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うさねこ研究室!(姉妹サイト「倶楽部ジパング・日本」もよろしくです)
哲学・文学論など人文科学的話題を織り交ぜた日記・論文を断続的に掲載したいと思っています
「時間」の世界について(1)

     放送大学とアニメしか観ない私でしたが、最近、私は休日の時にたまに、一日の大半、教育テレビを観賞し続けることがあります。教育テレビにはまっている、といっていいでしょう。別に私の頭が幼児化したということではないのですが(笑)怠惰なドキュメント番組や三文推理ドラマ番組など比べて、教育テレビ番組を、かつて子供の頃観たときと違う視点でみる方が、全然面白い。何か決定的なある面において、自分が積極的になれます。「テレビが悪い」というPTA的説教が意味するところは、受け身になって無思考になることを視聴者が強制されるということなのでしょうから、教育テレビと「大人」のかかわりというのは、PTA的には理想状態なのでしょうか。教育テレビの世界を観るときに使わなければならない感受性の幅というのは、大人のテレビの世界よりもずっと広い。・・・「道徳」の授業に使われる掌編の物語ドラマ・「音楽」の授業に使われる様々な楽器の話・「社会」の授業に使われる歴史から地理に至る様々なテーマの解説、というふうに、いろんな番組が矢継ぎ早に流れてきます。何より大切なことは、なるほど、「人間」をつくりだすための作為というものは、こういうふうなものなのだな、ということを感じることができることだといえましょう。
      番組の短い時間に、殆ど無駄がなく、一つ一つの場面にある、明確な意味付けを感じていくことができます。「子供向けのプロパガンダ番組」と悪口を言う人がいるかもしれませんが、「プロパガンダ」というのは、大人が大人を作り変えるという意味での作為、「人間をつくる」のでなく「人間をつくり変える」ということであって、世界が未知なるもの(子供の世界)を変えようという緊張感が全くない。だからつまらないし退屈だし、先が易々と読めてしまうのですね。教育テレビの世界というのは、そういう退屈さというものが、全然ない世界です。しかし、だからすばらしい、ということではありません。「プロパガンダ」というのは批判しやすいし拒否しやすい。しかし巧みな教育番組というのは、「何か」を逆に自然な形で私達に侵入させてきて、私達の一部としてすっぽりおさまって、結果的に完全な洗脳を達成してしまう。教育テレビの世界の面白さに浸っていると、段々と怖さが感じられてくる。もちろん教育というものは何処かに詰め込みということを伴わざるをえないことは理解できます。しかし「考え方」というものは強制された知識ではない。そこに洗脳といわれるものが登場する余地が生じうる。「洗脳」は洗脳だと批判できるうちは洗脳としては不完全なものなのですね。だから、教育テレビを観るということは、非常に怖いものを感じさせることでもあります。
      たとえば理科系の教育番組の大部分が、子供の頃は楽しく受け入れて、今の自分が観ていて全く受け入れることができない。苛々してくることさえあります。何もかも和やかに、そして子供の知的好奇心に沿うように、番組が展開していくのに、そういう違和感が増幅してくるのは、なぜなのでしょうか。たとえば、私達の頃がそうで、今の子達がそうかどうか断定はできませんけれど、私達は教育テレビの番組を観ていて、大人の世界の骨稽さを感じると、番組の終わった後、すぐにそれを茶化したものです。社会科の番組を観ていて、「こんな街なんかありえない」「工場はもっと汚くてうるさい」という印象なり知識を、登場する大人達を戯画化することでもって、番組の終わった後に楽しんだりしたものです。あるいは音楽の教育番組には、「実はこの人達より、流行歌の方がいい歌なんじゃないの」という類のからかいなど、ですね。もちろんそんなことをしていて大人達には怒られますが、こういうことは、大人の客観主義とは別の、世界の真偽への、子供達の鋭い挑戦の始まりとさえ言っていいでしょう。ところが理科系の教育テレビというのは、子供の戯画をはさむ余地がなかったことに、はたと気づかされました。もちろんそれは理科系教育番組ばかりに、というわけではないのでしょう。ただ「憧れ」と「権威」は表裏一体であり、その「権威」が、「客観主義」の衣を纏い登場する瞬間が、実はこの教育テレビの世界のいたるところにあるのではないしょうか。そして典型が理科系の番組にあるように私には思えたということです。
      たとえば生物関係の授業で、「数十億の細胞によって構成されている」という表現に、子供達が驚く、という番組内の雰囲気の作為をあげてみましょう。「数十億」のという数字のアナロジーが、いったいどこからくるのでしょうか。数十億が多いのか、少ないのか。私達は「数十億」の生物的存在というものに関して、殆どの人間が地球人口の認識が常に先行するように精神教育されていますから、「数十億の細胞」は、実は人口学的世界の数字認識を基準に「驚く」可能性が非常に高いといえましょう。しかし数十億の細胞数と、数十億の地球人口のいずれが基準的存在であるかは、本来無前提であるべきことなはずです。あるいは無前提であるように教えることが、正しい生物教育だと私は思います。「数十億」が地球人口の数に近いということで「多い」と捉えると(地球人口を「少ない」と感じる人もいるでしょうが)「数万」や「数千」という生物学的数字が登場した場合、それが「少ない」と感じる傾向になるでしょうが、「数十億」に驚くということが子供の「純粋」さではない、ということがいえてくると思います。しかし、私達は殆どの場合、ずっとこのつくられた「驚き」を子供の時からそのまま、ある種の固定化された知識として持続してしまっている。子供達の「驚き」がここにおいて、ある意味でつくりだされている。驚くということは確かに子供の哲学的特権です。しかしつくりだされた驚きはそうではない。私達はずっと驚いたまま、この「数十億」の数字の世界に置かれています。杞憂といえばこれほどの杞憂はないかも知れませんが(笑)あえて言うと、地球人口の数を超えた数字のリアリティを知らないことは、膨大に広がる宇宙やこれまた無限に微細な生物の世界のリアリティを知ることの何かの障害になるのではないでしょうか。
       あるいは「動物の神経の反射」をあげてみます。動物の神経反射は小中学の理科教育において繰り返されるテーマで、実験風景の楽しさとともに憶えていらっしゃる人も多いでしょう。神経反射自体を子供達に知識的に伝える。その実験の後・番組の結論において、「動物の神経反射も人間と同じなんだね」というニュアンスのコメントが頻繁に登場します。調べてみると、教科書にも同様なものが多い。自分の記憶をたどっても、確かにそうでした。しかし、これもおかしい。私達の刺激反応と動物の刺激反応が同一であるということは、実は何の根拠もありません。多くの科学哲学者が指摘するように、私達が「痺れる」と感じるとき・叫ぶとき(あるいは考えるとき)私達は「痺れる」という概念を了解して認識している可能性が高いわけで、「概念」をもたずに神経反射する動物達の反応と、何らかの差異があると考えなければなりません。当然、乳幼児の神経反射は微妙なものということになります。「言葉」を有しているかどうかの境界線ということですが、ここにまた、生物の世界を同一視するアナロジーが隠れて登場している。もちろん、人間と人間外の生物に、生物学的に同一な面は少なくありません。しかしそれもまた、無前提的なことではありません。動物と人間の共通項という前提が作為されていることによって、神経反射ということを理解する、という筋道がつくりだされ、以後、そのままずっと、私達の生物というものの理解を継続している、ということができそうな気がしてくる。難しい専門知識や科学哲学的認識をそ教えるべきだ、ということではありません。「人間と動物が同じ」ということを比喩したいのなら、何もこんな神経反射のところで、いわなくてもよいだろうに、と私は単純に思えるのです。
       私達にとってもっと身近な話になると「緑の地球」の比喩の世界があります。たとえば、「光合成」を巡る教育の話です。光合成による酸素の話をしながら、環境破壊を嘆くというニュアンスが登場します。「永遠なる緑の地球」の比喩の世界ですが、これも作為のたまものです。酸素というのは、私達にとって絶対必要なものであると同時に、最大に毒性の強いもので、酸素を倍加した空間の中でマウスの老化が異常に早くなるという実験結果にみられるように、過剰な酸素は体に最大の老化をもたらします。この酸素の毒性というのは、一般科学的にも殆ど完全な定説にもかかわらず、不思議なほど、一般論になりえていない。進化過程でもこのことは立証されており、この地上にはじめて生物が出現したのは約35億年前ですが、その後、光合成植物が出現した25億年前、短期間で酸素が現在の地球の千分の一まで増加したとき、その酸素の毒性についていけないために実は地球上の生物の殆どが一度絶滅してしまっています。つまり「緑の地球」になりはじめたとき、まさにその「緑」がゆえに、生物はあやうくこの地球から消えかかっている、というのですね。もちろん私達の環境破壊は嘆かわしいことですが、しかしそのことと、「緑=光合成植物」の増加と地球の繁栄を結びつけるのは、全く別の問題だというべきでしょう。たとえば世界の光合成を今より倍加させれば、地球上の生命の寿命は短縮し、地球はある面において「荒廃」する可能性が高い、とさえいえるのです。ヨーロッパには「緑の政党」なるものもあって、「緑の地球」の比喩を心の支えにして、環境運動に奔走している人間はこの地球上に少なくないように思えますが、「緑の地球」の比喩がいったいどこからスタートしているのかといえば、これも教育番組以来、脳内の住人になっているといえるのではないでしょうか。
       もちろんこうした作為の一つ一つを指摘していけばそれはきりがないことだし、作為が善意か悪意かは、必ずしも明白なことではありません。間違いを指摘したいのではありません。つまり、教育批判が本稿の目的ではありません。「数十億の細胞」といい「神経の痺れ」といい「緑の地球」といい、そうした作為の背後には、多くの人によって無言に多数可決された「承認された世界」というものがある。繰り返しになりますが、その一つ一つを覆す、という単純な権威破壊的なことはあまり私はありません。教育テレビを観る。「承認された世界」のからくりを知っていく営みの中で、この「承認された世界」の根幹はいったい何なのだろう、と考える、ということです。私達の日常の背後には、まるで「物自体」のように、「承認された世界」というものがあって、私達の日常がその反映である、という、実にドイツ観念論的錯覚、というべきでしょうか(笑)端的に言えば、教育テレビにしても、教育書にしても、それに触れることで、「承認された世界」以前の無前提的世界へと、遡行したい、「承認された世界」の作為が色々明白になる段階で、この「承認されたの世界」で最も崩壊しにくく存立していて、しかしその反面、崩壊したらば何もかもが危うくなってしまうものはいったい何だろうか、と考えたい、そういう欲求が湧いてきた、ということですね。「数十億の細胞」の営為が解体しても、私達の「承認された世界」は揺るがないでしょう。「神経の麻痺」も「緑の地球」もまた然り。それらは間違いをきちんと修正して、再び、「承認された世界」に舞い戻ってくるでしょう。それらは決して、根源的な「承認された世界」の要素ではないから、です。
       私達の「緑の地球」の比喩なんかにも典型的に現れることですけれど、私達は、数世紀の後の「理想社会(地球)」という理念を、小中学の時から教えこまれる。私もかつてそれに胸を躍らせたし、今の子供の大半も多分、同じではないかと思います。しかし数世紀後の自分は存在していない、ということを考えないようにするからこそ、数世紀後の世界について、自分の事のように喜べる、という恐ろしい矛盾に私達は気づかないということも、実は同時に教え込まれているので す。確かに驚きは子供の哲学的特権ですが、しかし数世紀後の世界に自分がいない、ということの不思議や恐怖が、子供の哲学的感性というべきで、実は未来世界への理想主義というものは、その感性を破壊したところに存在している。「23世紀とは何か?」という問いに、「23世紀は23世紀でしかない」と訝しむように、私達は次第に慣らされます。ここまでは「承認された世界」への懐疑の一例にしか過ぎませんが、ここから先に私達の「承認された世界」を根本的に揺るがせにする、「時間」についての「承認された世界」というものが広がっているように私は思います。
         子供達にとって「未来」ということが、哲学的感性に基づいた大問題から、理想世界論その他の限定を著しく受けた認識へと移し変えられてしまう。私達が存在する全く可能性がない未来時間だけではない。私達が存在する可能性がある未来ですらも、それは可能性であって確実ではないのに、それが実在するような気がする。それが何であるかは、実は私には判然としない。「来年の自分」「明日の自分」の「来年」「明日」ということについて、私達の「承認された世界」は何か違っていたのではないだろうか、という疑いが、実は子供の哲学的感性からそぎ落とされたまま、しかし私の中には残存しつづけているように思います。「来年」の自分や「明日」の自分が今のようにあるとは百パーセントの保障はないのに、なぜ「ある」ような気がするのだろう、ということは、古くからの問いであり、しかし依然として新鮮な問いでもあるのですね。子供の時の微かな記憶で、私達の明日・来年・そしてその後の無限の未来・死ということに、感性的に思いを至らせていたはずなのですね。もちろん、どの教育書にも教育番組をひらいても、そんな類のことはどこにも書かれていません。「未来」ということはいったい何なのだろうか、ということを疑わないところに、私達の世界のいろいろは存在しています。疑うということは当然、未来の非在ということを考えるというわけですが、「時間」への疑問が全面化して、私達が承認していたはずの「未来」が崩壊したら、いわゆる理想社会だけでなく、約束、子育て、家族形成、社会建設、そういう「未来」にかかわるものの一切のものがぐらついてくるのです。
