

わかります?
カクテルの名前を列挙したのは、
LSD無意識の中にあった、「わたし、queen」です。
かれはknightだったかなぁ barronかな?忘れた。

織原さんはね、なんというか、すごいエロだけど かっこよかったぁ
夜の世界のおとうさまって感覚
タロットで占ったら「死神」が出たからお付き合いしなかったの。
トイレのフタに、札幌ススキノ・キャバクラ嬢座りをして、
ずっと喋ってたんだ。

自分よりも煩悩の強い人をみたわけで、
結果として煩悩を共有したわけで
死にたくなくなっちゃった。
人間って単純で、そして罪作りです。

薬剤が切れて、論理の世界に戻ると
一介の女子大生が稀代の変質者に出会っているわけで
恐怖は半端じゃなかった。ずっとずっと忘却していました。
コメント・まとめて投稿
戸田聡 | URL | 2006-12-31-Sun 14:55 [EDIT]
 神様はアブラハムがイサクを殺す寸前に止めてくださいました。しかし士師記11章では、止めてくれず、父親が神に誓ったとおりに娘を燔祭として捧げる話が出てきます。他にも神はイスラエルに他国の人をいっぱい殺させるし、イスラエルの民も背けばいっぱい殺すし、私にとって旧約聖書の神様は恐ろしい御方だという印象のほうが強いです。旧約からイエスの時代までは「教え=律法=戒律」で無思考・無条件に守らなければならない、うさねこ様の言葉で言えば「他律語」だったのだと思います。

> 戒律はそれに違反すれば絶対に違反にしかすぎないのに、「ゆるし」が存在する、といったのはなぜか、といえば、神との間に潜在的な言葉や意味の交換がありうる、ということ、つまり、戒律の自律化ということが意味されているのだ、と思います。
<

 キリストは「律法を成就する、律法は全うされる」と言いながら、誓願については「誓うな」(マタイ5)と教えています。他の律法についても祭司などが受け入れがたい解釈をし、また実践しています。そして「律法学者などが説く義」を超える「義」として語っておられる。罪びとを救うこととともに、前に書いたような罪についての話や他のたとえ話等々・・・元々人間のために与えられた律法が人間離れしてしまっていたことにキリストは公然と反対し、それが結局十字架への道につながってゆく。

>「赦し」ということと、最後の処刑場面ということは、実は矛盾しているように、私には思えるのです。「罪である」ことと「罪なのか」ということは、全然違う二者であるというべきでしょう。しかしこの矛盾を、そのまま、引き受けていくというところに、私はキリストの存在というものが、やはり哲学の世界を凌駕しうる何かをもっている
<

 恐らくその辺りからキリストが古い律法の生贄として十字架について死に「罪なきキリストが罪を負って死ぬ」ことで、それは人類の罪を負ってキリストが死ぬことによって律法=戒律によらない「(罪びとの)罪の許し」という福音としての考え方になっていったのかもしれません。

>「ゆるし」を言った時点で、彼は戒律の世界が自律になりうることを示し、しかしついには、戒律に身をゆだねるように、この世を去った・・・というふうに私は思っています。
<

 今でも神はキリスト者にとって恐るべき御方であります。神を恐れることが戒律としての教えを守ることではなく「許された身」として個人がどう生きて死んでゆくかを問い続けて止みません。それゆえキリストを信じる者は「悩める者」になる必然を持っているのかもしれません。

> クリスチャンの方の少なからずが、自殺を他律として論じる傾向にあるように思えることです。そして私のような非クリスチャン的理屈屋が、やや強引にキリストの死を自殺に近いものとして解釈し、自律の世界に近づけようとしたりもするのですね
<

 理解したとは言えないけれど、「戒律の自律化」は興味深い言葉です。教理主義的理屈屋クリスチャンによって自殺禁止が他律語として語られるとき、イエスの時代と同じように、ユダヤ教ではなく、キリスト教が自殺および自殺者について無思考を摺りこむことになるでしょう。
 一方自殺を考える本人にとっては、たといキリスト者であっても教義・教理で自殺禁止だからという理由・理屈で、そうそう簡単に自殺念慮というものが治まってくれるものではありません。他律語としての自殺禁止は、そのとき苦しい壁にしかならないでしょう。血まみれのキリストの迫害から死へのパッションを思いつつ、自殺念慮に対して苦しい戦いと葛藤を、死に方が結局どうなろうとも、死ぬまで続けることになるでしょう。

今年も終わり。だからというわけではないが
まとめて投稿しておきます。
もちろん創作ですから、想像に過ぎません。


  臨終

見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして

賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと

 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた

彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ

「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」

去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある

こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り

彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った

 
  悪魔の臨終

軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」


  自殺した少女

やわらかい羽毛の
あたたかいベッドの上で
少女は目を覚ました
そばに白い衣を身にまとった
白髪の老人が
穏やかな表情で立っていた
「ここはどこですか
天国なのですか」と
少女がたずねる前に
大きなディスプレイの画面に
映し出された光景は
家族の狂ったように泣き叫ぶ様子
恋人が悲しみのあまり酒を飲み
暴走している姿
そして自らの惨たらしい死体
些細な誤解が生んだ
少女の自殺がもたらす数々の悲劇・・・!
誰にも秘密にしていた見苦しい思い出
画面は延々と続く
少女は泣き出して言った
「お願いです
どうか私を地獄へ落として下さい!」
老人は哀しげな目で答えた
「娘よ
気の毒だが
ここが地獄なのだ」


  宿業と運命

性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり

運命は天にあり
宿業は我にあり

我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し

あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり

 運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 後者の場合自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが運命論を説いてはいない。
宿業という言葉は仏教用語なのでよくは知らない。前世の因果を考えているわけではない。しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき運命という言葉は使いたくない。勝手な解釈ではあるが今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。


  人間離れ

 宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときである。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもある。偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は信仰を持つ者にしか起こりえないであろう。それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制する姿である。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動である。
 悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 聖書には旧約にも新約にも現代でいえば超常現象・超能力としかいいようのないような奇跡物語が描かれている。それを否定も肯定もしない。それはつまり奇跡そのものを歴史的事実として信じることがキリスト教を信じることではないということであり、例えば福音書にあるキリストの奇跡を信じなければキリスト教徒になれないということではないということである。
 物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。しかし魂に起こった奇跡は一生涯忘れ去られることはない、といったのはそのことである。主イエスは人間的感情の豊かな者たちを弟子として選んだ。無学な漁師であり愚直ともいえるほどイエスを信じながらイエスの真意を理解するだけの能力は持たずキリスト受難の時には主を裏切り逃げ去ったのち自らの裏切りを悔い激しく泣いたペテロがその代表であろう。
 人間でありながら人間的でない者がどれほど溢れていることか。人間として人体を持ちながら平気で非人間的なことをする者がどれほど多いことか。人間でありながら人間離れしたがっている者が多いのが今の世である。
 イエス・キリストの奇跡を人間離れした欲求の成就としてではなく、あくまで人間としての感情によって受けとめ、肉体よりも自らの魂に起こる奇跡に人間的に感動する宿命のような縁を持って生まれた人。人間離れした優れた何者かになろうとするのではなく、より人間になることを求める人。自分の視野の限界とその狭さを知っている人。そしてよく喜びよく悲しみよく笑いよく泣きながら主のもとにあって耐えることを覚えていく人をキリスト者・クリスチャンという。


  キリストの神格と人格

父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました


  枕する所

忘れてはいけない
ユダヤは散らされ
キリストを殺した民と蔑(さげす)まれたが
キリストはユダヤに生まれ
キリストの教えも
ユダヤから始まったことを

主は知っておられたのです
十字架の後も
人が罪を犯し続けることを

集まれば噛み合わず
散れば孤独で
また集まれば諍(いさか)い啀(いが)み合い
また散ればまた孤独で
愛しながら傷つける相手を
求めて止まない人の罪を

もううんざりして
この世に疲れたとき
御国を求めることが
死を求めることにならないために

忘れてはいけない
狐には穴があり
空の鳥には巣がある
人に枕する所があるために
神の子には枕する所がなかったのです

 
  祈り・最後の誘惑

最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ

未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう

 
  科学・歴史と信仰について

 例えば仮に、極端な話ですが、科学的に歴史上イエス・キリストは存在しなかったことが証明されたとしましょう。それはショッキングなことです。受け入れがたいことでもありますから反論を試み期待するでしょう。しかしそれが間違いなく科学的事実であるならば、私はそれを認めるでしょう。歴史上イエス・キリストは存在しなかったと。しかし一方でつぶやくでしょう。それでも私はイエス・キリストに出会ったと。ちょうど数世紀前に高名な科学者が宗教裁判でつぶやいたように。
 宗教的歴史観やそこから生まれた世界観・人生観・哲学・教義・戒律が信仰ならば、歴史観が崩れれば信仰も崩れます。前述の仮定に戻ると私を含め多くのクリスチャンが動揺するでしょう。懸命に反論した末に思い込みを強くする人もいるでしょう。信仰を捨てる人もいるでしょう。私はむしろ、それで捨ててしまえる信仰なら捨てたほうがよいとさえ思います。そういう信仰は思い込み・偶像に過ぎないと考えるからです。しかし何を言われても泣きながらでも信仰を捨てられない人がいるはずです。
 私たちは二千年近く前に完成された聖書によってイエス・キリストを知ります。しかしクリスチャンは二千年前のイエス・キリストを信仰するのでしょうか。少なくとも私は違います。私は私の人生の中で出会って今の自分を見つめ支えて下さるイエス・キリストを信仰しているとしか言いようがありません。したがってキリストは、目には見えず耳にも聞こえないけれども現存するイエス・キリストなのです。実存と言ってもいいでしょう。そしてそのお方を人生の永遠の友・同伴者として、救い主・飼い主として必要としているからクリスチャンになり今も自称しているのです。だから二千年前がどうあったにせよ自分が出会ったキリストを否定することはできません。肯定し疑わないのではなく、疑うことのできない信仰上の出来事・真実だから否定できないのであります。
 いかなる宗教も科学的事実を変えることはできません。同じように、いかなる科学的事実も個人の信仰上の真実を変えることはできません。


以上。煩わしいと思われる方も多いと思います。
失礼いたしました。拝。

              戸田聡 不具

ネロさんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-30-Sat 22:08 [EDIT]
 ようこそ、うさねこ研究室へ。
 そうですか、お医者さんをされているのですか。もしかしたら精神医療に携われれている方かもしれませんが、そういう方にも読んでいただけるというのは、非常にうれしいと思います。感想欄でもあるいは私に直接メール連絡でも、わからないことや質問がありましたら、どんどんご意見お願いいたします。
小谷野さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-30-Sat 22:05 [EDIT]
 本当に全くおっしゃるとおりですね。キリストを超人と思うから(思いやすいから)話がおかしくなるのですね。キリストを徹底して一個の人間として観る、ということを徹底すれば、おのずから色んなことが、リアルにわかってくるのですね。もしかしたら、それが一切のこと、なのかもしれませんね。ところがクリスチャンも非クリスチャンも、多くが実は、こういう視線をなかなかもてないように思えるのです。何も見通せないまま、十字架の上についにはりつけられた、と考えれば、実は人間であるキリストの凄みが、感じられてきるように、私も思います。
戸田さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-30-Sat 21:42 [EDIT]
  繰り返し熱心なご感想、本当にありがとうございます。
  確かに、違反によって直面せざるをえないのは、性の問題だけではないですね。派によりますが、殺人や堕胎によっても、キリスト者は神に直面していると私は思います。そこで、なぜ、キリストの赦しという話は重要なのか、ということですが、私はこういうふうに考えるのですよ。
  旧約聖書の話だったと思うのですが、アブラハムが神に過酷な命令を受ける場面があります。この場面に関して、以前にも私はちょっと記したのですが、同じクリスチャンの哲学者であるキルケゴールとカントが全く正反対のことを言っています。キルケゴールは、神の命をあえて鵜呑みにしたこのアブラハムの態度にこそ、深遠さがある、とします。神との絶対的距離を跳躍するところに、実存主義の実践をみるのでしょう。しかしカントは、アブラハムは神の命を鵜呑みに受けたまさにそのことで、精神的葛藤そのものを放棄し、神の戒律を自律(自分語)でなく他律(他人語)に転落させた、と言います。 「これは神がおっしゃったことなのだ」と言うことは、同時に思考を否定しています。カントの実践哲学は、他律の世界を厳しく拒絶することにあるのですから、アブラハムの行動を否定するのは論理必然というべきでしょう。では、キリストだったら、アブラハムの行為を、キルケゴール的に考えるでしょうか。それともカント的に考えるでしょうか。
  私なりに考えれば、その双方である、としかいいようのないところに、キリストの存在の重厚さがあると思います。戒律はそれに違反すれば絶対に違反にしかすぎないのに、「ゆるし」が存在する、といったのはなぜか、といえば、神との間に潜在的な言葉や意味の交換がありうる、ということ、つまり、戒律の自律化ということが意味されているのだ、と思います。つまりカント的である。しかし、彼は最後に、不条理の果てに、ダイビングするかの如き、人生の結末を迎えている。この跳躍はキルケゴール的なのですね。「赦し」ということと、最後の処刑場面ということは、実は矛盾しているように、私には思えるのです。「罪である」ことと「罪なのか」ということは、全然違う二者であるというべきでしょう。しかしこの矛盾を、そのまま、引き受けていくというところに、私はキリストの存在というものが、やはり哲学の世界を凌駕しうる何かをもっている、と思います。もし完全に神の戒律を言うだけだったら、キリストは単なる他律を冷たく言うだけの、今でも箒で掃いて捨てるほどいる、世界中のクリスチャンと同格だったでしょう。しかし「ゆるし」を言った時点で、彼は戒律の世界が自律になりうることを示し、しかしついには、戒律に身をゆだねるように、この世を去った・・・というふうに私は思っています。その上で私がやはり不満なのは、自殺の問題がキリストの人生に見つけづらいため、クリスチャンの方の少なからずが、自殺を他律として論じる傾向にあるように思えることです。そして私のような非クリスチャン的理屈屋が、やや強引にキリストの死を自殺に近いものとして解釈し、自律の世界に近づけようとしたりもするのですね。もちろん、キリストの人生に問題がある、ということを言いたいのでは有りません。
 「自殺」というテーマからはやや離れてしまうように思えましたが、「戒律」「許し」というテーマが登場してきたので、私なりの、戒律の捉え方を、簡単に述べさせていただきました。

ネロ | URL | 2006-12-30-Sat 20:55 [EDIT]
 お初にお邪魔します。ネロと申します。
 たいへん精密な論理と感性に、感服・感動いたしました。
 うさねこさんのファンの知人の紹介でこのサイトを知ったのですが、予想していたより遥かに熱のこもったサイトで、驚きました。
これからもちょくちょく、お邪魔させていただきたいと思います。
 私は職業は医師なんですけど、ずいぶん、自殺者や自殺未遂者に遭遇してきました。うさねこさんのように思索を深めていく方向性と、私のように、現場で場当たり的なことしか考えないで自殺の問題に対処している人間では、全然、人種が違うものだと思っていました。けれど、うさねこさんの論考は違います。私のような人間にもしっくりくるものが確かにあります。
 こんな感想しかいえず、感想欄での華々しい論争にも参加できませんが、これからも頑張られてください。

小谷野です。 | URL | 2006-12-30-Sat 13:13 [EDIT]
私は、いつも自問自答する。
十字架上のイエスに向かって。
自分に対して正直であっただろうかと・・・。
現代人は、怖れを失ってしまった。
ドストエフスキーも言っている。
神は、何もかも許されていると。
人を殺すことも、物を盗むことも、少女を強姦することも。
しかし、それを知る者は、それをしないと・・・。
怖れを失い、神を侮る現代人に明日はあるのだろうか。
私は、いつも自問自答する。
おまえは、本当に神を怖れているのかと・・・。

小谷野です。 | URL | 2006-12-30-Sat 11:04 [EDIT]
 イエスは、全てを見通し、予知していたと考えるから、イエスの本当の凄さが見えないのです。イエスが、ただひたすらを神を信じ、神に従ったと考えれば、自ずと信仰の有り様が見えてきます。それが、イエスの死です。死に様です。人に侮られ、辱められ、背かれ、罵られ、茨の冠をかぶせられ、十字架に掛けられても、なお、神を信じ抜こうとし、最後に、神に向かってエリ、エリ、レマ、サバクタニと叫んだイエスの心です。

あなたは、まだ、イエスは無力だと侮ってはいませんか。問うべきはイエスにではなく、自分に対してです。

小谷野です。 | URL | 2006-12-30-Sat 10:42 [EDIT]
 我々が、見聞きできる、神の救いは絶望的な状況にしかない。人類の滅亡とか、国家の存亡のような秋(とき)です。しかし、神の救いは絶望的な状況でしか求められないのでしょうか。イエスは、最後の最後までそれを問い掛けていたのです。逃れようと思えば逃れられる運命、しかし、それは神の意志、定めに背くと信じたが故に、・・・。弟子達に、おまえ達の全てがわたしに背くという、非常なほど冷徹な言葉を残し、それでもなお自分の運命を受け容れようとする姿勢にこそ、イエスの真実があります。信じた弟子に裏切られ、しかしそれは、絶望ではない。それが信仰なのです。敢然と自らの全てを曝(さら)して神と対峙する。祈りの最中、逃れたい、できるなら取り除いて欲しいと真情を吐露し、それでもなお、これが逃れられない苦杯ならば、私は、あえてそれを飲みほそうと立ち上がり。弟子達のところへ戻って、誰一人、自分を起きて待てないことに憤る。それこそが真実なのだと思います。