      「時間」についての「承認された世界」への懐疑を、未来的世界でなく、反転して、過去的世界に向けてみて、懐疑を考えてみると、私達のぐらつきは、よりひどいものになる。はっきり言って、立っていられないくらいのものになる。なぜなら、「過去」は自分の人生的時間の範囲でしたら、それを経験してきたという実感があり、自分の人生的時間の範囲を超えた範囲のものでしたらそれは証言や物証によって存在してきたように私達は考えるからです。私達にとって、存在していたはずの人生の色々な苦楽の段階が、果たして存在していたのか、と考えることは、「承認された世界」の安定した住人からすれば、狂人の行為の一種となるからです。個人の人生的過去が崩壊するだけならそれはある意味で重大事ではないかもしれませんが、「過去」の実在性が崩壊するということは、人文科学・社会科学・自然科学の殆どの基盤を危うくすることを意味します。しかし、にもかかわらず、私達は自分の人生的時間をこえた時間を、体感的には知らないはずにもかかわらずなぜそれが認識できるのかという問い、そして私の人生的時間の過去とはいったい何か、という静かに眠っていた問いは、教育テレビの、「承認された世界」の創造を観るにつけ、再び蘇るように思えてきました。・・・疑われない「時間」というものがそこにある、ということですね。「過去」に関していえば、「私がいた可能性のある過去」と「私がいる可能性のない過去」の双方が、果たして実在するどうか、という問いかけですね。こう考えると、いわば教育テレビは「パンドラの箱」みたいなもので、変な大人の私が観るとずいぶん罪つくりな世界に変貌してしまう、ということでしょうか(笑)
        私は前回の自殺論で、「否定」ということを知っているということは「無」を知っていることであり、「無」を知っていることは自殺という否定を人類が言葉を知っていることから導き出せることだ、といいました。このことに関して、一部の読者から「果たして人間だけが否定を知っていると言い切れるのか」とその見解について疑問を呈示されました。が、動物の意識が不明だとしても、否定ができるのは、明らかに言語的動物としての人間だけです。様々な動物が、数字や色や食べ物に人間同様に反応したりします。動物は賢い、と私達は印象を抱く。動物は優れた直観的本能によってそれを判断している。しかし、改めていいますが、動物は、目の前の「物」に対して、刺激的に反応しているだけです。そこにないものに対しては反応できない。いい証拠に、動物の目の前に「ないもの」のカードに反応する実験をしてみればいいでしょう。「青色のカード」に行くことはできても、「青色でない」カードのところにいくような動物の行動ということはありえません。あるいは自然世界を考えてみて、たとえば狼が、ある場所に行くと必ず食物を得られるということで、一定の時間に一定の場所に必ずいく。ここでまたしても、神経反射と同じ、人間と動物の共通項のアナロジーのフィクションが登場しているわけですが(笑)では狼が、そこに行く以前に「あの場所」「あの時刻」ということを認識しているかというと、決してそうではありません。今の場所が「あの場所」でない、今の時刻が「あの時刻」でない、という否定的了解をしているわけでなく、天体の動きやその他体内の生理的システムから、「あの場所」「あの時刻」へと移動するのです。つまり「あの場所である=あの場所でない」「あの時刻である=あの時刻でない」というふうに、私達は否定を通じて、それをセットにして、対象の実在性というものを確保できる。目の前に「ある」というだけでは、対象の実在性を確保することはありえません。ですからもちろんのこと、自分の生命について、「自分の生命がない」という状態を認識することは不可能で、当然、動物に自殺はありえない、ということになります。
      そして、「否定」の世界は、私達にとって、自分達が目の前にないものを次から次へと理解できることを意味するように思われます。ここにおいて、私達は、自分の目前にないものとしての「自分がいない世界」すなわち「世界」への認識というものをスタートすることができるようになると思われます。「自殺」ということも、否定(自分が存在しないこと)を知った瞬間から私達に嫌が応なく訪れた不幸だということになりますが、実は私達にとって「時間」もまた、この否定的了解によって生じるものだと考えられます。なぜか。ただ漫然と流れる今が、「過ぎ去ったとき(過去)でない」あるいは「これから来るとき(未来)でない」ということを了解できるときに、私達は独立して「現在」ということを理解できるようになるから、です。「無としての現在」が、「実在としての現在」の認識と、表裏一体のものとして私達に登場してくる。事物の認識における「否定」の存在は、「世界」ということの認識を私達に教えた、と私は考えますが、現在の認識における「否定」の存在こそが、私達の「時間」の認識のスタートだ、というふうに私は考えます。「否定」を知っている動物が人間だけなら、「時間」を知っている動物も人間という言語的動物だけだ、ということができましょう。
       狩猟採集民族と農耕民族の文明史的考察は本稿の主要な論題ではありませんが、「時間」の認識ということについて考えると、狩猟採集民族よりも農耕民族の方が、ずっと「無としての現在」を知らなければ農耕行為が成立しないのは明らかで、人間と動物との意識の違いが鮮明になります。もちろん狩猟においてさえ、私達人類と動物は、言語取得による否定によって、その方法は明確に別れます。「獲物を待っている」の「待っている・・・」に、人間の待機行為には「・・・まだ来ない」ですが、動物の待機行為には「・・・まだ来ない」という否定性は含まれないと考えられます。「待つ」という行為は、人間にしか成立しない否定的行為であるともいえましょう。が、しかし、表面をなぞるだけですと、多くの面で、動物の狩猟方法と類似しているともいえます。「待つ」行為において、その場の嗅覚や地面の動きその他、動物
的能力がねければそれは成立せず、否定的判断が正面に現れるということはありません。狩猟には自然的現象に対する直観的把握という面において、動物に似た能力が必要といえるでしょう。考えてみれば、メディアで展開される動物の「賢さ」の演出も、その殆どが、狩猟的レベルに還元できる刺激や反射を巡りなされているわけです。
      ところが比べて、農耕的な世界というものは、絶えず、「在る」背後の「無い」世界を認識しなければ、絶対に成立しないようになっています。言い換えれば動物に農耕は(たとえ農耕技術自体を身につけたとしても)決してできない。農業収穫は、それがたくさん「ある」年・時間に、「ない」年・時間のことを考え、種の量その他を考えなければ成立しないから、ですね。大河の氾濫や害虫の襲来などの予防的側面も全く同様です。「世界」や「時間」を認識した生物でなければ、農耕という営為をおこなうことはできない。たとえばよく文明史的説明が、農業生産の上昇により、食料供給が安定したから、古代文明の進歩が始まった、というふうに言いますが、私はそういう統計学的説明よりも、「否定」という言葉の契機が、農業生産の創始とともに飛躍的に高まり、そのことが、「世界」や「時間」の認識を大きく向上させ、文明の各分野の展開を創始した、という説明の方がより説得的なものに思えます。そこまで言うと、ある種の「否定論ドグマ」のように聞こえるかもしれませんが(笑)人類にとって「否定」こそが、エデンの園で不意に知ってしまった知恵の禁断の実であった、ということを、私は妥当と考える立場を採ります。     
      しかし、「否定」ということが時間の認識の始まりだということがたとえそうだとしても、時間を巡る「承認された世界」は全く揺らぐことはないでしょう。つまり、このことは「時間」の起源を説明するだけで、「時間」の認識の構造を考えることは次の段階だということになります。たとえば、時間認識を本格化した文明初期段階の民族と話をすることができても、彼らは現在と「現在でない時間」の区別ということまでは私達と同意できますが、「現在でない時間」がただちに「未来」や「過去」を意味するとは限りません。人類学的指摘によると、アフリカやアジアの部族のいくつかには「未来」を意味する文法が存在しない。あるいはヒンズー教徒の時間にとって、「過去」は私達近代文明人が考える「過去」とは全く異なったものなのです。このことは、まずもって、私達にとって、「過去」や「未来」ということが、相対的にしか存在しないことを、文明史的なレベルにおいて、まず教えているということができます。
       大体、「現在」ということからして、私達は定義しないまま、その概念を鵜呑みにして日常使用していることが、ほんの少しでも立ち止まって考えるとすぐにわかります。たとえば、「現在」が一瞬間・一瞬間の連続であるという物理学的時間論を突き詰めても、「現在」というものが「一つの時間」として成立するのはいったい何時なのか、という答えは全く出てきません。「一瞬間」といっても、それがどんな範囲かということは、時間計量的には定義が不可能です。たとえば今から五分間くらいの狭い範囲が「現在」だ、としても、その中にいろんな激しい出来事がたくさん生じ「おまえは今いったい何をしている」という答えに対して、五分間よりも更に短い時間に「現在」的概念がたちまち幾つも成立してしまう、ということもいえてしまでしょう。しかし「出来事」が基準か、というと、そうも言い切れません。出来事が全く生じず、意識も無意識的な限りなく空無に近い状態においても、「現在」が成立する余地は充分あるといえます。「現在」論は後述のテーマなのでここでは深入りはしませんが、いずれにしても、私達は「現在」ということさえも不明なまま、「時間の世界」に住んでいる、という指摘が可能ということになります。
       「現在」さえも不明な「時間の世界」の不思議さの一例に、モーゼス・メンデルスゾーンの詭弁的表現の一つをあげることができるでしょう。その詭弁に曰く、私達の時間が量的連続だとすると生の連続は確認できるが、死の段階に移行する瞬間というものは確認できない、ゆえに私達は死なない、というものがありますが、つい笑って見逃しがちなこのメンデルスゾーンの詭弁に、実は、私達の時間認識の構造の問題への問いかけの始まりがぎっしり潜んでいる、といえます。もちろん「死なない」というメンデルスゾーンの認識は間違っている。しかし私達が瞬間から瞬間に移行する場合の「瞬間」が「一つの時間」であるということはどういうことなのだろうか、ということ、最も明白だと思い込んでいる生から死に移行する「瞬間」さえも認識できない、つまり、「死ぬ瞬間」ということが「一つの時間」として成立することさえ疑わしい、ということが、メンデルスゾーンの認識の意味するところなのです。しかし「死なない瞬間」と「生きていた各瞬間」がアナロジー的に確立し継続するという思考法は出鱈目です。現在と過去を連続的に考え、どちらかの否定がどちらかの肯定につながるという単純な(しかし私達の殆どが陥っている論法)に、このメンデルスゾーンの詭弁は陥っている、といえましょう。なぜこういう誤謬に陥るかといえば、現在と過去のいずれかが「本質」である、という前提を、メンデルスゾーンが考えているから、というべきでしょう。「現在」の成立の難しさがそのまま「過去」の成立しやすさに流れるとは限りません。つまり、現在と過去、さらには未来のそれぞれが、全く別個の概念であるという前提から、各概念に向かって考えることが、時間論に関してのスタートラインである、ととりあえず考えるべきでしょう。時間は何処かに本質があると思うと、たちまちこのような、「本質」と「偽物」のアナロジーに陥ります。カントは、時間論というものは、「時間とは何か」という総合的懐疑だと見えにくくなるもので、「時間とはいろんなところでいかに別個に存在しているか」という分析的懐疑対象である、といいましたが、これはなかなか妥当な見解だといえると思います。
        分析的懐疑対象としての時間ということで思い浮かべるのは、たとえば、サルトルの小説「嘔吐」に、存在を巡ってのロカンタンの有名なマロニエに木を巡っての嘔吐感の場面とは別の場面にある、「時間」を巡ってのロカンタンの次のような認識論なのですが、ここでロカンタンの言葉を借りてサルトルが言いたかったことはいったい何でしょうか。
      「・・・束の間の輝きからは、もはや、何も残っていなかった。・・・周囲を私は不安気に眺めた。現在だけだ。現在以外のなにものもなかった。それぞれの現在に閉じ込められた軽くてしっかりした家具、テーブル、ベッド、鏡つき洋服ダンス・・・そして私自身。現在の真の性質が暴露された。それは存在するものであった。そして現在でないものは全て存在しなかった。過去は存在しなかった。少しも存在しなかった。事物の中にも私の思想の中にさえも存在しなかった。・・・確かに、久しい前から、私の過去は私から逃れ去ったことがわかってはいた。しかし今まで、私は過去が私の手の届かないところに引込んだだけだと信じていたのである。それは存在の別の仕方であり、休眠の状態・活動停止の状態であった。事件がそれぞれ結末を告げると、それはおとなしく箱の中に整列して、名誉ある事件となった。それだけに、無を想像することは大変な骨折りなのだ。だが私は知った。事物は全くそうらしく見えるもの、それだけのものであり・・・そしてその<背後>には、何もないことを・・・・」