 イエスの偉大さは、神への絶対的帰依にあると思います。イエスを崇拝してしまうと、かえってその偉大さが見えてこない。僕は、イエスが絶望的な言葉を残して息絶えたという事実こそが重要なのだと思います。復活再生も、最後の言葉の延長線上で捉えるべきであり、イエスの最後と宗教としてのキリスト教、信仰としてのキリスト教とは、切り離して考えた方が解りやすいと思います。
 イエスの最後こそがキリスト者に自殺を許さないのだと思います。生きる事、どの様な絶望的な状況においても最後まで、神を信じて生き抜こうとする姿勢、それこそが、神への信仰の証です。イエスが十字架上で逝ったという事実こそがキリスト教の全てです。それが人類の贖罪であるか否かは、イエスに問うべきではない。自分自身の問うべき問題です。

 死ぬことも絶望することも許さず、ただ、信じるままに自分の運命を神の意志をひたすらに受け容れる。一見受動的、消極的に、防衛的に見えますが、しかし、信仰は、能動的で、積極的、攻撃的なのです。
 やっぱり望んだ死ではなく。望まなかった死なのです。
 だから、神に向かって、わが神よ、わが神よ、なぜに我を見捨てたもうかと最後に絶句したのです。
 だから、真のキリスト者は、最後まで、自分の信仰を貫こうとする。迷い悩んでもです。それは、誰からに言われたから、聖書に書かれているから、死んで天国に行きたいから、神に救われたいからではなく、やむにやまれないからです。十字架上からイエスが見ておられるからです。そうしなければいられないからです。だから、イエスの弟子達も同じ生き方をする。

 今、絶望的な状況かというと、決してそうではない。しかし、だからこそ、神の救いが必要なのだと思います。

 十字架上のイエスこそが全てを雄弁に語っているのです。罪は、誰にあるのか。誰が、担うべきなのか。本当に人類は、罪を許されたのか。誰が、その罪を贖わなければならないのか。なぜ、未だにイエスは、十字架上にいなければならないのか。誰が、イエスを十字架に掛けたのか。イエスは、今でも、十字架の上から我々に問い掛けているのではないでしょうか。我々は許されたのでしょうか。

イエスの死は、自殺でしょうか。違います。殺されたのです。罪もないのに殺されたのです。そして、殺した側に我々はまだ立っている。ただそれだけです。悔い改めない限り、救いはないのです。
罪・信仰・自殺・補足的なこと
戸田聡 | URL | 2006-12-30-Sat 04:22 [EDIT]
うさねこ様へ。戸田聡です。補足のようなものですが・・・

> キリスト教の世界には極端に厳しい性的戒律がある。そしてそれを犯してしまうと、嫌が応でも、神に直面せあるをえない。
<

 前に書きましたように、キリスト者において性だけではないのだと思うのです。キリストの厳しい教えによって「罪」全般について考えざるを得なくなります。それとともにキリストの罪びとに対する優しさや何よりも「許し」ということを考えざるを得ない。神に直面するというか、神様について考えざるを得ない。というよりも、そのことを考えてゆく過程でキリストに惹かれてゆくものではないかと私は経験から思います。

 「自殺するなかれ」がキリストの教えとして書かれていないことについては前に書いたことだけではなく、もっと差し迫って予測できる「死」の問題があったということが関係しているとも考えられます。それは迫害と殉教・・・そのことは聖書においても触れておらえるし、ほのめかされてもいるように思います。当時の状況として当然第一に考えなければならない問題だったしキリストが言っておかなければならない問題だった、ということもあるのではないかと思います。

 自殺については語られていないけれども個人のキリスト者において、キリスト教の戒律ということだけでなく、キリストの言行と生き様・死に様から考えて、「キリストが自殺を喜ばれるとは到底思えない」と過去のそして今のキリスト者が考えても全く不思議はない。戒律的決め付け、つまり「自殺=地獄行き」には私は疑問を持っていますが、では自殺してよいかと考えると、どう考えても「否」ということになります。実際かなり追い詰められたような鬱の状態においても「自殺だけはできない」と踏ん張っているキリスト者がいますが、その動機は教義として教え込まれた戒律からの論理だけではなく、「キリストによって罪を許され生かされた者」として「自殺だけはしてはならない」ということが自殺念慮に直面したとき必ず起こってくるものと思います。情緒的ですが、まさに情緒的に、自殺はどう考えても罪である、キリストが喜ばれるはずのないものであるとキリストに絆(ほだ)されたキリスト者なら考えるのは当然なのだろうなぁと思います。結果は私の場合分からないけれど、それほど信仰の薄い駄目クリスチャンである私でもそうです。ここにおいても、性のみならず、罪を考えることがキリスト・神に直面することになるわけです。ではキリストの許しによって自殺の罪は許されるのか許されないのかという問題があります。それは繰り返しになりますが、前にも述べたように、自殺はしてはならないけれど自殺してしまったらその後のことは現世の思考では分からないことで神に任されるとしか言えないと思います。自殺が、他の罪と最も違う点だと思っています。

 文字通り情緒的なことしか書けなくて申し訳ありません。神学論なら哲学の対象になるのかもしれないし、論理的に神学を議論できるキリスト者もいるでしょうけれど、キリスト教・信仰は私にとって論理ではありません。

思いつくまま書いてみました。今のところ、以上です。

                        戸田聡 不具

小谷野です。 | URL | 2006-12-29-Fri 16:53 [EDIT]
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」
僕には、この言葉は、絶望的にしか聞こえない。
それが事実だとしたら。その事実の重みしかないと思います。

小谷野です。 | URL | 2006-12-29-Fri 15:14 [EDIT]
イエスるの死は、イエスの最後の言葉の解釈によると思います。
マタイ伝・マルコ伝の
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」
ルカ伝
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
ヨハネ伝の
「渇く」といった後
「成し遂げられた」
この解釈によってその意味が違うと思います。
僕は、
マタイ、マルコの言葉に感銘を一番受けます。
絶望の淵に神に救いを求め、
そして、最後に、全てを神に委ねる。
僕は、そこにイエスの全てを見ます。 
色々刺激をもらいました「自殺について」
戸田聡 | URL | 2006-12-29-Fri 05:39 [EDIT]
anthropos様へ。
 安易な意味づけに関する段落、了解いたしました。ありがとうございます。

>キリスト自身のせいであると思っているわけではありません。むしろ、後世の人々がキリストの死に意味を見出したということです。私もそうですが、普通の人間は、自分の死が意味あるものであって欲しいと願います。その方が安心できますから。だから、キリストの死に意味を見出す。キリストが全人類のために贖罪をなさってくれたのだから、われわれは安心して天国に行くことができる、と。そこに安易さが出てきてしまうのだと思います。
<

これは不可避的に訪れる「死」についてではないかと思います。そういう意味では私もその一人です(笑)。それは「死」が不条理であるがゆえに、不条理ではないと信じたいという切なる願いが私にもあります。これは安易というより私には一縷の希望にならざるを得ないものだと思っています。キリスト者においても「死」について必ずしも安心しきっているとは限りません。
 私は「駄目クリスチャンのML」というのに参加しています。「駄目クリスチャン」というのは、教会に不満がある・教会で酷い目にあった・私のように何らかの理由で教会に行っていない、等々で、そういうキリスト者が参加しています。キリスト教に興味はあるが洗礼を受けていない求道者にも参加している人がいます。そこではやっぱり「死んだらどうなる」「死ぬのは怖い」という意見も出てきます。私がいなくなるというのは誰も経験がないし来世に天国があったとしても、それは理解を超えていますから、私も死に直面すれば、やはり怖いのです。私も弱いのです。
 自殺となると、「自殺について」にも書きましたが、別のように思うのです。教義上、自殺については全く安心できない扱いがあるように思います。自殺者については話題にするのを忌み嫌いはばかる~残酷な見なし方があるような気がします。
 また教義上説明できない死というのもあります。それについても教義のためかキリスト者は、積極的に議論するどころか、話題にしたがらない傾向があるのを感じます。
 教義上説明できない理不尽な死について拙作投稿しておきます。実際にそれに類する体験が私にあるわけではないのですが・・・いわば思考実験的作品です。


  呪いの丘

晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという

彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った

人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された

誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている


丈庵様へ。
> 切腹による「死」はこれはまさしく形式美といえるものだと思います。むしろそこにはなるべく思想めいたものを混入させないのだと思います。
<

「切腹」は今の時代の自殺とは違うようには思いますが、「武士道は死ぬことと見つけたり」というようなことを聞いたことがあります。それが個人の思想なんて入り込めないものになって「潔さ」を否が応でも求められる。切腹に追い込まれる武士が、和歌だったかもしれませんが「(切腹なんて)いやだいやだ」みたいな意味のことを書いていたという話を聞いたことがあります。