       私達にとって、「過去が存在しない」ということは、否定的に考えるか肯定的に考えるかということ以前に、あまりにも漠然とした言い方、のように聞こえます。文学においても「過去」ということは、無数の回数使われてきたでしょうし、ある意味で軽い、詩的言語の一種のような気もする。しかし「私の思想の中にも(ない)」というくだりになると、「それはおかしい」というふうに言われるのではないでしょうか。少なくとも、私の思想(頭脳)の中には記憶という形での「過去」が存在しているではないか、というふうにです。しかし「記憶」が存在するからといってただちに「過去」が安定して存在するかというと、そういうことにはなりません。
       大概、私達は数年前の記憶・数年前の記憶・数日前の記憶のそれぞれが、何かの秩序をもって、線的に整理されているように思っています。この時間的秩序が狂うと「ボケた」と思われがちです。一年前にあったことを一ヶ月前にあったように思い込んだり、子供の頃にあったことを先週にあったかのように思い込んでしまう。ひどくなると、食事など日常的生活においても生じてきます。「ボケた」人間が正常な人間にとって痛ましく思えるのは、その人が生きてきた様々な「過去」から遠ざかった存在になってしまったかのように感じられるからです。「過去」を共有しているからこそ、愛情その他の様々な感情が共有できているという了解が私達にはある。ゆえに記憶が混乱した人間はその共有ができなくなったことを意味してしまうのです。しかし、その「ボケた」人間の、脳内生理力がデータ的に異常を来たしたのは確かだとしても、その人間が「過去」から疎遠な人間になったかということには、懐疑的にならざるをえない、といわなければなりません。言い換えれば、私達が「過去」を共有しているのかどうかということは、幾重にも疑って考えなければならないことなのです。
        たとえばアリストテレスやアウグスティヌスが確立した古典的時間論の指摘の一つに、人間が物事について出来事を思い出すとき、思い出している今と思い出しているその出来事の間の、「その間の時間」が全く存在しないということはいったいどういうことなのか、というものが存在します。記憶とは何かということについても実は一筋縄でいかない問題が様々あるのですが、それはひとまず置いておくとして、私達は昨日も昨年も20年前に関しての記憶も、それらを現在において同じく思い出していることには変わりない。各記憶はそれ自体では、「思い出す」行為の前において、どれも平等的に存在している、ということです。20年前だからといってより思い出すのに長い時間がかかるわけでもない。ただ、次のことが問題になります。私達は思い出すときに、その思い出す行為に、「あれは20年前のことだったな・・」という、時間の線的認識を付加して、「思い出す行為」を二重化しているのです。この線的距離を一気に超越たような気になって、昨日の記憶と20年前の記憶が等しく思い出すことができるために、私達は歳をとればとるほど、時間の経過ということを記憶とワンセットにして、時間の経過に対して感慨をいだく、ということができるようになる。これが「その間の時間がない」という古典的時間論の指摘の一つの帰結ということになります。ここにおいて時間の「線」的認識ということの問題があらわれてきます。私達は思い出す行為の中で、実は記憶の秩序化の作為を通じて、時間に何らかの秩序化を施しているのです。
        そう考えると、記憶・時間は線的存在でなく点的存在だ、という指摘に陥りやすいですが、しかし、実のところ、「点」である、という指摘すらあやしいのです。多くの時間論を巡る思索家が言うように、私達は思い出すとき、その時と全く同じ生理状態に自分を再現できることは不可能です。どんなに苦しいことであっても、全く同じ状態になるということは不可能なのに、私達は「思い出す」行為が成立しているかのように了解しています。言い換えれば、「思い出す」行為というのは、過去を再現しているのではない、ということですね。すると、「点」という喩えさえも問題が出てくるといわなければなりません。「思い出す」行為が謎だ、と言いたいのではありませんが、思い出す行為というのは、ある意味で、非常に限定的な行為だという認識が大切だと思います。にもかかわらず、私は文明の至るところで、この思い出す行為に過重な意味を感じるように考え、この行為を通じて、過去というものの実在化ということができるかのように考えています。この作為を見抜いていたアウグスティヌスは、「過去は場所ではない」と主張し、「魂の延長」というところにしか過去はないのだ、と巧みな表現を用いました。こうした考察は、「過去は存在しない」というロカンタン(サルトル)の過去不在論のロジックの第一段階を意味するものである、といえるように、私には思います。
        アウグスティヌスの「過去は場所ではない」という言葉にここでとどまってみましょう。「場所」とまでは言い切れないとしても、「過去」は何処かに存在しているかのような了解が、私達にはあるような気がします。ここに、実は過去論の主要部分である、時間の空間化ということの問題が存在しているように思われるからですね。たとえば私達は物理学的時間論の殆どが、客観主義の衣を纏いながら、実は、時間の空間化をいたるところに施した上に成立しているきわめて貧弱なものだということ、をまず認識できると思います。物理学の世界の時間論というのは、実は空間的比喩だらけで、その比喩そのものに関して、自省的ではないのですね。時間は「線」でも「点」でもない、「線」も「点」もそれらは比喩的空間の世界にのみ存在するものだ、と考えるときに、私達は物理学的時間論に支えられていた自分の時間認識に気づかされるのですが、しかし一見すると時間を、物理学的認識から離れて分析しているような時間論にも、この空間化という作為が施されています。「時間の空間化」ということは、私達文明人の殆どが身につけている作為だといえましょう。すなわち「時計」にせよ「人生」にせよ「歴史」にせよ、私達は「数える」という行為によって、時間を抽出し、空間化の作為を通じて、「時間の世界」に安住することができるのだ、といえるでしょう。それが崩壊し、「承認された世界」の何かが崩壊するとき、「嘔吐」のロカンタンのように、時間に対する崩壊感覚が自分達に訪れる、ということになるといえる。
        たとえば、真木悠介(見田宗介)氏は、時間論の名著と言われる「時間の比較社会学」で、原始共同体=無限反復的時間・ヘブライニズム=線分的時間・ヘレニズム=円環的時間・近代社会=直線的時間という4分類を行い、欧米や日本の近代社会においては物理学的時間論の延長である直線的概念であり、近代人の殆どがその直線的な客観的時間から疎外されている状態にある、と説明しました。これは非常に見事な分類であって、確かに、近代社会における時間概念は直線的なもので、物理学的な平板さを有しており、実は根拠の不明な時間概念といわなければならないのです。が、「線分」「直線」「円環」その他の概念を使うときに、真木氏は「時間の空間化」という、時間論の根源的な落とし穴にすでに陥っている、といわざるを得ません。「直線」だろうが円環だろうが、「時間」は「時間」なのであって、「空間」ではありません。比喩が実体化しているということに意識的でないまま、私達は時間を語り続けているという誤謬に何時までも取り付かれてしまうのですね。大森荘蔵氏は真木氏の時間論を「早トチリ」と揶揄しましたけれど、真木氏ほどの社会学者でも、なかなか「時間」と「空間」の区別が読み取れないところに、時間理解の難しさの一端を垣間見ることができましょう。そして真木氏よりもずっと安直なレベルで、私達は時間を絶えず空間化し、時間について語っているようにみえて、実は時間に関しての空間的比喩のせめぎあいを延々と議論しているという場合が殆どなのです。
        日常的な言葉遣いの世界でも、「人生が短い」「人生が長い」という人生論的時間の感慨からして、私達は時間を空間化してしまっています。たとえばカントは、「自分の一生の大部分を通じて退屈で苦しめられ、毎日が長く感じられていた人間が、それなのに人生の終わりになって、生の短さを嘆くというのはどういうわけなのだろう」と「実用的見地における人間学」で説きましたが、こうした人生が「短い」「長い」ということが、すでに時間というものを直線化(空間化)して理解把握しているということを示しています。あるいはメルロ・ポンティが「過去が移り行くのか、自己が移りゆくのか、あるいはその二重構造が妥当か」と、一見すると非常に時間論的に深遠な命題を論じていますが、これもまた、「移動する」という空間的比喩を知らずに使っていることに意識的でない、時間論的にみて比喩のせめぎあいに過ぎないもの、といわざるをえない。また、戦後文学で最大の哲学派人物とみなされている埴谷雄高氏が、美しい修辞学で語る永遠や無限についての文学世界も、時間論という側面からみると、その内実は時間の空間化的比喩の世界の凝縮であって、「時間」について根本的に洞察しているとはとうていいえない。ここまで考えると、サイエンスフィクションやバーチャルリアリティの時間世界の大部分が、一見すると、実に整然とした時間的世界を有しているようにみえて、その実、単純な空間化されたものにすぎないのは言うまでもありません。
       こうした空間化されてしまった時間認識の最大の問題点は、瞬間瞬間に過ぎ去る(消え去る)現在的時間が、その後、過去的時間に姿を変えて、何処かに「存在」しているが如き錯覚をつくりだしてしまう、ということに他なりません。シラーの「未来はためらいながら近づき、現在は矢の如く過ぎ去り、過去は永遠に静かに立っている」という有名な「時」に関しての詩に代表されるように、私達が「時間」ということに小説や詩で出会うとき、「何処か」へ過ぎざるという表現に出会う場合が非常に多い、といえます(その点、サルトルのこの小説はきわめて例外に時間を冷徹に認識している稀有な例です)「何処か」ということに関して、何処でもない、ということを明確にしつつ考察をすすめなければならないことは、時間論にとって、最も留意しなければならない点だというべきでしょう。そして、こうした作為全体を完全に見抜いて、アウグスティヌスは「時間は場所でない」とすでに指摘していた、ということになるといえるでしょう。あるいはロカンタン(サルトル)の言葉に立ちかえると、私達は時間が「私の手の届かないところに引っこんだと信じ込んで」いると錯覚して思っている、ということになるわけですね。
       「時間が場所でない」ということは、「過ぎ去ったかのようにみえる時間が場所でない」、もう一度言い換えれば「過去はどこにも場所的に存在していない」ということになるわけですが、では、空間的比喩を取り払ったところにおいて、どこかに存在するものなのでしょうか。再び、「思い出す」行為について考えてみましょう。「記憶」が明確化するとき、私達は漠然とですが、しかしその記憶一つ一つを言語によって概念化しています。もちろん、概念(記憶)の一つ一つに名前がついているということではありません。私が漠然とした映像を思い浮かべながら、あれは「何処そこに、誰彼といた・・・」というふうに、どんな形であっても言葉と結びつくときに、記憶が鮮明になってくる、ということですね。ゆえに、「否定」だけでなく、「思い出す」行為というのも、私達言語をもった人類特有の行為という可能性が高いと私は思います。「記憶」は既述したように、その記憶の初生したその時の経験時において、生理的感覚を含めて、完全に再現するということは絶対に不可能です。にもかかわらず、その記憶が一つの記憶として実在的なものになる過程において、言語によって概念化されていくという作業を伴うことによって、ということに他なりません。
       「ここがA市である」ということを「記憶」として憶えていることは、動物がそれをできるように「ここがA市である」ということを、言語以前の生理的感覚で把握していることとは異なります。いったいどこが異なるのか、といえば、言語化・概念化されていない記憶というのは、その記憶が消滅するということを意識することがありえないから、というべきでしょう。「ここがA市である」という記憶の欠落を意識できるとき、私達はその欠落あるいは欠落の潜在的可能性を意識がゆえに、逆に、記憶を秩序化できることを意味する、といえるのではないかと思います。「欠落している記憶」というものを意識できるということは、意識外にある自分や世界を秩序だてていくことができることをを意味します。脳外においては「世界」の成立ということですが、脳内の記憶において、それは「過去」の成立ということになるでしょう。記憶の欠落・記憶の欠落の潜在的可能性ということが意識されなければ、記憶が欠落するということそのものがありえません。単に各記憶があるということが認識されているだけでは、私達はバラバラなままの記憶背負ったまま生きていかざるを得ません。動物の記憶というものは、欠落してもそれを意識することができない。ゆえに記憶を秩序化することができないのだ、と思います。
       ここで再び、「否定」論ドグマに立ち返ると、各記憶の存在している背後にその記憶の「無」を意識するからこそ、つまり「記憶」に関しての否定的判断をすることができるからこそ、私達は記憶の世界を農耕の世界のように秩序化することができるのだ、ということがいえるのではないか、と思います。私達が「過去」と考えるものの正体は、ここらあたりにある、ということがいえると思います。つまり存在しているのは、「思い出す」行為がつくりだす秩序化の作為のみであって、端的にいえば、「過去」というものは限りなく存在しない、といわざるをえない。ロカンタン(サルトル)が「自分の思想の中にさえ過去は存在しない」と時間認識を展開する背景にある過去不在論を解析すれば、こういうことになるのではないか、と私は思います。以上、時間論の入り口から過去論について、「否定論」ドグマに取りつかれたような展開になってしまいましたが(笑)とりあえず、おおざっぱですが語りつくせたと思いますので、次回後半は現在論に戻りながら、私が時間論についてより根源的議論と考える「未来」論について考え、よりまとまった形の考察を展開していきたいと思います。