N.W(うさねこ)様へ。
> キリストが、「不条理とギリギリのところで格闘していた」のではないか
<

 キリストほど孤独な人生を歩まれた人はいないと思います。生きているあいだ弟子たちは何か勘違いして強がっているみたいだし、いざ死に臨むとユダやペテロの裏切りだけでなく多くの弟子たちが離散してしまう。肉体的苦痛も耐えがたいものだったでしょう。加えて使命とはいえ「自分がここで死んで弟子たちが目覚めて伝道してくれるのか。くれないのならば自分の死は語られることもなく消滅してしまって犬死ではないのか。伝道したとしても自分の理想とは全く違うものになってしまうのではないか・・・」といったことを全く考えなかったか、実際のところは分からないけれど、考えた可能性は否定できません。弟子たちの目覚めと伝道はキリストの死後のことですからね・・・肉体を持った復活を福音書は説いているけれど私は否定も肯定もしていません。私にとっては聖書というものが現存し、それを通してキリストを知ったことのほうが奇跡といえば奇跡だと思っています。

>「逃避」だけで自殺行為が成立するとはなかなか考えにくいですね。死の不条理性を破壊するような、自殺というある種の精神行為への信仰的感情、ということですね。自殺する人間の意志の強さは疑うべくもないでしょうが、裏返し的に言うと、死の不条理さに向かいあわない「弱さ」がある
<

 自殺へ駆り立てる動機のようなものは生きることが死ぬことより怖くなることだと私は私の経験から考えています。そこに意味を問わない「弱さ」はあるでしょう。そして自殺へ向かい実行するときの「強さ」というものも経験外のこととして私は考えています。私は死ぬことも怖いですから(笑)。信仰に結びつけるのはちょっと疑問を感じますが、一歩立ち止まって死(生)について疑い考える余地さえ持たないという意味では、一種の信仰的感情なのかもしれません。集団自殺について考えたときの拙作書いておきます。


  解せぬ

自殺同好会
ではないはずだ
三途の川みんなで渡れば怖くない
なんてこともないはずだ
孤独ならば
なぜ集まることができる
集まったとき
いったいどんな顔を互いに向ける
鬱(ふさ)ぎこんだ顔のまま
向き合うことさえしなかったか
自らに向ける強烈な殺意によって
無言の約束だけが固く
冷たく凍りついていただけなのか
集まることができるなら
なぜせっかく集まった
者たちだけで・・・生きる
ことを考える人が
一人もいなかったか
お互い知ることは僅(わず)かなのに
なぜそれぞれが経てきた生き様や
経緯(いきさつ)について
生と死と死後について
話そうとしなかったか
あるいは話した上でのことか
それぞれが皆
苦しみぬいた末の結論に今さら
迷いを訴えることが憚(はばか)られたか
怖がりなら弱虫なら
人間関係を求めるはずだ
死ぬことだけを
助け合う集団・・・?
彼らは最後の最後に
なにゆえ強くあり過ぎたか

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/kaze3unko.htm

色々刺激をもらいました。感謝いたします。拝。

                  戸田聡 不具

丈庵さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-29-Fri 00:15 [EDIT]
 お忙しいところ、ご感想ありがとうございました。
 「切腹」という行為がいつ成立したものなのか、私は詳しくはわからないですが、世界の自殺の歴史において、最も形式性が強い行為である、ということがいえるかもしれないと思います。美的形式性というのは、それを追求すればするほど、「思想」からは遠ざかってしまうと考えられます。
  三島由紀夫さんが面白いのは、あれほど切腹に感受性を注ぎながら、なぜか「特攻隊」にはあまり関心を向けていないことですね。特攻隊というのは志願制が大半であったわけですから、自殺の一種であったことは言うまでもありません。しかし、形式という点では、特攻隊の世界というのは美的形式として、完成されたものでない、ということを、三島さんは考えていたのではないでしょうか。特攻隊の世界では「死」が「形式」によって完全に覆い隠されていない。特攻隊の世界は、「死」までの激しい苦悩その他、 「思想」が介在する余地が多い。三島さん的に言えば、「多い」のでなく、「多すぎる」ということになるのではないでしょうか。三島さんの自殺が幾重にも形式性をもっているのは、こういうところにも顕在化しているといえるのではないでしょうか。
anthroposさんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-28-Thu 23:38 [EDIT]
 ご感想ありがとうございました。
 おしゃるように、キリストの死の直前の、主よなぜ、私を見捨ててしまわれたのか、という言葉は、よく考えると、不思議な言葉ですね。私も、anthroposさんのおっしゃるように、キリストが死の不条理を意識していたのだ、と思います。あるいは、キリストが、「不条理とギリギリのところで格闘していた」のではないか、と言い換えてもいいかもしれません。そして、確かに、それはキリスト自身のせいではないですね。
 これを自殺にあてはめて考えると、矛盾した言い方になってしまいますけれど、自殺者は「安心」するために自殺するのではないか、と推測的に私は考察します。「逃避」とよく言われますが、「逃避」だけで自殺行為が成立するとはなかなか考えにくいですね。死の不条理性を破壊するような、自殺というある種の精神行為への信仰的感情、ということですね。自殺する人間の意志の強さは疑うべくもないでしょうが、裏返し的に言うと、死の不条理さに向かいあわない「弱さ」がある、ということにもなるでしょう。キリストの死を巡る私達の「弱さ」と、自殺を巡る私達の「弱さ」はどこかで酷似しているように思います。
 
日本人にとっての死
丈庵 | URL | 2006-12-28-Thu 23:25 [EDIT]
僕はベースにあるのが日本思想史ですので、その観点から出発しているのですが、日本人、特に武士にとっての切腹による「死」はこれはまさしく形式美といえるものだと思います。むしろそこにはなるべく思想めいたものを混入させないのだと思います。
教養の時代に入った江戸時代の武士でさえ、モノの役に立つ武士は死の覚悟をつねにもって事に当たり、路傍に骸をさらけ出す覚悟を求められています。死ぬべき時に死ねない、ためらいは、武士にとって恥ずべきことでしょうから、潔く死ぬためにも迷いの要素を取り払うために「考えない」ことも必要なのでしょう。三島にはそういった雰囲気を感じないでもありません。
僕としては、自殺であれなんであれ、「死」について考える時、その対極に位置する「生」について考えずに入られません。自殺未遂者ですら、自殺による「死」を語ることができない訳ですし、「生」を明らかにしなければ、そもそも語りようがない、そのように感じています。
戸田聡さんへ
anthropos | URL | 2006-12-28-Thu 11:54 [EDIT]
すいません、舌足らずでした。戸田さんのおっしゃるとおり、
>「何の意味もない、ただの死」という死の不条理性が覆い隠されてしまったから自分の死(生)に果たして意味があるのかという問いが生まれず、そのために安易な意味づけをしてしまう<
ということを言いたかったんです。
それから、「死の不条理性が覆い隠されているのはキリストの死が意味を持ったため」というのは、キリスト自身のせいであると思っているわけではありません。むしろ、後世の人々がキリストの死に意味を見出したということです。私もそうですが、普通の人間は、自分の死が意味あるものであって欲しいと願います。その方が安心できますから。だから、キリストの死に意味を見出す。キリストが全人類のために贖罪をなさってくれたのだから、われわれは安心して天国に行くことができる、と。そこに安易さが出てきてしまうのだと思います。つまり、死の不条理性が覆い隠されているのは、キリストのせいでは全くなくて、むしろ、われわれの弱さのせいなんだと思います。
キリスト教について、一般的な知識しか持っていない私が、キリストの死について云々するのもなんですが、とりあえず私の言いたいことはそういうことでした。

補足2
戸田聡 | URL | 2006-12-28-Thu 10:56 [EDIT]

 でも死の不条理性が覆い隠されている状態が機能しているというのは、キリストの死が意味を持ったためでしょうか。ごそっとキリストのせいにしちゃうのにはちょっと疑問を感じます。
 もっと別の深い理性とか知恵とかの欠如を考えてみたくなります。深いな・・・深く過ぎて私は・・・今はこの辺にしておきます。またその気になったら考えてみます。

                       戸田聡 不具
補足
戸田聡 | URL | 2006-12-28-Thu 10:35 [EDIT]
失礼しました。前のコメントについて
「何の意味もない、ただの死」という死の不条理性が覆い隠されてしまったから自分の死(生)に果たして意味があるのかという問いが生まれず、そのために安易な意味づけをしてしまうという考え方もありますね。・・・そういう意味なら分かるような気がします。
                      戸田聡 不具