      
       




    
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N.W(うさねこ) | URL | 2007-09-01-Sat 15:35 [EDIT]
 こんにちは。お久しぶりでございます。
 時間論についての論文、三分の二ほど完成したのですが、現在、とある事情の発生により、これから少なくとも、一ヶ月ほど現在の原稿執筆を一時中止しなければならないこととなりました。
 未完成のまま掲載しても差し支えない、という意見もいただいたのですが、やはり掲載するからには完成したものにしたいし、また時間論は私にとって非常に大切なものですので、時間をかけてでもしっかりとしたものとして提出したいと思います。
 私と比較するのはおこがましいもいところですが、カントは理性批判の書を三ヶ月後には、といいながら何とそれから9年も後に発表したというエピソードもあります。まさか私も9年もあと、ということはないですが、秋風がそれほど冷たくならないうちには発表できるようにしたいと思います。
 またこのコメント欄を中心に、時間論だけでなく、ホームページのことなどについてご意見を遠慮なく記していただいてかまいませんので、いつでもどんなことでもお書きください。
 最近は姉妹サイトの「倶楽部ジパング」の方を通じメール連絡いただく方がたいへん多くなっています。自分としては両者を区別して記しているつもりはないのですが、「まだしもあちらの方がわかりやすい」という方、少なくありません(苦笑)「倶楽部ジパング・日本」の方も、どうかよろしくお願いいたします。
  更新を停止したとはいえ、過去に執筆した内容などについての感想ももちろん受け付けておりますので、これからもどうかこのホームページ「うさねこ研究室」の方をよろしくお願いいたします。
皆様お久しぶりです
N.W(うさねこ) | URL | 2007-08-05-Sun 16:29 [EDIT]
 皆様、たいへんご無沙汰しております。
 公私ともに多忙を極めることも原因し、論文の更新が遅れてしまい、申し訳ございません。検討と執筆は遅々としながらも継続しておりまして、近日中に必ず発表できると思いますので、今しばらくお待ちくださればと思います。次回は「未来」論を中心とした論になると思います。「未来」論は、「死」論と無縁でなく、ここにおいて時間論は個人の生き方に非常に生々しく接近することになると思います。
 リンク先のホームページを中心に、励ましのお声をたくさんいただいており、本当に感謝に耐えない次第です。
 なお、姉妹サイトの「倶楽部ジパング・日本」の方も、どうかよろしくお願いいたします。こちらの方は数日内に確実にホームページ更新いたします。
 これからも「うさねこ研究室」の方をどうかよろしくお願いいたします。
皆様ありがとうございます 
N.W(うさねこ)  | URL | 2007-05-17-Thu 19:48 [EDIT]
皆様ありがとうございます。おかげさまをもちまして、このブログ・HPも一年を迎えることができました。最近忙しくてHP更新やや遠ざかっていますが、着々と新論文の執筆を進めていますので、どうかしばらくお待ちください。

(小谷野さんへ)
 いつもコメントありがとうございます。このHPは、はっきり申しまして、小谷野さんの激励と指摘のおかげで、私が更新しようというエネルギーをもつことができています。感謝の言葉はつきません。これからもどうかよろしくお願いします。
 (K.Tさんへ)
 コメントのお礼すっかり遅くなってしまい申し訳ありません(汗)私が時間論を考える上で一番得ることのできた哲学的感覚は、「否定」あるいは「否定的了解」ということだったように思います。私はヘーゲルはそれほどよくわからないのですけれど、ハイデガーの方は比較的よく読んでいて、今回の時間論に関してきわめて有益でした。「人間だけが否定できる」ということについて、ヒューマニズムの傲慢という人がいるかもしれませんが、私はそれを言語をもってしまったむしろある種の悲劇的宿命だと考えています。
(戸田さんへ)
いつも鋭利な詩を本当にありがとうごさいます。哲学はそもそも枯れ木の世界ですよ(笑)賑わいをみせたらそれは逆に偽者の哲学世界だということを警戒しなければならないでしょう。これからもどうかよろしくお願いします。
(バルおばさん様へ)
ようこそ!うさねこ研究室へ!お待ちしておりました。
バルおばさん様は「鉄壁の牙城」なんていわれますけれど、社会思想や哲学というのは、私達の毎日の在り方にかかわらなければ
問題になりません。知識と見識でしたら後者をもっていることが最重要で、それは、毎日の生活を観察することによって形成されます。本を読むだけでは見識は決して養われません。「夕飯のおかずの話題から世界を語れるようでなければならない」ということが社会思想や哲学の理想だといった古代ギリシアの哲学者がいましたが、まさに至言だといえましょう。「鉄壁」だと思われてしまうのでしたら、それは私の表現が悪いからで、もっともっと、生活や日常への観察に根ざした言葉を語るように努めなければならないですね。
  バルおばさん様のブログは、そういう意味で、実に私の考察を進める上での有益な存在、リンク先でございます。これからもお互い、「世界を語る」ために競い合いましょうね。

バルおばさん | URL | 2007-05-16-Wed 22:34 [EDIT]
いつも私のブログにコメント、有難うございます。しかしながら
私はここに今まで来ることはありませんでした。

渡辺さまの記事、そして寄せられたコメント、それは日々惰性に
流されて日常を送っている「普通のおばさん」にとって、
ここは鉄壁の牙城だからです。

どうみたって私のブログの内容では腰がひけますもの。

しかし、ちょうど私も「時間」に追われ、そして自分の中で
対処し、今晩ランキングという「枠」から抜けましたので、
ここはやはりキチンとお礼をと思った次第です。
今まで応援、有難うございました。ブログ自体は続けますので、
こちらの様に自分を見失わないでいこうと思ってます。
今回は詩のようなもの1作だけ
戸田聡 | URL | 2007-05-03-Thu 06:08 [EDIT]
戸田聡です。投稿少ないようですね。
枯れ木も山の賑わいで、今日書いた1作
投稿してみます。


  移ろいのギフト

生きている間は五体満足で
意識清明で普通の思考が
出来るようでありたい
と願っている老人は
すでに意識も思考も移ろい
変容している自分に気づかない
気づいていたものに
今は気づかないでいる自分や
考えていたことを
今は考えないでいる自分に気づかない
変容した意識は変容を知るはずもなく
欠落した思考は欠落を知るはずもない
変容した自分は
変容する前の自分を知るはずもない
変容した自分が
今は自分であるのだから
周りが変わったと思うことがあっても
自分が変わったと思うことがあっても
本当に変わったものに気づくことはない
悲しいことも楽しいことも
移ろい変容してゆく自分から見ていて
主体は変容する
それが常であるなら
見るものも聞くものも考えることも
限りあるギフトとして
変わり続けるものを
自分自身をも
受け取り続けるしかないだろう
信じるならば
ひとつの収斂に向かって

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

以上です。失礼しました。

               戸田聡 不具

K.T.です。
哲学家K.T. | URL | 2007-04-04-Wed 15:21 [EDIT]
 盛んに今日のテレビ批判を行っている哲学家K.T.です。
 「子供の教育」という視点でテレビを観るということはあまり
ありませんでした。もちろん、NHK3チャンネルのこのジャンルに
関しては私がくちばしを挟むことはありませんでした。

 子供の視点に立つことは大事なことです。私は今のテレビ
を、自分の経験とセンスから一刀両断していますが、自分が
子供なら全くそうではありませんから・・・。

 科学は客観的、自分なりにわかりやすく言えば「外部観察」
ですから。酸素はおそらく空気中の濃度の話ですね。人間を含
む酸素を必要とする動物が前提の緑化ということですね。

 否定的了解。大変素晴らしいご指摘ですね。ヘーゲル、ハイデ
ガーが否定によって時間を認識するということでしたか? 後戻りで
きない一次元の進行を、否定を用いた理性によって認識できる
のは人間だけですね。これは空間と違い、確かに人間のみの概
念=歴史ではないでしょうか。
補足と言えるかどうか・・・
戸田聡 | URL | 2007-03-24-Sat 14:17 [EDIT]
戸田聡です。今さっき書いたものです。
補足になるかどうか心許ないのですが・・・
一応投稿してみます。


  実体と存在

実体がないといえば
抽象的なものには全て空間的実体はない
愛とか憎しみとか・・・しかし
それらを存在しないとは言わないだろう

現象一般に実体がない
という考え方もあるようだが・・・
また存在するのは自らの思いだけ
という考え方もあるようだが・・・

少なくとも
「時間」も「数」も
「神」も
空間的実体ではないのに
あたかも具象的存在のように
当たり前のように思ってしまうから
しばしば人は思い込みの奴隷になる
だから
これらの存在について
あえて言わなければならない

今は捉えがたい
過去と未来は定かでない
数は頭脳にしか存在しない
神がもし空間的実体なら
信じる必要はないのであって
あくまでも
神は信仰の対象として存在する

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

以上。失礼しました。

           戸田聡 不具

「時間」「数」「名前・言葉」などいろいろ
戸田聡 | URL | 2007-03-24-Sat 07:55 [EDIT]
コメント書いてくださっていたのですね。
ありがとうございます。戸田聡です。
今日は長い長い投稿になってしまいました。
最初の1作は今日書いたものですが
私のHPに書いたもの、数だけは多いので、
「時間」などのキーワードで自分の書いたものを
自分で検索する始末で・・・。
さらに「数」というものについても。
私は「言葉」とか「名前」にも、ある種、
疑いを持っているので、そんなこんなで、
すみません、いっぱい投稿します。


  作り物

「時間」は実体のないもの
人の頭の中にだけあるものだ
生きていて夜が明けたり
朝と昼と夜があったり
季節が移ったりするものだから
月や太陽から
暦と時刻というものを考え出し
「時間」というものを想定して
便利に使うことを覚えた

実体がなく人の頭で作った物として
「数」も自然数さえ世界のどこにもない
2つのリンゴといっても
リンゴ1つ1つは同じではない
先ず似たものを
類型や種類に括ることを覚え
別の物か何かの印に置き換えた
それだけでは不便なので
印を記号に置き換えて
「数」というものを想定し
便利に使うことを覚えた