自殺とキリスト教
戸田聡 | URL | 2006-12-28-Thu 09:51 [EDIT]
戸田聡です。

N.W(うさねこ)様へ。

> キリスト教の世界には極端に厳しい性的戒律がある。そしてそれを犯してしまうと、嫌が応でも、神に直面せあるをえない。
何もかも許されるようになっている現代のエロスは、全然エロス的でない、ということになるということになります。
<

 キリスト教は戒律宗教ではありません。と言ってはみても実際には保守的な考え方が昔からありますし、中絶反対や同性愛の否定などの動きもあるようです。
 珍しいことかどうか私には分かりませんが、欲望に任せて遊んでいる人が多い世の中で、性的倒錯などで悩んでその救いをキリストに求めている人もいるようです。そういう意味では「エロス」の問題も少しは理解できます。そういう人にとってはオナニーや同性愛などは罪のうちに入らないそうです(笑)が、救いを求める必死さには打たれるところがあります。
 キリストは教えにおいて性のみならず罪の定義については幾つか厳しいことを言っておられる。一方でキリストは「売春婦を助けた話」もあるくらい罪びととされていた人々に親しく接し、罪がないと思っている人々には厳しかった。キリストの教えの目的は「教えを守れ」ということなのか、もしそうならば無理難題だと思ったことがあります。拙作を載せておきます。

  罪のらくだ

「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・

主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか

主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです


  イエスの教え

 イエス・キリストの教えの中にある到底守れそうにない、無理難題としか思えないもの。前にも述べたが代表的な三つの教えを再びあげてみる。
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 一は心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれない。限度はあるだろう。二は十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理だろう。私はその方面は恵まれない者であったが性欲自体はごくノーマルだと思う。欲求不満がようやく枯れつつあるが、それでもやはり無理難題である。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。三になると死を覚悟しなければならない。これがまず難しいことである。守れるクリスチャンがどれだけいるだろうか。私はもちろん自信がない。さらにそこまでしてこれを守ることが他の人のためになるだろうか。この教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのである。極言すればイエスの教えを完全に守れる人はイエス御自身だけではないかとさえ思うのである。
 教えを守れる人がいるとすれば尊敬に値するし実際殉教した人たちがいるわけだから教えを無視することはできない。しかし教えを守れない人は天国に行けないのであろうか。イエスは罪を知る者には許しと癒しを与えた。イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の話を思い出す。犯罪人でさえ当然の報いだと罪を認め救いを求めた者には「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたキリスト・イエスであるのに何故あのような厳しいことを教えられるのだろう。
 イエス・キリストはやさしかっただけではなかった。戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのではないか。
 罪を知り、悔い改める者が天国へ行ける。この教えはヨハネに通じる。しかし悔い改めたら改まるのであろうか、もはや罪を犯さなくなるであろうか。目覚めて勇敢な使徒となった人たちは別として、私のように悔いても悔いても罪を犯し続ける人間もまた憐れむべき罪人として見抜かれて主イエスの視野の中に入っていたと思いたい。罪と告白と悔い改め、その繰り返しの中でキリストの前に悲しみと喜びをさらけ出しながらともに歩む人間を求めておられたし求めておられるように思えてならないのである。

> 自殺は死の一種の一種としてまだ大きい問題ではなかったとキリストあるいは12使徒は考えていたと思います。
<

 自殺について何か考えていたのなら、聖書に記事があってもよいのだから・・・あまり考えてもいなかったのではないかという気もしますが、まあ実際にどうだったかは私には分からないことです。

>「・・・するなかれ」の中に、自殺の問題が含まれていないことと、処刑前のキリストの激しい苦悩の間に、「自殺」的問題、が介在しているのを私はどこかに感じてしまいます。神に、地上での生命の終わりを予告されたキリストが、血の汗を流すほどに苦しんだことに関して、実は私は非常に不自然なものを感じますね。キリストほどの人が死の訪れについて、それほど悩む必然があったのでしょうか。自殺そのものではもちろんないとしても、「死」一般でない、何か特別な「死」がそこにあったのでhないか、という謎を私は感じます。
<

 キリストとはいえ肉体を持った人間として生きられたのだから・・・死ぬことに意味があったとしても・・・死を前にして苦しかったから・・・ではいけないのでしょうか。簡単に考えすぎかな・・・。またキリストの苦しみゆえにキリスト者は癒される・・・そういう目的かどうかは分からないけれど、そういう考え方もあるでしょう。

> キリストの「死」を聖書通りに解釈すれば「死刑」をこそ戒律で禁止するのが論理必然なのに、以後キリスト教団が「死刑」に関して無関心なのも、私には不自然なことに感じられます。
<

 キリストの死の解釈から即、死刑禁止という論理はちょっと理解しがたいですが・・・。キリスト教会が死刑に関してどう考えるか、考えていないとすれば私もおかしいと思います。

anthropos様へ。

> キリストの死には、「全人類の救済のために」という明確な理由・意味があります。もちろん、これはキリスト教の教理上でのことで、実際のキリストが自分の死をどう考えていたかは分かりません。彼が十字架の上で「神よ、なぜ、私を見捨てたまうのか?」と言ったことから考えると、自分の死の不条理さにうすうす感づいていたのではないか、という気もしますが、どうなのでしょう。
<

 よく言われることに詩篇22の冒頭の部分を言われたのであって、それは賛美へつながる文脈があり、それは言うまでもないことだからキリストは省略したのだという解釈があります。でもそれなら数ある賛美の詩篇の中からなぜ22章を選ばれたのかと私は思います。
 22章冒頭のインパクトが強いから、敢えてキリストは受難の苦しみを表すために、この絶望的な文言を選ばれたのかなとも思っています。迫る死の前に時間がなかったからか?とも思っています。確信というほどではないですが・・・。

> キリストの死に意味が見出されたということだと思います。それによって、「何の意味もない、ただの死」という不条理性が覆い隠されてしまったからです。この覆い隠しが機能しているあいだは、自分の死に(それは自分の生にというのと同じでしょうが)は果たして意味があるのか?という問いは生じない。
<

 キリストの死には確かに意味がある。だからといって個人の「死」という不条理性は覆い隠そうとして覆い隠せるものでしょうか。性の欲望と違って、自殺が大好きで死ぬ人はいないでしょう。自殺に至るあいだに多くのそれぞれの個人の葛藤や苦しみは、キリスト教を考えなくても、生じてくるものだと思いますが・・・。私のようなキリスト者としては

わが神、わが神、何故われを見捨て給ひしか
よりも前に
何故われを造り給ひしか、何故われを造り給ひしか・・・!

というのが日常的な問いと叫びのような祈りになっています。そう叫ぶのはキリストが叫ばれたから・・・ということと無縁ではないように思います。
 むしろ死というものに個人が安易な意味づけをしているのではないかということのほうを危惧しています。キリスト者であってもなくても。

最後に数日前に書いた拙作2作と、旧作1つ投稿しておきます。自殺と戒律に少しは関係しているかなと思うので・・・。


  集いと孤独

集いが団居(まどい)であっても
何か頼りなくて
本物なのかどうか
あやふやであるのに
孤独はいつも
きっぱり孤独だ
さらに
ときに集いはいっそう孤独だ
だから
どこへ行っても帰っても
孤独によって
死に誘われることのないために
行ってきっぱりと
あやふやな団欒を悦び楽しみ
帰ってきっぱりと
自らの拠るべき関わりにおいて
ひとりの人であれ


  神と人の立場

神の立場で物を言うな
裁くな
「人をさばくな。
 自分がさばかれないためである」
神の立場で裁くな
しかし
個人的感情から裁判まで
人を裁いている
捌(さば)いてさえいる
裁かねばならないこともある
耐えて怯(ひる)まず
悔いて恐れず・・・
神の立場で「裁くな」と言うな
・・・? そのときはいつも
自分も裁かれているのだ
その罪を知るなら
裁きは
神の立場と人の立場の違いである
神と人の関係である
罪と許しである
祈りである


  保守的

人工妊娠中絶は罪です
同性愛は罪です
同様に
売春と買春は罪です
不倫と浮気は罪です
離婚は罪です
生涯に二度以上
結婚することは罪です
生涯に二人以上の異性と
肉体関係を持つことは罪です
主の御言葉
「情欲をいだいて女を見る者は
心の中ですでに姦淫をしたのである」
情欲を抱いて女を見ることは罪です
罪を犯さずに
生きられる人がいるでしょうか

神様は
みだらなることを最も嫌われる
同性においても
異性においても
罪の軽重は神様がお決めになります
全知全能の
父なる神様は全てをご存知なので
正しく裁かれるでしょう が
ひとりひとりの人間の
詳しい事情も知りえない罪びとが
他の罪びとを裁こうとするなら
目の塵と梁の譬えに似てきます

人の罪を責める前に
自らの罪を省みれば
ねたむ神の怒りを恐れます
神様は永遠に
変わることがありません
人の中で
人が変えてしまうものがあるから
保守的であることを
貫くために
心と口に
神様への恐れと慎みが
与えられるように祈ります

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/kaze5faith.htm

(※分かってもらえると思いますが、「罪だから駄目だ・・・するなかれ」という戒律的な保守的内容ではありません。)

 結局、私が言いたいのは「『教え=守らなければキリスト者ではない、罪=するなかれ即ち禁止事項』という固着した倫理観=キリスト教」という見方には、抵抗や疑問を覚えるのみならず、むしろ反対意見だということでしょう。

以上、いつもながら情緒的な文章で失礼いたします。

               戸田聡 不具


anthropos | URL | 2006-12-28-Thu 02:55 [EDIT]
おひさしぶりです。
「キリストの死が、逆に死の根源的な不条理性を覆い隠しているのではないか」という指摘、なるほどと感じました。たしかにそうだと思います。「死の不条理性」とは何かと聞かれると、私は「何の理由・意味もなく、ただ死ぬこと」と考えます。それに対して、キリストの死には、「全人類の救済のために」という明確な理由・意味があります。もちろん、これはキリスト教の教理上でのことで、実際のキリストが自分の死をどう考えていたかは分かりません。彼が十字架の上で「神よ、なぜ、私を見捨てたまうのか?」と言ったことから考えると、自分の死の不条理さにうすうす感づいていたのではないか、という気もしますが、どうなのでしょう。しかし、キリスト自身が死をどう考えていたかはともかくとして、重要なのは、キリストの死に意味が見出されたということだと思います。それによって、「何の意味もない、ただの死」という不条理性が覆い隠されてしまったからです。この覆い隠しが機能しているあいだは、自分の死に(それは自分の生にというのと同じでしょうが)は果たして意味があるのか?という問いは生じない。しかし、倫理的な生き方にとって、この問いは非常に重要な問いだと私は思います。この問いがあるから、人間は倫理的であることができるのではないかと。ただ、ここで言う「倫理的」というのは、普通の用法よりも少し広い意味なのですが。
まとまりのない文ですが、今日はこれで失礼いたします。
哲学家K.Tさんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-27-Wed 17:56 [EDIT]
  うさねこ研究室へようこそ。ご感想ありがとうございます。K.Tさんの指摘、よく整理されていて、非常に重要だと思います。
  悲哀や自己嫌悪、絶対にかなわないもの、こういう感情的な面での自殺を私はひっくるめて、「宗教的」な自殺だとおおざっぱに考えています。たとえば、自己嫌悪の果てになぜ「自殺」という、無への跳躍が可能になるのか、といえば、自己嫌悪を抱いているこの自分さえも消し去りたい、ということだと思うのですが、ではその消し去る行為というのは、いったい何なのか、ということです。消し去る行為というのは、自己の行為の中の忌むべきものからは外れるのでしょうか。だとすると自殺は成立しません。絶対にかなわないものの存在のために自殺する、ということについても、自殺行為とその対象の意味関係が問題になります。私は一見すると感情的なものにこそ、宗教性や論理性がびっしり控えているのではないだろうか、と思います。
  K.Tさんやデュルケームの把握ももちろん非常に正確で、私の考えていることが的外れである可能性は高いと思います。しかし、社会学的見地から一歩踏みだして、自殺というものを考えたいと私は思っています。
  三島やヒトラーにしても、個別的主観性を吟味すれば、確かに思想的な自殺というものに分類されるものであった、に違いありません。しかし全く自殺行為としての普遍性を有していないのか、といえば、そうではない、ともいえると思います。たとえば、三島的なイデオロギーの信奉者、あるいはヒトラー自身以上にナチズム的なナチス党員が、酷似した状況でも自殺を選択しないのはなぜか、ということがあります。そこに思想的自殺として説明できないものが早くも生じるのだ、と私の場合、考えてしまうのですね。一切を破壊するのだったら、自殺という行為だって破壊してしまえばいいのですね。しかしそれはなぜか自殺者にとって破壊されない。死ぬのが嫌とか、政治的思想が原因とかで9割以上わかるけれど、それによって解明できない何かが自殺という行為に普遍的に存在する、ということに私は関心があります。

哲学家K.T. | URL | 2006-12-27-Wed 12:58 [EDIT]
>共感
アノミー(社会の価値観崩壊)型自殺です。
共有する価値観がなくなり、不安になって自殺するというやつです。精神的に帰属できるようなコミュニティの崩壊が上げられますね。自殺報道が自殺を煽っているとも考えられます。
>死が回顧できない    
ハイデガーの『存在と時間』にありますね。
>死の行為を選択する主観的普遍性の不思議さ  
一切を破棄するために他に選択する余地は少ないように思います。『自殺論』で書かれている、警察や軍隊の自殺も多いのも、アノミーとは逆に拘束の強い組織からの現実逃避なのでしょう。
→集団本位的自殺
>未開社会の自殺
デュルケイムのそれは儀式的な自殺の話ですね。現代社会の自殺とは程遠いように思います。
>三島、ヒトラー
これらの自殺は今社会で問題となっているような自殺とは程遠いです。まずそこには連合赤軍のようなイデオロギー、思想があります。三島には2・26事件の軍人の霊が憑依していたという話もありますが、命を賭すようなイデオロギー、思想の熱は、現代社会一般の自殺とはあまり関係ないと私は思います。

ヘーゲル的な「死=無=愛」の考え方を、きょうびの日本の自殺者はほとんど意識していないでしょう。むしろデュルケイムのいう「忌避」に近いかと思います。論理どうこうは頭にないでしょう。私の場合は、「悲哀」が包んでいました。絶対的に好きな人に対する依存と、それが絶対的に叶わないというどうしようもなさですね。私には、故古尾谷雅人さんや、自殺願望のあった伊原剛志さんのように、世の中がいやになる→自分自身がいやになるというのもありました。この辺まで来ると「自己本位的自殺」であり、芸術家的な感性の世界ですね。美輪明宏さんが言うように確かに、お酒が悲哀や、厭世感を増幅させてしまいます。
 論理的な部分から考察するよりも、人間関係から来る感情の部分から考察した方がより明確な視界が見えると私は思います。
再び戸田さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-27-Wed 10:36 [EDIT]
 再びありがとうございました。
 これはバタイユが言っていてなるほど、と思ったことなのですが、キリスト教というのは、最もエロス的宗教だ、というのですね。ここで言う「エロス」というのは、裏道的な修辞学に基づきます。キリスト教の世界には極端に厳しい性的戒律がある。そしてそれを犯してしまうと、嫌が応でも、神に直面せあるをえない。つまり性と神がわかちがたく結びついていて、エロスが最も高次の段階に聖性の次元に預けられている、ということですね。この修辞学で言うと、何もかも許されるようになっている現代のエロスは、全然エロス的でない、ということになるということになります。何も絶対的なものにエロスが直面していないからですね。これは正当なエロスの理解とは明らかに違います。
  私はローマ文明下にあったキリストの時代も、政治的や軍事的に追い詰められてしまった人達の話なんかを読むと、すでに自殺の習慣は顕在化していたとは思うのですよ。しかし戸田さんが言われることもわかります。自殺は「問題化」していなかったのではないかと思います。言い換えれば、自殺は死の一種の一種としてまだ大きい問題ではなかったとキリストあるいは12使徒は考えていたと思います。
  しかし、仏教ですと、このサイトによくいらっしゃっていただける小谷野さんが教えてくださったことなのですが、ブッダが自殺についてすでに考察しているんですね。これは非常に興味深いことだと思ったのですが、ブッダは自殺を一種の欲望(煩悩)と考えていた、のですね。もちろんキリストと同様、ブッダの存在や言葉の実証性には問題があると思いますが、いろんな想像が可能で、私はブッダ自身が自殺について悩んでいたのではないか、と思います。そうしますと、キリストの死というのは、私の考えに反して、自殺的「死」ではない、ゆえに、聖書には自殺に関してのキリストの言葉が見あたらない、ということも逆に言えることになります。キリストの人生に「自殺」が見あたらない、ということですね。
  しかし、それでもなお、「・・・するなかれ」の中に、自殺の問題が含まれていないことと、処刑前のキリストの激しい苦悩の間に、「自殺」的問題、が介在しているのを私はどこかに感じてしまいます。神に、地上での生命の終わりを予告されたキリストが、血の汗を流すほどに苦しんだことに関して、実は私は非常に不自然なものを感じますね。キリストほどの人が死の訪れについて、それほど悩む必然があったのでしょうか。自殺そのものではもちろんないとしても、「死」一般でない、何か特別な「死」がそこにあったのでhないか、という謎を私は感じます。もしキリストの「死」を聖書通りに解釈すれば「死刑」をこそ戒律で禁止するのが論理必然なのに、以後キリスト教団が「死刑」に関して無関心なのも、私には不自然なことに感じられます。
  