「人類の英知」であるそれらのものは
元々人だけのものである言葉とともにあり
作られていった

「時間」も「数」も現代数学や
それを用いる現代物理では更に
日常感覚からも離れたものになっている
私の場合は数学で
実数までは何とか感覚が
ついていけるものだったが
虚数を習ったときから
日常感覚の世界から離れたと感じた

もし五感を失ったら
特に視覚・聴覚・触覚を失ったら
どんな世界として感じるのだろう
後天的に失えば
考えることだけは残るだろう
しかし入力のない世界で何を考えるだろう
記憶だけを反芻して
独自の世界を持つようになるのだろうか
先天的に失ったらどうだろう
知能があっても言葉の学習も困難になって
はたして考えることが可能だろうか
五感があるということは奇跡的なことだ

「今」はともかく
「過去」と「未来」そして「数」は
人を縛り隷属を強いて
思考を奪うことがある

私は教会に行かないクリスチャンだが
宗教にも信仰にも似たものを感じる
神にも現世の実体がないから信仰であり
クリスチャンだから神を信じており
神を否定することはできないが
どう信じるかは人が考えることだ
つまり信仰観は人それぞれ微妙に
ときには甚だしく異なるものになりうる

「時間」と「数」そして
「私の信仰観なるもの」について
常に疑って問い直し
考える気持ちを忘れるべきではない


  君

忘れるのに
何の抵抗もない
思い残すだけの
値打ちもない
安心して忘れるがいい
その後の人生のことなど
心の
時は止まっても
肉体の時は止まらない
そっけない
反復運動のうちに
あっさりと
歳をとらせてゆく
山を見ても
海を見ても
花を見ても
ああきれいという
お世辞を残して
帰ってくる
この部屋に
一日、一日と引き抜かれていく
感性のように
沈んでゆくだけの
星がある
忘れられることを
信じられない気持ちと
納得せざるをえない
長い時間の空白を
埋めるには軽すぎる
味わいのない思い出たち
いつか懐かしく
思い出すことがあるだろうか
いつか懐かしく
君を思い出すことがあるだろうか


  時間

あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく

私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった


  影のうすい男

生きているのか
死んでいるのか
よくわからないほど
影のうすい男が歩いていた
まわりを歩いている人に関心を持たず
また彼が関心を持たれることもなかった
生きるとは何か
という前に死とは何か
という前に生きるとは何か
彼は今生きているのか
それとも死につつあるのか
人が「この人は死んだ」と言うとき
彼は生を終えるのか
それとも死ぬのがやっと終わるのか
彼は歩いていた
たとえ泣いていても顔に出ていない彼のまわりで
人々が通り過ぎていった
紙くずが舞っていた
いつのまにか自分がうすもやに思えるほど
何の抵抗もなく
風は通り過ぎ
紙くずのように
時間が通り過ぎていった

時間の前で
次から次へと
彼は通り過ぎ
目の前で果てていった

紙くずは遠く去って
どこかで拾われ捨てられるであろうか
彼は拾われることがなかったので
捨てられることさえできなかった


  いつのまにか

時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間

時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく


  次元

乏しくて乏しくて
しまいに欠けてしまって
目で見ているもののまわりに何もない
目で見ているものさえなくなって
古い何かがよぎる
色彩のような
香りのような

紙にX軸・Y軸・Z軸を描いてごらん
そう、それが三次元の座標軸だ
その紙に鉛筆を立てて
そう、これが四次元さ
(それを写真に撮ってまた棒を立てる
五次元、・・・、N次元?)

0と1が明滅していた
ことの始まり
色彩が妙にきれいだ
平面から立体へ(芸術へ)
それに時間という次元を考え出して加えている
それでも乏しくて乏しくて
しまいに欠けて
古い何かがよぎる
未来が今を思い出している?
色彩が


  たどり着いた車

曲がった道が
まっすぐになるように
ハンドルをまわすんだ
たどり着く場所があるはずだ
押されたり
引っ張られたりしながら
リズムのないダンスを続ければ
たどり着く時間があるはずだ

ガラスの中で顔が動く
向こうからもやって来る
動いていない
またやって来る
顔がない
陽射しが衝突して跳ねただけ
車はすれちがう
人は出会ってはいけない

サングラスかけた
ガラスのガラスの中の顔
汗ばんで脂ぎってこわばって
尻を突き上げられるたびに
ずれていく
顔とガラスと
屋根の下
流れていくのは
こちらあちらのお互いさまと
場所でもなければ時間でもない
た・ど・り・つ・い・た
くたびれたゴムの上でまわっている


  あきらめの位置

椅子(いす)が整然と並んでいる
時が整然と用意されている
通路が決められている
公共という
セレモニーといったりもする
日常という名前さえある

うめ尽くされた場所に
自分だけの
位置を見つけるのは大変だ
ゆっくりしか動けないのに
せかされて
つい言ってしまう
いいよ それでも

そうして今ここにいる
長い廊下を歩いた後のような倦怠
帰ってきたのか
行かないでいるのか
そのままでいるのか
椅子もなく
位置もなく
時間もなく
何という
うすい関わり

たくさんの人がいる
関わる人がどれほどいる?
関わる人がどれほど関わっている?
やがてあたりに誰もいなくなったら
いつかせかされることもなくなったら
独りで言うだろうか
いいんだ これで


  さぐる

時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を

自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ


  偽りの時間

巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ


  その時

その時は理由もなく
見捨てられた路地裏の扉を開く
そうして傾いた壁と影の間に
時間を泳ぐ蛍火を
その時は条件もなく
見放された旅に行く先を告げる
そうして寺院の古き呼び名と敷石の間に
金箔よりも薄い宇宙の星を
写す 刻み込むなら今 と
何故なら決して
与えはしない から
路地は長く続かず
旅人はいずれ去り
再び見捨てられ見放されるとき
幻ではなかったと
うちに鳴り響く鐘の音に刻もうとしても
その時はすでに過ぎ去っている
あらゆるレンズは役に立たない
共鳴しない響きは振幅を失う
果てしない遠景を前に呆然と残される
二度とない約束を破った後のように


  傷の永さ

風が吹き抜けてゆく
緑の地平に佇む
木質の窓枠に囲まれた
薄いガラスの涼しさ
どこからか化学の匂いが漂ってくる
工場跡に立つ機械工の
落ちない錆に触れる指で
数えようとするものを風が掠めてゆく
長くはないのだ
と呟いた後その場を去る
そうした暖かい光の乱れに
屈折したコロイドの鈍い時間が
緑の地平よりも風よりも永遠だ


  何ものもなく

触れようとしたとき
触れるべき何ものもそこにはなく
あたかも永久に続くかのような
ずれと揺れとぶれの堂々めぐりは
あたかも同じ時間を繰り返すかのようで
諦めようとして諦める何ものもそこにはなく
遠く乗り遅れて懐かしく見上げる空に
焦点を失って日と日の残像を射抜かれてゆく
色の剥げた雲の下の
煙立つ藁葺きの小さき社(やしろ)から
焦げた片方の翼で
飛び立つ渡り鳥の至福のように


  落ち込み

髪が濡れている
頭より重く濡れている
体はすでに頽(くずお)れている
顔は下を向いている
濡れた髪から滴が垂れる
額を伝う
頬を伝う
鼻の頭に集まる
顎の先から落ちる
顔中を流れる
見ようともしない視線がゆがむ
顔の中を流れてゆく
触ろうともしない皮膚がたるむ
皮膚がずれる
浮いてくる皺(しわ)が重たい
一滴また一滴が鼻先から落ちる
鼻が欠けてゆく
顔がずれてゆく
顔が崩れてゆく
ずぶ濡れの顔が落ちてゆく
時間を測ろうともしない
いずれ体の上に顔はなくなる
ぼとりとゴム質の粘土質の倒壊
湿気と虫の往来
これが結末か
いや過程だ


  デコレーションと計器

アラームの針に
短針が重なる前に
止まってしまう時計
間に合わなかった
その時その場のタイミングだとか
声のトーンだとか
顔のデコレーションがずれたばかりに
音に過ぎなかった声
ゆがみに過ぎなかった笑顔のために
この世の笑顔は去ってゆくのだ
適当に過ごして行ければ
この世はまだ幾らかの小金や作り笑いを
与えてくれたかもしれなかったが
もはや急に早くなったり遅くなったり
短針が長針を飛び越えたり
逆に回ったりする時計よ
時間に巻き戻しは効かないのだから
不適当に過ごして転がるだけで
身を投げる絶好のチャンスも
失ったまま今夜また眠れず
明日も眠れないだろう時計よ
針はあり得ない時を刻み続ける
お前を投げ
お前をこの手で受けとめよう
日の目を見ぬまま
飾れなかった
残された大切な計器として


  錯覚

私が無駄に過ごしている分
時間はさっさと仕事を捌(さば)こうとする
ぼんやり考え事をしていて
何気なく部屋の置き時計を見たら
おっと見られたというふうに
長針がすっと動くのをやめた
またやっていたな
またやっている


  接点

無限の一部でしかない有限
無限に成り得ない有限その
無限と有限が等号によって結ばれている
0・九九九・・・=一
限りなく一に近いけれども
決して一には成らないのではないか
でも一を三(あるいは九)で割って
再び三(あるいは九)を掛ければよい
納得せざるを得ない
数少ない無限と有限の接点のようで
しかし曲線は
限りなく短い直線の無限の連なりだし
また或る時間
長かろうと短かろうと
たとえば余命や
次から次に現在となった途端
過去となってゆく限りなく近い未来でさえ
限りなく短い時間の無限の連なりだ
いたるところにある無限と有限の接点
一×(一/∞)×∞
どちらへ転ぶか
外へ出て眺めれば改めて
あらゆるものが無限と接している


  忍び寄る欠損

しのびよる寒さに
冬眠したがる脳を叩き起こそうとしたとき
ふと去っていった
それはまるでつい今の今まで
辛うじてしがみ付いていた
羽根か花びらのように

もったいない温もりを
また一つ失ったようで
ペンを転がし戻してはまた転がし
時間をつぶし空白を広げる
一画欠けた人間を
問うても問うても人は人
足りないものは足りないのだ


  無表情

筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ


  悪い奴め

好きなことをすればよい
今なら暇(ひま)はいくらでもある
いくらか貯(たくわ)えもある
好きなことをすればよい
テレビもある
バイクも車もある
足まである
好きなだけ影を踏みなさい
好きなことをすればよい
印鑑もある
パスワードもアドレスもある
家まである
好きなだけ光を取り込みなさい
何でも好きなことをすればよい
物があって範囲が決まる
場所があって動かない
免許があって限られる
それら皆かつては
手の届かなかった自由たち
暇はある時間はズレる
写真はいつも手配される
鏡はいつもこの眼を見ている
好きなこと好きなこと好きなこと
免許はいずれ無効になる
貯えはいずれ底をつく
手はいずれ後ろに回る
見苦しい真似(まね)はせず
文句は言わない人には温和に
ひっそり乱れて暮らす
衣食は倹約無精大好き
でも光に写せる影がない
影に成り立つ人がいない
光に倒れる影ばかり
影に潜む陰(かげ)ばかり


  春の衝撃

衝撃波は風が風を圧縮して進む
衝撃波は風よりも強く
樹木を薙(な)ぎ倒す
底知れぬ波の
莫大なエネルギー・質量・粒子
風は押しのける
風は押しのけられる
衝撃が弱くても
視覚は二重になる
私は風の中で波動になる
風は私の中で粒子になる
質量が重なる空間の歪みに
表から裏まで
奥行きは不規則に貫かれ
熱エネルギーを僅かに残して
通り抜ける時間だ


  ゆらぎ

ビッグバンの前には
何があったのですか
素朴な疑問
「形なく空しく闇が淵(ふち)の表にあり・・・」
時間はもともと空間の四つめの軸
つまり空間には四つの軸
その時から空間は生まれ
捻れながら膨らんでいった
「・・・「光あれ」と言われた。
 すると光があった。」
四つめの軸に乗り
三つの軸を眺めている
四つを全部
知っている生き物がいるのかもしれない
まだ見ぬ生き物がいるのかもしれない時空こそ生命体で
個々の思考の法則を眺めている
絶対的にではなく
相対的に
主観的に?
「・・・光は闇の中に輝いている。
 そして闇はこれに勝たなかった。」
とりとめもなく考えて
首を傾(かし)げるとき
時間も少しだけ彎曲(わんきょく)して
速度を変えるのかもしれない


  失せた心

いつしか春を楽しむ心も失せて
失せた心が芳春を舞っている
いつしか花を愛でる心も失せて
失せた心が落花を浴びている
いつしか新芽を喜ぶ心も失せて
失せた心が新芽を噛んでいる
いつしか己を慈しむ心も失せて
失せた心が短い弦を震わせる
過ぎ去った春の巻き尺は切れ
また来る春までの時計は狂い
無数の季節の余事に絡まれ
乏しい接線を切れ切れに解いて
かじかむ手から汗ばむ手へと
見渡す春に渡されてゆく


  後ろの正面

点はあまりに小さすぎて
線はあまりに細すぎて
面はあまりに薄すぎて
立体は時間に負け続け
後ろの正面
誰も見たことがない
点を打てば長さを引いてしまい
線を引けば幅を描いてしまい
面を描けば凹凸が生まれ
立体を造れば時間に流されていて
幾たび振り返っても
いないはずの昔と今が繰り返し
お互いに行きずりの手を伸ばし
行き違いに遡り
行き倒れの未来の
後ろの正面
嫌というほど味わっている


  炎天下

少しばかり自分のために
買い物袋をぶら下げて
炎天下を歩いただけで
次から次へ流れ落ちる汗
流れるとき既に
体液は失われているのに
流れるだけでは些(ちっ)とも涼しくないよ
少しばかり自分のために
軽い運動をしたからといって
誰の役にも立ちはしないが
死ぬために生きてなどいるものか
少しばかり自分のために
体液を失っただけで
干涸(ひから)びるのではなく濡れている
炎天下で濡れることが出来る

部屋で口から体液を補給している
つなぎなおしている時間がある


  深夜の明かり

星明かりの下を歩む深夜の暗い道
この町の明かりは既に
すべて消えてしまったか
まだ消えてはいない外灯以外にも
ところどころ窓のカーテン越しに
明かりの灯っている部屋があって
光の秘密を膨らませている
誰にも渡さない時間の中で
闇もまた内部で成長しているのだ
部屋の中の住人は
年齢も性別も分からない
生死さえ知りようがない
限られた明暗の広がりは
深夜の道に投げ掛けられた問いだ
答とともに沈んでゆく
夜の深い深い息づかいに
星空に浮かぶ朝への航海は
見上げた顔を
うっすらと照らしている


  紙と鉛筆の先

どこにいるの?と言って
誰に尋ねたのかも明らかではないほど
空間と空白の
振動と時間の
希薄な次元に住んでいる
獲物がないことを知りながら
合成の紙で出来た網を
たまたま流れているというだけの
川だという証拠もない水へ投げ込み
流れの先で濾(こ)され漉(す)かれ
再生される淡く脆い紙の収穫を
鉛筆の色を残さない消しゴムが
なぞったあとの筆圧模様のうちに
懐かしい色を知っていると
元からあり今もある絵を知っていると
尋ねた誰かに説かれることを
髪の毛よりも細く喜んでいるのは
ここにいる透明の約半分?


  時の筈

こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている


  漕いでみます

広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから


  覚えない

日々の営みは死ぬまで続いてゆく
私はいつも同一であると信じて疑わず
私はいつ云々…と平気で言うのだが
寝付いた時刻のように
覚えることができない
生まれた時
死んだ時
生死は数限りなく繰り返されるが
個々の私はいつ云々…と言えない
他にもいっぱい
言える時間のほうが遥かに少ない
見える空間を殆ど覚えていないように
どこで云々…?


  夢が分けるもの

夢は叶ったとき
すでに夢ではなく
夢は覚めたとき
すでに過去の幻だ
何を蓄え
何処へ向かっている
夢の微積分は何処にある
正であれ負であれ
過去は常に
忘却の積分であり
現在は常に
喪失の微分である
微積分はあるが
曲線がない
ゆえに
夢には微分も積分もなく
正であれ負であれ
未来は常に
勿論見られることはない
到底避けることのできない
曲線が終わりを描いているから


  時間の向き

時間は螺子(ねじ)のようにぐりぐりと
後ろから押してくる
あるいは前から拒まれているのかも
上から押さえつけられているのかも
下から突き上げられているのかも
横からかもしれない
・・・・・・・・・・?
そう何処からでもないさ
時間は空からも海からも
河からも川からも生まれてはいない
おぼろげな学習に従って
時間の向きは前と後ろ
ということに大方なっているだけ
時間は記憶から生まれている
もともと時間は押したり
追い詰めたりはしないのに
おぼろげなのに切迫して
生み出される圧力は
時間ではなく怯(おび)えている自分だ
だからいつまでも時間に向いていない


  時の川

秒を刻む時計の音は
一秒前の音を教えてはいない
故人も生きとし生けるものも
命でありうるのは時間ではなく
覚えることを忘れるまで
多くの欠落に悩みながら流れている
通過できない細いせせらぎに
独り手を入れ手に掬い
手を濡らし滴り落ちる痛みとともに
いかなる時計にも拠らず
悔いに濡れていとおしむ時間


  数える

いつまでも人がこの世のものではないように
いつまでもこの世は人のものではない
昔々
指が十本あるからだろうか
数えるのに十進法が選ばれた
すでにデジタルである
分けたり測量したりするために
小数や分数やグラフが考え出された
かなりアナログである
さらに数も計算も複雑になった
まさに数学はロジックでありながら
同時に感覚的・感性的理解を要求する
十本の指を使って
一本の指は伸ばすか曲げるかだけとして
十進法では少なくとも99まで数えられる
二進法では1023(十進数)まで数えられる
数えられる数える数えられる
数にうんざりして死を選ぶ人がいる
無に返る?
0でも負でも虚数でもない
いつまで数は人のものなのだろう
いつまで人は数のものなのだろう


  虚無の広がり

1は自然数であり整数であり実数である
1に+0iの無の虚数部分を含ませ
複素数と見なすことによって初めて
XのN乗=1という方程式の
N個の解を求めることが出来る
自然に整った実
を取ったつもりでも
真実のつもりでも
真の答えには必ず虚が付き纏(まと)う
自然界に虚は存在しない
もともと自然界に数など在りはしない
自然は数えられるために存在してはいない
数は人の頭の中に作られて在る
つまり人の関わるところにおいてのみ
虚も無も
ごく自然に存在する
関われば関わるほど
虚無は広がり増えてゆく


  数の存在

名付けるのは人の都合により
数えるのも人の都合により
存在するのは神の都合による

人は数を考え出して便利に使った
今は数が人を便利に使っている

自然数の中で1が最も不思議だ
0までの道のり
マイナスまでの
小数や分数までの道のりを越えて
無限大へ

1からの出発
0からの出発
マイナスからの出発をして
順調に上っていった男は
限りなく大きくなることを疑いもせず
知らないところで名付けられた
虚数の束を嬉しそうに数えている


  数えて

今し方
札束を数えていたな
札束は虚数だぞ
かけるとマイナスになるんだぞ

札束というほど
たくさんはないよ
数えていたのは
残り少ないからだ

今し方
人数を数えていたな
人数は数だぞ
数は命ではないぞ

人数というほど
たくさんはいないよ
数えていたのは
友が少ないからだ

余計なことを言ってごめんと
あやまってもう一度
呼びたかっただけだ


  別れ

透明な水の泡のように
美しい歌が流れています
うらやむ目が立ち止まり
古びた預言を拭いながら
ひとり川辺で力んでいます
声を出せばたちまち漫画になって
ケント紙の上でつまずくから
目の中まで耐えているのです
(伝えることのできないすべて)
尋ねたいことがあったのです
言いそびれて干割れた唇
ここで
そっと濡らしてもいいですか
返事はすれちがう風の間にのせて
流れを乱さぬよう
空に描かず
山に描かず
去年の枯れたすすきの上で
静かに韻を踏んでください
透明な水の
泡のように


  春の名前

花の色・香り・ぬくもり
風の音・水の音・きらめき
空の輝き・光
春という名の季節
その中の様々の名前

何を得て
何を失って
この春にいる

子供の頃
晴れた空のまま下りてきて
小川のまま流れてきて
菜の花を揺らしながら
虫の道のりといっしょに入ってきた
まぶしかった全ては確かに
名前など持たないまま
あの頃ひとつだったのに


  話と想い

実は
で始まる話が
しばしば実話ではないように
実話
と言われる語り種(ぐさ)には
きっと幾つもの事実が欠けている
ここだけの話が
どこでも聞かれるとき
噂話(うわさばなし)は多く
憂さ晴らしのために語られる
書き表されるものは
想いを伝えることはあっても
読んだ人が必ずしも書いた人と
同じ想いになるわけではなく
想いは読まれたとき既に
読んだ人のものである
詩人の顔は見ない方がいい


  イナフ

その気になったときに
その気になったところの
その時を生きるという
その時が全てなのでございます
混迷という集合はプラス思考ではなく
ある種積極的なマイナス志向ですから
虚数が計算できたり
平行線が交わったりするのとは違って
虚無は境界のない希望なのでございます
だから宇宙の果てに興奮性膜
を期待するようなことは止(や)めて
風も弾丸も通しやすい限りない閉鎖の
連鎖する孤立の壁や板塀が乱立し
次々に崩れ倒れてゆくプロセスの
一瞬一瞬のスナップショットにおいて
バプタイズされたスローテンポの
残された虚空を舞うのでございます
ァィドンハヴィナフタィ、ユノウ
ザツォルィナフォミ、ュノウ?


関連するものがないかと探しているうちに・・・
長々と失礼いたしました。

            戸田聡 不具


小谷野です | URL | 2007-03-23-Fri 19:19 [EDIT]
支離滅裂どころか、すごく論理的ですよ。

小谷野です | URL | 2007-03-23-Fri 19:18 [EDIT]
結局、解らないことは解らないんですよ。
ソクラテス的な意味で・・・。
時間がその最たるものですよね。
時間ほど得体の知れないものはない。
あるようでないような。
ないようであるような。
僕は、現代文明を白昼の文化だと思うのです。
何でもかんでも、白日の下に曝さないと気が済まない。
でも、それって文化の砂漠化ですよね。
僕は、暗闇にこそ文化がある気がしますね。
夜の闇らこそ、確かに、妖怪変化やお化けもいますが、同時に、神話や無限な世界が拡がっていたんだと思います。
最近は、ホラーまで科学的に白日化している。
解らないことは、解らないままに信じられた方が文化的ですよ。
コメントありがとうございます
N.W(うさねこ) | URL | 2007-03-23-Fri 17:54 [EDIT]
コメントありがとうございます。

(戸田さんへ)
いつも投稿していただきありがとうございます。
時間についての認識は非常に自明なのでロジカルに突き崩すのが非常に難しいのですが、それはそもそも、大変巧緻に時間に関しての神話が構成されているからだと思います。もちろん、神話と神学は同一のものではありません。しかしおそらく時間の不可解さに気付いた人たちが、神話と神学を巧みに操り、私達に時間認識を確立させたのでしょう。時間について考察すると、意外なくらい、神学的認識の解体が必要になってきます。そういう面で、戸田さんの詩というのは、時間論においては私にとって有益なものです。これからもよろしくお願いいたします。