自殺とキリスト教
戸田聡 | URL | 2006-12-27-Wed 07:42 [EDIT]
戸田聡です。感想に過ぎませんが・・・

> キリスト教が自殺を禁止している、というのは、
> 私はキリスト自身が禁止する思想をもっていたとは
> 考えていません。
> キリストの言葉に、自殺を重要視する言葉は
> 見当たりませんね。

 キリストが自殺を禁止するような言葉を語っていないというのは分かりますが、それは自殺がキリストがおられるあいだ自殺が大きな問題となっていなかったからではないでしょうか。もし自殺が当時キリストにとって問題となっていたならば、キリストの生き様を考えると、キリストが自殺を肯定するとは到底思えません。もし自殺しそうな人がいたら何らかの手を差し伸べていたのではないかと思います。

> 沈黙的に存在している「自殺」を禁じる必要があるために、
> 教団教義としてもたざるをえないものだ、と思います。

 なぜ教義として自殺禁止を持たざるを得なかったかということを考えます。私は情緒的にしか考えていないので前に書いたように「生きて悔い改める機会がなくなるため」という意味において、この教義は正当であると思います。
 また人は神が造った創造物=神の所有物であるから、人自身が自らを壊す自殺は神への裏切りであるという考え方も私は肯定します。神のものは神が壊すべきものです。
 私が問題にしたいのはキリスト教会の権威を保つために自殺については「これは断じて禁止するべきだ。そうでないと教会の権威が失墜する」というようなことが論じられて禁止された可能性です。そしてその結果「自殺者=地獄行き」という通念があることです。死んだ人間がどこへ行くかなんて現世の人間に分かるはずはないと思います。自殺であっても死んだ人間は神に任されるのであって、現世の人間の意識外にあるはずです。地獄行きの決め付けには抵抗を覚えます。現世の人間が自殺者にできることは祈ることしかないはずです。
 あの世も天国も地獄も、この世の意識外のことであります。この世の意識で想像することはあってもよいけれど、この世の意識で同定できる世界ではないのです。

> 自殺を禁じない宗教(宗教教団)というのは実は
> ほとんどないのではないでしょうか。

前に集団自殺でニュースになったのがキリスト教系カルト教団だとすれば、それ以外の正統といわれるキリスト教団において自殺を肯定する教団はないでしょう。

> キリストの自殺的「死」

 自殺的とは思いません・・・個人の自殺とキリストの死は目的が全然違うように思いますが・・・。私見ですがキリストは、よく分からないけれど、ある時期からイザヤ書53章を成就するために磔刑による死を覚悟されたのかもしれません。

 キリスト者でも自殺した人はいるように聞いております。また自殺をほのめかすようなメールが来ることも事実です。そこには個人が保ちたい譲れない現世的価値があるのかもしれません。だとすれば神に委ねていないことになりますが、あまりに望みが叶うのが長引くと心を悩ます(これは聖書にも似たようなことが書いてあります)そして耐えられなくなるということがあるでしょう。。また病気や飢えによる苦痛に耐えられなくなるということ、病気そのものによる自殺もあるでしょう。そういう意味ならば私にも分かります。
 しかしそういう場合「楽になりたい」「早く天国へ行きたい」という気持ちがあるかもしれません。しかし地獄へ行くと決まったわけではないのと同様に、楽になって天国へ行く保証もないことは言うまでもありません。

 あとのエロティシズムの話はよく分かりませんでした。福音書で読む限りキリストは、花婿に譬えたりはしていますが、エロスの愛について語っているとは思えないので・・・。

哲学的感想が書けなくてすみません。今のところ、以上です。

                   戸田聡 不具
藤本さんへ 
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-27-Wed 02:54 [EDIT]
 ようこそ、うさねこ研究室へ。
 まず、自殺が果たして、遺伝子を背負うかどうか、という問題ですが、これは自殺の問題であると同時に「死」一般の問題でもあります。自分が死の瞬間、残された息子達の存在に蘇生するということで、「死」を超越できるのかどうか。哲学者レヴィナスは、それは可能だといいました。しかし、自分の死はあくまでも自分の絶対「死」である、ということも、同時に言える。そのいずれかが正しいかは、論理的に説明できません。言い換えれば、もはや恣意的になってしまう世界なのですね。
  あるいは輪廻を信じるといっても、自分の魂が死後存続することと、自分の意識が死後存続(継続)することは、全然違うのではないでしょうか。たとえ、魂が存続しても、この自分の意識がそのままでない限り、個体としての自分が存続するという考えは完全には成立しえない。広義の自殺論というのは充分ありうると思うのですが、私はなるたけ狭義(哲学的)に、自殺の思索を限定しようと思っているし、そのことにのみ大きな関心があります。特攻隊のような世界を考えても、国家のために自分の意識の消滅を超越した人々の精神性へのを私は完全に承認します。しかし、哲学的に思索の対象になるのは、やはり、自分の意識の消滅を、あくまで自分の個体の問題として受け入れている人達なのです。
  全人類が自殺あるいは消滅することにどういう思索が可能なのか、という藤本さんの問いは、以上の私の考えに対しての非常に裏道からの鋭い反駁になります。たとえば私がものすごい社会的な負い目を犯して、そのことで、最も愛する人間が自殺してしまったとき、私が半狂乱になってしまうことはありえます。比べて全人類(種族)が自殺・消滅することは、いっさいがなくなってしまうことなのだから、実は苦悩は少ないかもしれない。しかし最愛の人間が消滅することで半狂乱になることは、「残されたもの」と自分の死の関係、つまり自分の死が自分の死でないことを実は裏返しで証明することになるのかもしれません。「残されたもの」がいなくなったことで、自分の死が超越できなくなってしまうからですね。その最愛の人が、もし自分の子供というような、遺伝子的な存在であるとしたら、尚更でしょう。
  しかし、私はその仮説世界においてもなお、自分の死はあくまでも自分の死に他ならない、という考えを手放さないことが、自殺あるいは死における哲学的状況ではないか、と思います。私はどうしても、22世紀の宇宙計画なんかを楽しそうに語る人達の神経が信じられません。子孫(遺伝子)は生きてそれを経験できるかも知れませんけれど、消滅している自分、あるいは今のままの自意識ではなくなっている自分がそれを感じることはできないから、ですね。私にとって、人類全部が自殺・消滅することは、自分の自殺・消滅とは思索的に関係のないことだ、といわざるをえないことになります。
  「無」に関しての藤本さんのお考え、非常によくわかります。私の舌足らずもあったと思うのですが、この論考の中での「無」というのは、あくまで、意識の認識対象としての「無」に過ぎません。否定という精神行為が無を可能にするといっても、意識という「有」の世界あってこそ可能な行為です。ですから、明敏な意識家ほど、ニヒリズムを感じやすい。しかし、「ニヒリズム」と「無」は似て全く非なるものです。たとえば、「神」と「私」との間、あるいは自分の原存在と現実存在の間に、無限の乖離があるということで「無」という言葉を使いますが、私の言う「無」も、そういう意味だと考えていただければと思います。
  その上で、藤本さんが悩まれているという意味での「有」と「無」についてですが、私はこう考えています。たとえば、私達の体内を純粋物理的に分解すれば、水分とタンパク質の間の化学的反応があるだけで、そのどこにも「言葉」はおろか、「記号」さえも見出すことはできない。私達の考えるという、この「考える」いっさいが、存在しないということもいえる可能性が、実はないわけではないのです。私達が世界を認識するということ自体が偽者ならば、いっさいは「無」ということになる。しかし、信じるべき「有」の世界は、果たしてないのでしょうか。
  哲学史を紐解けば、信じるべき唯一のものは、意識ということになります。逆に、意識が離れた原存在というものをどんどん遡行していくと、私達は「無」の世界に果てしなく直面していく、ということになります。意識にしてみても、つかみどころのない無意識的世界に足を絡め取られている、という解釈が、意識を揺るがせにしていますね。紙幅の関係もあるので、結論的なことを言うと、私が信じる思索世界というのは、非常に意識中心主義的なものなので、原存在や無意識的世界の底なし沼、すなわち「無」の世界そのものがあるとは限らない、「有」すなわち意識の世界があってこそ、「無」の世界が切り取れるものだと考えています。藤本さんに近い世界といっていいものではないかと思います。
小谷野さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-27-Wed 01:38 [EDIT]
  私も自殺は思考の中断だ、とまず考えなければならないと思います。私も将来、自殺を試みる可能性が全くないわけではありません。しかし自分が、もし哲学的あるいは思想的に思いつめて自殺するのならば、それは「思考」が足りなかったら、ということになるでしょう。自殺は哲学・思想の敗北とさえいっていいでしょう。なぜならば、自殺行為が純粋である、あるいは死が純粋である、そういうことは実は最も懐疑的に思索しなければならないことだから、なのですね。このことは小谷野さんと私は意見が完全に一致するといってよいと思います。
 自殺がナルシズムと思うのは、私が論考の中で言いましたことなのですが、「高らかな精神的行為」と思うことと同じだと思います。最後に信じるべき何かがあるから、自殺できる、わけですね。それはサルトルを応用すれば、「無の自分」ということだと思うのですね。もちろん、おっしゃるように、これは完全な自己矛盾行為ですね。「信じる」というところに純粋性、精神性、つまり宗教行為性があります。繰り返しになりますが、哲学や思想はまずもって、宗教的な観念を疑わなければならないのですから、哲学者や思想家の自殺はさらに矛盾的だといわなければならないでしょう。
戸田さんへ
N.W(うさねこ) | URL | 2006-12-27-Wed 01:24 [EDIT]
 ご感想ありがとうございます。
 キリスト教が自殺を禁止している、というのは、私はキリスト自身が禁止する思想をもっていたとは考えていません。キリストの言葉に、自殺を重要視する言葉は見当たりませんね。私の論考では、自殺にはそれ自体で宗教的側面をもっているため、ほとんどの宗教が、沈黙的に存在している「自殺」を禁じる必要があるために、教団教義としてもたざるをえないものだ、と思います。自殺を禁じない宗教(宗教教団)というのは実はほとんどないのではないでしょうか。
  しかし、そうだとしても、なぜ、キリスト教団がより厳しく自殺を禁じているか、ということを考える必要はあると思います。私はそれはやはり、キリストの死と関係があると思うのですね。キリストの死は伝説である同時に、非常に謎めいた行為です。よくキリスト教は「性」に関して異常性を持ち、神が人間の「性」を独占しているという、屈折したエロティシズムがあるといわれていますけれども、実は「死」に関しても、そういうことがあるのではないでしょうか。キリストの自殺的「死」以外の自殺の在り方をいっさい認めない、そういうところまで、神が人間の「死」の在り方までもを独占している宗教、それがキリスト教という宗教の実に支配的なニュアンスをもった世界なのだ、と私は思います。
はじめて書き込みます
藤本泰久 | URL | 2006-12-26-Tue 22:29 [EDIT]
うさねこ様、こんばんわ。
失礼ながら、前回のレスをせずして、今回の論文の感想を書き込む無礼をお許し下さい。うさねこ様の文体に圧倒されてしまい、如何にしてリアクションして良いのか迷ってしまったのが原因です。ですが、今日は勇気を奮い起こして、二点質問したいと思います。