(菜摘さんへ)
ようこそ、当研究室へ!
おっしゃるとおり、私達はあまりにも時間を比喩の世界に囲みすぎているということがいえます。たとえば、精神分析学や心理学において、色々な構造的なモデルが提示されますが、私達は誰も、「心」がそんなモデルの実体をもっているとは思っていません。私などはフロイトの世界というのは文学的比喩の塊みたいな世界だと思い、おそらく多くの人もそう直感していると思います。ところが、「時間」に関してはその比喩が実体と考えてしまう思考法に、私達の大部分が陥っているのですね。
たとえば、本稿ではあまり指摘できませんでしたが、タイムトラベル・タイムマシンの問題があります。時間旅行というのが可能だという数学者や物理学者がいないではありませんが、私は時間旅行というのは、時間を空間的比喩にたとえたことにより成立したにすぎないものと考えています。過去・現在・未来の各概念をなんら懐疑せずに受け入れ、時間を直線的世界に閉じ込め、後はサイエンス・フィクションの世界で極大化しただけのものです。比喩が成立しなければ成立しないのですから、実体とはとうてい言えません。ところが多くの人は、フロイトの比喩的世界よりもサイエンスフィクションの比喩的世界の方が実体的であるという錯誤に陥っています。これなど、菜摘さんが指摘される時間認識の考察の難しさの一例だといえましょう。
「現在」の概念的成立に関しては、私は「行為」を中心にして考える方向性が正しいと思います。お酒を飲んでいる・彼氏を待っている・イライラしている。それらの「最中」に私達は「現在」を感じています。行為が終了すると、それらの行為と時間は次第に過去化の作為を施されていく、といえるのではないでしょうか。もちろんこれは「流れ」という場所的概念ではありません。消えていく、という意味での「過去」へ、ですね。
これからもコメント、気に触れてよろしくお願いいたします。

菜摘 | URL | 2007-03-22-Thu 16:51 [EDIT]
初・コメントさせていただきます。

『時間論』
過去という言葉自体、過ぎ去るとなっているから、もうその時点で間違っているのだろうなと感じました。
時間を擬人化しすぎというか、まるで生き物のような扱い方になっている気がします。
あくまでも時間は時間でしかなく、物でも空間でもないということですね。
しかしそこまで否定してしまうと私の頭では他のたとえが浮かばず、結局は安易な表現に帰結することになってしまいそうです。
理解は何とか及んでいますが、その後、身動きが取れない状態です。

「今」という言葉を口にする間にも、「今」は終わってしまったのだと考えると、人は現在を定めるすべを持ち合わせていないのでしょうか。
「あっという間」「瞬く間」という言葉があるように、人が何かしらの動作をする時間が与えられるなら可能かもしれませんが、実際時間というのは人間が感知し得ないもの、もしくは感知するものですらないと言えます。
ではそれを一体どう表現したらいいか、そう考えた結果、やはり空間化や擬人化がもっとも簡単で分かりやすいものなのだろうと思いました。
人はきっと未知を未知のままにしておくのが耐えられないのでしょう。何かしら、自分で理解し感知できるものへと置き換えたいのかもしれません。
表現する必要すらないものだとどこかで理解していても、やはりそれを形にしたい。
言葉を覚えてしまった私は、それらを言葉で表現せずにはいられないのでしょう。

支離滅裂で大変申し訳ありません、有り難うございました。
修正+1作
戸田聡 | URL | 2007-03-22-Thu 11:28 [EDIT]
戸田聡です。
「自殺について」のほうに投稿したのですが、
どうも納得がいかなくて修正してみました。
今度は「時間について」のほうに投稿してみます。
もう1作は、あまり関係ないかもしれません。


  自殺と今

自殺を考えるとき
今を生きていない
今は確かに生きているのに
今しか生きられないのに
今を生きていない
欠片だらけの記憶という過去や
不確かな想像だらけの未来に
あたかも既知であるかのように
怯えて絶望する

今の今を生きるとき
得るものも失うものもない
今さえ作り物ではないのか
これが今だ
と誰が指し示すことができようか
誰が今を保存できるだろうか
今というファイルは存在しない
在るのは思いだけだ

自殺を考えるとき
思いが過去と未来という苦しくも
滅裂なものに隷属を強いられている
ということに気づかないまま
楽になりたいと自由を夢想している

自由は隷属を拒否することだが
自殺を考えるとき
その拒否の対象ではなく
拒否の拠りどころが
皮肉にも隷属に他ならないのだ


  朝の空

まだ寒い春の朝まで
根を詰めても
孤独の論理は情けない
隘路(あいろ)はどこに開かれるか
空は雲に覆われているが
雲が雲だと分かるのは
光が満ちているということだ
春の便りもちらほら
固陋(ころう)の身にも舞い降りる
光が光だと分かるのは
目が見えるからではなく
心が開かれているからだろう
小さく開かれた
心の隙間を満たす分だけの
光は常に与えられていて
底知れぬ闇をうっすらと照らす
闇の底が見えるわけではないが
闇が闇だと分かるのは
光のプロセスが幾筋か
さらなる徒労への兆しとして
朝を告げているからだろう
時は今
今は思い
肩をすぼめて見上げれば
日は隠されているが
地の上には果てしなく
空は覆われているが
雲の上には果てしなく
天と点
昇天の日には会えますか

http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/bikou.htm

相変わらず論理は苦手です。
失礼いたしました。

               戸田聡 不具

続きです
N.W(うさねこ) | URL | 2007-03-19-Mon 01:36 [EDIT]
長くなりましたのでいったん区切りました。
(anthroposさんへ)
  ご感想ありがとうございます。
  私も何となく時間については解決済みというか、小さいころや10代の頃はあまり考えないできたのですよ。ところが最近歳を重ねてきて、時間の流れの早さ・遅さ、そういうものを不思議なこととして、考えるようになってきたのですよ。「あっというまだったなあ」「もうこんな歳か」という周囲の言い方が、非常にひっかかるようになってきました。ひっかかるというのは、そういう時間の虚しさというのはその背後にいったい何があるのだろう、ということですね。言い換えれば私は時がたつのは虚しい、と言うだけではどうしても満足できない自分を意識するようになってきた、ということだと思います。
  概念化される以前の記憶に関してのご質問ですが、私は記憶というのは人間や出来事のような比較的長い(大きい)スパンをとる記憶と、日常の実に些細なことで、「憶えている」とはあまりいえないような、比較的短い(小さい)記憶に別れると思います。前者は私は概念化・言語化で説明しやすい、つまり概念化・言語化された以前のものの実在を考えやすいと思います。これに対して、日常の些細な記憶ということに関して、私たちが言語化されないような、「情報」というレベルでの記憶というものも、たくさんあるのではないか、と思います。これは記憶ということが、言語化された以前の段階にとどまるものの実在を証明する可能性をもっているのか、それともそうではないのか、私には今一つわかりません。しかし、少なくとも、記憶というものが、概念化される以前の段階でも実在している、ということはいえそうな気がしています。
  黒澤明の「羅生門」(原作・芥川龍之介の「藪の中」)に関してですけれど、あの物語の結論というのは、客観的事実というものは存在しない、ということだと思います。言い換えれば「過去」というものは存在しない、各個人の主観的認識にしか存在しない、ということで、その主観的認識を遡っていけば、記憶と時間というものは解体されてしまう方向に向かいます。裏返せば、「藪の中」の世界というのは、解体された過去論の結論を言う(言っているだけ)だといえましょう。あの物語は裁判に関してでしたが、私は過去論をおしすすめて「過去」を解体してしまえば、歴史学はもちろんのこと、裁判証言というものも、空無な存在になる、といわざるをえないことになります。多くの時間論者が言っていることですが、正直に言って、時間論というのは、歴史学をはじめとする、「過去」にかかわる学問世界の根拠の一つを破壊してしまうものだ、といわざるをえないものだと思います。ただ私は、それを歴史学をはじめとする「過去」学を破砕しつくすものだと考えるのではなく、「過去」学は、いろんな成立条件を前提にして成立するものだ、と考え直す、というふうに考える方がよい、と思っています。
皆様ありがとうございます
N.W(うさねこ) | URL | 2007-03-18-Sun 23:58 [EDIT]
(小谷野さんへ)
  お忙しいところいつもありがとうございます。私にとって小谷野さんのHPは、私が論考する上で迷ったとき、いつも必ず参照させていただいているものです。これからも末永くよろしくお願いします。
  私は時間というのは「流れる」ものより、「消え去る」ものだ、と考えます。あるいは「消え去るとしか認識できない」ものだ、というべきでしょうか。もちろん「流れる」という表現の内意はよくわかります。何かの実相があるような気もします。ただ「流れる」と表現をする場合、「何処からか、何処かに」という空間化の意味が付随してしまいます。結論的にいえば、小谷野さんがおっしゃる中の、時間が存在する可能性のあるのは記憶の中だけ、ということになると思います。何処でもないところに「流れる」、のでしょう。しかし、その「記憶」というのも、実に怪しい存在で、時間をどう構成しているかあやふやなのです。大体、記憶といっても、脳内細胞を抽出しても、「記憶」そのものを引き出すことは不可能です。記憶に該当する「記憶の痕跡」というものはあるのかも知れませんが、それがどう整理されて「記憶」になり、やがて「時間」を構成するのかに関しては、色々な論証を考えなければなりません。
  私がここで考えるのは「永劫回帰」というニーチェの言葉や、あるいは原始仏教の時間認識ですね。彼らは空間化の比喩を一見使っているようにみえますが、しかし内実は「消え去る」という時間の性質をとらえていたようにも思います。
  こうして考えると、私は、考えることのおそろしさに背筋が寒くなってきます。なぜなら、「時間」という私達の最も安定した日常を破砕してしまうような認識に向かうかもしれないからですね。しかし哲学や思想のおそろしさというのは、そういうものだと思います。精神的な返り血を浴びかねないようなもの、それが哲学や思想の本当の姿ですね。小谷野さんのホームページでおっしゃるように、多くの哲学者は凄惨な死に方をしています。時間の認識が恐ろしいところに行き着くものであっても、それを受け入れなければならない、それが考えるということなのでしょうね。

(戸田さんへ)
  いつもありがとうございます。拙作なんて謙遜されないでください。戸田さんの試作はいつも本質的な何かをとらえているものであって、私のHPにとってはいまやなくてはならないものです。これからもよろしくお願いします。
  私はキリスト教信者ではありませんが、キリスト教神話というのは時間論においては大変重要です。「現在」や「過去」や「未来」というものを考え続けると、各概念が空無だということに行き着きかねないのですが、しかし、空無に行き着くということは同時に、神話的仮説ということにも行き着きます。現在ということ一つとっても、物理学的時間論では、殆ど定義不能なのです。しかし戸田さんが詩作されたように、「神が今をつくった」という仮説があって、私たちは「今」を知っている、という説明は、非科学的でもなんでもありません。これは小谷野さんに教えていただいたことで私は全くそうだと思いますが、ビッグバンだって一つの神話的仮説なのです。
ロラン・バルトが言っていたことですが、科学は遂には神話を乗り越えることはできない。なぜなら神話のみが意味を創造するからですね。科学は非神話の顔つきをしているようで、実は安直な神話がいたるところに潜んでいる世界で、それは現在の文明全体についてもいえることだと思います。