一つ、「自殺=無」という前提が頻出しつつ、論旨が展開されておりましたが、自殺した人間に子供がいた場合、その自殺者の遺伝子は受け継がれていることとなり、その自殺者は生きている、とも考えられますよね。すると、ある個人にとっての自殺に至るまでの苦悩というものは、仏教における輪廻転生も踏まえるとするならば、馬鹿馬鹿しいものになってしまう気がします。
 一人の人間(個体)から離れた自殺論について、うさねこ様はどう思われているのでしょうか。国家、民族、人種等々、くくりは何でも構わないのですが、一個人にとどまらない広義の自殺論に興味があります。
 無茶苦茶なことを申しますが、今この瞬間、世界に住む全ての人が自殺したとするならば、いかなる思索が可能でしょうか。


二つ、自殺の話とは少々ズレていますが、「自殺=無」なる、その「無」について、人間と動物の違いを述べていましたね。しかし、その「無」という発想の危うさは「無」に「有」の価値があることだと思います。「無」としてとらえてしまった段階で、すでにソコにあるものとして「有」と言い切ってしまうのは暴論でしょうか。「無」という単語が当たり前に使われた上、自殺についてうさねこ様が語っているのですが、私はどうしても「無」という単語に躓いてしまい、奥歯に物が挟まったような感じをおぼえます。
 「無」についてのお考えを披露して頂ければ幸いです。私は子供の頃から、「無」は「有」なのではないか、という難題に思い悩んでいます。「無」が存在しないなら全てが「有」であり、それ故に「有」という概念も存在しないのです。「有」も「無」もない世界観で「自殺=無」という定義に則った自殺はあるのでしょうか。

小谷野です。 | URL | 2006-12-26-Tue 18:03 [EDIT]
死んだ気になれば何でもできる。死んだ気になれずに、死を選ぶ。自殺は、常に自己矛盾の世界ですね。自殺するというのは、ナルシストのような気がしますね。自己愛の極致が、自己否定に至るのでは・・・。いずれにしても倒錯した世界ですよ。特に、心中・道行きは・・・。

小谷野です。 | URL | 2006-12-26-Tue 17:59 [EDIT]
以前から、僕は、考えることができないから、つまりは、思考力が停止するから、又は、決断できないから自殺するのだと思っていました。と言うより考えるのが面倒くさくなるから死んでいくのだと・・・。決められないから、衝動的に自殺するのだと。死ぬと思えは、後は、うさねこさんの言うように同じですね。昔から言うように死んだ気になれば何でもできると。一番怖いのは、めんどくさい、うざったいという事ですかね。このうざったいというのは何なんですかね。
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| | 2006-12-26-Tue 08:47 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
自殺について&イザヤ書53
戸田聡 | URL | 2006-12-22-Fri 17:03 [EDIT]

今日「自殺」についてのコメントを間違って
「戦争と平和」のコメントに書いてしまいました。
やっと「自殺の世界について」へのコメント書き込み
の方法と場所が分かりました。
 哲学的思考のできない戸田聡です。
もう直ぐクリスマスですが・・・

続きというわけではないし、
クリスマスに相応しい作ではないけれど、
加えて2作ほど載せておきます。
10年以上前と、2~3年前の旧作です。
前のも2~3~20年以上前に書いた旧作です。

私はクリスチャンのつもりですが、
決して自殺はしない
という約束はできません。
そういう駄目クリスチャンの
書いた作ですので・・・悪しからず・・・
もちろん自殺してよいとは思っていません。
でも生きているというより今のところ試しに
死なずにいるだけみたいなところあります。


  もうよそう

ひとりは首を吊り
ひとりはビルから飛び降り
ひとりは高い橋の上から飛び降りた
砕け散った肉や骨を拾うのが大変だったという
ひとりは死に際に哀しい視線で・・・
もうよそう
死ぬのに勇気は要らぬ
死を上回る恐怖があればいい
生きるのに勇気は要らぬ
死を上回る死があればいい
ストレスから逃げて逃げまくって生きてきた
そして死んだ自分を数えている
死んだ自分がまだいる ここに
ひとりの夜に対話する独語
団結はしないね
けんかもしない
いつかバイクの後ろに
いつも君が乗っている
スロットルを開ければ開けるだけ
君は笑ってついてくる

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/uso1.htm


  イザヤ書53

これは…まさに
キリストそのものではないか
これこそ預言の中の予言
先見とも言うべきものではないか
と驚嘆する

参考書はあっさりと述べている
イエス様もこの預言書については
当然すでに読んでおられたはずです
あれ?…そうか…そうだな…
なんだそういうことか

まてよ…と考える
イザヤ書を読んでおられたとしても
その通りに実行すること
成就させるということが
いかに苦しく困難な茨の道であるか
それに主イエスの偉大さは
死に様だけではなかったはず
癒し・慰め・知恵と知識・預言…
それゆえ世々の聖徒も今の信徒も
(私のような者でさえ)
主イエス・キリストと仰ぎ
その名によって祈り願い
唯一の希望・頼み・避け所・
拠り所としているではないか

さらに驚嘆する
イスラエル人が
期待していたメシアは
ダビデの再来ではなかったか
つまり武勇と知略によって
イスラエル統一国家を再興する
政治的宗教指導者
なのに預言者イザヤは
虐げられた末の
弱気でもあるかのように
屠(ほふ)り場に引かれてゆく小羊
の道を説いている

もしメシアがダビデのように現れ
敵を粉砕し王国を成していたなら
(少なくとも私という)
クリスチャンは今この世にいない

神の御旨によって
侮られ捨てられ打たれ
砕かれる悲しみの人を
敢えて預言したイザヤ
それを成就し
人の不義と罪を負われ許される
主イエス・キリストゆえに
主の打たれた傷によって
癒された人々の一人として…

今一本の蝋燭(ろうそく)を灯し
小皿に立てて祈るだけの
クリスマスを過ごす
(私という)
クリスチャンの端くれがいる

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/kaze5faith.htm

以上。失礼いたしました。

             戸田聡 不具


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ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学
ロドリゲスインテリーン 2009-11-30-Mon 00:15
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