(恩義さんへ)
  こちらこそ、いつもお世話になります。
  ヒュームは私が尊敬している哲学者・思想家です。恩義さんのようjに、外国語で専門文献を縦横無尽に読破する方にそういわれるとは、身にあまる光栄です。
ヒュームの何を尊敬しているかというと、一にも二にもその文体ですね。
  たとえば、私はどうしてもヘーゲルの文体というのは尊敬できない。キルケゴールやライヘンバッハが言っていることですが、ヘーゲルの問題意識や哲学的感性は確かにものすごいけれども、なぜああいう謎めいた表現をとらなければならないのか、ということがいえます。天才ヘーゲル自身にとってはそれでいいんのですが、少なくとも、模範的文体というものではないですね。ところがヘーゲル以降、ヘーゲル的文体の亜流があちこちに見受けられます。私は「わかりやすく」というのも色々あって、わざとらしいハードボイルド的「わかりやすさ」は嫌味だと思いますけれど、しかし普遍的な明確さという意味でのわかりやすさというのは、私たちみんなが目指さなければならないことだと思います。日本のヘーゲル研究家として名をなしている加藤尚武さんでも長谷川宏さんでも、本当にそういうわかりやすさをもったすばらしい方ですが、ただしくヘーゲルを消化しているからこそ、普遍的明確さという意味での、わかりやすさをもっているということができると思います。
  ヘーゲルに比べるとヒュームは、文章的にもずっと模範的なものをもっていますね。今回の時間論でも、ヒュームの時間論は大変有益でした。もちろん残念ながら(笑)ヘーゲルの時間論もたくさん参考にさせていただきました。
  日本人の時間認識の文明論的考察については、その通りだと思います。日本人は時間における終わり、というものはあまり意識しない民族文化を有しているといえましょう。身近な人が亡くなるとわかるのですが、私たち日本人は明らかに死後の時間の継続を信じている。こうした認識が何処からくるかというと、恩義さんのおっしゃるように、永続的な時間認識、自然と人間の一体化ということから来ているのだと思います。これは言い換えれば、時間というものを独立抽出して考察することが不得手な民族だという文明論的考察もいえるのではないかと思います。人間の内的時間と外的時間(自然の時間)からして区分ができない、ということは、時間が自明のものだ、ということだからですね。私はなるたけ、この民族的特性に反旗を翻して、時間について考え続ける習慣を身につけていきたいと思っています(笑)
概念(言語)化以前の記憶
anthropos | URL | 2007-03-16-Fri 11:48 [EDIT]
おひさしぶりです。
時間と記憶といった問題はややもすると既に解決済みであるかのように私なんかは思っておりましたが、どうもそうではなく、いまだ問題が山積みなのですね。非常に勉強になりました。特に興味深いと思ったことが、記憶の概念化・言語化にまつわる問題です。「「記憶」が明確化するとき、私達は漠然とですが、しかしその記憶一つ一つを言語によって概念化しています。」
うさねこさんのおっしゃるとおりです。確固とした記憶が脳のどこかに存在するとは、私にはとても思えません。
しかし、「概念化・言語化される以前の不明確な記憶のようなもの」はどうなのでしょうか? 私が何か過去の出来事を想起しようとするとき、確かに出来事を言葉で明確化するという操作を経ているとは思いますが、それ以前に何らかの漠然とした印象を持っている、という感覚を感じることがあります。これは果たして実在的なものなのでしょうか? それとも、このこと自体、現在の私が概念によって再構成した過去に過ぎないのでしょうか? 
それから、あまり関係がないことかもしれませんが、「記憶」について考えたときに私がよく想起するのは、有名な黒澤明監督の『羅生門』です。私の不確かな記憶では、この映画では数人の登場人物が、彼らが見た同一の出来事について語り合うのですが、その出来事がどれもみな少しずつ異なっている、という筋書きだったように思います。これも、過去の出来事を想起する際に、私たちが日常的によく経験することだと思います。
ただ、私としては、これらのそれぞれ異なる記憶には同一のオリジナルな出来事が果たして存在するのか?ということが疑問でなりません。あるいは、オリジナルな出来事というものを私たちは認識できるのか?と言い換えてもいいかもしれません。
このようなオリジナルな出来事が存在し、認識できるのでなければ、「歴史学」の成立根拠についての疑問が残ってしまいます。この問題について、うさねこさんはどのようにお考えですか?

恩義 | URL | 2007-03-16-Fri 05:02 [EDIT]
うさねこ様の文章はヒュームのそれに似ていて、身近なたとえを参照して分かり易い表現を用いてかつ物事の具体性に迫っている雰囲気があります。 

小生は哲学には興味があり、専攻科目である経済においてもミクロ経済分野にて哲学をより参照する機会がるのですけれど、殆ど素人です。 

日本の教育プログラムは非常に唯物理論に基づいている背景が覗えます。 自然科学系は非常に体系的で、真理科学の入る隙間がない。 社会科学はやはり日本的な和の精神が非常に強く現れ、あまり社会に対する疑問を投げかけるような報道はおこなっていませんね。 また日本の教育プログラムを見ていていつも思わされたことは、果敢な行動を起こすことや犯罪の定義について議論させることを拒む傾向が伺えます。 非常に融和を重んじるかわり、非常に妥協的でもあるのですね。 このような背景から、日本社会の時間軸や人間個人の心理が形作られていくのだなぁと痛感させられます。

本来日本人の概念にある時間軸というものは、永続的なものであると思います。 やはり狩猟と農耕という部分での文化は違いますが、『木と自然の文明』であるという共通点が覗えます。 メソポタミアやローマのような『石と科学の文明』である場合、輪廻転生という概念はなく、必ず『区切り』や『j始まり』と『終焉』という風に時間軸が断続的であるのです。 やはり日本やケルト文明において、自然と人間、そして現世と霊界はつながっているという定義ですから。 またこの2種類の文明において因果応報についての概念が相違することも面白いです。 ローマ文明によれば因果応報は非常に体系的に立証され能動的に変えられる。 パレスチナ系の文化、ユダヤ、キリスト、イスラム教、によれば、因果応報とは神という存在があっての受動的にうけるものであり、神の教えにより熟知することが可能であるというのです。 日本やケルトにおいては、その因果応報の概念については『自然の流れ』という見識をもっているのでしょう。 日本には風水や神道、ケルトにも複雑怪奇な曲線で表した模様など、非常に神秘的な印象に溢れています。 人間は自然の一部であり、その流れに乗っているという概念であるのでしょう。 この両文明も近代工業社会の到来により、人人の深層心理とは今も世代ごとに相当改正されていっているのですが、世界において時間軸や因果応報の定義が画一化されていることは確かです。 

小生自身は唯物理論者であるかもしれませんが、神や霊そして自然の流れというものを否定しているわけではありませんので、イグノスティックに当たるのでしょう。 時間軸については、やはり『区切り』を認識しています。 変化が旺盛であり、様々な社会や思想との交わりも多かった小生は、どうも社会の激変や人生の転機など、区切りを感じさせる経験が多かったからかもしれません。 また、神や霊そして自然に関しては、まだ科学や数学では計りえられない神秘という存在を考察する隙間として、理念の中に留めておいております。

いつもお世話になり、有難うございます。
論理性を欠いておりますが拙作
戸田聡 | URL | 2007-03-14-Wed 10:39 [EDIT]
うさねこ様の論文を読むのにも
少しは慣れてきたような(笑)気がしてます。
私も少なからず考えたというより悩んだ
厄介な「時間」と「記憶」というものについて
こういう考え方もあるのかと
今回の「時間」のブログは珍しく(?)最初から
興味深く通読させてもらいました。
「自殺について」で
「今しかない」「神は今を創造された」
「人は過去と未来を想像している」と書きました。
関係があるかどうか自分でも分からないのですが
幾つかの拙作を投稿しておきます。
論理性を甚だ欠いておりますが・・・


  記憶

ずいぶん昔の話なんだ
といって実は昨日のことなんだが
何かとっても大事なことを忘れている気がして
とんでもない失敗をしたと思って
一日中穏やかじゃなかったよ

つい最近のことなんだ
といって実は二十年ほど前の話なんだが
別れ際の微笑が
目の前に現れて
胸がしめつけられるほど苦しく
胸が熱くなるほど懐かしかった

記憶って変だね
急にスキップしたり
尾を引いたり
心の中をかき乱しては
飛び跳ねて遊んでいるんだ


  過ごし

佇んでいるつもりでも
飛んでいたり
歩いているつもりでも
回っていたり
走っているつもりでも
それが自分じゃなかったりする

起きているか
眠っているか
集中しているか
散漫であるか
何かしているか
何もしていないか
いや何か思っていた
何かしていたはずなのに
比べようもない
永遠からやって来たような
長くするものがあり
短くするものがある
何もかも思いのほかだった
私は過ごしていたのか
私が過ぎていたのか

この二年はまるで
まばたきする間だったのに
あの二十分は
まだ終わってさえいないんだ


  遥かに得たもの

四角い風船に乗っていました
確か子供のころはそうでした
誰かが吹いたのです
過ちなど何もないと
四角でよかったのです
乗っていたでよかったのです
計る必要などないのです
過ちなど何もありませんでした
今はもう乗ることも
引かれることもなくなっても
何も失ってはいない
一度だけで充分でした
静かに手に入れたはずなのです
身の内にも外にも
風船の自在な中身だけを


※「時間」は厄介だと言っているようなものですが・・・


  私の記憶と時間

記憶がある限り
時間は消えない
記憶がある限り
消えるものなど何もない
失ったものは
失ったものとして残っている
殺したものは殺したものとして
死んだものは死んだものとして
残っている消えてはいない
覚えたとも忘れたとも
言わなくなって
記憶が完全に消えたとき
時間も消える
恐らく
さてそこからは第二の人生だ
空間の次元もなくなるだろう
まわりが何と言おうと
時間はなくなるのだ
忘れるのでも止まるのでもなく
消えるのだ
夢をきれいさっぱり忘れている
忘れている目覚めの前までのようだ
ならば眠っているのか時間が消えると
しかし殆どの場合
肉体が死に至るまで
記憶が完全になくなることはない
欠落の甚だしい記憶で
止まったような進んだような時間
を探ることは気楽なようで
僅かな記憶が存在を求めるから
結構不安で苦しい
多くの場合
記憶が完全になくなるより前に
昏睡状態になる
恐らく
さて
そこからが第三の人生だ
臨死に及んで
そこで見る夢や幻は
多分四つ以上の次元を持つ
時間軸も一つではないだろう
しかも連続してもいないだろう
だから長いとも短いとも言えない
しかし心臓が止まり
夢も幻も終わる
恐らく
さて
そこからが第四の・・・
死後について語る宗教
生きるための信仰
天国に望みを託す人々を否めないが
死後を人生とは呼べない
いつ時間は消えるのか
第四の人生
よりは第四の知ったことか
第一も二も三も四も手に負えない
恐らく


※分からないと言っているようなものですが・・・


  生きようとして

人は自ら生まれたくて
生まれてきたわけではないのだが
生き延びようとして出来る限り
先の保証もないままに動き回る
樹木は自ら選んで
そこに生えてきたわけではないのだが
それゆえ出来る限り深く
そこに根を下ろす
そこで枯れ果てるか
そこで生き延びるかしかないからだ


  四季のサイクル

枯れ葉が落ちる
種子も持たず落ちて転がり
知ろうともしない行方を教えず
バイクの上の視界に突然飛び込んで去る

雪が降る
雲の上で飛ぶものを隠して
地表の何処に落ちたかも教えず
たまたま手に受けられた結晶が消える

花が散る
花びらが散る
どの花から枝から落ちたかも教えず
路上に色褪せて足で踏まれる

草木が揺れる
庭先で揺れる山の上で揺れる
雑草と花園の違いを教えず
区別する額が拭っても汗は乾かない

鏡に映る
どこが年老いたかも気づかずに
毎年くりかえされるサイクルの中で
いちばん早く消え失せる顔を洗う


※上2作は、あまり関係ないかな・・・と迷いつつ


  今は今

記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない


※最終2行は学習機能のことのようです。


  時と意識

意識があって
意識しないとき
あるものがあり
ないものがない
同じ並びと形態
人は場所を知る
同じ場所だ
同じ場所で
意識があって
意識するとき
あるものがなく
ないものがある
人は時を知る
あるものはあったものになり
ないものはなかったものになる
変わることで時を知る
ある日突然時は移る
意識は今しか持たない
老いた夢のように
死人の夢のように
何もない
時を壊せ
時を犯せ
時など神様にでも
まかせてしまえ
何もなくても
いるものは
いる


※最初4行は「?」です。
終わり数行も「?」ですが、
「神に任せるしかない」は
厄介な「時間」についての私の
信仰と言うべきでしょう。

うさねこ様の「(数える→)空間化の作為」
「言語化・概念化→記憶」
「『欠落している記憶』を意識」
などが特に印象的でした。加えて
不確かな視覚化イメージ化→記憶
ということも考えています。
概念化空間化の1つかな・・・
いろいろ考えさせてもらいました。

               戸田聡 不具



小谷野です | URL | 2007-03-13-Tue 12:37 [EDIT]
時の流れに身を任(まか)せと言いますよね。
ならば時間は流れなのでしょうか。
例えば、行く川の流れはと川の流れに・・・。
諸行無常とも言いますよね。
万物は流転するとも。
流れだとしても輪廻転生のように循環しているのでしょうか。
それとも、最後の審判に向けて、一直線に流れているのでしょうか。
それによって生き方も変わってしまうように思えます。
人生はやり直しがきくのでしょうか。

時間は、流れていくものなのでしょうか。
流れ去るものの中に時間の実相があるとしたら・・・。
だとしたら、時間は、記憶の中にしか存在しないのでしょうか。

生まれてくる以前の時間は、そして、死に行く先の時間は、
どう自分に関わってくるのでしょうね。
そう考えると科学的な時間の概念というのは、空疎なものに思えてきます。

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